第18話:新しい契約
王都での断罪劇から一夜明け、ヴォルガード領へと戻る馬車の中。
窓の外には、アイリスがかつて「不毛な土地」と切り捨て、今では「可能性の塊」と定義し直した辺境の雪景色が広がっていた。
車内には、心地よい沈黙が流れている。
アイリスは膝の上で、これまで肌身離さず持っていた「旧・雇用契約書」の残骸を見つめていた。
ボロボロになった紙切れは、二人が歩んできた「偽りから始まった真実」の記録そのものだった。
「……ゼノス様。王都の各商会との再契約案、および旧貴族領の吸収合併に伴う減価償却のスケジュールをまとめました。ご確認いただけますか?」
アイリスは努めて事務的に、いつものように書類を差し出そうとした。
だが、ゼノスはその手を取り、書類ごと彼女を自分の方へと引き寄せた。
「……アイリス。王都でも言ったはずだ。もう、古い契約の話はやめようと」
「ですが、明文化された指針がなければ、組織としての効率が……」
「効率なら、もう十分すぎるほどだ。……俺が今、お前と結びたいのは、帳簿には載らない種類の『約束』だ」
ゼノスの真剣な眼差しに、アイリスは言葉を失う。
彼は馬車を止めさせると、二人の出会いの場所に近い、丘の上の小さな礼拝堂へと彼女を誘った。
礼拝堂の中は、冬の澄んだ光がステンドグラスを通して差し込み、幻想的な静寂に包まれていた。
ゼノスはアイリスの前に立つと、懐から一通の、真新しい羊皮紙を取り出した。
「アイリス。これは俺が書いた、新しい契約書だ。……目を通してくれるか」
アイリスは震える手でそれを受け取った。そこには、彼女が教えたはずの「完璧な書式」とは程遠い、だが力強く、迷いのないゼノスの直筆でこう記されていた。
第1条:目的
甲と乙は、互いの幸福を最大化し、人生という名の事業を永遠に共同で運営するものとする。
第2条:報酬
甲は乙に対し、一生分の愛と、安らぎと、自由を支払う。
乙は甲に対し、その知性と、時折見せる可愛げのない理屈と、隣で眠る権利を供与する。
第3条:契約期間
本契約は、どちらかの命が尽きるまでではなく、魂が続く限り更新されるものとする。
「……閣下。これは、あまりにも非論理的です」
アイリスは視界が滲むのを堪え、必死に毒舌で防衛線を張った。
「報酬の『愛』なんて、計量不可能ですわ。それに、第3条の『魂が続く限り』なんて、法的な実効性が全く認められません……!」
「ああ、分かっている。これは論理じゃない。……俺の、たった一つの『我儘』だ」
ゼノスはアイリスの腰を引き寄せ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「アイリス。俺の隣に、事務官としてではなく、俺の妻としていてほしい。……お前がいない未来は、どれほど利益が出ても、俺にとっては完全な『赤字』なんだ。お前という唯一無二の資産を、俺に一生独占させてくれないか」
アイリスの胸の中で、これまで必死に抑え込んできた感情が、数式を無視して溢れ出した。
彼女は、自分が「有能だから」愛されていると思っていた。
でも、この男が求めているのは、計算を間違え、泣きじゃくり、自分勝手な理由で逃げ出した、醜いほどに人間らしい自分だった。
「……ゼノス様。私の計算機は、今、完全に故障しています」
アイリスは泣き笑いのような顔で、ゼノスの胸に顔を埋めた。
「あなたという巨大な変数のせいで、私の人生設計はめちゃくちゃです。……でも、そのめちゃくちゃな未来が、どんな完璧な計画書よりも……楽しみで、愛しくて、堪らないんです」
アイリスはゼノスの手を取り、自分の左手の薬指に導いた。
「……第2条の報酬、全額、前払いでいただけますか? 踏み倒しは許しませんわよ」
ゼノスは満足そうに口角を上げると、用意していたサファイアの指輪を彼女の指にはめた。
アイリスの瞳と同じ色のその石は、冬の陽光を受けて、かつてないほど眩しく輝いた。
「……もちろんだ。利子もたっぷりつけてやる」
二人は、静かな礼拝堂で、誰に見守られることもなく、深い、誓いの口づけを交わした。
それは、利害の一致による「雇用」が、永劫の「愛」へと書き換えられた瞬間だった。
数日後。ヴォルガード城では、領民たちを招いた盛大な祝宴が開かれた。
しかし、主役の二人は派手な儀式を好まず、いつもの執務室で、二人並んで新しい領地運営の図面を広げていた。
「奥様、いえ、辺境伯夫人。……新婚旅行の予算案ですが、これでは贅沢すぎませんか?」
アイリスが冗談めかして言うと、ゼノスは彼女の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「いいや、これは『先行投資』だ。……俺たちの幸せが、領民の幸せに直結する。これほど効率的な投資が他にあるか?」
「……ふふ。閣下も、すっかり『小賢しく』なられましたね」
二人の笑い声が、温かくなった城内に響く。
物語は数年後、さらに豊かになった辺境で、愛妻家となったゼノスと、彼を支え続けるアイリスの日常を描く第19話へと続く。




