13話:契約書の内容流出
ヴォルガード領に平和が戻ったかに見えたその時、王都から放たれた毒矢が領民の心を射抜いた。
エドワード皇太子が、アイリスとゼノスが最初に交わした「雇用契約書」の写しを、魔導通信によって領内全域に公開したのである。
『衝撃! 辺境伯夫人の正体は、金で雇われた「事務官」に過ぎなかった』
『愛なき契約。小賢しい令嬢が、辺境伯を操り、領地の財を私物化している』
広場には、アイリスが事務的に、そして冷徹に報酬や条件を書き連ねた文字が大きく映し出された。
「二人の仲睦まじい姿は、すべて『業務』だったのか?」「奥様は、俺たちを救うふりをして、計算ずくで金を動かしていたのか?」
信頼という名の非論理的な資産が、急激に暴落していく。
騒然とする城内に、王都からの公式な使者が現れる。
今度の使者は、アイリスを追放した当事者であるエドワード皇太子が直接「映像」を投影する魔道具を持っていた。
「ゼノス・ヴォルガードよ。貴様はあの女に騙されているのだ。その契約書を見ろ。彼女は貴様を愛してなどいない。ただの『好条件の職場』として利用しているだけだ」
映像の中のエドワードは、勝ち誇ったように笑う。
「その女をこちらへ渡せ。さもなくば、王家への詐欺罪に加担したとして、貴様の辺境伯位を剥奪し、ヴォルガード領は王室直轄地として没収する。……もちろん、その際、領民たちの命の保証はない」
アイリスは、ゼノスの隣で拳を握りしめていた。
(……まさかこのような事態になるなんて。殿下は、私の知性を奪還すること以上に、ゼノス閣下を『正義』の立場から引きずり下ろそうとしている。……このまま私がここに居続ければ、閣下は『愛に目が眩んで国を裏切った大罪人』として、すべてを失うことになる)
「閣下……。この状況、現在の私の資産価値では、あなたに降りかかるリスクを相殺できません」
「アイリス、黙れ。お前の価値を計算しているのは俺だと言ったはずだ」
ゼノスは使者を追い払うが、アイリスの頭脳は既に「生存のための唯一の解」を弾き出していた。
その夜。アイリスは城のバルコニーで、広場に集まった不安そうな領民たちを見下ろしていた。
背後から、ゼノスが近づいてくる。
「アイリス。明日、俺は王都へ宣戦布告に近い抗議文を送る。お前を守るためなら、辺境伯の地位など……」
「……閣下、そんな非合理的なことはおやめください」
アイリスは、かつてないほど冷たい声で言った。
「あの契約書は真実です。私は、あなたの財を管理し、自分の地位を安定させるために、あなたを『利用』しました。仲睦まじい振る舞いも、領民への施しも、すべては私の『業務効率』を上げるための計算です。……愛などという不確かなものは、最初から一滴も含まれていませんわ」
「……嘘をつくな。お前のその目が、震えているぞ」
「……震えているのは、計算が狂うことを恐れているからです。……閣下、私はもう、この『採算の合わない職場』には飽き飽きしました。さようなら」
アイリスは一度も振り返らず、ゼノスの手を振り払って部屋へ戻った。
それは、彼を救うために自分を「冷酷な詐欺師」として演じ切る、人生最大の、そして最も悲しい嘘(演技)だった。
自室に戻ったアイリスは、一滴の涙も流さず、荷物をまとめた。
「……これでいい。私が『逃亡した詐欺師』になれば、閣下は被害者となり、地位も領地も守られる。……私が愛に溺れるよりも、彼が英雄であり続ける方が、はるかに期待値が高い」
アイリスは、かつて自分が整えた「物流の死角」を通り、闇に消えた。
彼女が残したのは、ゼノスへの愛の言葉ではなく、彼を「詐欺の被害者」として正当化するための、完璧な偽造証拠の山。
一方、アイリスの「裏切り」の言葉を信じられないゼノスは、彼女がいなくなった冷たい部屋で、床に落ちた一通の「契約解除通知書」を握りつぶしていた。
「……計算通りに、すべてを捨てて逃げたというのか。……ふざけるな。そんなに完璧に消えてみせたなら、俺がお前を『計算外の力』で見つけ出してやる」
愛ゆえの「失踪」と、愛ゆえの「覚醒」。
二人の関係は、事務的な契約を突き抜け、泥沼の、しかしあまりにも純粋な追走劇へと突入していく。




