第15話:ヒーローの覚醒
アイリスが失踪してから三日。ヴォルガード城には、彼女が用意した「完璧な証拠」が揃っていた。
彼女が隠し持っていた(とされる)多額の横領金、ゼノスを欺くための手記、そして「辺境伯は無実の被害者である」と証明する法的書類の数々。
「……計算通りだと、あいつ」
ゼノスは、アイリスの机に並べられたそれらの書類を眺め、低く笑った。
アイリスは自分の身の安全など一切考えず、ゼノスの「正当性」だけを完璧に守り抜いて消えたのだ。
王都の使者は満足げに頷いていた。
「辺境伯閣下、賢明なご判断です。この書類を提出すれば、貴殿の反逆容疑は晴れ、領地も安泰。あとはあの『詐欺師令嬢』を捕らえて処刑するだけで、すべては丸く収まりますな」
使者の言葉が終わる前に、ゼノスの拳が机を砕いた。
「……丸く収まる? お前は、俺がこんな紙切れ一枚のために、あいつを見捨てると本気で思っているのか」
「閣下、なりませぬ! 今さら彼女を追えば、彼女が命懸けで作ったこの『無実の証明』がすべて無駄になります!」
側近のバートやガストンが必死に縋り付く。
アイリスの意図を理解しているからこそ、彼らもまた、彼女の犠牲を無駄にすまいとゼノスを止めた。
だが、ゼノスの瞳に宿っていたのは、冷徹な領主の光ではなかった。
「アイリスは言った。自分の知性は誰かを救うためにあると。……ならば、俺のこの力は何のためにある? 守りたい女一人救えず、彼女が泥を被って用意した椅子にふんぞり返るためか!」
ゼノスは、アイリスが残した「詐欺の証拠」をすべて暖炉に放り込んだ。
「書類などいらん。正当性も名誉も、必要なら後で力ずくで奪い返す!
……俺は、俺の意志で、アイリス・ランバートを連れ戻す。例えそれが、この世で最も『非合理的』な選択だとしてもだ!」
ゼノスは愛剣だけを手に、厩舎へ走った。
アイリスが「最も見つかりにくい」と計算したルートを、彼は「アイリスが最も孤独を感じる場所」という直感だけで逆算し、雪解けの泥道を突き進んだ。
国境近くの寂れた宿場。
アイリスは、自分が用意した「完璧なシナリオ」が順調に進んでいることを、遠くの鐘の音から察していた。
(……これでいい。閣下は被害者として受理され、ヴォルガード領は守られた。私はこのまま、歴史の影で消えればいい……)
自分に言い聞かせ、震える指を組んでいたその時。
宿の扉が、暴風のような衝撃とともに蹴破られた。
「……契約違反だ、アイリス・ランバート」
息を切らし、全身泥にまみれ、それでも王者のような威圧感を放つゼノスがそこにいた。
アイリスは立ち上がり、絶望したように叫んだ。
「……どうして!? 来てはいけないと言ったはずです! 私が用意した書類はどうしました!? あれがあれば、あなたは救われたのに!」
「あんなゴミなら燃やした」
ゼノスは一歩、また一歩と、アイリスを追い詰める。
「……バカです、本当に救いようのないバカですわ! 閣下、あなたのしたことは、これまでのすべての努力を無にする、最低の『損切り』です!」
「ああ、そうだな。……だがな、アイリス。お前のいない未来なんて、俺にとっては一銭の価値もない『赤字』なんだよ」
ゼノスはアイリスの腕を掴み、強引にその体を抱き寄せた。
「……離してください。私は詐欺師なのです。あなたを騙した悪女なのです……」
アイリスの声が、涙で湿っていく。
「なら、一生かけて俺を騙し続けろ。……お前のその小賢しい頭脳で、俺が死ぬまで『幸せな結婚生活』という嘘をつき続けてみせろ。……それがお前の、次の『業務』だ」
ゼノスの心臓の音が、アイリスの耳に直接響く。
論理も、計算も、正当性も。この男の熱い体温の前では、すべてが意味をなさなかった。
「……後悔しても、知りませんわよ。……私は、あなたを地獄まで道連れにするかもしれませんのに」
「地獄の帳簿付けなら、お前の得意分野だろう?」
二人は、雪の降る異郷の地で、契約ではない「魂の約束」を交わした。
もはや、隠れて生きる必要はない。二人は、アイリスの知性とゼノスの武力、そのすべてを懸けて、自分たちを追い詰めた王都という「不採算部門」を徹底的に叩き潰すことを決意した。
「……行きましょう、閣下。……私を捨てたことを、あの王子に100倍の利子をつけて後悔させてやりますわ」
愛ゆえに暴走した男と、愛ゆえに牙を剥く女。
最強の二人が、王都を震撼させるために向かう。




