第9話:新婚旅行(視察)
市場での勝利から数週間。ヴォルガード領の経済は安定したが、アイリスは新たな「懸念事項」を抱えていた。それは、辺境の最奥に位置する未開拓の鉱山村からの報告だった。
「閣下、現地の土壌データに不整合があります。書類上の数字と実態が乖離している……。これは現地で私の目による『実地監査』を行う必要がありますわ」
アイリスが真剣な表情で告げると、ゼノスは深く頷いた。
「分かった。だが、あの村へ行くには険しい山道を通る。護衛として俺も同行するが……周囲には『夫婦の親睦を深めるための旅行』として触れ回るぞ」
「えっ……親睦、ですか?」
「ああ。内政が安定した今、領主夫妻の不仲説を流されるのはリスクだ。対外的なブランドイメージの維持……お前の言う『合理的判断』だ」
アイリスは「合理的」という言葉に弱い。
「……確かに、一理ありますわね。あくまで視察の『カモフラージュ』として、仲睦まじい旅行を演じる……。承知いたしました、その業務、完璧にこなしてみせますわ」
こうして、二人はわずかな供回りだけを連れ、二人きりに近い状態での「視察旅行」へと出発した。
山道の夜は早い。
予定していた宿場が魔物の影響で閉鎖されており、二人はやむなく、道中の小さな村の狩猟小屋で一夜を明かすことになった。
小屋にあるのは、一つの大きな暖炉と、一つの古いベッドだけ。
「……計算外だわ。この気温、この間取り。閣下と私が物理的にこの距離で一晩を過ごす確率は、当初の予定では0.05%以下だったはずなのに」
アイリスは赤くなった顔を隠すように、必死に焚き火の火力を計算し始める。
しかし、ゼノスは落ち着いたものだった。
彼は濡れたマントを脱ぎ、逞しい上半身の輪郭が浮かび上がるシャツ姿でアイリスの隣に座った。
「計算に逃げるな。今は業務外……いや、これも業務か。お前の体温が下がれば、明日の行軍の効率が落ちる」
ゼノスはそう言うと、強引にアイリスを引き寄せ、自分の分厚い毛皮のマントの中に彼女を包み込んだ。
「あ……閣下、近すぎます! 鼓動の音が聞こえて……これでは私の思考ルーチンが正常に機能しません!」
「なら、機能させなくていい。……アイリス、お前はいつも『何かを成し遂げている自分』にしか価値がないと思っているようだが。……俺にとっては、ただ隣で眠っているだけのお前も、十分すぎるほど価値がある」
ゼノスの低く、熱を持った声が耳元で響く。
アイリスの頭の中の計算式が、火花を散らしてショートしていく。
契約、業務、合理性。彼女が自分を守るために築き上げてきた言葉の壁が、ゼノスの体温によって、音を立てて崩れていった。
夜中、ふと目を覚ましたアイリスは、暖炉の火を見つめるゼノスの横顔を見た。
彼は、戦うために鍛え上げられたその手で、アイリスの指先をそっと、壊れ物を扱うように包んでいた。
「……閣下、起きていらしたのですか」
「ああ。お前の寝顔が……あまりにも無防備で、目が離せなかった」
アイリスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
これまでは「役に立つから」側にいられた。
でも、もし自分がこの有能さを失っても、この人はこうして私の手を握ってくれるのだろうか。
「……閣下。私は、小賢しくない自分には自信が持てないのです。もし私が、ただの何の取り柄もない女だったら……あなたは私を雇いましたか?」
ゼノスは静かにアイリスを見つめ返し、初めて、契約上の「夫」ではなく、一人の「男」としての顔を見せた。
「……雇わなかっただろうな。最初にお前の知性に惚れたのは事実だ。だが、アイリス。今は違う。お前がどんなに無能になっても、お前が俺の側で『小賢しい理屈』を並べ続けてくれないと、俺の人生は計算が合わないんだ」
ゼノスはアイリスの頬に手を添え、親指で涙を拭った。
「俺はもう、お前を『有能な従業員』としては見ていない。……一人の女として、俺の隣にいてほしい」
「それは……契約違反、ですわ……」
「ああ、重大な違反だ。だから、新しい契約が必要だな。……解除不能の、永続契約が」
ゼノスの顔が近づき、アイリスは静かに目を閉じた。
二人の唇が触れる寸前、小屋の外で緊急を知らせる伝令の鐘が鳴り響いた。
「閣下! 夫人! 王都より特使が参っております! 至急お戻りを!」
現実に引き戻された二人は、弾かれたように距離を置いた。
アイリスの頬は林檎のように赤く、ゼノスは苦虫を噛み潰したような顔で天を仰いだ。
「……全く。間の悪い奴らだ。アイリス、今の話の続きは、王都のゴミ掃除を済ませてからだ」
「……ええ。私の計算では、その掃除にはかなりの『毒舌』と『理詰め』が必要になりそうですわ」
二人の間に流れていた甘い空気は、戦いの気配へと変わる。
王都のエドワード皇太子が、ついにアイリスを「返せ」という公式な使者を送ってきたのだ。
物語は、いよいよ二人の「絆」と「知性」が試される最終局面へと突入する。




