第5話:契約の追加・「魔力安定」の儀
城の運営は劇的に改善されたが、アイリスには拭えない懸念があった。
それは、雇用主であるゼノス・ヴォルガードの「個体としての生存限界」である。
内政の負担は減ったものの、北壁から溢れ出す魔物の活性化は止まらない。ゼノスは依然として、領民を守るための「歩く魔力炉」として過酷な出力を続けていた。
アイリスは、ゼノスの魔力波形を毎日グラフ化し、ある結論を導き出す。
「……致命的だわ。閣下の精神的疲労が、魔力の安定供給を阻害している。このままでは三ヶ月以内に、閣下の魔力回路は焼き切れる(オーバーヒートする)。そうなれば、私のこのホワイトな職場もろとも全滅ね」
彼女は、古びた医学書と魔術理論書を数冊積み上げ、ある一節を見つけ出した。
『生体魔力の共鳴による沈静化――信頼関係にある他者との皮膚接触は、孤独な高出力者の精神波を80%安定させる』
「……非論理的だわ。接触だけで安定するなんて。でも、データが示している以上、これは『業務』として導入せざるを得ないわね」
アイリスは、頬がわずかに熱くなるのを「室温の計算ミス」として処理し、新しい契約の追記条項を書き始めた。
深夜、執務を終えようとしていたゼノスの前に、アイリスは無表情(を装った鉄面皮)で現れた。
彼女の手には、追加の雇用契約書がある。
「閣下。現在のあなたの健康状態を分析した結果、新たな『必須業務』を契約に追加する必要があります」
ゼノスは疲れ切った目で彼女を見上げた。
「……今度はなんだ。また新しいシフト制か? それとも野菜の摂取量を増やす契約か?」
「それらよりも、はるかに直接的な措置です。閣下、1日10分間、私と『手を繋ぐ時間』を設けていただきます」
沈黙が流れた。ゼノスが持っていた羽ペンが、ポトリと書類の上に落ちた。
「……何と言った?」
「聞こえませんでしたか? 皮膚接触による生体魔力の同期です。理論上、閣下の荒ぶる魔力を私の空(空っぽ)に近い魔力回路に一時的に逃がすことで、脳の冷却効率を上げます。これは医学的、かつ軍事的な『メンテナンス業務』です」
アイリスは立て板に水のごとく、偽の(あるいは多分に誇張された)魔術理論を並べ立てた。
「いいですか、閣下。私は『女』として手を握りたいと言っているのではありません。私はあなたの『予備の冷却装置』として、その機能を全うしたいと申し上げているのです。業務に私情を挟むほど、私は愚かではありませんわ」
ゼノスはしばらくアイリスを凝視していたが、やがて観念したように大きな溜息をついた。
「……お前のその、何でも理屈で塗り固める性格には勝てんな。分かった。それが『業務』だと言うのなら、従おう」
「賢明なご判断です。では、タイマーをセットします。業務開始です」
アイリスは震える指先を隠しながら、ゼノスの大きな、傷だらけの手をそっと握った。
ゴツゴツとしていて、驚くほど熱い手。
ゼノスの手が、アイリスの華奢な手を包み込むように握り返す。
(……あ、心拍数が20%上昇。これは、ええと、未知の魔力波形に対する生体防御反応ね。そうに決まってるわ)
二人は無言のまま、ソファーに並んで座った。
時計の針が刻む音だけが響く。
最初は強張っていたゼノスの体が、次第に弛緩していくのが分かった。
彼の荒々しかった魔力が、アイリスの手を通じてゆっくりと凪いでいく。
「……アイリス」
ゼノスが低く、囁くような声で言った。
「お前の手は……冷たいが、不思議と落ち着く」
「それは私の体温が閣下より3度低いからです。熱交換の法則に従えば当然の……」
「黙れ。今は『業務中』だろう」
ゼノスにそう遮られ、アイリスは口を閉ざした。
10分間。それは計算上では短いはずの時間なのに、永遠のように長く、そして……不思議と、終わってほしくない時間だった。
「……終了です。お疲れ様でした」
タイマーが鳴ると同時に、アイリスは弾かれたように手を離した。
彼女の顔は、かつてないほど真っ赤に染まっていた。
「閣下、魔力波形の安定を確認しました。この『儀式』は毎日、定時に行います。遅刻は認められませんので、そのつもりで」
「……ああ。明日も頼む。事務官殿」
ゼノスの少しだけ揶揄うような、そして柔らかな眼差しから逃げるように、アイリスは部屋を飛び出した。
自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ彼女は、自分の胸の鼓動が全く「計算通り」に収まらないことに気づく。
「……おかしいわ。これは、契約にはない副作用よ」
こうして、二人の「業務」という名の甘い時間は、辺境の夜の中に定着していくことになった。




