ミリー、猫になる!?
『そよ風』は変わらず優しい佇まいで、未莉を待っているようだった。不思議な一日を終えた未莉は、浮かれた気持ちのまま皐月に続いて車を降りる。ほんの数時間前まで、未莉はこの場所でのんびりとアルバイトをして、いつもと変わらずに紅茶を淹れていたのに――銀色の猫に導かれ、気づけば両親との思い出の場所へと戻ることができた。記憶の中の喫茶店はなぜだか異世界と繋がっているし、うさぎの耳が生えたお客様をもてなすことになったり、分からないことだらけだった。それでも今の未莉の心はわくわくで満ちていた。こんなにも胸が踊って、そんな自分に驚くほどだ。
不安な気持ちを抱えて出ていった店の扉を、今度は軽やかにくぐり抜ける。早めに営業を終えた様子の店内には寺田がいて、おかえり十岐川さん、と迎えられると不意に胸がツンする。
(皐月さんのお手伝いはこれからも続けたいけど……そよ風を辞めてしまうのは、嫌だな……)
この場所も、未莉にとっては帰るべき場所。例え異世界だとかしゃべる猫だとか、不思議な出来事に胸を弾ませていても、やっぱりこの店から離れたくない。未莉は胸に沸き起こる願いに戸惑った。
皐月、ギン、それから未莉の二人と一匹はボックス席に座り、そこに寺田が加わった。今日のことを報告するように、皐月は静かに話し始める。
「マスター、突然のお願いを聞いていただいてありがとうございました。無事に最初のお客様をもてなすことができました。未莉さんと、マスターのお陰です」
「いえいえ。千龍寺のおじい様にはこの店を建てるときにお世話になりましたから。うまくいったのは皐月さんの準備の賜物、それから突然のことにも真正面から向かっていく十岐川さんの勇気があったからです」
「確かに。初めての環境でもこちらの無茶ぶりにしっかり応えてくれましたし……未莉さんはどうでしたか?」
「あ、あの……すごく楽しかった、と言ってしまっていいのかわからないですが……。両親のお店にまた戻れたことも、ここの常連さん以外のお客様に喜んでいただけたのも、とても嬉しかったです。そ、それで……マスター、皐月さん、あの……お願いがあります!」
未莉は膝の上でぎゅっと拳を握った。今まで、何かを強く欲しいと思ったことも、やり遂げたいと思ったこともない。大切なものを手に入れることを、未莉は無意識に遠ざけてきた。けれど今、生まれて初めての感情に突き動かされて、未莉は二人に思いの丈をぶつけることにした。
「私……皐月さんのお手伝いを続けたいです。でも、そよ風も辞めたくないんです。ここは、私にとっても大事な場所で、それで、あの……」
「僕にも、このお店にも、あなたの力が必要です。それは千龍寺さんも理解してくださっているよ」
「もちろんです。……そうですね」
顎に指先をあてて、皐月は言葉を止めた。すると、今まで静かに皐月の膝の上で丸くなっていたギンがのっそりと起き上がり、とてとてとテーブルを横断し始めた。当然、寺田にはギンの姿は見えていない。声をかけるわけにもいかず慌てる未莉をよそに、ギンは未莉の膝の上へと飛び降りるとくわぁと大きく一つあくびをして寛ぎ始めてしまった。
(ギ、ギンさん……! 一体何を、)
視線を膝へ向けると、銀色の毛並みがゆっくりと上下しているのが見える。ギンの身体が、握りしめていた拳を覆い隠す。寝息と長い髭が規則的に肌をくすぐり、未莉は初めて自分の手が震えていることに気が付いた。あたたかいギンの体温、やわらかな毛の感触、膝に乗った重み。不安に満ちて冷えていた身体が、いつものように温度を取り戻していく。ギンは口が悪いし、態度も素っ気ない。けれどこんな時、未莉の不安を放っておかずに寄り添ってくれるやさしさがあった。
「まだ扉は安定していないので週に一度、そうですね……今日と同じく土曜日、一日だけ未莉さんをお借りするというのはどうでしょう? もちろん、未莉さん不在の日はうちから手伝いを出します」
「それは助かります。十岐川さんはどう? 二つのお店で働くの、大変じゃないかな?」
とん、とギンの尻尾が未莉の腕を軽く叩く。燃えるような金色の瞳が二つ見上げてきて、さっさと返事をしろ、とばかりに睨んでくる。睨まれたってちっとも怖くはなかった。これはギンなりの愛情表現、未莉の不安はすっかりどこかへ消えていた。
「いえ、大丈夫です! ……どちらのお店でも頑張ります!」
寺田と皐月が同時にうなずいて、ギンはぴょいっと床へと飛び降りて指定席である皐月の膝へと戻った。大好きなそよ風にも残れる、新しい喫茶店でも働ける。未莉はようやく心から安堵して、その日一番の吹っ切れた顔で笑うことができた。
***
慌ただしく一週間が過ぎていった。叔父夫婦には寺田の知り合いの店を週に一度手伝うことになった、と伝えた。いつか落ち着いたら二人を招いて、両親の話をしたいと思うけれど、今はまだ未莉の知らないことが多すぎてうまく説明できない。少しの罪悪感はあるが、金曜日の夜になる頃にはドキドキして眠れないほど楽しみが膨らんでいた。
未莉の新しい職場である喫茶店『Millie』へは、皐月の車で向かうことになった。『そよ風』の前で待っていて下さい、迎えに行きますので――先週の別れ際、皐月に言われた通り、未莉は店の看板の横に立っていた。しかし現れたのは以前と同じ黒い車であったが、シートに丸まっていたのはギンだけだった。
『後から向かいますのでギンと先に店へ行ってください』
タイミングを同じくしてポケットの中の端末が震え、そこには皐月からのショートメッセージが届いていた。未莉は開いたドアから運転手に声をかけ、どこにも傷をつけないように慎重に乗り込む。うっすらと瞳を開いたギンは、前足で顔をこすりながらじっと未莉を見ている。
「えーっと……」
「普通に話して大丈夫だ。気にしなくていい」
「じゃあ、えーっと……こんにちは、ギンさん」
「おう」
静かに走行する車内にまたもや沈黙が落ちる。ギンと話すのに緊張することはないけれど、運転手はおそらくギンの存在は知っていても見えていない。ということは何を話しても、未莉が一人で話していることになってしまう。
(それは少し恥ずかしい……ような、……ううん、どうすれば)
自由気ままな銀色の塊は未莉の心の内など知らぬ顔で、のっそりと柔らかな身体をしならせて未莉の膝の上へ移動する。器用に未莉の腕の下へ頭を潜り込ませたギンは、さっさと撫でろと言わんばかりに小さな頭をぐりぐりと動かす。くすぐったさに笑いをこらえ、指先で額を掻いてやる。それから耳の後ろ、背中へ抜けていくように撫ぜると気持ちよさそうにぐるるると喉を鳴らす。
「ギンさん、本物の猫みたい」
燃えるような金色の瞳が、さらに輝きを増して未莉を見上げる。前足を立て、それから未莉の服に爪を引っ掻けるようにして顔を近づけるギンは、ひどく真剣な顔をしているように見えた。
「ミリー、正直に答えろ。オレが何か違うものに見えたのか?」
店に皐月と共に来ていた時からずっと、ギンのことはただの猫だと思っている。人の言葉を話せるからといって、滑らかな毛並みやぴんと尖った三角の耳に長い尻尾はどこからどう見ても猫だ。ギンは未莉の何気ない言葉に、何を感じ取ったのだろうか。どう答えるのが正解なのか分からない、けれど追い詰めるような気迫でせまってくるギンを誤魔化してこの場を切り抜けるのは難しかった。
「え、えーと、違うものというか……猫は猫だけど、人間の言葉が喋れるし……寺田さんも、ほかのお客さんにも見えてないし……だけど私には猫に見えますし……こうやって撫でると喉を鳴らすところとか、改めて猫だなと…… 」
「本当にそれだけか?」
「は、はい! ギンさんは正真正銘、猫にしか見えません! 」
疑わしいものを見るときの目つきがしばらく続いたものの、ギンは未莉の言葉を信じたようだった。爪を納め、再び未莉の膝の上で丸くなる。何がギンのなかで引っかかったのだろうか、未莉は窓の外の景色と静かに呼吸を繰り返す銀色の塊を交互に見つめてみる。確か――最初にこの車に乗った時、皐月が言っていた。ギンは猫の姿をしていますが精霊に近い存在です、と。
(精霊、ってどんな姿なんだろう……? 元は猫の姿じゃなかったってこと、だよね? ……皐月さんは見たことがあるのかな)
窓の外はすっかり緑の多い場所を走っている。あと五分もすれば喫茶店に到着するだろう。未莉は膝の上で眠ってしまったギンのことを考える。ギンは何を知りたかったのだろう、未莉に何を期待したのだろうか。燃えるような金色の瞳を思い返しても、その奥にあるものには届きそうにもなかった。
***
「あ、」
車を降りて短い石畳を歩き、喫茶店の扉の前に立ったところで重大なことに気が付く。店の鍵は皐月が持っている、ということに。皐月からの連絡はまだないし、到着には時間がかかるだろう。どうしたものか、と頭を抱える未莉のもとに喫茶店の周りをぐるりと歩き終えたギンが戻ってきた。
「そんなとこに突っ立ってどうした?」
「ギンさん! 実はお店の鍵をまだ貰っていなくて……」
「……そうか。ま、仕方ねーな。あっちにベンチがあるから座って待ってればいいんじゃねーか?」
「ベンチ?」
ついてこい、そういわんばかりに尻尾を巧みに揺らしたギンの後ろを着いていく。子供の頃の記憶はあいまいだが、店の裏手にベンチなんてあっただろうか。未莉は古い思い出を掘り起こしながら、砂利の敷き詰められた道を行く。木の作る陰のあいだを縫って、銀色の毛並みは迷うことなく進む。
「ほら、あそこだ」
「本当だ……昔は、確かなかったと思うんですけど……」
「そうなのか? オレたちが来た時にはあったけどな」
店の外周を半分回ると、確かに古ぼけた木のベンチが置いてあった。大人四人が楽に座れるだけの、大きなベンチだ。軽やかに座面へ飛び乗ったギンが、そのやわらかな尻尾で隣に座るように促す。未莉はベンチの質感を確かめるように掌で触れ、それからゆっくりと腰を下ろした。
「風が涼しくて気持ちいですね。ここにも客席を作って外でお茶を楽しむのも良さそう……」
「だーめだ。ここは従業員専用の休憩所にする。オレの特等席」
早朝の光のなかで、銀色の毛並みがきらきらと光る。鋭い牙をむき出しにして大きなあくびを一つすると、ギンは遠慮なく未莉の膝の上へと飛び乗って目を閉じて丸くなってしまう。猫は他者のことなどお構いなしで、自分のやりたいように生きているらしいというのは知っていたけれど。
(精霊さんも似たようなもの、なんでしょうか?)
時々強く吹く風と葉の擦れ合う音、鳥の羽ばたき。昨日の夜、また不思議な喫茶店へ行けるのかと思うと子供のようにドキドキして眠れなかった。今になって落ち着くと、目の奥からゆっくりと眠りの波が押し寄せてくる。どうにか皐月が来るまで意識を保っていなくては、と眠ってしまったギンを起こさぬように、未莉は傍らに置いたリュックから水筒を取り出す。カップ付きの水筒には、今日、店で試飲してもらおうと作ってきたアイスティーが入っている。皐月が来る前に少しだけ――中栓を開けて、コップに琥珀色の液体を注ぐ。熱い紅茶ほど強くないが、香りもしっかりと残っている。水色を日の光に翳して、濁りがないか確かめるように中身をゆっくりと回し見る。
(あれ……? 今、何か光った……?)
光の加減でそう見えたのかもしれない。未莉は浮かび上がった疑問をすぐに頭の隅へと追いやり、しかし慎重に顔を寄せ、中身を覗き込む。そこにはただのアイスティーが満ちているだけで、異変が起きているとは思えなかった。
(気のせい、かな?)
未莉はコップに口をつけて、アイスティーを一口含む。渋みも少なく飲みやすい、これなら皐月にも自信をもって出せる、だなんて考えていた。しかしすぐに考えを改めるはめになった。
「冷てぇな……!」
「ど、どうしよう~~~~!!」
「んだよ、って何してんだお前」
アイスティーを一口、飲み干した瞬間だった。身体の内側から強い風が吹いて、空気を入れすぎた風船が破裂するようなそんな感覚が未莉を襲った。なすすべもなく破裂した身体は、次の瞬きには茶色の体毛に覆われていた。指先は丸くなり、視界が急に低くなる。手を失って転がったカップと、上に乗っかっているギンの重みがすべてを物語っているようだった。
「猫になってしまったみたいです……」
「……ん? ああ、これのせいか」
ギンはのっそり未莉の上から退いて、ベンチの下へと落ちたコップを咥えて戻ってきた。前足でついと差し出されたその中身は既に空になっているが、底にうっすらと金色の粒が見える。
「妖精の仕業だな。そうか、ここは妖精の庭だったのか……居心地がいいはずだ」
「ここに妖精さんが住んでるってことですか!?」
「多分な。見た目が派手な悪戯が多いが、力はそんなに強くない。しばらくしたら戻るから安心しろ」
金色に光ったあの時、妖精に悪戯されていたというわけだ。すぐに戻ると言うのなら、しばし猫の姿を楽しむのもいいかもしれない。異世界に連れていかれたあの日から、未莉は大抵のことでは驚かなくなっていた。むしろ子供のころに閉じ込めてしまった、自分の中の好奇心が刺激されてどんなことでもわくわくしてしまう。茶色の毛並みはふわふわで、ギンのそれとはまた違う感触だが悪くない。見よう見まねで顔を拭ってみたり、前足を舐めてみたり。しっぽは自然と揺らめいてしまうようだけれど、自分の意思でも動かせるようだ。ぱたぱた、ふりふり、自由に動かせるのは不思議な気分だ。
「お前どんどん慣れてきてるな」
「楽しんだもん勝ちかと思いまして……」
「じゃー散歩でも行くか」
「行きましょう!」
同じ目線の高さにいるギンが、にやりと笑って未莉を誘う。ここは猫の先輩の誘いに乗るのがいい。銀色の尻尾が先導するようにベンチから飛び降りる。人間の時よりもずっと高く感じるが、意を決してぴょんと身体を跳ねさせてみる。そうして浮いていた約一秒間で、まず跳ねる必要はなかったと後悔した。
「おわああっ……は、はぁ……!」
うまく衝撃を受け流せない未莉の身体は、重力に従ってぺしゃんと草の上へ落ちる。痛みはないが、猫の身体があればイメージ通りにできるわけではないことは理解できた。何事も挑戦しなくてはわからないものなので、良しとする。
「猫になってもどんくせーな」
ギンから飛んでくる罵倒の一つや二つ、三つや四つ、それすらも今の未莉の耳には通り過ぎていく音にすぎない。置いていかれぬように、ギンの尻尾めがけて必死についていく。二本の足で歩けば大した距離ではないのに、喫茶店の玄関口にたどり着くのも果てしなく感じる。
「ミリー。ここを通って中へ入るぞ」
「これって……」
「そう。オレ専用の扉」
正面扉向かって右側に、よく見なければ気づかないほどの小さな扉がある。それは猫用の出入り口、といえばそうなのだろうが、猫さえ通れるのか心配になるほど小さかった。
「ギンさん、ここ本当に通れるんですか? 小さすぎません? それにお散歩するんじゃ……」
「いいから。通れる、と思って頭を突っ込め。それから前足で踏んばって身体を押し込め。それでいける」
「力技すぎませんか……!」
小さな扉は、上部の一辺に蝶番がついているタイプだ。確かに頭で押して、身体を捻じればいけないこともないだろう。実際、ギンは手本を見せるように頭で扉を店側へと押して、ゆっくりと身体を潜り込ませてしまった。
「通れると思っていけ。駄目かも、なんて考えるな」
「は、はい!」
扉の向こう側からギンのアドバイスが聞こえる。無様に落ちたり、四本足で歩く難しさに打ちのめさている場合ではない。未莉はふん、と息を吐いて慎重に扉へ額をつける。そもそも猫の頭の横幅ギリギリの入口だ、どう考えても耳やその先の身体が通過できるとは思えない。けれどギンの言う通り、できるイメージを必死に思い浮かべて頭をぐいぐいと押し込む。
(入れる入れる入れる……! 絶対入れる……! 大丈夫できる!)
目を閉じて必死に願いながら身体を前進させると、急に扉の入り口がやわらかく変形するような錯覚を覚える。目を開こうとして、やめる。目で見えてしまうと、余計な雑念が混じりそうだ。入り口がどうなっているのかはわからないが、どうやら未莉の猫の身体に沿って広がっている、ような気がする。弾力のあるグミの真ん中を通るような窮屈さはあったが、どこかが詰まることもなく、心配とは裏腹にあっけなく通り抜けてしまった。
「あ、あれ……?」
「通れると思えば通れるようになってるんだ。扉なんてそんなもんだ」
「そ、そうなんですかね……?」
「今度はこっち側から出るぞ」
見上げた店内は前回と変わった様子はない。ただ、未莉の身体が小さくなってしまったせいで、すべてが大きく感じる。きぃきぃと鳴る床板も、猫の足さばきではすっかり静かだ。ギンは扉を挟んだ向こうについている、同じく小さな猫用玄関の前に未莉を案内する。そちらの扉には、喫茶店の内側の鍵下と同じ模様が描かれている。
「この鍵? の模様は、あれと同じですね」
「そうだ。これがあっちとこっちを繋いでる、鍵だ」
さっきと同じようにやれよ、ギンはそう言い残してさっさと扉から出てしまう。大樹を思わせる抽象化された模様に頭突きするのは躊躇われたが、外から急かす声に誰にともなく未莉はすみません、と内心謝罪して先ほどと同じように扉を通り抜ける。刹那、初めて異世界のお客様を迎え入れたあの時と同じように強い風が未莉の全身を通り抜けていく。次に目を開けると、一週間前に見た光景が確かに広がっていた。やはりあの時と同じように、未莉の身体は金色の毛並みに覆われていた。
薔薇のアーチが連なる石畳の小径はなだらかに下っており、両脇には高低さまざまな木が思い思いに枝を伸ばしている。遠いところで人の話し声、金属が触れ合う音、賑やかな足音、香ばしい食べ物のにおい。嗅覚や聴覚は以前よりも研ぎ澄まされているのだろうか、あの時よりもずっと鮮明に異世界の生活を感じる。
「ミリー。こっちだ」
「は、はい!」
夢や幻ではなく、目の前に広がる世界は、未莉が普段生活している世界とは違うものだ。もっと知りたい、駆けだしそうになる足はギンの言葉に止められて店の裏手側へと入っていく。
小さな木製の梯子が屋根に向かってかけられている。ギンは未莉を振り返りそれから、登るぞ、と言った。あまりに頼りないそれを、ギンは何でもないという足取りですいすい登ってしまう。猫初心者の未莉にはハードルが高そうだ。けれどここでおいていかれるわけにもいかない、未莉は一つ目の木の板に前足をかけ、続いて後ろ脚を載せる。それからまた一つ上の板に足をかけて、を繰り返して徐々に登っていく。ギンは何段も飛ばしてぴょいぴょいと駆け上っていったが、真似したところで落ちるか挟まるかのどちらかだろう。
(ゆっくり……ゆっくり、わっ……だ、大丈夫よ未莉……できる!)
さきほどの扉ではないけれど。自分に言い聞かせ、少しずつ登っていく。やがて屋根の青い色が見え、それから真ん中で寛いでいるギンの姿が現れる。振り返り下を見ると、足が竦んでしまいそうになる。慌てて視線を空に向けて、わずかに震えている四本の足で屋根の中央まで足早に進む。
「遅い」
「さすがに梯子で急ぐのは難しいです……!」
瓦の上を進んでギンの隣に腰を落ち着ける。ぱっと視線を遠くへやると、可愛らしい街並みが広がっていた。家々がひしめき合い、商店や広場も見える。大通りは賑わって、人や馬のような生き物が行き交っていた。異世界での店は小高い場所にあるようだった。ずっと遠くまで視線を向けると、ひときわ大きな城が見えた。あれは、と未莉は前足で城を指し示す。
「この国を治める王族と、この世界の始まりの神が今も留まっているのがあの場所だ」
「神様は……あの、森みたいなところに住んでいるんですか?」
天を衝くように、灰色とくすんだ白い外壁の城は聳えている。城の周りには庭というには大きすぎる緑色の部分、それから外周を囲むように壁が張り巡らされている。さらに驚いたのは、城の一番高い場所を大きな森が取り囲んでいるのだ。
「まあ……そうだな。ここからだと城のてっぺんから生えているように見えるが、実際にはあの後ろに神の森があって、そこに植わっている神木だ」
「なるほど……」
「最高神エルファージュは人や動物、世界のあらゆるものを造り、育てて、世界へと解き放った。自分に代わって人の世を導くために、多くの神を生み出した。サツキの先祖も、元は最高神を父とする神の一柱だった」
昔話を子供に読んで聞かせるように、ギンは普段のぶっきらぼうな調子のまま未莉の背を尻尾であやして続ける。
――神がそこかしこにいた時代の話だ。商いの神として生まれた女神がいた。商いの神、といえば今でこそ祈り願われる存在だが、当時は農耕が主な産業だったから、存在意義の薄い神だった。おまけに不器用で力もそれほど強くない。すぐ上の豊穣の神などからは遠回しに嫌味を言われ、仲違いしていた。ある日、商いの神が森を歩いていると古い納屋を見つけた。もう使われていないそれに、何を思ったか自分の祭壇を造ろうとした。商いの神を信仰し思い願う人間は少なかったからな、何とか自分を保つためにできることをやろうとした。けれど……うまくいかなかった。納屋の前にあったちいさな石ころに躓いて、思い切り古い木戸に突っ込んでしまったんだ。さらに運の悪いことに、商いの神の右手には神たる証の宝剣を持っていた。宝剣は扉に突き刺さった。剣先は時空を切り裂いて、扉は別の世界と繋がってしまった。それが始まり。宝剣には神の力のほとんどが詰まってたから、時空を切り裂くなんていう大技を繰り出したせいで、商いの神の力はますます弱くなってしまった。そんなとき、扉の向こう側から男がやってきた。ミリーたちが住む世界の人間だな。商いの神は男と番になって、双子を産んだ。もうほとんど神の力は残っていない。だから最後に、神の森の神木から枝を盗んで鍵を作った。こちら側とあちら側が勝手に出入りできないように。男と子供に扉を託して、商いの神は去った――。
「そんな……! あれ、じゃあ双子の赤ちゃんはここで大きくなって……?」
「いや、一人はこちらの世界に。一人は男と一緒に向こうの世界に。扉を両側から守るためにな」
ギンが右の前足を持ち上げ、ぐるりと円を描く。軌跡には白い霧が生まれ、やがてそれは二つの扉の形になった。片方には喫茶店の扉に描かれている鍵の模様、片方には何の印もない扉。二つの扉の間には先ほど見た大樹の鍵が描かれていて、凸凹のある差し込み部分が異世界の扉の方へ向いている。
「その鍵を……今でも守っているのが千龍寺家……皐月さん、なんですか?」
「サツキの一族はずっと同じことを繰り返して、あちら側とこちら側を行き来してバランスを保とうとしてる。……そんなこと、しなくたっていいのにな」
「しなくてもいい、ってどういう、」
「とーにーかーく! 今この話をしたのはお前にも危機意識を持ってほしいからだ」
尻尾で風を起こして霧を払うと、ギンは先ほどまでの語り部の顔を捨て去っていつもの粗野な空気を纏う。これ以上の質問も詮索も受け付けないという、そんな態度だ。幼いころから覚えのある感情だ、未莉は黙ってギンの言葉の続きを待った。
「最高神の庭から枝を盗んだだけじゃなく、違う世界への扉を開いて、おまけによその世界の男と子供まで作った……そのことを隠すためにオレたちはずっとずっと、何代も馬鹿げた扉守りを続けてきた。オレたちはそのために切り離れて、ん?」
ぴくりと銀色の耳が動く。もちろん未莉の耳にも聞こえた。誰かの足音、おそらく皐月のものだろう。すくりと立ち上がったギンが、尻尾を振って未莉を促す。もう昔話は終わり、ということなのだろう。
「お前も最高神に目を付けられないように気をつけろ。あれの『眼』はどこまでも追いかけてくるからな」
「ギンさん、どうしてそんなに詳し、」
「ギン? あ、こら、痛ッ!」
最後の質問はひょこりと現れた皐月の顔によって遮られた。ギンは皐月の頭を蹴って、器用に梯子を下ってしまう。未莉は慌てて皐月に駆け寄り、ギンが踏み台にしたであろう頭を前足で撫でてみる。そしてこの状況を説明しようと頭の中を整理し、無理だと判断する。
「え、ミリーさんなぜ猫になって……?」
「あ、あ、これは、その! いろいろありまして!」
「サツキも来たことだし、そろそろ開店準備するぞ~ミリー」
「は、はい!」
下から怒号のようなギンの声が聞こえる。猫の先輩に続いて未莉も皐月を通り越し、なかば落ちるように地面へと降り立った。神の目に気をつけろ、と忠告してくる燃えるような金色の瞳が、ふと思い出される。神様というものに未莉は会ったことがないけれど、ギンのように輝いた瞳を持っているのだろうか。それならば少しだけ、見てみたい気もする。慌てた皐月が梯子を下りてくる音を背後で聞きながら、未莉は今日もわくわくした一日になるように願って四本の足で砂利道を走っていった。