第6話:初めての夜会・対外業務
ヴォルガード領の財政が持ち直し始めた矢先、隣領の有力貴族から夜会の招待状が届く。
それは、アイリスの「悪役令嬢としての悪名」と「辺境伯の結婚の真偽」を確かめようとする、好奇の目に晒される場だった。
「閣下、これは絶好の機会です。私たちが『情熱的に愛し合っている』と対外的に認識させれば、王都からの不当な介入を防ぎ、近隣との通商交渉を有利に進めることができます」
アイリスは無表情に、しかし完璧な「演技計画書」を提示した。
「業務内容は以下の通りです。
会場内では常に2メートル以内の距離を維持すること。
1時間に一度、私の腰に手を添える、または髪に触れる等の『親密な接触』を行うこと。
私の呼び名を『アイリス』に変更し、慈しむような視線を送ること。」
「……以上です。練習しておきますか?」
ゼノスは眉を寄せ、呆れたように吐き捨てた。
「……お前、それを『業務』としてこなすつもりか。俺の方はともかく、お前こそ顔が引き攣るんじゃないのか?」
「ご心配なく。私は元・公爵令嬢です。淑女の仮面を被るのは、計算式を解くより容易なことですわ」
夜会当日。会場の扉が開いた瞬間、ざわめきが止まった。
そこにいたのは、泥にまみれて追放された令嬢ではなく、北の地の冷徹な王に愛される「雪の女王」だった。
アイリスは、ゼノスが贈った(アイリスが予算内で最も費用対効果が高いと選んだ)深いミッドナイトブルーのドレスに身を包んでいた。
背筋を伸ばし、ゼノスの逞しい腕に手を添える彼女の姿は、あまりにも美しく、そして……「幸せな妻」そのものだった。
「アイリス、気分は悪くないか? 無理はするなと言っただろう」
ゼノスが、事前に打ち合わせた通りの低い、甘い声で囁く。
アイリスは、うっとりとした表情で彼を見上げ、可憐に微笑んだ。
「まあ、旦那様。あなたの側にいるだけで、私はこんなに満たされておりますのに。……(小声で:閣下、今のトーン、120点です。その調子で右斜め後ろの伯爵に視線を送ってください)」
アイリスの「完璧な演技」は会場を圧倒した。
かつての「小賢しい女」という噂を塗り替える、愛に溺れた新妻。
だが、ゼノスの中で、奇妙なノイズが走り始める。
彼女が他の貴族の男と挨拶を交わし、小賢しい外交術で相手を翻弄するたびに。そして、自分に向けるその極上の笑顔が、あくまで「契約に基づいた演技」であると思い知らされるたびに。
ゼノスの胸の奥に、焼けつくような不快感が蓄積されていった。
夜会の中盤、王都から来た若い貴族がアイリスをダンスに誘おうと近づいてきた。
「アイリス様、以前の貴女とはまるで別人のようだ。……あの野蛮な辺境伯には、貴女のような知的な女性は勿体ない。どうです、一度王都に戻る計画を私と……」
その男の手が、アイリスの肩に触れようとした瞬間。
野獣のような圧力が、その場を支配した。
「……悪いが、私の妻は疲れやすい。これ以上の接触は、ヴォルガード家に対する敵対行為と見なすが?」
ゼノスが、アイリスの腰を強く引き寄せた。
それは打ち合わせにあった「軽い接触」ではない。骨が軋むほどの、強引で圧倒的な抱擁だった。
「か、閣下……? これは、契約の範囲外の強度ですが……」
アイリスが困惑して見上げると、そこには演技ではない、本物の「怒り」と「飢え」を湛えたゼノスの瞳があった。
「黙れ。これは『業務』ではない。……俺の勝手だ」
ゼノスは彼女を隠すようにマントで包み込み、周囲を睨みつけた。
その瞬間、アイリスの計算機のような脳が停止した。
彼の心臓の鼓動が、自分の背中に直接伝わってくる。熱い。苦しいほどに強い。
(これは……どういう理論で説明すればいいの? 彼の中に、私を守るという『防衛本能以上のコスト』が発生している……?)
揺れる馬車の中、二人は一言も交わさなかった。
アイリスは窓の外を見つめ、火照った頬を冷やしていた。
先ほどのゼノスの独占欲を「演技」として処理しようとするが、どうしてもよく分からなかった。
一方のゼノスは、握りしめた拳を震わせていた。
自分が感じたのは、領地を守る義務感などではない。
ただ、彼女を誰にも見せたくない。彼女のあの微笑みを、契約という仮面の裏ではなく、自分だけに向けさせたいという、極めて非論理的で野蛮な――「独占欲」。
「……アイリス」
「は、はい、何でしょうか。第7条に関する修正提案なら……」
「いや、何でもない。……寝ろ。明日は早い」
ゼノスは顔を背けた。
二人の間にある「契約」という防壁が、少しずつ、熱によって溶け始めていた。




