第16話:再会と本音
国境近くの宿。ゼノスに連れ戻されたアイリスは、彼の外套に包まれたまま、暖炉の火を見つめていた。
城にいた頃のような豪華な寝室ではない。
隙間風が鳴る粗末な一室だが、隣に座るゼノスの体温が、アイリスの凍りついた思考をゆっくりと溶かしていく。
ゼノスは無言で、アイリスが脱ぎ捨てた汚れた靴を片付け、彼女に温かいスープを差し出した。
「……食え。計算する体力くらいは残しておけ」
アイリスはスープを受け取ったが、口をつける前に、小さく震える声で切り出した。
「……閣下。いえ、ゼノス様。……契約書を燃やしてしまった以上、今の私は、あなたの何でもありません。給与を支払う根拠も、側にいる法的な名目も失われました。……これは、極めて不安定な状態です」
「まだそんなことを言っているのか」
ゼノスは呆れたように息をつき、アイリスの隣に深く腰掛けた。
「名目なら、俺がさっき言っただろう。『俺の女』だ。それ以上の法的根拠が、このヴォルガード領のどこに必要だ?」
「……それは、あまりにも独裁的で、感情論に過ぎませんわ」
アイリスは反論しようとしたが、ゼノスの真っ直ぐな視線に射抜かれ、言葉を飲み込んだ。
「アイリス。……お前は、なぜ俺がここまで追ってきたか、本当に気づいていないのか?」
ゼノスは、アイリスの細い指を自分の大きな掌で包み込んだ。
「お前が俺を救った時、俺が感じたのは『便利な道具を手に入れた』という安堵じゃない。……お前という人間が、俺の隣で笑い、毒を吐き、必死に未来を計算している……その姿を見て、俺は生まれて初めて、この退屈な世界が価値あるものに見えたんだ」
アイリスの目から、一滴の涙がこぼれ、スープの中に落ちた。
「……私は、怖かったのです。……有能な事務官としての価値がなくなれば、私はまた、誰からも必要とされない『小賢しい女』に戻ってしまう。……もし、私があなたの役に立たなくなっても、あなたは私を……」
「愛している。……有能なお前も、絶望して逃げ出したお前も、すべてだ」
ゼノスは、アイリスの眼鏡をそっと外し、彼女の濡れた瞳を覗き込んだ。
「お前はもう、俺を救うための『装置』じゃなくていい。これからは、俺とお前、二人で生き残るための『人生』を始めよう。……契約書の内容ではなく、俺たちの本音で、一から書き直すんだ」
アイリスは、ゼノスの胸に顔を埋めた。
これまでは「役に立つこと」が彼女の生存戦略だった。
だが今、この男の腕の中で、彼女は初めて「ただ存在するだけで許される」という、論理では到達できない境地に辿り着いた。
「……ゼノス様。……私の本音を、言ってもいいですか?」
「ああ。聞こう」
「……大好きです。……世界中のどんな数字よりも、計算式よりも……あなたのことが、愛しくて堪りません」
アイリスは、自らゼノスの首に腕を回した。
それは、報酬も義務も伴わない、純粋な「意志」による初めての抱擁だった。
夜が深まる頃、二人の空気は甘い余韻から、鋭い「共闘」のそれへと変わっていった。
アイリスは宿の安物の紙に、驚くべき速さで図解を書き込み始める。
「ゼノス様。……私たちが生き残るための『再建計画』を策定しました。エドワード殿下が私の失踪を利用して、ヴォルガード領に軍を差し向けるのは時間の問題です」
「ああ。王都の連中は、俺が名誉を捨ててお前を追ったことを『反逆の証拠』にするだろうな」
「ええ。ですが、それは彼らにとっても諸刃の剣です。……殿下が隠蔽している王室予算の使途不明金、そして私が追放される直前に掴んでいた貴族たちの汚職データ……。これらを一斉に市場へ流布すれば、王都の信用格付けは暴落します」
アイリスの瞳には、かつての「氷の令嬢」を越えた、冷徹で苛烈な知性が宿っていた。
「彼らは、私を『小賢しい』と蔑みました。ならば、その小賢しさで、王国の屋台骨を一本残らず引き抜いて差し上げましょう。……閣下、あなたの武力は、その『清算』の仕上げに使ってください」
「ふっ……。頼もしいな。お前のその顔を見るのが、俺は一番好きだ」
ゼノスはアイリスの腰を引き寄せ、彼女の耳元で囁いた。
「明朝、潜伏先へ移動する。そこを拠点に、王都へ牙を剥く準備を整えよう。……俺たちの『本物の結婚式』は、あの王子の断頭台の前で挙げることにするか」
窓の外では、雪が止み、月が冷たく輝いていた。
かつては「契約」で結ばれていた二人は、今、お互いの弱さをさらけ出し、最強の信頼で結ばれた。
「アイリス。一つだけ約束しろ。……二度と、俺のために消えるな。俺を救う時は、必ず隣にいろ」
「……ええ。善処しますわ。……いえ、約束します。私の計算機に、あなたのいない未来はもう入力されていませんから」
二人は重なり合うように眠りについた。
明日から始まるのは、王国を揺るがす壮大な「断罪の逆転劇」。
アイリスの知性とゼノスの意志が、腐りきった王都を根底から変えていく。




