第7話:小賢しさの肯定
夜会の騒動から数日。アイリスは以前にも増して執務に没頭していた。
ゼノスに見せられた「契約外の独占欲」をどう解析すべきか分からず、溢れる感情を数字の海に沈めて隠そうとしていたのだ。
深夜の書斎。アイリスは領地の備蓄食料の長期予測グラフを修正していたが、不意に背後に気配を感じる。
「……まだ起きていたのか。働きすぎは『業務違反』だと、自分で言っていたはずだが」
現れたのはゼノスだった。
彼は寝着の上に厚手の毛皮を羽織り、アイリスの分であろう温かいミルクの入ったカップを盆に乗せている。
「閣下……。ええ、あと0.4%の計算誤差を修正すれば終了します。これは明日の会議を5分短縮するための、必要な先行投資ですわ」
アイリスは一度も目を合わせず、羽ペンを走らせる。
だが、その手は微かに震えていた。
ゼノスは無言で彼女の隣に座り、強引にペンを取り上げた。
「……返してください、閣下。私の計算が止まってしまいます」
「お前の計算ではなく、心が止まっているように見える。……あの夜会の後から、お前はずっと俺を避けているな」
核心を突かれ、アイリスは言葉を失った。
彼女は視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。
「……嫌気がさしたのでしょう? 私のあの、可愛げのない完璧な演技に。そして、何でも損得や効率でしか語れない、この性格に」
アイリスの目から、一滴の涙が書類の上に落ちた。
「王都にいた頃、私はずっと言われ続けてきました。『お前の言葉には血が通っていない』『小賢しい計算ばかりで、周囲を不快にさせる』と。
「……エドワード殿下が私を捨てたのは、正しい判断だったのです。」
「私のような女を側に置けば、心が休まる暇もありませんもの。」
「私は、自分のこの『小賢しさ』が……大嫌いなんです」
それは、アイリスが生まれて初めて口にした、剥き出しの本音だった。
理論武装という鎧を脱ぎ捨てた彼女は、ただの傷ついた少女に過ぎなかった。
長い沈黙が流れた。
アイリスは拒絶を覚悟し、体を強張らせる。
だが、返ってきたのは、予想に反した低く、力強い声だった。
「……俺は、お前のその『小賢しさ』に、命を救われた」
アイリスが驚いて顔を上げると、ゼノスは真っ直ぐに彼女のサファイアの瞳を見つめていた。
「お前が来るまで、俺はこの領地を一人で背負って死ぬつもりだった。魔物と戦うことしか知らぬ俺にとって、領民の飢えや城の混乱は、どうしようもない『絶望』でしかなかった。……それを、お前が変えたんだ」
ゼノスは、アイリスの震える小さな手を、包み込むように握りしめた。
「お前が数字で未来を示してくれたから、俺は迷わず剣を振るえるようになった。お前が効率を求めたおかげで、死ぬはずだった兵士たちが家族の元へ帰れた。……アイリス。お前が呪っているその知性は、ここでは『奇跡』と呼ばれているんだ」
「閣下……」
「俺にとって、お前の言葉はどんな愛の囁きよりも、深く、温かく響く。……小賢しくて何が悪い。俺は、その知性で俺を救い続けてくれるお前を、誇りに思っている」
その言葉は、アイリスの心に深く根を張っていた「自己嫌悪」という毒を、一瞬で浄化していった。
誰にも必要とされないと思っていた自分の武器が、この男にとっては唯一無二の救いだった。
アイリスは、こらえきれずに声を上げて泣いた。
ゼノスは彼女を不器用に、だが壊れ物を扱うような優しさで抱き寄せた。
「……閣下。これは、契約にはない行為ですわ……」
「ああ、分かっている。これは業務外の『特別手当』だ」
泣き笑いのような声を出しながら、アイリスはゼノスの胸に顔を埋めた。
これまでは「生き延びるための契約」だった。
だが今、この瞬間、それは「この人のために生きたい」という、非論理的で、あまりにも情熱的な想いへと再計算された。
「……契約更新、ですね」
「ああ。次はもっと、お前に有利な条件を書き加えろ。小賢しくな」
月明かりの下、二人の影は重なり、冷たい書斎にはかつてない確かな熱が灯っていた。




