ミリー、迷子の鳥を保護する!?
喫茶店『Millie』はいきなり危機を迎えていた。
皐月の当初の目論見としては、『Millie』は普通の喫茶店として営業するつもりだったらしい。適度に店を開けつつ、一般客を受け入れ、その傍ら困りごとを抱えた異世界の住人向けの悩み解決をする。店としてそれでいいのだろうか、赤字がかさんで倒産するのでは……という未莉の疑問に答えてくれたのは意外にもギンだ。皐月の家は資産家だから多少の浪費は痛くも痒くもないし、扉の継続は一族の使命だから誰も何も言わない、とのことだった。確か千龍寺家は様々な事業に進出して、祖父・父・兄たちも各々経営者として活躍しているとネットのニュース記事で読んだことがある。
(だからってこんな……閑古鳥鳴きまくりでいいのかな……もっと宣伝とかしたほうがいいのかな……)
町外れに構えた店は外観や内装こそ当時のままとはいえ、長く時を止めていた古めかしさがあった。当時の空気のまま懐かしむことができるのは嬉しいが、せっかくなら新しい店に生まれ変わらせたい。今なら来店客も少なく、タイミングとしてはいいはずだ。皐月もいずれは店の手入れをしたいと思っていたらしく、改装については未莉に任せると言ってくれた。
そこで手始めに看板を塗り直し、ギンが気まぐれにつけた足形もそのまま味わいとして残した。次に手を付けたのは庭だ。雑草は定期的に短く刈り揃えていたようで、ひどく荒れた様子はないが味気ない。皐月も手伝うと申し出てくれたので、二人そろって軽装に着替え、スコップ片手に地面を掘った。小石を除けて新しい土と肥料を混ぜ、ホームセンターで調達したレンガを低く積んで花壇を作り、ハーブを数種類植える。植木鉢に月桂樹やオリーブの木を植え、あとは元から植わっていた季節の花が咲くのを待つことにした。
外観の修繕を終え、店内の什器を増やしたりリネン類を取り替えたりと慌ただしく作業を進めていたころ、近所を散歩する人から人へ、少しずつ口コミが広がっていった。長らくCLOSEの札が下がっていた店が、開店したらしい、と。
改装も終え、より温かみを増した店内は細く途切れぬ程度の客が訪れた。気に入った席に座って外を眺めながら本を読む人、おしゃべりに花を咲かせる人、気難しい顔をして携帯端末とにらめっこしている人――そよ風とはまた違った客層だが、それぞれが寛いでいる様子を見るのは好きだった。
当初の思惑が外れ始めたのは、一月ほど経った頃だ。異世界からの依頼はなく、二人と一匹はすっかり油断していた。現実世界の店舗が、まさか目の回るような忙しさになるなんて。特に目立ったメニューがあるわけでもないのに、と従業員一同首を傾げていたがすぐに理由が明るみになった。
猫のお化けが見える――という根も葉もないうわさが、SNS上を駆け巡っていた。それを見にやってくる人間が増えたのだ。実際のところ――暇を持て余したギンがふざけてほんの少し、周囲に『見える』力を使った結果、不思議な力にピントの合いやすい客の目に見えるようになってしまった。おまけに携帯端末の写真機能にまで力が伝播し、時折猫の形の白いもやが映り込む始末。皐月や未莉はもとよりギンの姿を見ることができたし、すべての客席の会話に聞き耳を立てているわけではないせいで気づくのが遅れた。
未莉も皐月もギンに構っていられないほど忙しい。それからというもの、ギンは不貞腐れて奥の部屋にこもるようになってしまった。
「アイスティー、好評でよかったですね」
隣に立ってグラスを磨く皐月が、アイスティーを準備する未莉の手元を眺めながら嬉しそうに言う。週に一度の開店の日、未莉はいつものようにカウンターに立って準備を始めていた。今日も忙しいだろうか、仕込みを多めにしておこう、など談笑する余裕が少し出てきた。
「一時はどうなることかと思いましたが、少し落ち着いてきてよかったですね」
「ええ、本当に。これで依頼も舞い込んできてくれたらありがたいんですがね……」
「か、改装も無事に終わりましたし! こっちのお客様もたくさん来てますし! そ、そのうちお悩み相談も来ますよ……!」
「あちらのお客さんに来てもらうことで扉が安定してくるので、もう少し来てほしいところですが……」
「お悩みがないことはいいことだと考えれば……!」
「ははは……ああ、そういえば未莉さん、これをお渡ししておきます」
手を止めた皐月が未莉に手渡したのは、ミニチュアサイズの銀色のスプーンだった。両の手のひらで受け取ったそれを、顔を近づけてよく見てみる。三センチ程のスプーンは、小さいとはいえ店で使っているものと大差ない精巧さだった。持ち手の先端にちいさなカンがついており、同色の細いチェーンが通されている。
「か、かわいい……!」
「未莉さんが初めてこの店でリテヴィさんにハーブティーを出したときのことを覚えていますか?」
「え、はい、もちろんです!」
「あの時、未莉さんが使ったティースプーンに魔法が宿ってしまったみたいなんです。悪いものではないのでそのままにしておいたんですが……知り合いに聞いてみたところ、お守り代わりになるらしいので持っていたほうがいいとのことです」
「は、はぁ……?」
「使い方は特に決められていません。強く願う、ただそれだけです」
「強く、願う……ですか」
「リテヴィさんに安らぎを与えたい、と強く願ったことであの一杯に未莉さんの願いが込められて、それが彼女に届いた。それがこのスプーンに宿った魔法です」
あまり大きなことはできませんが、と付け加えると皐月は手のひらから小さなチャームを取り上げて未莉の首へ取り付ける。触れたチェーンの冷たさに瞬間肩が揺れて、けれどすぐに体温に馴染んだそれは、なんだかずっと前からあったように未莉の肌に馴染んだ。
(あの時……紅茶が光ったような気がしたのは魔法、だったんだ。よくわからないけど……ちょっと、心強いかも?)
少し前にギンから忠告されたことを、未莉は不意に思い出すのだ。最高神の『眼』に見つからないように、と。結局あれ以来、話を聞こうとしてもギンにはぐらかされてばかりだ。おそらく話したくないのだろう。見えないものを警戒するのは難しいし、何よりも未莉は異世界のことをあまりにも知らなすぎる。この店の中で接客しているうちは、それほど危険なことはないだろうと思うことにしているし、何よりそんなことを気にしていられるほど接客に余裕がなかった。
「ん……? 未莉さん、何か聞こえませんか」
「はい? ……あれ、……鳥の、鳴き声?」
「扉を開けてみましょう」
布巾を置いた皐月がカウンターを出て、扉の前へ立つ。虹色の石は輝いていたが、以前のように光ってはいない。皐月もそれを見たのだろう、左にノブを捻って扉を開けてみるもそこには誰も立っていなかった。身を乗り出した皐月は周囲を確認し、音の出所を探ったがどうやらこちらからの音ではないらしい。閉じた扉に首を傾げ、それから驚いて店内の窓ガラスを指さした。
「……鳥が、いますね。まずいな」
「はっ……え、金色の、鳥?」
人間の赤ん坊程の大きさの鳥が、窓に張り付いている光景はなかなかお目にかかれるものではない。未莉は思わず一歩後退り、先ほど皐月から渡されたお守りに触れる。緑色の澄んだ瞳で店内を見渡し、金色の羽を押し付けてまるで中へ入ってこようとしているようにも見える。皐月は一歩、慎重に窓に近づいた。そのたびに金色の鳥は興奮して、羽ばたきを強くする。
「さ、皐月さん!?窓開けちゃうんですか!?」
「多分この鳥、異世界の生き物だと思うので……とりあえず店内で保護、」
「皐月さん!」
窓ガラスに皐月の指が触れた瞬間だった。それまでべったりと張り付いていた鳥の姿が消え、驚きの声を上げる間もなく再び現れた。皐月の、眼前に。突如現れた金色の物体を避けることなどできず、勢いよくバードストライクをかまされた皐月は、よく磨かれた床板に倒れ込んだ。
***
ボックス席に人間が二人、猫が一匹、鳥が一羽、顔を突き合わせている。
「で、こいつが窓から勝手に入ってきた、ってわけか」
「入ってきたと言いますか、すり抜けてきたと言いますか……」
「間抜けだな、サツキ」
「……うるさい」
床の上に大の字に転がる皐月と、ばたばたと羽を動かす鳥に未莉は完全にフリーズしてしまった。しかし衝突事故の音を聞きつけて、不貞腐れて奥の部屋に引っ込んでいたギンが飛び出してきたのが幸いし、一分後には何とか意識を取り戻すことに成功した。ギンが金色の鳥を宥めて落ち着かせている間、未莉は皐月に肩を貸して椅子に座らせる。したたかに打ったのはどうやら尻だけで、背中や頭は無事らしい。いてて、と痛む箇所をさすりながら鳥の首根っこを掴んで椅子に運ぶギンの様子を眺める皐月は、ひとまず意識もはっきりしていた。
ギンはにゃおにゃおと鳴き声を出して、鳥に向かって話しかけている。ピィピィキッギとそれに答えが返ってくると、ギンは対面している皐月と未莉に向かって訳す。
「なんかこいつ変だ」
「何がだ?」
「ところどころ言っていることがわからない。ノイズが邪魔して聞き取れないっていうか……」
「こちら側に来たせいで力が弱まっているからか?」
「う~ん……そういうんじゃねーと思う。何かに、邪魔されてる感じがする」
金色の翼を今はちいさく畳み、おとなしく着席している鳥は不安そうな緑色の瞳で二人と一匹を見回す。顎に指先をあてて、皐月は何事か考えている様子だ。ギンはちょいちょいと前足で迷子の鳥を宥めている。
「分かってるのはこいつが異世界の生き物確定ってことと、ここじゃない扉を使って現実世界に来たってことくらいか」
「扉って……ここ以外にもあるんですか?」
「基本的にはないはずです。でも……たまに無断で時空に穴をあけて、行き来している存在がいますね。俺たちはそういうことが起きた時、これ以上こちらとあちらが干渉しないように対処する役割も担っています」
「なるほど……あれ、足に何かついて……?」
ギンの前足パンチを避けようと、金色の羽が大きく広がって身体が宙に浮かび上がる。羽毛に埋もれていた枯れ枝のような足が露になると、未莉はその足首に何かが巻き付いているのを見つけた。皐月は驚かせないようにゆっくりと立ち上がり、鳥を誘導するように腕を差し出して抱え込むと、その足首を覗き込んで眉間の皺を深くする。
「……ギン、イメーを呼んできてくれ」
「おう」
ぴょい、と床に飛び降りたギンは迷うことなく異世界に続く小さな専用扉に向かっていく。くぐり抜けていくのを見守った皐月は、眉間の皺を何とか解そうとぎゅっと目を瞑り、それから未莉に向かってぎこちない笑顔を見せる。
「今日はお休みにしましょう。迷子の鳥をあるべき場所へ帰してあげないといけません」
「皐月さん、あの、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。この手の問題はいつか起こると思っていましたから……なんとかなります、きっと」
皐月の腕に留まった鳥は金色の羽を広げて止まり木をやさしく包む。応えるように笑った皐月は、もう平時と同じに戻っていたけれど。未莉の胸のなかはざわざわとうるさく騒いでいた。
***
扉についた虹色の石が輝いて、きしむ音をさせながら現れたのは灰色のローブを頭からかぶった人間だった。その足元には先導するようにギンがいて、不審者ではなさそうだ。未莉は無意識に触れていた小さなお守りから手を離し、立ち上がって来訪者を迎える皐月に視線をやる。
「密猟で間違いないね。面倒ごとを引き寄せるところはサツキらしい」
頭部を覆うローブをふわりと脱いだ中身は、日に焼けた肌にきりっとした濃い眉が印象的な男がいた。顔を覆って入ってきた時は怪しげな雰囲気だったが、実際のところ、男は太陽を思わせた。皐月が振り返り、金色の鳥を抱いたままの手で未莉を手招く。
「引き寄せたくてしてるわけじゃない……イメー、紹介したい人がいる。未莉さんもこちらへ来てください」
「は、はい!」
呼ばれるままに皐月の隣へ歩み寄り、イメーと呼ばれた男と対峙する。くっきりとした二重の奥にある紺色の瞳は、まとう太陽のイメージとは真逆の夜を思わせた。不意に足元にふわふわとした感触があり、ちらりと視線を下ろすと案の定、ギンが足の間をうろうろと歩いている。それから燃えるような金色の瞳で未莉を見つめ、ひげを上下に揺らす。
『こいつがこの前話した双子の片割れ、エルファージュで育った兄貴の方の子孫だ。サツキとは遠い遠い遠ーーーーーーい親戚ってわけだ』
(な、なるほど!?)
頭の中で響くギンの声に、うまく返事ができたのか分からないが、イメーはギンの行動を注意深く見ている。もしかすれば魔法使いは、声にならない声も聞き取れてしまうのか、そんな考えが未莉の頭の中を過る。けれどイメーはすぐに皐月へ視線を戻し、紹介を受けると共に未莉へ向かってちいさく礼をした。
「こちらはイメー。魔法使いを生業にしています。エルファージュの生き物や神秘に詳しいので頼りにしていますが、少々ルーズなところもあります」
「どうも」
「は、初めまして十岐川未莉と申します……えーと……」
「こちらはミリーさん。うちの店を手伝ってくれている。ギンのことも見える」
「なるほど~……」
イメーは距離を保ったまま、未莉の全身をさっとなぞっただけですぐに皐月の腕に抱えられている鳥へと視線を移す。額を指先で掻いて大丈夫だよ、と声をかける横顔は人に向けられるそれよりもずっと優しそうに見えた。イメーは足首のタグに視線を落とし、掘られた刻印を眺めて言った。
「能力を封じる呪具の一種だね。ギンがうまく会話ができないと言っていたけど、これのせいじゃないかな。無理に外すと取り付けた個体からエネルギーの全部を吸い取ってしまうから、首謀者をとっ捕まえないとだ。異論は?」
「ない。イメーとギンはエルファージュ側から扉を探してくれ。俺と未莉さんはこっちで扉を探しましょう」
「はい……!」
***
皐月と未莉は店の裏手側に広がる森に足を踏み入れていた。現実世界にある扉からやってきたことは間違いなさそうだが、肝心の手掛かりはない。しかし足に着けられた呪具の効果で、あまり長く飛べなかったはずだ。ひとまず人目から隠れやすく、見つかりにくい森の捜索から始めることにした。
「扉、と言っても本当に扉のかたちをしているわけではないと思います。穴のような場合もあるでしょうし……なかなか見つけるのは難しそうですが頑張りましょう」
「はい!」
森の入り口こそ木々は疎らでまだ明るさがあったものの、奥へ進むほどに辺りはフィルターをかけたように暗く澱んでいる。明るい木漏れ日のなかで聞く葉の擦れ合う音は、あんなにも心地よいのに――この暗がりの鬱蒼とした緑の中でひそひそと囁き合う植物たちと、どこからともなく移動するちいさな生き物たちの気配が、二人の周りにじっとりと纏わりつく。互いに言葉もなく、慎重に真剣に木々の間を、草の生える地面を見つめている。日差しの暑さはなく、どちらかといえばひんやりとした湿度のある空気が、薄っすらと未莉の肌を濡らす。それらがまた奇妙に恐怖を呼び、皐月の姿をつい目で追ってしまう。
「イメーは千龍寺家の遠い親戚なんです」
そんな未莉の気持ちを知ってか知らずか、沈黙を破ったのは皐月だった。未莉は辺りを見回すのをいったんやめ、足を止めた皐月の言葉に耳を傾ける。猫になってしまった時、ギンから聞いた昔々の話はどうにも本当らしい。薄暗い空間の中に浮かび上がる柳の木を思わせる皐月の立ち姿が、消えてしまいそうに揺れる。
「……もうずっと昔のことで、今のオレとイメーたちに血のつながりがあるかどうか怪しいのですが……それでもエルファージュに根を張ったタクール家と千龍寺家は共に扉を見守ってきたんです」
「千龍寺家の皆さんはずっと扉を守ってきていると、ギンさんが言っていました」
おそらくギンは、昔の話を未莉にしたのだと皐月へ伝えたのだろう。静かにうなずいた横顔は穏やかに見えて、初めて喫茶店で見かけた時のような冷たさを感じる。
「異世界側の扉はずっと同じ場所にありますが、現実世界の扉は一族に新しい子が生まれるたびに新しいものへと変わるんです。生まれてきた子が相応しい人間かどうかを見定めるのがギン、とかつてギンだったものです」
「ギンさん、だったもの?」
「言っていませんでしたか? 枝を盗んで鍵を作った、と」
商いの女神は最期の力を振り絞って、神の庭から枝を盗んで扉を閉じるための鍵を作った。ギンは確かにそう言っていた。喫茶店の扉についている鍵はきっとその時の枝から作られたもので、つまり――?
「先祖が誤って切り開いてしまった時空を閉じるために使役している、それがギンたち精霊です。精霊たちに固定の姿はありません。たまたま最初の姿は大樹であり、次に鍵になり、……ここ数代はずっと猫らしいです。どんな姿になろうとも、記憶はずっと継承されて今に至ります」
「あ、だからあんなに昔のことを……」
「ええ。千龍寺家に生まれついた人間には『緒』という力が備わっていて、精霊たちはそれが強いかどうかで扉を守れる素質があるか判断する。父にはそれがなくて、兄たちにもなく、たまたまオレにあったから……ただそれだけの理由で扉守りをしているんです」
長らく下を向いたままの皐月の視線が、ふわりと未莉の元へ戻ってくる。冷たい色はすっかり溶けて、いつもの捉えどころのない瞳に戻っているけれど。かける言葉を見つけられないでいる。未莉はまだ皐月を、皐月が背負ってきたものを、皐月が成し遂げようとしていることを知らない。それに――皐月はまだ、踏み込んでこないように心を隠しているように思う。それらはすべて過去の自分自身に当てはまり、そんなときにできることはただ、普通に接することだけだと知ってもいた。
「嫌だとか、そういう気持ちはありません。けれど……たまに思うんです。オレの次にこの役目を負う人間も、ギンたちも、自分の人生を生きられないなって。だからオレで、終わらせたいんです。扉の秘密を調べて、オレの代で扉守りを終わらせたい。そのためにも、未莉さん、あなたの力が必要です」
「私にできることならなんでも! 皐月さんとギンさんと、喫茶店をやっていきたいですし!」
腕を上げて肘を曲げ、力こぶを叩いて見せる。おおよそ喫茶店には必要なさそうな力のアピールだが、ぱっと驚いた顔をした皐月が、息を吹き出して小さく笑った。力の抜けた皐月の笑顔は、冷たさや寂しさもない、たんぽぽのように和やかだった。
「やっぱりあなたが来てくれてよかった。未莉さん、ありがとう」
「い、いいえ、私はまだ何も……! わ、わっ……!」
「未莉さん!?」
できることならなんでも、と言ったばかりなのに。一歩前へ足を踏み出した場所に、地面はなかった。足裏を跳ね返す感覚がなかったのだ。思わず引っ込めた反動で、未莉は草むらに尻餅をつく。慌てた皐月に、咄嗟に手を突き出して大きく左右に振る。
「ここ、この辺に穴があります! 気を付けてください!」
「……未莉さん、ありましたよ」
「え?」
皐月は慎重に近づいて、未莉に手を貸して立ち上がらせる。それから足を着き損ねた場所を探すように膝をつき、掌で枯葉を払う。そこには大人が一人入れるサイズの穴が空いており、上に目の細かいネットを張って上から落ち葉で隠していた。そっと穴の上に顔を寄せてみると、奥のほうからチッチ……キィキィ、グルル……何か動物の鳴き声や息遣いが聞こえてくる。
「皐月さん、これって」
「そうですね。このネットにも何か仕掛けがあるのかもしれません……この奥におそらく……、未莉さん、危ない!」
穴を挟んで向こう側にいた皐月の表情が、瞬く間に険しくなり、膝立ちになり……叫ばれた言葉の意味を理解しようと振り返って、未莉は身体が強張った。黒い影が今まさに覆いかぶさろうとしていた。どうすることもできず、未莉はぎゅっと身を縮こませ、目を閉じた。