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第2話:辺境へのプレゼン

泥濘でいねいの果てに】


王都を脱出して三日。


アイリス・ランバートの姿は、かつての公爵令嬢の面影を失っていた。


金糸のような輝きを誇ったプラチナブロンドの髪は泥に汚れ、サファイアと称えられた瞳は疲労で沈んでいる。


しかし、その瞳の奥に宿る「理性」の光だけは、風前の灯火どころか鋭く研ぎ澄まされていた。


彼女が目指したのは、北の最果て、ヴォルガード辺境伯領。


そこは「人喰い黒狼」と渾名される男、ゼノス・ヴォルガードが治める、王国で最も過酷な土地だ。


「……計算通り。追っ手の騎士団の重装備では、この沼地は越えられない。私の体重と馬の疲労度を計算すれば、ここで追跡を振り切るのが最適解……」


薄れゆく意識の中、アイリスは視界の端に、威圧的な漆黒の城壁を捉えた。


----------------

アイリスが目を覚ましたのは、暖炉の爆ぜる音が聞こえる、簡素だが清潔な寝室だった。

そこには、一人の男が立っていた。


ゼノス・ヴォルガード。


野性味を残した漆黒の短髪に、氷河の底のような冷徹な灰色の瞳。右頬には魔物との戦いで刻まれたであろう、鋭い傷跡が一つ。


身長はアイリスより二回りも大きく、立っているだけで室内の空気が押しつぶされるような威圧感を放っている。


「目が覚めたか、侵入者よ。我が領地の警備網の隙間を縫って倒れていたのが、よもや王都を追われた『氷の会計士』だとはな」


ゼノスの声は、低く地響きのように響いた。


アイリスは喉の渇きを無視して、上半身を起こす。


ボロボロの衣服を整え、可能な限り背筋を伸ばした。


「……助けていただいたことには、感謝いたします。辺境伯様。ですが、『侵入』ではなく『訪問』と定義していただきたいわ。私はあなたに、人生で最も有益な投資話を持ち込みに来たのですから」


「投資だと?」ゼノスは鼻で笑った。


「命を拾ったばかりの女が言う台詞か」


アイリスは枕元に置かれていた、泥だらけだが防水加工を施していた鞄から、数枚の羊皮紙を取り出した。


それは逃亡の最中、彼女が記憶を頼りに書き出した「ヴォルガード領の経営再建計画書」だ。


「あなたの領地の現状を分析しました。魔物討伐の費用が歳入の6割を占め、かつ兵士の負傷による労働力欠損が経済の足を引っ張っている。このままでは、あと3年でこの地は財政破綻します」


ゼノスの瞳が、わずかに細まった。


「……何を知っている」


「私は『小賢しい』のですよ。


王都にいた頃から、あらゆる領地の物流データを収集していました。


辺境伯様、あなたは武勇に優れていますが、事務管理を軽視しすぎている。私をここで殺すか追い出すかすれば、あなたは3年後に領民を見捨てることになります。ですが……」


アイリスは、指で計画書の一行を指した。


「私を**『妻』**として雇えば、半年で赤字を解消し、1年で兵士の生存率を15%向上させてみせます」


「……妻だと? 狂ったか」

ゼノスが訝しげにつぶやく


「いいえ、合理的判断です。この領地には今、外部からの『監視』と、内政を統括する『権威』が必要です。余所者の事務官では誰も従いません。ですが、形式上の『辺境伯夫人』という役職があれば、私はあなたの名代として全使用人を管理下に置ける。」


「これは雇用契約です。」


「私は安全と居場所を。あなたは領地の再建と面倒な婚談を断る口実を得る。……いかがですか、経営者エグゼクティブとしてのご判断を」


ゼノスは無言でアイリスを見下ろした。


泥に汚れ、今にも倒れそうな華奢な少女。


しかし、その差し出した「計画書」と「言葉」には、剣よりも鋭い殺気が宿っていた。


「……面白い。その『小賢しさ』、我が領地の冬を越せるだけの価値があるか、試させてもらおう」


「決まりですね。では、契約成立の握手を。……あ、いえ、筋肉量が多すぎて私の手の骨が折れるリスクがあります。口頭確認で十分です」


アイリスが真顔でそう言うと、ゼノスは今日初めて、僅かに口角を上げた。


「……お前、本当に可愛げがないな」


「最大級の褒め言葉として受け取っておきますわ。旦那様」


こうして、王都を追われた「小賢しい悪役令嬢」は、北の地の「契約妻」として、第2の人生——いいえ、第2のビジネスキャリアを開始したのである。

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