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第2話 泥だらけの令嬢


ふかふかとした、まるで雲のように柔らかい感触。

 ルシアが再び目を覚ました時、彼女は見たこともないほど立派なベッドの上に横たわっていた。

 上質な綿がたっぷり詰まった掛け布団。肌触りの良いシーツ。

 部屋の隅にある大きな暖炉では薪がパチパチと音を立てて燃え、部屋中を春のように暖めている。

「……ここは……?」

 王都の屋敷にあった自分の部屋は、いつもジメジメと冷たく、ベッドのシーツはすり切れていた。

 こんなに暖かくて、綺麗な部屋に入ったのは生まれて初めてだ。

(私……死んで、天国に来たのかしら)

 ぼんやりとそんなことを考えながら、ルシアは身を起こそうとした。

 その途端、両手にズキリと鈍い痛みが走る。見れば、指先から手首まで、真っ白で清潔な包帯が分厚く巻かれていた。

 痛みがあるということは、生きている証拠だ。

「……っ」

 ルシアは慌ててベッドから降りようとした。

 天国ではないのなら、こんな立派な部屋に自分がいていいはずがない。私のような「無能」で汚れた娘が、こんな真っ白なシーツを汚してしまったら、今度こそ本当に殺されてしまうかもしれない。

 その時、ガチャリと重い扉が開いた。

「ルシア……! 目が覚めたか!」

 部屋に入ってきたのは、クラウスだった。

 彼はルシアが身を起こしているのを見ると、弾かれたように駆け寄り、ベッドの脇に膝をついた。

「どうして起き上がるんだ。まだ熱があるかもしれない。どこか痛むところはないか?」

 ルシアは目を丸くした。

 クラウスの顔には、かつての氷のような冷酷さは微塵もない。ひどく焦り、すがるようにルシアを見つめている。

 おまけに、彼の目の下には濃い隈ができ、髪も少し乱れていた。まるで一睡もせずに看病を続けていたような、ひどく疲れ切った顔だ。

「あの……クラウス様。ここは……?」

「俺の部屋だ。この砦の中で一番、風通しが少なくて暖かい」

「クラウス様の、お部屋……っ!?」

 ルシアは血の気を引かせ、ガタガタと震え出した。

「も、申し訳ありません……っ! 私のような汚い日陰者が、副団長様の大切なベッドを汚してしまうなんて……! すぐに出ていきます。お洗濯の続きも、急いで終わらせますから……どうか、お許しを……!」

 パニックになり、包帯だらけの手で必死に布団を退けようとするルシア。

 その痛々しい怯え方が、クラウスの胸を鋭い刃物で何度も何度もえぐった。

「違う! ルシア、落ち着いてくれ。頼むから動かないでくれ……!」

 クラウスはルシアの細い肩をそっと押さえ、ベッドに戻した。

 壊れ物に触れるような、ひどく慎重で優しい手つきだった。

「誰も怒ってなどいない。ベッドなんていくら汚したって構わない。ここは、お前のために用意した部屋だ。お前はここで、体が治るまでゆっくり休めばいいんだ」

「私のため、ですか……? でも、お仕事をしないと、私はここにいられません……」

 ルシアの空っぽの瞳が、クラウスを見つめる。

 そこには『何も望まない』という静かな諦めが、まだべったりと張り付いていた。

 彼女の心は、王都で虐げられていた頃からずっと、自分が生きるためには「役に立つ」しかないと思い込まされているのだ。

「仕事なんてしなくていい」

 クラウスは苦しげに顔を歪めると、ルシアの包帯に巻かれた手を、自分の大きな両手でそっと包み込んだ。

「冷たい水仕事なんてもう二度とさせない。お前をこんな目に遭わせたのは俺だ。俺が、何も知らないくせに最低な真似をした」

「クラウス様は、何も悪くありません……」

「いいや、悪いのは完全に俺だ! お前が王都でどんな扱いを受けてきたかも知らず、身勝手な憎悪をぶつけた。……本当に、すまなかった」

 クラウスはそのまま、ルシアの手に自分の額を押し当て、深く頭を垂れた。

 砦の騎士たちを震え上がらせる「氷の副団長」が、ただの魔力を持たない令嬢に向かって、なりふり構わず懺悔している。

 その光景が信じられなくて、ルシアは小さく息を呑んだ。 


❇❇❇


「さあ、少しでも胃にものを入れたほうがいい。治癒術師が、お前はひどい栄養失調だと言っていた」

 クラウスは小さな丸椅子に座ると、サイドテーブルに置いてあった温かいスープの器を手に取った。

 コトコトと煮込まれた、柔らかい野菜と鶏肉のスープだ。いい香りが部屋に漂う。

「あの、自分でいただけます……」

「駄目だ。その手じゃ、スプーンもまともに握れないだろう。傷が開いたらどうする」

「ですが……っ」

 ルシアが戸惑っている間に、クラウスはスプーンでスープをすくい、ふうふうと息を吹きかけて冷まし始めた。

 そして、信じられないほど真剣な顔で、ルシアの口元へそっと差し出す。

「熱くないか? 無理に飲み込まなくてもいい。ゆっくりでいいから」

「……」

 誰かにこんなふうに優しく世話を焼かれるなんて、ルシアの人生で一度もなかったことだ。

 公爵家では、風邪を引いて寝込んでも、使用人から冷たくなった固いパンを床に投げ捨てられるだけだった。

「どうした? やっぱり食欲がないか?」

「いえ……いただきます」

 ルシアはおずおずと口を開き、スープを飲んだ。

 じんわりとした温かさが、空っぽだった胃から全身へと染み渡っていく。涙が出るほど美味しくて、優しい味だった。

「美味しいか?」

「はい……とても、美味しいです」

 ルシアが静かに頷くと、クラウスは今にも泣き出しそうな、ひどく安堵した顔を見せた。

 それから彼は、ルシアがスープを飲み終えるまで、ずっとつきっきりでスプーンを運び続けた。ルシアが一口飲むたびに、「偉いな」とか「もう少し冷まそうか」と、まるで小さな子供をあやすように声をかけながら。

(どうして……クラウス様は、こんなに優しくしてくださるのだろう)

 ルシアは温かいスープを飲みながら、ぼんやりと考えた。

 彼は自分の手を見て謝罪した。だからこれは、怪我をさせてしまったことへの「同情」か「責任感」なのだろう。

 ルシアの怪我が治れば、きっとこの優しさも終わる。また冷たい井戸のそばに戻る日が来るはずだ。

 だから、決して期待してはいけない。

 この暖かさに慣れてしまったら、またあの冷たい世界に戻された時に、今度こそ心が壊れてしまうから。

 ルシアは静かに伏し目がちになり、自分の心にきつく鍵をかけた。

 そんなルシアの『怯え』と『諦め』に気づかないまま、クラウスはただただ、この傷ついた少女を自分の手で守り抜くことだけを、狂おしいほどに心に誓っていた。


ルシアがクラウスの部屋で目を覚ましてから、数日が経った。

 その間、クラウスは本当にルシアに指一本動かさせなかった。

 食事の時は必ず彼がスプーンを運び、ルシアがむせないように温かいお茶を飲ませる。顔を洗うのも、着替えを手伝うのも、すべてクラウスか、彼が厳選した信頼できる侍女だけが行った。

 凍傷でひび割れていたルシアの両手も、毎日塗られる高価な薬と、暖かい部屋のおかげで少しずつ塞がり始めている。

(……このままでは、いけないわ)

 ある日の午後。

 クラウスが執務のために部屋を空けている間、ルシアはベッドの上で小さく息を吐いた。

 王都で「無能」と呼ばれ、誰からも必要とされなかった自分が、こんな立派な部屋で何もしないまま一日を過ごしている。

 それはルシアにとって、ひどく恐ろしいことだった。役に立たない人間は、いつか必ず見捨てられる。その恐怖が、骨の髄まで染み付いているのだ。

 ルシアはそっとベッドを抜け出すと、部屋の隅にある小さな籠を見つけた。

 そこには、ボタンが取れたり、袖口が少しだけほつれたりしているクラウスのシャツが無造作に置かれている。

(これくらいなら、今の私でもできるかもしれない)

 包帯が巻かれた手はまだ少し動かしにくいが、針と糸くらいなら持てる。

 ルシアは引き出しから裁縫道具を見つけると、ベッドの端に座り、クラウスのシャツのほつれを縫い合わせ始めた。

 冷たい井戸水に比べれば、布の手触りはとても柔らかくて温かい。

 一針、また一針。

 少しでも彼に恩返しがしたくて、ルシアは夢中で針を動かした。

「……ルシア! 何をしているんだ!」

 突然、バンッと大きな音を立てて扉が開いた。

 血相を変えたクラウスが、大股で部屋に入ってくる。

「ひっ……!」

「なぜ起き上がっている! それに、その手にあるものはなんだ!」

 クラウスの怒鳴り声に、ルシアはビクッと肩を震わせ、持っていた針を落としそうになった。

 見つかってしまった。勝手に彼の私物を触ったこと、休めと言われたのに命令に背いたこと。

 きっと、呆れて王都へ送り返されるに違いない。

「も、申し訳ありません……っ! 私、何もしていなくて……少しでも、クラウス様のお役に立ちたくて……!」

「針なんて持ったら、塞がりかけた指先の傷が開くだろう!」

 クラウスはルシアの手からシャツと裁縫道具を乱暴に奪い取ると、それを遠くの机に放り投げた。

 そして、怯えて縮こまるルシアの前にしゃがみ込み、彼女の包帯だらけの両手を痛いくらいに強く握りしめる。

「俺は、お前に指一本動かすなと言ったはずだ。どうしてそんなに働くんだ。俺の部屋は、そんなに居心地が悪いか……っ」

 クラウスの声は怒っているというより、ひどく傷つき、懇願しているようだった。

「ち、違います! クラウス様のお部屋は、暖かくて……私にはもったいないくらいで……。でも、私のような無能が、何もしないでご飯だけいただくなんて、そんなこと許されるはずがなくて……」

 ルシアが青白い顔で弁解すると、クラウスは苦しそうに顔を歪めた。

 彼女の心に深く根付いた「役に立たなければ捨てられる」という呪いは、クラウスが数日優しくしたくらいで解けるようなものではなかったのだ。

「いいか、ルシア。よく聞け」

 クラウスは、ルシアと視線を合わせるように顔を近づけた。

 その氷色の瞳には、もうかつての冷たさは微塵もなく、ただ熱を帯びた切実な感情だけが渦巻いている。

「お前の仕事は、ここで大人しく、俺に守られていることだけだ。他のことは一切しなくていい。針を持つのも、着替えるのも、息をする以外のことは全部、俺がやってやる。だから……役に立とうなんて、二度と考えるな」

 それは、常軌を逸した重すぎる宣言だった。

 しかし、ルシアにはそれが「責任感」からくる言葉にしか聞こえなかった。

 自分がルシアの手を傷つけたから、彼には王都への体面や、騎士としての誇りがあるのだ。だから怪我が治るまでは、こうして過保護に扱う義務があると思い込んでいるに違いない。

「……はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 ルシアが静かに頷くと、クラウスはホッと息を吐き、彼女の細い身体をそっと抱き寄せて、その銀色の髪に何度も頬を擦り寄せた。


❇❇❇


 その日の夕方。

 クラウスが再び席を外している間に、部屋にコンコンと控えめなノックの音が響いた。

「ルシアお嬢さん、起きてますか?」

 顔を出したのは、あの吹雪の日にルシアを心配してくれた若い騎士・マルクだった。

 彼は少し照れくさそうに頭を掻きながら、小さなお盆を手に持っている。

「マルク様……どうされたのですか?」

「厨房のおやじさんに頼み込んで、お嬢さんのために甘いものを作ってもらったんです。王都の立派なお菓子には敵わないですけど……りんごのコンポートです。少しでも元気が出るようにって、騎士団の皆から」

 マルクがお盆をテーブルに置くと、甘酸っぱくて温かい匂いが部屋に広がった。

 ルシアは目を丸くした。

「私なんかのために……皆様が?」

「当たり前ですよ! お嬢さんがあんなになるまで、俺たちの汚いマントを洗ってくれてたこと、皆知ってますから。最初は誤解してて、本当にすみませんでした。お嬢さんは、誰よりも強くて優しい人です」

 マルクは真っ直ぐな目で、ルシアに頭を下げた。

 王都では、魔力がないというだけで「穢れ」と罵られてきた。

 それなのに、この辺境の騎士たちは、ただ黙々と布を洗っていただけのルシアに、こんなにも温かい言葉をかけてくれる。

「……ありがとうございます。本当に、嬉しいです……」

 ルシアの空っぽだった胸の奥に、ぽっと小さな明かりが灯ったような気がした。

 彼女の口元に、王都の屋敷を出てから初めての、作り物ではない自然な微笑みが浮かぶ。

 まるで雪解けの野花のような、儚くて美しい笑顔だった。

 マルクがその笑顔に見惚れて顔を赤くした、その瞬間。

「何をしている」

 地獄の底から響くような、恐ろしく低い声が部屋に落ちた。

 入り口の扉の前に、クラウスが立っていた。

 その顔は夜叉のように険しく、マルクを睨みつける氷色の瞳には、明確な殺気すら混じっている。

「ふ、副団長! これは、その、皆からのお見舞いで……」

「俺の許可なく、勝手にルシアに近づくなと言ったはずだ。いますぐ出て行け」

 クラウスの放つ恐ろしい威圧感に、マルクは「ひぃっ」と短い悲鳴を上げ、逃げるように部屋を飛び出していった。

 静まり返った部屋の中で、クラウスはゆっくりとルシアのベッドに近づいてくる。

 ルシアは、彼がどうしてそんなに怒っているのかわからず、困惑して身を縮めた。

「あの……マルク様は、私にお見舞いを……」

「……」

 クラウスは無言のまま、ルシアのベッドに腰を下ろした。

 そして、ルシアの顎にそっと指をかけ、自分の方へ強引に振り向かせる。

「ルシア」

 彼の声は、怒っているというよりも、どこかひどく焦燥感に駆られているようだった。

「お前は、俺以外の奴に……あんなふうに笑うのか」

「え……?」

「俺の前では、いつも何かを諦めたような顔をしているくせに。あんな小僧の前では、笑うのか」

 クラウスの大きな手が、ルシアの頬を包み込む。

 その手は熱を帯びていて、ルシアをどこにも逃がさないと主張しているように重かった。

「……駄目だ。お前のすべては俺が守る。だから、他の奴を見るな。俺の前でだけ、笑ってくれ……」

 それは、ただの責任感や同情などでは絶対にあり得ない、泥沼のような執着と独占欲の表れだった。

 しかし、愛されたことのないルシアには、その感情の正体がわからない。

 彼女はただ、クラウスの熱を持った瞳に見つめられながら、戸惑いと怯えで静かに目を伏せることしかできなかった。

それからさらに数週間が過ぎ、季節は厳しい冬の終わりへ向かっていた。

 クラウスの異常なまでの過保護と、毎日欠かさず塗られた高価な薬のおかげで、ルシアの手を覆っていた分厚い包帯がついに外される日が来た。

「……うん。凍傷もあかぎれも、完全に塞がっていますね。痕は少し残ってしまいましたが、もう日常生活に支障はありませんよ」

 往診に訪れた老治癒術師が、ルシアの両手を丁寧に確認して深く頷いた。

 ルシアは自分の両手を見つめた。赤黒く腫れ上がり、血が滲んでいた皮膚はすっかり落ち着き、元の白さを取り戻している。まだうっすらと傷跡は残っているものの、痛みは全くなかった。

「ありがとうございます。こんなに綺麗に治していただけて……」

「いやいや、私がしたことなどほんの少しです。副団長様が、毎日つきっきりで看病なさったおかげですよ」

 治癒術師が微笑みながら部屋を出て行くと、室内にはルシアとクラウスの二人だけが残された。

 クラウスはルシアの隣に座り、彼女の小さな手を自分の両手でそっと包み込んだ。

 親指で、傷跡の残る手の甲を愛おしそうに撫でる。その瞳には、安堵と、まだ消えきらない痛切な後悔が入り混じっていた。

「……本当に、痛まないか? 指を動かしても平気か?」

「はい、もうすっかり良くなりました。クラウス様、今まで本当にありがとうございました」

 ルシアはベッドからゆっくりと降りると、クラウスに向かって深く、美しいカーテシーをした。

「……ルシア? なぜベッドから降りるんだ」

「怪我が治ったのですから、これ以上、この立派なお部屋を占領するわけにはいきません。私のような無能な厄介者が、いつまでも副団長様のお世話になるなんて、許されないことです」

 ルシアの声は、とても静かだった。

 悲しみも未練もない。ただ、最初から決まっていた「終わりの時間」を受け入れるための、ひどく凪いだ響きだった。

「私の荷物は、元々着ていた上着だけですから、すぐにでも出ていけます。……明日からは、また中庭の井戸でマントを洗えばよろしいでしょうか。それとも、厨房の下働きでしょうか」

 ルシアは淡々と、次の労働の指示を待った。

 怪我が治れば、同情は終わる。責任を果たすための過保護も終わる。

 また役に立たなければ、捨てられてしまう。彼女にとっては、それがこの世界の絶対的な真理だった。

 しかし、クラウスはまるで信じられないものを見るような目で、ルシアを見つめていた。

「……出ていく? お前が、どこへ?」

「ですから、下働きの者の部屋か、空いている物置があればそちらへ……」

「ふざけるな!!」

 突然の怒声に、ルシアはビクッと肩を震わせた。

 クラウスは乱暴に立ち上がると、逃げようとしたルシアの腕を掴み、強引に自分の胸の中へ引き寄せた。

 岩のように硬い腕が、ルシアの細い背中と腰に回り、折れるほど強く抱きしめる。

「きゃっ……! ク、クラウス様……っ!?」

「どこにも行かせない。お前は俺の部屋から、一歩も外に出るな……っ」

 頭の上から降ってきた声は、怒っているはずなのに、ひどく震えていた。

 まるで、迷子になるのを恐れる子供のように、クラウスはルシアにしがみついている。

「お前はもう、冷たい水にも触らなくていいし、誰かのために働く必要もない。ただ、俺のそばにいて、俺に守られていればそれでいいんだ。……どうしてそれが、わからないんだ」

 ルシアは、クラウスの厚い胸板に頬を押し付けられながら、静かに目を瞬かせた。

 彼の心臓が、ひどく早い音を立てているのが聞こえる。

(ああ……クラウス様は、本当に責任感が強い方なのだわ)

 ルシアの心の中にある『諦め』の壁は、クラウスの必死の訴えを、ひどく歪んだ形で受け取っていた。

 彼は、ルシアの手に残った傷跡を見て、まだ自分を責め続けているのだ。

 自分が壊してしまった可哀想な人形を、もう二度と傷つけないように、安全な箱の中に閉じ込めて管理しなければならない。そうやって、一生かけて自分を罰しようとしているに違いない。

 それは愛情などではなく、重すぎる『罪悪感』だ。

 だから、彼がそれに疲れて「もう十分だ」と箱を放り出す日まで、自分は大人しく従うしかない。

「……わかりました。クラウス様がそうおっしゃるなら、私はここにいます」

 ルシアは抵抗するのをやめ、力なくクラウスの胸に身を委ねた。

 その透明な瞳は、虚空を見つめたまま、微かな光さえも宿していなかった。

「本当か……? もう、出ていくなんて言わないな?」

「はい。私はクラウス様のものですから、お好きなようになさってください」

 感情のない、からっぽの従順。

 クラウスは安堵のあまりルシアをさらに強く抱きしめ、その銀色の髪に何度も何度も口づけを落とした。

 自分が愛を注げば注ぐほど、ルシアの心が「諦め」という深い檻の中に閉じこもっていくことに、この時のクラウスはまだ、まったく気づいていなかった。



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