58.駄目な二人の歩み寄り
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所長代理と警備隊の隊長からの通達があった日の夕方、トウマが山小屋に来てくれた。トウマは制服の試着が終わった直後に私に通信をくれて、山小屋に行っていいかと連絡をくれたのだ。
トウマから連絡を受けたときは、まだ管理所の受付窓口でサリー先輩と業務調整していたので、了承の返事をして、山小屋に帰る前に職員寮の売店に駆け込んだ。
トウマが山小屋に来てくれる時間は夕食どき。ならば食事の用意くらいはしたい。
食材や惣菜をあれこれ買い込み、モモンドさんとチビに今日の歌の練習には同席しないと連絡したら、セイに草むしりの異能制御のコツを習っていたチビがバビュンと山小屋に戻ってきて、何かあったのかと心配された。
「何かあったの?」
「ううん、トウマが来てくれるからさ。夕食用意しようと思って」
トウマが来ることを伝えたら、チビはニヤーッと笑って今夜は邪魔しないから~と言い残し、セイのところに飛んでいった。
チビが想像するようなあれやこれやそれやまでのことはしないよ! 多分! 私の顔は真っ赤だよ!
あまり時間もなく、ほとんど買った惣菜を並べることになるけど、こういうのは気持ちだ。
トウマはパンや米より麺類が好きなので、山小屋に戻って乾燥パスタ麺を出しておく。ベースとなるソースはレトルト頼りだけど、トマトソース系統とホワイトソース系統とオイル系統の三つがあることを確認して、ベーコンやスライスした玉ねぎなどを軽く炒めておけばどれにでも合うだろう。
トウマが手土産に何かを持ってきてくれたら明日の食事にまわせばいい。
トウマは愛用の浮遊バイクではなく、小型車両でやってきた。さっきまでは無精髭ぼうぼうの野生人だったのが、髭を剃ってスッキリと凛々しいトウマに変身していて、制服の試着に捕まった人に「剃れー!」ってキレ気味に叫ばれていたのを思い出す。そろそろ髪も整えないとね。
案の定、トウマは差し入れだといくつもの惣菜と、下の街の人気店の生菓子と焼き菓子まで買ってきてくれた。売店で売っていないものは特別な感じがする。
「行けばすぐなんだがな」
「そうなんだけど」
今の私がひょっこり下の街に出て行ったら人集りになる可能性が高い。だからどこか諦めが先行して、下の街まで行かなくても事足りると結論づけ、行くのを面倒くさがるようになったことは否定できない。もともと出不精の素質もある。
「……俺と行けばいい」
「トウマ?」
トウマは台所のテーブルに惣菜や菓子類を置くと、おもむろに私を抱き締めた。
ボボボボボッと熱が上がる。
ワタワタしそうになったけれど、トウマの言葉に硬直した。
「よく、我慢してたな……」
瞬間、ボロリと涙が出た。
「よく我慢した。もう、俺の前で我慢しなくていいからな」
「……う、うううっ!」
決壊した涙は止まらなくて、そのまましばらく泣き続けた。
ずいぶん泣き虫になった気がする。伯父の事件の一報以降、慰めてもらうとどうにも涙を押さえきれない。堪えても溢れてしまう涙をどれだけの人に拭ってもらっただろう。
我慢していた。
気づかれちゃ駄目だ。
不安を悟られたら駄目だ。
笑え、堪えろ、笑うんだ、笑え、笑え、笑え! ──と。
嗚咽が小さくなるまで優しく背を撫でて抱きしめてくれたトウマ。
一日働いたトウマからは健康的な汗臭さ。
すぐに上半身裸族化するので知っている胸の逞しさ。
ボロ泣きどころがギャン泣きになりながら、頭の隅でキュンとしてしまう私がいて、自分で自分に状況を考えろと突っ込んでしまった。
ひとしきり泣いて、涙も鼻水も酷いので顔を上げたくない。
モソモソと手の甲と指で鼻水だけはどうにかして、顔洗いたいと呟けば、私の顔を見ないように体を反転させてくれて、トウマを背に私は洗面所に一直線。
ズビズビ出ていた鼻水をかんで、手を洗って、顔を洗って、鏡に映った顔は酷いもので、白目が充血して赤いし、目のまわりも腫れぼったく赤い。酷い顔。しかし、このままずっと洗面所にいるわけにはいかないので、濡れタオルで顔を拭きながら台所に戻った。
トウマは居間のテーブルに惣菜などを並べて、保冷庫から作り置きの冷茶を出してくれていた。
「カルパッチョが被ったな。こっちの白身魚のやつ、サラダパスタにしていいか?」
「うん」
私が惣菜で買ったカルパッチョは三種類の白身魚のもの。トウマが持ってきてくれたカルパッチョは鮮やかな赤肉のもの。
パスタはトウマが来たらシンクの横に茹でようと思って置いていたので、私が作ろうとしていたことはわかってくれたらしい。
「リリカは座ってろ」
言葉に甘えて居間に座り、料理するトウマを見て待つ。
白身魚のカルパッチョを活用したサラダパスタはオイルベースの味付けの際にバジルが少し追加されていて、粉チーズはお好みで。
夕食を摂りながら、トウマにイチゴちゃんの伝言板がおでこに貼り付いたところから話した。
伯父を保護できてからは安心できるはずなのに、その後に事件の背景などがわからない間、不安で仕方なかったと白状した。
「さっきコロンボンに捕まってな。俺にも情報共有されたのを知って言われたんだ。誰かが殺されるなんて言われて、人によっちゃパニックになってもおかしくない。なのにリリカは気丈だったって。伯父さんを保護するまでも、保護してからも、冷静に必死に我慢しているってな」
「……がまん、してたー、すごいしてたとおもうー」
「我慢していた涙を全部受け止めてこいって言われたんだが、落ち着かないなら、泣いていいからな」
「うー、いまは、たべるー」
「ははは」
コロンボンさんの気遣いを知って、またぽろりと涙が出た。
警備隊の幹部候補でコロンボンさんも忙しいのに、私の浮遊バイクの訓練をコロンボンさんが担当してくれたのは、根回ししてくれていたのかもしれない。
不安を悟られちゃいけない我慢は伯父の事件の背後を知ったことでひとまず解消されたけれど、この件で気落ちしたときに制約なく話せる人が限られるのは変わらない。
それでもトウマとお爺ちゃん医に吐露できるようになったのはとても大きい。
リーダーには話せるけれどメイリンさんには詳細までは言えない。
ペニンダさんには話せるけれどシード先輩には詳細までは言えない。
私の普段の日常でふと吐露させてもらいたい人でもご夫婦の片方に言えないので、話しを聞いてほしいと打診する場面から気を使わないといけない。個別通信はあるけれど、やはり躊躇いは生まれる。
だからトウマとお爺ちゃん医への情報共有の許可が下りたのはとても大きくて、そして私の中でトウマの存在がとても大きいことを実感した。
お腹が満たされ、私の話しも一区切りしたところで、私の緩かった涙腺もやっと落ち着いた。
「ぜんぜん連絡しなくてごめんな」
「私もしなかったし。その、……伯父さんのこと知らなかったトウマから『元気ないがどうした?』って通信もらっても返事しにくかっただろうし。今となってはよかったのかも」
いつだって連絡が取り合える仲なのに、私はトウマに言えない後ろめたさと寂しさから連絡できなかった。
トウマは私がどこか元気がないけれど、どう聞き出せばいいのか迷いまくって連絡ができなかった。
学院時代に見聞きした恋人同士は毎日何らかの連絡をしあっている惚気話を聞いたりもした。その一方で、恋人からの毎日来る内容のない連絡がうざいと言い出す人もいた。
私とトウマは用もないのに通信連絡する気になれないところは非常に似ている。
「しばらくは急に落ち込んでないか心配だから連絡してもいいか?」
うわぁ、嬉しい申し出。
「うん。でも、面倒くさくなったらやめていいからね?」
「やめる前提が見えるのが俺たちだな」
私だって用もないのに連絡するなんて、何を連絡するのかと途方に暮れそう。
そんなことをハッキリ言ったら、駄目な二人だということがよくわかって笑い合った。
通信連絡のことでお互いにハッキリとどう思うかを話したら謎の勇気が出て、思い切ってトウマのことを教えてほしいと切り出した。
唐突になったけれど、人伝に聞く内容はところどころ真実ではない部分もありそうで、トウマが私に話せる範囲だけで構わないから、トウマ本人からトウマのことを教えてほしいとお願いした。
「あっあっあっ、その、何でもかんでも知りたいということではなくて、なんというかどうしても聞こえてきてしまうコトが本当なのかを確認したいと言うか」
「俺、話してなかったか……?」
「え? う、……うん、トウマから聞いたことは、ないんだ……」
トウマのことは全部まわりから聞こえてくることを真偽半々でいる状態。
「あー……」
片手で目を覆って天井を向いたトウマ。
わかりやすく失敗した~というポーズで、私に距離や壁を作って言わないでいたわけではなく、トウマとしては私には言ったつもりになっていたという。
「えええー」
「いや、なんでそう思ったのか。すまん。聞いてくれれば答える。あ、いや待て。まずざっと話すか。俺が生まれたのは──」
生まれから? 待って、待って、生まれ育ちの詳らかなことから事細かに知りたいわけじゃないと止めようとしたが、トウマが話し始めるほうが早かった。
「──さっき通達の中にも出てきた、あのろくでもない国の近くなんだ。俺は幼い頃に親に売られそうになっていたのを助けてもらったんだ」
「え」
王弟殿下からの説明あと、その国のことを調べ直して曖昧だった記憶を更新した。
何十年も前に身分制度は撤廃されたはずなのに、現実は身分制度が色濃く残っていて、虐げられている者もたくさんいること──
「と、トウマ……ッ!」
「あー、うん、びっくりしてるってことは、この話しは誰からも聞いてないのか。俺がヴィスランティ家の養子ってことも聞いてないのか? リリカには名乗ったよな? 知ってるよな? そういえばヴィスランティ家のことで尋ねられたことないな……」
「へ? ヴィスランティ家? なんだっけ? え、え、聞いてない? 聞いた? 待って、売らっ、売られっ!?」
「落ち着け。本当に何も聞いていないんだな……。よし、この際だ。しっかり説明する」
トウマ自身に記憶はないが、親にどこかに売られそうになっていたときに心ある使用人が助けてくれたという。
それこそ命懸けで──。
トウマは生まれたとき女児として育てられていたらしい。本人はほとんど覚えていない幼い頃のことで、保護されて数年後に生い立ちの説明を受けて、自分のことを把握したくらいの幼い頃の話し。
あの国と周辺地域の一部では人も「商品」とする。誘拐してきて商品として売り飛ばしているのではないかと、諸外国から問題視されているのは本当なのだ。
トウマの親は自分の子を見世物にして金銭を得ていた。子に薄衣だけを纏わせて高い台の上に置いて。
三歳前後の幼児の記憶は曖昧で、トウマ自身はよく覚えていない。
トウマの生まれた家は貧困に喘いでいたわけではない。あの国の周辺では貴族や金持ちの間で見目のよい子どもを『貸したり』『売ったり』することは普通に行われていて、それが家同士の繋がりとして使われることもあるのだと聞かされた。
幼いトウマの世話をしていた使用人は「商品」で買われてきた者で、買われた家の者にストレスのはけ口で暴行を受ける日々。逆らわない姿勢を見せ続けてトウマの世話係になった人だった。
使用人は自分の境遇への絶望の中、よくないところに売り飛ばされそうな幼いトウマを自分のような絶望しかない未来に送り出すことができなかった。
幼いトウマを大きな荷物に偽装して屋敷を脱出。
逃げて逃げてとにかく逃げて、この世界で一番大きいモウリディア王国の大使館に願った。
子どもだけでも助けてくれ! と。
訴えが認められてこの国の国民になることができた。
「俺が養父たちから俺自身の生い立ちを聞いたのは十歳になったときだが、よく捕まらなかったなって思う」
捕まっていたら殺されていたかもしれないなと。
大使館では心身の治療を経て、トウマと使用人は別々の道を歩き出すことになった。とは言え、幼いトウマは自分の身に起こっていることを正しく理解できておらず、話し合いは大人だけで行なわれた。
逃げてきたところからすると、使用人は「商品」を盗み出した犯罪者として追われている可能性がある。
そもそも二人は家族でもない。
結論として、別々に生きるのがよいだろうとなったそうだ。
この国では事情の重い孤児に、ゆとりのある貴族や商会、組合などが手を差し伸べる制度がある。
トウマを養子として迎え入れたいと申し出た先は複数あったという。その中で国が十分に調べ、決まったのがヴィスランティ家だった。
トウマという名もそこでもらった。
そのヴィスランティ家は、シャーヤラン領主一族の侯爵家の分家の一つ。
私は今、トウマから聞いて、ポカンとしてしまった。
「ヴィスランティ」
「俺の家名は知ってはいたよな? オニキスの世話で会うことになるってときに名乗ったよな?」
管理所に採用されて何十人もの先輩方々と挨拶はしたけれど、挨拶一回で覚えられるわけがない。しかも家名までなんて絶対覚えられない。巨大竜になってしまったチビとの日々に振り回されながら、突然の就職。
シャーヤランに来てからいっぱいいっぱいだった。あれもこれも忘却の彼方だ。
「シャーヤランの侯爵家と商会貴族の名前くらい頭に入れとけよ? 侯爵家のヴィスファスト家とその分家は貴族年鑑第一巻だぞ?」
「……ハイ」
「……長ったらしい苔の名前はすぐ覚えるくせに、こういうことは覚えないんだな」
なんだかリリカらしいと笑われた。
興味がないことはなかなか覚えない私の頭の記憶力は偏っている。
私の不勉強は置いといて、一年くらいは大使館が手配した療養施設で過ごしていたという。
諸々手配が整い、ヴィスランティ家に迎え入れられた日がトウマの誕生。残念なことに正確な歳もわからなかったから、六歳からカウントが始まったのも教えてもらった。
今のトウマの見た目からは想像できないけれど、ヴィスランティ家で生活を始めた当初も幼女に間違われることが多かったという。
それがぐんぐんと背が伸びるのに合わせて男子として骨格もしっかりし、何より鍛えれば筋肉がついた。
日々の生活で当たり前のように身に付いた上流階級のマナーと振る舞い。
美幼女から美少年として成長を遂げたトウマに女の子が群がるようになった。
「俺じゃなくて家名しか見てないやつらだぞ。うざいったらありゃしねぇ」
蹴散らすために本当の出身はろくでもないあの国の隣だと言ってみた。
嘘をついていると思われた。
人身売買の場に裸で売られるようなところにいたと自分の闇を曝け出した。
そんな過去はどうでもいい。今、ヴィスランティの家名を名乗っていることが重要なのだと。
しつこい女たち。
しつこい女たちを操るその親もしつこい。
「ヴィスランティ家は、その昔、王族の姫が侯爵家に降嫁したときに分家を作ることになって、王家から賜った家名でな、それも貴族年鑑にも書いてあるから後で読めよ? そのときの王が作った名誉ある家名ってことで、憧れに取り憑かれている輩が多い」
ヴィスランティ家は現侯爵の次男様が継いでいるが、結婚されておらずトウマが養子。次にヴィスランティを継ぐのは現侯爵の孫と決まっているけれど、まだ誰がということが決まっていないためか、表面しか見ない者たちからはトウマが継ぐと間違われている。
「あんのクソ親父とクソ爺が俺のこの状況を楽しんでんだよ!」
クソ親父とはヴィスランティ家のご当主で、クソ爺とは侯爵様のことだとわかって冷や汗が出てきた。
「と、と、と、トウマって侯爵様の義理の甥になるってこと?」
「あ? 繋がりとしてはそうだな。本当に、本当に知らなかったんだな」
「う、うん……」
なんて恐れ多いんだ。
「生まれも育ちも関係ねぇぞ? ここじゃ単なる職員だぞ?」
トウマがいつもの俺のまわりを思い出して見ろというので、素直に思い出す。
……笑っちゃうほど普通だ。
髪がボサボサで髭ボウボウのトウマの野生人な姿すら受け入れている管理所のみんな。
ちょっと冷静になって思い出せば、所長も管理所ではまったく貴族な感じはしない。
「この国じゃ、貴族は務めをまっとうしていることを評価して与えられる役職みたいなもんだ。たまにクソもいるが、務められないなら爵位の返上。血族継承が絶対ってことでもないのは習ってるだろ?」
「うん」
シシダに貴族はいなかった。
湯治場と商店街はそれぞれ組合を作って共同経営で地域を守ってきた歴史が長く、飛び抜けて一つの一族だけが台頭することがなかった。
山脈を越えた先の街も同様で、だからあの一帯は組織行政の集まりとして特別区となっている。
首都には貴族がたくさんいた。
一定の納税額を超えた商会は子爵位か男爵位を得ることができる。取引が国内のみなら爵位の必要性はあまりないのだが、王侯貴族制度がしっかりしている周辺国では爵位のない者に冷たい。それで領地経営、輸出入のある商会や組合などは爵位を持つことが多い。
領行政に関わる貴族は伯爵。
侯爵は重要な領地の政を担っている方々。シャーヤラン以外は国境や海岸線のある領主。シャーヤランは原始の森のある特異な地域を守る必要で侯爵位を賜った唯一の例外。
商会や組合などが賜る子爵か男爵は、納税額や輸出入の量で判断すると言われているけれど、好きな方を選べるとも聞いた。男爵位は爵位の中でも低いので、無難なのは子爵位だが、わざと男爵位を選ぶ商会もあるという。
「商会で男爵位のところはクセが強いから要注意だぞ。チビに熱烈なアルア商会とかな」
その一例だけで、なんだかよくわかりました。
トウマの話しがとても重たかった。一つひとつ思い出して、消化に奮闘。
ふっと思ったのはトウマは義父と義理の伯父となる侯爵様のことをクソ親父、クソ爺と言っていたけど、一方で、バカ息子、バカ甥と言われていそうな、そんな仲が伺えた。
「他に気になることはあるか?」
「もう大丈夫だよ」
「いや、この際だ。気になることあるなら聞け」
そう言われても今聞いた話だけでもいっぱいいっぱいで、何が気になっていたのかぶっ飛んでしまった。
「トウマの話しが思いがけなくて、聞きたいことなんだったか忘れちゃった。あ、そうだ。あのさ、トウマの生まれ育ちのことってどれくらいの人が知ってるの? それはわかっておきたい。私がうっかり漏らしたら困るだろうし、急に話してくれちゃったけど誓紙持ってるの?」
私の伯父のことは管理所として制約を発動してくれているから、私個人で制約のあれやこれやを発動しているわけじゃない。制約の発動に使う誓紙の魔導具はそこそこ高い。庶民生活で使うことは極めて稀で、私は買ったことがないので、もちろん山小屋にはない。
「俺の生い立ちに制約は発動できねぇよ。貴族と大きな商会や組合の上層連中はみんな知ってる。そして知ったヤツラでわざわざ言いふらすアホがいる。管理所だと半分くらいは知ってる話しだ。そのまた半分くらいは脚色された話しを信じ込んでいそうだが訂正してねぇ。今のところはそのほうが都合がいいんだ」
脚色された内容が酷いなら訂正するが、流布している内容は、お涙頂戴に盛りに盛られていて、いい具合に真実がぼやかされているので放置しているんだとか。
無論、管理所隠語である高貴なる御方々は虚飾に誤魔化されはしない。
付き合う先を篩うのにちょうどいいというトウマは、貴族の思考回路だなと思った。
「え、でも、私、まだまだ腹芸が下手くそで、顔に出ちゃうし、言わなくて表情も繕えなくて、カマかけられて慌てちゃいそう。トウマに迷惑かけたくないよ」
私が私を信用できない。制約があると安心するのに。
トウマは小さくため息を吐いて、静かに呼びかけてきた。
「リリカ、習ったことを思い出せ。制約の発動は情報の発信元が決めるもんだ。聞いた側が決めるもんじゃない」
通常業務上のことなら、管理所に採用された際の守秘義務の制約があれば個別に発動する必要はない。ここのところそれを上回る上位の制約発動しなければならないことが立て続いた。それに慣れて、私の制約に対する感覚と認識が間違えていると諭してくれた。
そして、トウマの生い立ちは知っている者は知っている。
「真実が出回っている以上、制約はない」
そうだった。
制約に変に慣れて、根本を忘れていた。
「モノにだって頼りたい……、心が弱ってたんだよ」
「……うん、ごめん。私、でも、言わないから」
「ああ」
テーブルの対面から腕を伸ばしておでこをコツンと突かれた。
「重たい話しはここまでだ。ケーキ食わねぇか」
「うん!」
トウマが侯爵家の一員であることに正直驚いてしまったけれど、目の前のトウマは全然変わらない。
貴族だとかそういうことは関係なく、気がつけば野生人な姿になってしまうトウマが好きなのだ。
テーブルの上に残った惣菜類は私一人では食べ切れない量があり、あとで分けることにした。
保冷庫に入り切らない惣菜は台所のテーブルに置いておき、居間のテーブルを一度拭いて、菓子の箱を開ければズッシリ重たいチーズケーキ。しかも二種類のチーズが重なっている二層のやつ。
「やった! 重たいやつ!」
「コーヒーあるか?」
「豆挽く? ドリップバッグでもいい?」
「ドリップで十分」
私は緑茶、トウマはコーヒー。
「あー、くそっ! リリカとデートとは思ってんだが、どうしてこう時間がないんだ?」
私の伯父のこと以外だと、もっぱらチビのせいだと思う。
想像していたし、諦めてもいたし、これでもチビの歌手デビューを応援しているんだが、余波がすごい。ものすごい。何もしなくていいと言われたはずが全然時間がない。
「領主会合なんざ、俺たち関係ねぇのに巻き込まれちまってるし。チビの歌手デビュー前にこそこそするより、その後に開き直ってデートだな」
「でえと」
「なんだよ。顔が真っ赤だぞ」
もー! そういうこと言わない!
その後もトウマは重たかった空気を払拭するように話しを転がし、私を笑わせ、そう遅くない時間に私のおでこにキスを落として帰っていった。
そんな紳士なトウマに惚れ直してしまう私だった。
やっと二人の付き合っている関係の距離がわかるやり取りが書けました。
たま~に活動報告も書いています。お時間があればご確認ください。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます!