6.5話 辺境伯ゼノス・ヴォルガードの独白:『小賢しい女の、正しくない処世術』
最初に彼女を見たとき、俺は「死神が迷い込んできた」と思った。
泥にまみれ、顔色は青白く、今にも風に吹き飛ばされそうなほど細い女。だが、その瞳だけは死んでいなかった。
王都の令嬢共は、俺の顔の傷や「人喰い黒狼」という噂を聞けば、悲鳴を上げるか、計算高い色目で近づいてくるかのどちらかだ。
だが、アイリスは違った。彼女は俺を「脅威」としてではなく、**「解決すべき問題山積みの経営体」**として見ていた。
あの時、彼女が突きつけてきた計画書。震える指先を隠し、必死に「自分を雇うメリット」を並べ立てる姿は、まるで折れそうな細い剣を振り回して、必死に自分を守ろうとしている子供のようだった。
俺はその「小賢しさ」の裏にある、彼女の絶望的なまでの孤独を嗅ぎ取った。だから、拾った。
城での彼女の働きぶりは、笑えるほど徹底していた。
「愛」や「忠誠」といった不確かな言葉を一切使わず、すべてを「効率」と「コスト」で切り裂いていく。
だが、不思議なことに、彼女が通り過ぎた後の城内は、以前よりもずっと温かかった。
使用人たちが笑い、食事が温かくなり、俺のデスクから埃が消えた。
彼女は「自分のためにやっている」と言うが、あれは嘘だ。本当に自分のためだけなら、あんなにボロボロになるまで他人の帳簿を整理したりしない。
アイリスは、自分の価値を「誰かの役に立つこと」でしか証明できないと思っている。
かつてその知性を「可愛げがない」と否定された彼女にとって、『有用であること』は、この世界に存在していいという唯一の許可証なのだろう。
……全く、賢いくせに、救いようのない馬鹿な女だ。
「手を握るのが業務だ」と言い出したとき、俺は危うく吹き出しそうになった。
あんなに真っ赤な顔をして、必死に「魔術理論」を並べ立てて……。誰がどう見ても、あれは彼女なりの「歩み寄り」だった。
実際にその手を握ったとき、驚いた。
氷のように冷たいと言われていた彼女の手は、握りしめると驚くほど柔らかく、そして……俺の手の中でかすかに震えていた。
その震えが、俺の荒ぶっていた魔力を、何より俺の心のトゲを溶かしていくのが分かった。
理屈はどうでもいい。
俺に必要なのは「冷却装置」ではなく、**「俺が戦う意味を肯定してくれる、この小さな手のぬくもり」**だったのだと、その時初めて気づかされた。
彼女は気づいていないが、俺はもう「雇用主」の顔をするのが限界になりつつある。
王都の馬鹿どもが彼女を「小賢しい」と捨てたのは、この世で最大の損失だろう。
だが、そのおかげで彼女が俺の元へ「損切り」されてきたのだとしたら、運命に感謝せざるを得ない。
アイリス。
お前が「これは業務だ」と言い張るなら、俺も「これは投資だ」と言って、お前を二度と手放さない。
お前のその小賢しい頭脳も、可愛げのない正論も、震える指先も。
すべてを俺が買い取った。契約期間は――死が二人を分かつまでだ。




