第19話:後日談・辺境の春
王都の騒乱から数年。ヴォルガード領は、もはや「辺境」という言葉が似合わないほどに変貌を遂げていた。
かつては魔物と雪に閉ざされていた大地には、アイリスが設計した「魔力循環型温室」が立ち並び、冬でも新鮮な作物が実っている。
城下町の活気は王都を凌ぐほどだ。アイリスが導入した「領民保険制度」と「初等教育システム」により、ここでは誰もが明日を恐れずに学び、働くことができる。
「奥様、今年の収穫高の最終報告書です! 予測値をさらに2.1%上回りました!」
若き事務官が興奮気味に書類を差し出す。アイリスは、今や「辺境の賢妃」として周辺諸国にまでその名を知られていた。彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、手慣れた手つきで万年筆を走らせる。
「素晴らしいわ。超過利益分は、来期の『寒冷地交通インフラ』の整備に回しましょう。……経済は血液と同じ。止めてしまっては意味がないもの」
彼女の横顔には、かつての刺々しさは消え、愛されている女性特有の柔らかな光が宿っていた。
執務室の扉が開き、重厚な足音が響く。
現れたのは、領主ゼノスだ。かつての「人喰い黒狼」の面影は、その鋭い眼差しの中にわずかに残るのみ。
今の彼は、領民から絶大な信頼を寄せられる、思慮深くも苛烈な守護者であった。
だが、アイリスの前に立つときだけは、その表情は一気に崩れる。
「アイリス、また根を詰めているな。……定時退社の時間を3分12秒過ぎているぞ」
ゼノスは当然のようにアイリスの背後に回り、彼女の肩を大きな手で揉みほぐし始めた。
「閣下、いえ、あなた。これは明日を効率的に過ごすための、必要な事前準備ですわ。……それに、あなたのその『定時退社』への異常な執着、少し非合理的ではありませんか?」
「いいや、極めて合理的だ。お前と過ごす夜の時間は、俺の精神的資産を回復させるための『必須工程』だからな。……それに、お前の顔を見ないと、俺の心拍数が安定しないというデータが出ている」
「……ふふ、私の台詞を奪わないでくださいな」
アイリスは、ゼノスの手に自分の手を重ねた。
数年前までは、触れ合うことさえ「業務」として定義しなければできなかった二人が、今では呼吸をするように愛を囁き合っている。
夕食後、二人は城のテラスで、春の訪れを告げる夜風に当たっていた。
遠くに見える街の灯りは、アイリスが計算し、ゼノスが守り抜いた「平和」の象徴だ。
「……ゼノス様。あの時、私を連れ戻してくださって、本当にありがとうございました」
アイリスがふと、夜空を見上げて呟いた。
「どうした、急に」
「ふと思ったのです。もしあのまま、私が合理性だけを信じて一人で消えていたら……今のこの、胸が熱くなるような『幸せ』という現象を、私は一生、知らずに死んでいたでしょう。……愛とは、計算機を壊すほどの、恐ろしいものですわね」
ゼノスはアイリスを後ろから抱き寄せ、彼女の髪に口づけを落とした。
「……何でも構わん。俺はその恐ろしいもののおかげで、ただの戦う機械から、一人の人間に戻れた。……アイリス、お前が俺の隣で理屈をこね続けてくれる限り、この領地も、俺の人生も、永遠に右肩上がりだ」
「……あら、それは重い責任ですわね。……でも、悪くない投資です」
アイリスは幸せそうに目を細め、ゼノスの腕の中で安らぎに浸った。
二人の間には、もはや一文字の契約書も必要なかった。日々の眼差しと、交わされる言葉のすべてが、世界で最も確かな約束だったからだ。
幸せな沈黙の中、城の中から「バタバタ」と小さな足音が聞こえてきた。
「……お母様! お父様! どうして夜に外に出ると、影が長くなるの? 影の長さと月の角度には、どんな相関関係があるの!?」
元気な声とともに飛び出してきたのは、アイリスの面影を強く宿した、聡明な瞳を持つ小さな少年だった。
アイリスとゼノスは顔を見合わせ、同時に苦笑した。
「……どうやら、次の世代の『小賢しい議論』が始まったようですね」
「ああ……。これは、俺たちの時よりも手強そうだぞ」
物語は、愛の結晶である次世代が、さらなる理屈と知性で二人を翻弄するエピローグ、第20話へと続く。




