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第14話:アイリスの失踪

王都から届いた最後通牒は、ヴォルガード領にとって致命的な内容だった。


「詐欺師アイリス・ランバートを即刻引き渡せ。さもなくば、辺境伯を国家反逆罪に問い、領地を没収する」というものだ。


アイリスは執務室で、深夜まで計算機を叩いていた。


(……ゼノス閣下の地位、領民の安寧、そして新しく構築した物流ルート。これらすべてを維持するための最適解は一つしかないわ)


彼女が出した答えは、自分という「不確定要素」の排除——すなわち**「損切り」**だった。


彼女がここに居続ければ、ゼノスは「犯罪者を匿う反逆者」として歴史に名を残す。


だが、彼女が「辺境伯を騙して金を奪い、逃亡した詐欺師」という泥を被って姿を消せば、ゼノスの正当性は守られる。


「……私の知性は、誰かを救うためにあったはず。……なら、最後くらいは、一番大切な人を守るために使いましょう」


アイリスは、震える手で「契約解除通知書」を書き上げた。


そこには、感謝の言葉も愛の告白もなく、ただ冷徹に「本契約はアイリスの自己都合により、本日付で破棄される」という事務的な文言だけが並んでいた。


「閣下、本日の業務報告です」


深夜、アイリスはゼノスの私室を訪れた。ゼノスは疲れ切った様子で、アイリスが淹れたハーブティーを口にする。


「ああ。……明日からの王都への対応、お前の計算ではどうなっている?」


「……ええ。盤石ですわ。閣下は何も心配なさらず、これまで通り『高潔な領主』として振る舞ってください。……私の計算に、間違いはありませんから」


アイリスは、これが最後になると分かっていながら、ゼノスの顔を強く目に焼き付けた。


本当は彼の手を握りたい、あの「10分の業務」を永遠に続けたい。


そんな非論理的な欲求を、彼女は必死に理性で押し殺した。


「……閣下。最後に一つだけ。……私を雇ってくださって、本当にありがとうございました。あなたの帳簿を付けていた時間は、私の人生で唯一、計算が狂うほどに幸せな時間でした」


「……アイリス? 急にどうした」


「いいえ。ただの『業務完了の挨拶』ですわ。おやすみなさい、閣下」


翌朝、ゼノスが目覚めたとき、アイリスの姿は城のどこにもなかった。


残されていたのは、空になった彼女の部屋と、机の上に置かれた「契約解除通知書」、そして彼女がこれまで着ていた高価なドレスの数々だった。彼女は、自分が持ち込んだ最低限の荷物だけを持って、雪の降る夜の闇へと消えていた。


アイリスは、かつて自分が整えたはずの物流網を逆に利用し、徹底的に足跡を消して逃走した。彼女が向かったのは、王都でも辺境でもない、国境沿いの寂れた隠れ里だった。


「……これでいいの。閣下の名誉は守られた。私は、ただの『小賢しい詐欺師』として忘れ去られればいい」


粗末な宿の一室で、アイリスは膝を抱えて震えていた。


計算は完璧だった。


理論上、これが全員にとってのハッピーエンドのはずだった。


なのに、胸の奥が、壊れた機械のように熱く、痛い。


「……バカね。計算通りなのに……どうして、こんなに涙が止まらないのかしら」


彼女の頬を伝う涙は、どれほど算術を駆使しても「ゼロ」にすることはできなかった。


彼女は自分の知性を呪った。こんなに苦しい答えしか導き出せないのなら、何も知らない愚かな娘のままでいたかった、と。


一方、ヴォルガード城。


アイリスの置手紙を読み終えたゼノスは、静かに、だが確実に「壊れて」いた。


彼は、彼女が自分を守るために自ら悪役になったことを、その瞬間に理解した。そして同時に、自分の中にあった「理性」という名の枷が、音を立てて砕け散るのを感じた。


「……ふざけるな、アイリス。……誰が名誉のために、お前を捨てると言った」


ゼノスは、側近たちが止めるのも聞かず、愛剣一本を持って厩舎へ向かった。


「閣下! 今動けば王都に口実を与えます! 合理的に考えて、今は……!」


「合理的だと? ……そんなものは、アイリスにだけさせておけばいい」


ゼノスの瞳には、かつて「人喰い黒狼」と恐れられた頃の、凶暴で純粋な光が宿っていた。


「俺は、俺の意志で、あの小賢しい女を連れ戻しに行く。……国が滅びようが、俺が反逆者になろうが知ったことか!」


ゼノスは馬を走らせた。


アイリスが計算した「安全な未来」をすべて踏みにじるために。


物語は、合理性を捨てた男が、愛のために世界を敵に回す次回へと続く。

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