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第8話:市場の戦い

アイリスとゼノスの間に、契約を超えた信頼が芽生え始めた頃、ヴォルガード領の経済を揺るがす危機が発生した。


領地で唯一の交易拠点である市場に、王都から「王室御用達」を掲げる巨大商会『黄金の天秤』の会主、ドニ・マルセルが乗り込んできたのだ。


「辺境伯様、不毛な地の特産品を、我が商会が『一括で』買い取って差し上げましょう。もちろん、輸送コストを差し引いた『相応の』格安価格で、ですがね」


ドニは、肥え太った指に光る指輪を弄びながら、ゼノスを小馬鹿にしたように笑う。


彼はアイリスを追放したエドワード皇太子の後ろ盾でもあった。


ゼノスは不快げに眉を寄せたが、横に控えるアイリスは冷静だった。


彼女の脳内では、市場価格、物流ルート、そしてドニが裏で繋がっている王室予算の動きが、瞬時に一本の線で繋がった。


(……なるほど。王都の財政が底をつき始めたのね。だから、この活気づき始めた辺境の利益を、力ずくで吸い上げに来たというわけか)


「閣下、ここは私にお任せください。**『市場の適正化業務』**として処理いたしますわ」


アイリスのサファイアの瞳に、狩人のような光が宿る。


翌日、市場の広場で全領民が見守る中、アイリスとドニの直接交渉が始まった。


ドニは分厚い帳簿を広げ、いかに辺境の品に価値がないかを滔々と説く。


「奥様、残念ながらこの地の薬草は質が不安定だ。買い取ってやるだけでも慈悲というもの……」


「お黙りなさい、ドニ氏。あなたの仰る『質の不安定さ』とは、具体的にどの成分の含有率を指していますか? 先月、我が領の研究所(※アイリスが新設した)が出した分析結果では、王都市場に流通しているものの1.4倍の有効成分を検出していますが」


アイリスは、返り血を浴びぬほど鮮やかな手つきで、一通の報告書を突きつけた。


「さらに、あなたが提示した買取価格……。これは三年前の大寒波の際の底値ですね? 現在の王都での需要拡大、および隣国との関税撤廃を計算に入れれば、少なくとも現在の3.5倍が適正価格です。……あなたのその計算書、算術の初等教育からやり直してはいかがかしら?」


「ぐ……っ、小賢しい女め! 私は王室の代理人だぞ! 私を敵に回せば、この領地の物流を止めて干し殺してやることもできるんだぞ!」


ドニが激昂して叫ぶ。


領民たちが不安にざわめき、ゼノスが剣の柄に手をかけた。


だが、アイリスは冷笑を浮かべる。


「物流を止める? ……どうぞ。その瞬間、あなたが王都の貴族たちと交わしている『独占供給契約』が不履行となり、莫大な違約金が発生しますが……その損失、あなたの商会で補填できますの? 私の計算では、あなたはあと48時間以内に商品を確保しないと、破産確定のはずですが」


ドニの顔から血の気が引いた。


なぜ、外部には秘匿しているはずの資金繰りまでこの女が知っているのか。


アイリスは、彼が王都でエドワードと交わした「小賢しい契約の裏道」を、さらに小賢しい知性ですべて暴いていたのだ。


結局、ドニはアイリスの提示した「適正価格以上」の好条件を呑まされ、這々の体で逃げ出した。


領地にはかつてない富がもたらされ、領民たちは「アイリス様万歳!」と喝采を送る。


しかし、交渉を終えたアイリスの背中は、どこか寂しげだった。


彼女は城のバルコニーで一人、冷たい夜風に当たっていた。


(……また、やってしまった。相手を完膚なきまでに論理で叩きのめして……。私はやはり、優しさとは程遠い人間だわ)


「……また、一人で反省会か」


いつの間にか、背後にゼノスが立っていた。彼はアイリスを問い詰めるようなことはせず、ただ隣に並んだ。


「閣下。……私は、領民に怖がられていないでしょうか。あんなに冷酷に、人を数字で裁く私を」


アイリスが俯くと、大きな、温かい腕が彼女を横から抱き寄せた。


それは、契約の「10分間の接触」の時間でもなければ、演技が必要な場所でもない。ゼノス自身の意志による、不器用な抱擁だった。


「誰が怖がるものか。お前が戦っている姿を見て、あいつらは『自分たちの生活が守られた』と喜んでいる。……お前は冷酷なんかじゃない。一番、泥を被る役割を自分で引き受けているだけだ」


ゼノスは、アイリスの頭を自分の肩に預けさせた。


「アイリス。お前が誰かを数字で斬る時は、いつだって俺や領民を守る時だ。その『小賢しさ』が、俺は誇らしいと言ったはずだぞ」


アイリスはゼノスの胸の中で、小さく鼻をすすった。


「……閣下、これは業務外です。……残業代、高くつきますわよ」


「ああ。一生かけて、俺が払ってやる」


ゼノスは、腕の中の小さな体温を感じながら、ある確信を得ていた。


ドニのような下衆が彼女を侮辱することに、耐え難い怒りを感じる。彼女を王都に返したくない。彼女を、誰にも、一歩も、この場所から奪わせたくない。


「……アイリス、契約を書き換えるぞ」


「……えっ? 急に何ですか、もう眠いのに……」


「『甲は乙の所有物であり、乙もまた甲の所有物である』……という条項はどうだ」


「……っ!? それは論理的に言って……ええと、婚姻……ですよね? 重大な変更です、再計算が必要ですっ!」


真っ赤になって逃げ出すアイリスを、ゼノスは満足そうに眺めていた。


もはや「契約」は、二人にとって「恋」の照れ隠しでしかなくなっていた。

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