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第1話 氷の副団長と、王都からの厄介者

ガタゴトと、馬車が揺れる。

 車輪が雪を軋ませる音だけが、ずっと単調に響いていた。

 薄暗い車内の隅で、ルシアは白く曇った窓ガラスの外を見つめている。

 見渡す限り、灰色の空と真っ白な雪景色だけ。華やかな王都を出発してから、もう何日経ったのかわからない。

 ここは魔獣がうろつく危険な雪原だ。

北風が容赦なく吹きつけ、馬車をガタガタと揺らしている。

 すきま風が吹き込む車内は、凍えるほど寒かった。

 けれど、ルシアが着ているのは薄っぺらい上着がたった一枚だけ。防寒具なんてないし、体を温めるための魔石も持たせてもらえなかった。

 膝の上で組んだ指先は、すっかり血の気を失って冷え切っている。

 それでも、ルシアは文句一つ言わなかった。

 彼女の心は、窓の外の雪景色のように、ただ静かに凪いでいたのだ。

『魔力もない日陰者なんて、公爵家の恥よ。辺境の騎士団にでも押し付けてしまいなさい』

 数日前に見た、異母妹の嘲笑う顔。そして、父である公爵の冷ややかな目を思い出す。

 この世界では、貴族にとって「魔力の強さ」がすべてだ。

 しかし、愛人の娘として生まれたルシアには、貴族なら当たり前に持っているはずの魔力がほとんどなかった。

 強い魔力を持つ美しい異母妹とは違って、ルシアは物心ついた時から「無能」と呼ばれ、屋敷の隅に追いやられてきた。陽の当たらない小さな部屋だけが、彼女の狭い世界だった。

 まともな食事も、温かい服も与えられない。

 理不尽な扱いを受けても、魔法でやり返すことなんてできない。

そんなルシアが生き残るための方法は、『何も望まないこと』だけだった。

 叩かれても泣かない。

 ひどいことをされても怒らない。

 すべてを諦めて、ただ嵐が過ぎるのを待つ。

 そうやって息を潜めて生きるうちに、ルシアはいつしか感情を見せない、人形のような娘になっていた。

『魔獣だらけの辺境へ行け。魔力のない役立たずなお前でも、野蛮な男たちの慰み者くらいにはなるだろう』

 それが、公爵家からの最後の命令だった。

 要するに、厄介払いだ。ルシアにもそれはわかっている。

 不思議と悲しくなかった。

 むしろ、あの息が詰まるような王都の屋敷から出られたことのほうが、ルシアにとってはよっぽど救いだった。


❇❇❇


 ガタッと大きく揺れて、馬車が止まった。

「着いたぞ。ここが辺境の砦だ」

 護衛の騎士の冷たい声を聞いて、ルシアは静かに顔を上げた。

 重い扉を開けて外に出ると、王都とは比べ物にならないほどの鋭い冷気が、刃物のように頬を刺した。

 吹雪の向こうに、魔獣の襲撃を防ぐための巨大な壁が見える。その前に、一人の男が立っていた。

 漆黒の狼の毛皮を羽織ったその男は、吹雪よりもずっと冷たい目でルシアを見据えている。

あからさまな嫌悪感が、その瞳には浮かんでいた。

 雪に足を取られそうになりながら馬車を降りると、男がゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 背が高く、岩のように引き締まった体。男の鋭い氷色の瞳が、ルシアを値踏みするように頭から爪先まで睨みつけた。

「……王都から送られてきた無能な厄介者ってのは、あんたのことか」

 地を這うような低い声だった。

 歓迎する気なんて微塵もない。はっきりとした敵意と軽蔑が込められている。

 ルシアは吹き付ける冷たい風に細い肩を震わせながらも、背筋を伸ばして静かに頷いた。

「はい。ルシアと申します。今日からこちらでお世話に――」

「挨拶はいい。俺は黒狼騎士団の副団長、クラウスだ。いいか、王都の甘ったれた令嬢」

 ルシアの言葉を冷たく遮り、クラウスは吐き捨てるように言った。

「ここは魔獣と命懸けで戦う最前線だ。あんたみたいな、魔力一つ使えない着飾った人形を甘やかす余裕も、もてなす暇もない。公爵家からどんな理由で捨てられたのかは知らないが、ここで優雅な生活ができるなんて勘違いするなよ」

「……」

「どうせ数日もすれば、泣き言を言って逃げ帰るんだろう。それまでの間、あんたにふさわしい仕事を与えてやる」

 クラウスは顎で、吹きさらしになっている砦の中庭を指した。

 そこには氷の張った古い井戸と、魔獣の返り血や泥で真っ黒に汚れた布の山が積まれている。

「騎士たちの寝具や、怪我の手当てに使った布だ。それを毎日、あの井戸水で洗え。もちろん、魔法の道具や温水なんか使わせない。……嫌なら、今すぐ乗ってきた馬車で王都へ帰るんだな」

 それは、か弱い令嬢に対するあからさまな嫌がらせだった。

 真冬の辺境で、凍るような冷水に手を浸し続ければどうなるか。

 魔法の加護もない肌は赤く腫れ上がり、やがてひび割れて血が滲む。

 王都の温室で育った貴族の娘に耐えられるはずがない。

 クラウスは、ルシアが悲鳴を上げて泣き出すか、「私を誰だと思っているの」と怒り狂うのを待っていた。

 しかし。

「……承知いたしました」

 ルシアの口からこぼれたのは、鈴の音のように澄んだ、静かな声だった。

 怒りも、悲しみも、絶望もない。ただ淡々と事実を受け入れるだけの、空っぽの響き。

「クラウス様。ご指導、感謝いたします。さっそく取り掛かりますね」

 ルシアは雪の上で完璧な淑女のカーテシーをして見せると、すっと美しい微笑みを浮かべた。

 そして、クラウスの刺すような視線を背中に受けながら、一度も振り返ることなく、雪の積もる冷たい井戸へと歩き出す。薄い上着の裾が、北風にひどく頼りなく揺れていた。

(……なんだ、あの態度は)

 クラウスは眉間を深く寄せた。

 泣きもしない。文句一つ言わない。それどころか、まるで『初めから何も期待していなかった』と言わんばかりの、あのひどく凪いだ瞳。

 王都の人間特有の計算高い芝居か、それともただの薄気味悪い痩せ我慢か。

「……ふん。いつまでその澄ました顔がもつか、見せてもらおうじゃないか」


 忌々しげに呟きながらも、クラウスの胸の奥には、正体のわからない苛立ちがちりちりとくすぶり始めていた。


吹きすさぶ風の中庭で、ルシアは古びた木桶にたっぷりと井戸水を汲み上げた。

 水面にはうっすらと氷が張っている。

 素手で触れると、まるで無数の針で刺されたような痛みが走った。

 ルシアは、ただでさえ薄い上着を脱ぐと、汚れないように傍らの木箱に丁寧に畳んで置いた。

 ペラペラのドレス一枚になれば、体温は北風に容赦なく奪われていく。

 魔力による防壁や身体強化が使えない彼女にとって、この寒さは命を削るものだった。

 それでも彼女は、魔獣の血と泥で真っ黒に汚れた分厚い布を冷水に浸し、ゴシゴシと擦り始めた。

 あっという間に指先は赤く腫れ上がり、やがて感覚がなくなっていく。

 痛みを通り越して麻痺した皮膚は徐々にひび割れ、滲んだ血が冷たい水に散っていった。

 ふつうの令嬢なら、とうに泣き叫んで逃げ出しているだろう。

 けれど、ルシアの心はどこまでも静かだった。

 王都の屋敷で、魔力がないという理由だけで暗い部屋に何日も閉じ込められたり、異母妹の八つ当たりで食事を床にぶちまけられたりした日々に比べれば、この痛みにはちゃんと「理由」がある。

 冷たい水に耐えて擦れば、布は綺麗になる。

 自分がやったことの結果が、目に見えてわかる。

 誰にも邪魔されず、誰かの役に立てている。

 その小さな実感が、彼女の空っぽの胸をほんの少しだけ温めてくれた。

「……っ、ふぅ……」

 ルシアはひび割れた手に白く濁った息を吹きかけながら、ただ黙々と、山のようになっている洗濯物を洗い続けた。


❇❇❇


 一方、砦の二階にある執務室。

 窓から中庭を見下ろしていたクラウスは、苛立ちとともに舌打ちをした。

「……ふざけやがって」

 書類に向かうはずのペンは、さっきから全く進んでいない。

 彼の視線は、窓の外で作業を続ける小さな背中に釘付けになっていた。

 泣き喚いて仕事を放り出すか。

 あるいは、通りかかった若い騎士に色目を使って手伝わせるか。

 王都の腐った貴族の娘なんて、どうせすぐに浅ましい本性を現す。そう高を括っていた。

 それなのに、あの女はもう何時間も、たった一人で冷水に向かっている。魔法で水を温めるそぶりすら見せない。

 震える細い肩。痛々しいほど真っ赤になった手。

 それでも文句一つ言わず、黙々と重い布を絞っている。その横顔には悲壮感すらなく、ただ静かな諦めだけが張り付いていた。

「どうせ、同情を引くための薄ら寒い芝居だ。明日には音を上げるに決まってる」

 クラウスは自分に言い聞かせるように吐き捨てると、乱暴にカーテンを引いて窓から離れた。

 王都の人間なんて信用しない。ましてや、あの嫌味な公爵家から送り込まれた女だ。裏がないはずがない。

 しかし、書類に目を落としても、まぶたの裏に焼き付いた『薄着で震える白い横顔』がどうにも頭から離れない。

 クラウスは理由のわからない焦燥感に駆られ、強くペンを握りしめた。


❇❇❇


 それから三日が過ぎた。

 辺境の空は相変わらず分厚い雲に覆われ、絶え間なく粉雪が舞い続けている。

 ルシアは今日も薄い上着を脱ぎ、中庭の井戸の傍にしゃがみ込んでいた。

 あかぎれだらけになった手は、ついに指を曲げることすら激痛が走るようになっていた。

 見かねた年配の厨房係がこっそり布の切れ端をくれたので、それを包帯代わりに巻いている。けれど、すでに滲んだ血で赤黒く染まってしまっていた。

(あと、もう少し……)

 魔獣の返り血で固まった騎士たちのマントが、冷たい水の中で少しずつ綺麗になっていく。

 指の感覚はとうにない。疲労と寒さで視界がかすみ、何度も意識が遠のきそうになる。それでもルシアは手を止めなかった。

「……いい加減にしろ!!」

 突然、背後から怒鳴り声が響いた。

 ビクッと肩を震わせたルシアが振り返ると、雪を蹴立てて大股で歩み寄ってくるクラウスの姿があった。

 彼は怒りで顔を歪ませてルシアの前に立つと、彼女が洗っていた重いマントを乱暴に奪い取った。

「いったい何のつもりだ! いつまでそんな馬鹿げた真似を続ける気だ!」

 クラウスの怒声が、静かな中庭に響き渡る。

 三日だ。王都のひ弱な令嬢なら、半日も持たずに泣き喚いて逃げ出すはずだった。

 それなのに、この女は三日間、倒れる寸前の青白い顔で黙々と水仕事を続けている。

 その痛々しい姿がクラウスの視界に入るたび、彼は理由のわからない苛立ちに胸を掻き毟られていた。

「同情を買うための芝居なら、今すぐやめろ。俺は王都の貴族の涙なんて信じない。お前がどんなに悲劇のヒロインを気取ったところで、誰も助けやしないぞ!」

 荒々しい言葉をぶつけられ、ルシアは目を丸くした。

 彼がなぜそこまで怒っているのか、本当に理解できなかったからだ。

「……同情、ですか?」

 ルシアはゆっくりと立ち上がると、泥と血で汚れた両手を隠すように、そっと身体の後ろへ回した。

 そして、いつものように――すべてを諦めきった、静かで透明な微笑みを浮かべる。

「誤解をさせてしまったのなら、申し訳ありません。ですが、私はただ……クラウス様から与えられたお仕事を、こなしていただけです」

「なっ……」

「私のような魔力のない役立たずでも、少しは皆様のお役に立てたでしょうか」

 皮肉でも当てつけでもない。それは、心の底から出た純粋な言葉だった。

 その空っぽで凪いだ瞳を見つめ返した瞬間、クラウスは言葉を失った。

 憎しみに満ちた反抗的な目を向けられた方が、よっぽどマシだった。

 彼女のその微笑みは、クラウスがぶつけた明確な悪意すらも「自分にはそれを受けるのが相応しい」と静かに受け入れているようだった。

(なんだ、この女は……。気持ち悪いほど、何も求めてこない……っ)

 クラウスの胸の奥で、苛立ちとは違う、正体のわからない焦燥感がどくどくと脈打つ。

 彼はルシアの言葉に返すことができず、舌打ちを一つ落とすと、奪い取った濡れたマントを雪の上に放り投げた。

「……好きにしろ」

 それだけを言い捨てて、クラウスは逃げるようにその場を立ち去った。

 砦の中へと消えていく彼の大きな背中を、ルシアはただ静かに見送る。

 雪は、まだ降り止まない。

 王都からやってきた厄介者と、氷の副団長。二人の間に横たわる冷たく分厚い氷壁は、まだ溶ける気配を見せてはいなかった。


その翌日から、辺境の雪はさらに激しさを増していた。

 空は重い鉛色に沈み、昼間でも薄暗い。吹き荒れる猛吹雪が、砦の石壁に叩きつけられてはヒュオオと不気味な音を立てている。

 そんな悪天候の中でも、ルシアは中庭にいた。

 雪にまみれながら、冷たい井戸水で泥だらけの布を洗い続けている。

「お、お嬢さん! もうやめてください!」

 見回りから戻ってきた若い騎士が、たまらずルシアに駆け寄った。

 彼はルシアが洗おうとしていた分厚いマントを奪い取ろうとする。

「手が酷いことになっているじゃないですか。血が水に混じってますよ! こんな吹雪の中で水仕事なんて、魔力で身体強化ができる俺たち騎士でもきついです。魔力を持たないあなたがやったら、本当に死んでしまいますよ!」

 若い騎士の顔には、はっきりとした焦りと同情が浮かんでいた。

 彼らも最初は、王都から来た貴族の娘なんてすぐに逃げ出すだろうと馬鹿にしていた。けれど、文句一つ言わず、ボロボロになりながらも騎士たちの汚れた装備を洗い続ける彼女の姿を見て、だんだんと見方が変わってきていたのだ。

「お気遣い、ありがとうございます」

 ルシアは若い騎士に向かって、すっと綺麗な礼をした。

 指先は凍傷で紫色に変色し、ひび割れた皮膚からは血が滲んでいる。唇は青ざめ、立っているのもやっとのはずなのに、彼女の表情は不思議なくらい穏やかだった。

「ですが、これはクラウス様から命じられた私の仕事です。皆様の邪魔にならないよう、きちんとお返ししますので……どうかお気になさらないでくださいね」

「気にするなって言われても! お嬢さん、顔色が真っ青ですよ。今すぐ暖かい部屋に……」

「駄目です」

 ルシアは静かに、けれどはっきりと首を振った。

「私が仕事を投げ出せば、クラウス様をさらに怒らせてしまいます。それに……私には、行く場所なんてどこにもありませんから」

 王都の暗い部屋に戻されるくらいなら、ここで冷たい水に触れているほうがずっといい。

 ルシアの凪いだ瞳の奥にある『深い諦め』を見た若い騎士は、それ以上何も言えなくなってしまった。


❇❇❇


「……副団長! いい加減にしてください!」

 執務室のドアが乱暴に開き、若い騎士が飛び込んできた。

 書類に目を通していたクラウスは、不機嫌そうに顔を上げる。

「騒がしいぞ。どうした」

「あの令嬢のことです! この吹雪の中で、まだ外で水仕事をしています。手が血だらけで、今にも倒れそうなんですよ! いくら王都の貴族が憎いからって、あんな魔力もない弱い令嬢にやらせるなんて、いくらなんでもやりすぎです!」

 部下からの思わぬ非難に、クラウスは苛立たしげに眉間を寄せた。

「俺は『嫌なら王都に帰れ』と言ったはずだ。勝手に意地を張って居座っているのはあいつの方だろうが」

「帰る場所なんてないって、あの方は笑ってましたよ! 泣き言一つ言わないで、俺たちの汚れたマントを洗ってくれてるんです!」

 若い騎士の言葉が、クラウスの胸の奥をチクりと刺した。

『私のような魔力のない役立たずでも、少しは皆様のお役に立てたでしょうか』

 昨日、雪の中で自分に向けられた、あの透き通るような微笑みが脳裏にフラッシュバックする。

 クラウスは動揺を悟られないように、わざと冷酷な声を出した。

「……放っておけ。限界になれば、自分から泣きついてくる。王都の人間なんてのは、そうやって同情を引くことしか頭にないんだ。お前も騙されるな」

「副団長……っ! あんたって人は……!」

 若い騎士は悔しそうに顔を歪めると、バンッと乱暴にドアを閉めて出て行った。

 執務室に、再び重い静寂が落ちる。

 クラウスは苛立ちに任せて書類を机に放り投げた。

「……くそっ」

 自分でもわかっている。

 魔力を持たないただの令嬢に、真冬の水仕事がどれほど過酷かなど、辺境の騎士である彼が一番よく知っていた。

 それでも、どうしても止めることができなかったのだ。

 泣いてすがりついてくれば、すぐにでも暖かい部屋に入れてやるつもりだった。「俺が間違っていた」と、王都の貴族の鼻をへし折ってやるつもりだったのだ。

 それなのに、ルシアは決して助けを求めない。

 クラウスの悪意すらも、まるで当然の罰のように静かに受け入れている。その空っぽの瞳を見るたびに、クラウスの心の中の『何か』がひどくかき乱されるのだ。

 クラウスはふらふらと窓辺に歩み寄り、外を見下ろした。

 吹雪はさらに激しさを増し、数メートル先の景色すら真っ白に染め上げている。

「……おい」

 クラウスの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 いつもルシアがしゃがみ込んでいる井戸の周りが、いくら目を凝らしても見えないのだ。真っ白な雪の壁に阻まれて、あの頼りなく揺れる薄い背中が、どこにも見当たらない。

「まさか……」

 クラウスは血の気を失い、弾かれたように執務室を飛び出した。


❇❇❇


 冷たい。痛い。

 けれど、もう何も感じなくなってきた。

 猛吹雪の中庭で、ルシアの意識は真っ白な雪の中に溶け出そうとしていた。

 木桶の中の水はすでに凍りつき、マントを洗おうとしていた手は、氷の塊に張り付いたまま動かない。

(あぁ……なんだか、眠いな……)

 ルシアは雪の上に崩れ落ちながら、ぼんやりと空を見上げた。

 視界を埋め尽くす、純白の雪。

 王都の屋敷で閉じ込められていた部屋は、いつも真っ暗だった。

 でも、ここはこんなにも白い。

 冷たいけれど、誰も私を罵らない。誰も私を殴らない。ただ静かな、白い世界。

(クラウス様……お仕事、全部終わらせられなくて、ごめんなさい……)

 薄れゆく意識の中で、ルシアは最後に少しだけ笑った。

 自分のような『無能』な日陰者が消えるには、この白くて静かな場所は、とても綺麗でふさわしいと思ったからだ。

 ルシアの細い体は、あっという間に降り積もる雪の中に埋もれ、小さな白いふくらみへと変わっていった。

バンッ! と乱暴に扉を蹴り開け、クラウスは砦の外へ飛び出した。

「ルシア……!」

 外は、息をするのすら苦しいほどの猛吹雪だった。

 魔力で身体を強化している屈強な騎士でさえ、立っているのがやっとの暴風雪だ。こんな中を、魔力を持たないただの令嬢が耐えられるはずがない。

 雪に足を取られながら、クラウスは中庭の井戸へ向かって無我夢中で走った。

 視界は真っ白で、数歩先も見えない。

「どこだ! おい、どこにいる!」

 風の音にかき消されそうな声で叫びながら、井戸のそばへ辿り着く。

 そこには、完全に凍りついた木桶と、洗いかけのままカチカチに凍ったマントが転がっていた。

 しかし、あの薄着で震えていた小さな背中はどこにもない。

「……っ!」

 クラウスの視線が、井戸の影にある小さな『雪のふくらみ』に釘付けになった。

 ただの雪山ではない。その下から、薄い布の裾がわずかに覗いている。

 心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打った。

「嘘だろ……おい!」

 クラウスは雪の上に這いつくばるようにして、素手で狂ったように雪を掻き分けた。

 分厚い雪の下から現れたのは、氷のように冷たくなったルシアの身体だった。

 彼女は雪の上に丸くうずくまり、目を閉じていた。

 その顔は雪と同じくらい真っ白で、薄い唇は完全に紫に変わっている。息をしているのかもわからないほど、胸の上下がない。

「ルシア! おい、起きろ! 目を開けろ!」

 クラウスは彼女の肩を抱き起こした。

 羽のように軽かった。そして、信じられないほど冷たかった。まるで氷の彫刻を抱き上げているようだ。

 その時、だらりと垂れ下がったルシアの手から、巻かれていた血だらけの布がぽろりと落ちた。

「な……」

 彼女のむき出しになった両手を見た瞬間、クラウスは息を呑んだ。

 全身の血が、サァッと冷え切っていくのを感じた。

 それは、王都の温室でぬくぬくと育った貴族の令嬢の手ではなかった。

 あちこちが赤黒く腫れ上がり、皮膚は無残にひび割れている。そこから流れた血が凍りつき、さらに新しい傷を作っていた。

 冷たい井戸水と、重い布の摩擦で、指先の皮はすりむけて肉が見えそうになっている。

 これほどの激痛に耐えながら、彼女は三日間も、たった一人で冷水に手を浸し続けていたのだ。

『どうせ数日もすれば、泣き言を言って逃げ帰るんだろう』

 自分が吐き捨てた言葉が、呪いのようにクラウスの脳裏に蘇る。

 逃げ帰る場所なんて、彼女には最初からなかった。

 王都の公爵家で「無能」と虐げられ、居場所を奪われ、辺境に捨てられた。

 彼女はただ、ここで生きるために、自分の役割を果たそうと必死だっただけだ。

『私のような魔力のない役立たずでも、少しは皆様のお役に立てたでしょうか』

 あの透明な微笑みが、胸を鋭い刃物でえぐるようにクラウスを責め立てる。

 同情を引くための芝居なんかじゃない。

 彼女は本当に、ただ静かにすべてを受け入れ、誰のことも恨まず、限界を超えて自分の命を削っていたのだ。

 自分の身勝手な憎悪と偏見のせいで。

「……っ、ああ……あぁっ!」

 クラウスの口から、獣のような後悔の呻きが漏れた。

 彼は自分がどれほど残酷で、取り返しのつかないことをしたのかを悟った。自分は、何の罪もない傷だらけの娘を、さらに痛めつけて殺そうとしていたのだ。

「すまない……っ、俺が間違っていた! だから、死ぬな……!」

 クラウスは身につけていた分厚い黒狼の毛皮の外套を脱ぎ捨てると、ルシアの冷え切った身体を何重にも包み込んだ。

 そして、自分自身のありったけの魔力を解放し、彼女の身体を温めるように強く、強く抱きしめた。

 彼女の顔を自分の胸に押し当て、雪を蹴立てて砦の中へ走り出す。

「誰か! 治癒術師を呼べ!! 急げ!!」

 猛吹雪の中で響き渡った氷の副団長の悲痛な叫び声に、砦中の騎士たちが顔色を変えて飛び出してきた。

 腕の中で、ルシアはピクリとも動かない。

 クラウスは狂ったように彼女の名前を呼びながら、医務室へと駆け込んだ。


砦の医務室は、重苦しい空気に包まれていた。

 暖炉の火が赤々と燃えているのに、クラウスの体は芯まで冷え切っている。

「……ひどい状態です。魔力がないという以前に、この方はまともな食事すら与えられていなかったようですね。体が栄養失調で悲鳴を上げています」

 年老いた治癒術師が、ベッドで眠るルシアに毛布を掛けながら険しい顔で言った。

 ルシアの両手には、分厚い包帯が巻かれている。治癒魔法を使っても、凍傷とあかぎれが深すぎて、すぐには元に戻らないという。

「それに、この手……。王都の貴族令嬢が、なぜ労働者のような傷を作っているのですか。命があったのが不思議なほどです」

 治癒術師の非難がましい言葉が、クラウスの胸に突き刺さる。

 何も言い返せなかった。ルシアをこんな目に遭わせたのは、他の誰でもない、自分自身なのだから。

 治癒術師が部屋を出て行き、医務室にはクラウスとルシアの二人だけが残された。

 クラウスはベッドのそばに丸椅子を引き寄せ、ルシアの青白い顔を見つめた。

 規則正しい寝息は聞こえるが、いつ目を覚ますのかはわからない。

 クラウスは震える手で、包帯に巻かれたルシアの小さな手にそっと触れた。壊れ物を扱うように両手で包み込み、自分の額に押し当てる。

「……すまない。本当に、すまなかった……っ」

 静かな部屋に、男の懺悔の声だけが響く。

 王都の貴族が憎かった。過去に裏切られ、仲間を失った怒りを、何の関係もないこの孤独な令嬢にぶつけていたのだ。

 彼女が一切言い訳をせず、微笑んで耐えていたのは、王都の人間特有の計算なんかじゃなかった。

 ただ、生きるためにすべてを諦めていただけだったのだ。

(俺は……なんて恐ろしいことを……)

 クラウスは胸をかき毟るような痛みに耐え、目を閉じた。

 どれほどの時間が経っただろうか。

「……ん……」

 微かな声が聞こえ、クラウスは弾かれたように顔を上げた。

 ベッドの上で、ルシアの長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。焦点の合わない瞳が、数回のまばたきの後、クラウスの姿を捉えた。

「ルシア……! わかるか、俺だ」

 クラウスが身を乗り出すと、ルシアはビクッと怯えたように肩を震わせた。

 そして、包帯だらけの手で無理やり体を起こそうとする。

「寝ていろ! まだ起き上がっちゃ駄目だ!」

「……クラウス、様……」

 熱で潤んだ瞳。ルシアはひび割れた唇を動かし、掠れた声で言った。

「申し訳、ありません……。お洗濯、まだ終わっていなかったのに……勝手に倒れてしまって……」

 それは、死の淵から生還した人間が口にする言葉ではなかった。

 彼女は自分が助かったことよりも、命じられた仕事が終わっていないことを悔やんでいた。役に立たなければ、また居場所を奪われてしまうからだ。

「すぐに……戻ります。だから、どうか……見捨てないでください……」

 ルシアは泣きそうな顔で、クラウスに向かって深く頭を下げようとした。

 その痛々しいまでの従順さが、クラウスの理性を完全に吹き飛ばした。

「違う! もういい、もういいんだ……!」

 クラウスはたまらず、ルシアの細い身体を強く抱きしめた。

「え……?」

「水仕事なんて、もう二度としなくていい。お前をあんな目に遭わせたのは俺だ。俺が馬鹿だった……! 本当に、すまない……っ」

 クラウスはプライドも何もかも投げ捨てて、彼女の華奢な肩に顔を埋めた。

 氷の副団長と恐れられた屈強な男が、まるで子供のように震えている。

「クラウス様……?」

「頼むから、もう俺のそばから離れないでくれ。お前の居場所はここにある。俺が、一生かけて償うから……!」

 なりふり構わず愛と謝罪を乞うクラウスの腕の中で、ルシアはただ目を白黒させていた。

 王都からやってきた無能な厄介者と、氷の副団長。

 二人の間にあった分厚い氷壁は、今、音を立てて完全に崩れ去ったのだった。






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