51.出口のない迷路
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予防接種した翌日は生理痛もあってぐったりしていたが、接種二日目の体調はだいぶよくなった。とは言え、いつもよりも体が重たく、朝食後に昨日断念した風呂掃除をしただけでもう何もしたくない疲労感。
「こんなにきつかったっけ?」
予防接種の副反応にここまで苦しんだ記憶がなく、生理とのダブルパンチで気怠さが増しているのか、しばらく脱衣所に座り込んでしまった。
ぐたっとしていたら、掃除監視員スライムがうようよやってきて風呂場をチェック。風呂場の床から壁をうようよと這い、天井は這いながら掃除をしてくれたようだ。ありがとう。毎日天井までは拭き掃除を求められても私には無理だ。浴槽の中も見て回られて、ゆさゆさ揺れて台所に戻っていったので風呂掃除は合格した。
スライムは不法侵入して棲み着いた居候の立場なのに、なぜスライムの機嫌を損ねないようにしないとならないのか。摩訶不思議な生態のスライムとの不思議なこの関係も諦めとともにもう慣れた。
「あー、寝袋と敷布……。忘れてた」
台所と繋がる居間まで戻ってきて、窓の外のウッドデッキに放置したこんもりした山を見てどうするか考える。
寝袋は手洗い推奨であるものの山小屋にある洗濯機で洗えなくはない。しかし、屋外用敷布は大きくて容量オーバー。今日の体調で浴槽で足踏み洗いする気も起きない。
布団もこまめに干しているが吸った汗も気になる。冬前に洗濯部に依頼する布団丸ごと洗いの予定を前倒しして、屋外用敷布も洗ってもらうことにした。
洗濯部へ依頼をしようと情報端末を持ったが依頼する画面に文字を打ち込むのも億劫。テーブルに一度突っ伏してしばしぐったり。
よし、口頭で伝えてしまおうと洗濯部の呼び出し番号を表示した。
通話に出てくれたのは洗濯部にいる恰幅のいいおばさん。本格的な夏前の採集隊の遠征の折、おばさんも調理場の助っ人によく来ていた。早朝仕込みをした私から引き継いでくれる係で随分と話すようになった人だ。
「昼前に引き取りに行くよ。貸し布団はどうするね?」
「貸し布団はなくて大丈夫です」
「そーかい。んじゃあとでな」
通話を切り、ふと思い立って黒石豆をザッと洗ってボウルに水を張って漬けた。餅米も今から浸水しておけば夜に黒餅団子を作れるだろう。
黒餅団子を作ってベリア大先輩のところに行こうと思い立ったのだ。
シシダに行く前に会い、私に何かあると察して心配してくれていたのに帰ってきてから会いに行けていない。いつも適当に自分で切っている髪だが、ベリア大先輩に髪を切ってもらいながら話すのもいい。混んでいたら黒餅団子だけも渡せばいい。
誰かと一緒にいたい。誰かと話したい。
無性にそう思った。
シシダを飛び出して首都の学院の寮に入ったときにも急に寂しくなって両親と通信で話したり、まだ十歳になったばかりの私を気にかけて、寮の管理職員さんたちが話を聞いてくれたりした。
さすがに何年も一人の生活空間で過ごせば慣れるが、それでもたまにこうして寂しい衝動に襲われる。
心が落ちると体調を崩すことがあるが、体調がよくないと心も引き摺られる。
理性では平常心を保とうとしても、一度落ち始めたら止まらなかった。
キッチンテーブルの椅子にドサリと座り、テーブルにまた突っ伏してしまう。
シシダに帰る前後の私の視野はとても狭くて、伯父の事件について深く考える余裕もなかった。
シシダから帰ってまだ数えられる日数しか経ってないが、伯父を助けられて落ち着いてきたからだろうか。
なぜ伯父はあんなことをしたのか? と、今更ながらそう思って考えてしまうことが増えてきた。
伯父からの手紙も捜査資料として提出したが、今となっては伯父からの手紙も本当に伯父からのものなのかと疑う気持ちも生まれている。
教えてもらえる状況になれば教えてもらえるはずだから、まだ捜査中だろうことは推測できるし理解もしている。だけど、脳内でなぜ? どうして? という答えのない問いかけが木霊してしまう。
所長や法律士のラワンさんなら事件の途中経過を知っているだろうかと、尋ねたい気持ちをぐっと抑えて我慢してきた。
事情を知る妖獣世話班のみんなが私を気遣ってくれているのも肌でわかる。リーダーとメイリンさんの言葉に甘えて愚痴れば慰めてくれるだろう。だけど、つい先日メイリンさんの胸で泣いたばかり。
事情を知らないお爺ちゃん医やベリア大先輩には伯父のことは言えないけれど、不安なことがあって心がしんどいと言うくらいなら許されるだろう。お爺ちゃん医はそうかそうかと聞いてくれるかもしれないけれど、ベリア大先輩に心配をかけたくない。
トウマにも話して、側にいてほしいと思う気持ちもある。
だけど、一歩が踏み出せない。
トウマの事情はトウマ本人からではなく、まわりの言葉で察しているだけで、トウマから語られたことはない。
別にトウマのことを何でもかんでも知りたいわけではない。ただ、他人から語られるより、本人が教えてくれないのは一線引かれているのだろうかという一抹の不安を覚えてしまう。
トウマの実家は上流階級か、爵位がなくても商会を経営する富裕層だろうことは予測済み。美少年だったトウマは両親や親類に見世物のように連れ回されていたこと。薬を盛られて貞操が危うかったらしいという未遂事件も聞いたが、それを語った人の勝手な妄想かもしれないと真偽半々で聞いた。
オニキスと出会って家を飛び出して、どういう経緯を辿ったのか今ここに勤めている。
女性に言い寄られることに辟易しているのは見ればわかるが、女性全般に嫌悪ではなく、媚びる女性に冷めた気持ちになるのも見ていてわかる。
いつだったか朝にやってきて泉に飛び込んだトウマ。
あのときもトウマがむしゃくしゃしている理由はオニキスの言葉から勝手に察しただけで、トウマからは理由はなく、急に泉に飛び込む奇行を見せたことを謝られただけ。
私からも「どうしたの?」の一言が言えなかった。
「……私、トウマのことちゃんと好きなのかな?」
自分の気持ちがわからない。
浮遊バイクの訓練中にバイク整備に嬉々としていたトウマにムカついていた気持ちを思い出すとトウマに好意はあるんだろうし、おでこにキスされたりして、嬉し恥ずかしと転げまわるくらいだから嫌いではない。
不思議なものだ。
誰かを好きになるというのは、あの人を好きになろうと意識してやるものじゃない。いつの間にか好きになっている。
初恋のときがそうだった。
まだシシダの学校に通っていたときのことを思い出す。
同級生たちに理由なき無視を受けたとき、ある男の子に無視されたのは誰よりも悲しくてつらくて、あれがきっと初恋で失望とともに失恋した。
その後は自分から恋愛モードで誰かを好きだと思ったことはなく、首都の学院で一度だけ告白されたが、その人の言動が私の性格や考え、価値観とは合わなくてお断りした。
トウマの場合はトウマに告白されて、トウマを意識し始めた。
自分から努力して好きになろうしているわけではないが、付き合わないかと言われて嫌悪を覚える人ではなかったから、トウマへの好意は積み上がっているのは事実。
イチゴちゃんの伝言板から始まったあの不安の中、誰かにすがりついて泣きたかった。そのとき真っ先に浮かんだのは両親でも兄でもなく、日頃とてもお世話になっているリーダーや所長でもなく、トウマだった。
私はトウマのことが好き。好きなんだ。
だけど、トウマが私に対して何か躊躇うような、線を引いているような感じるのも事実。媚びる女性を苦手としてきたから、私がそういう女性に変化しないか不安なのかと考えたりもしてしまい、トウマに尋ねたい言葉が喉の奥で止まってしまう。訊きたいことはそう多くはないけれど、トウマから根掘り葉掘り訊くなと嫌がられたらどうしようと怖くなってしまう。
嫌われたくない。
そう思うほどにはトウマのことが好き。
トウマに対して私が壁があるように感じるのと同じように、私の葛藤がトウマに対して壁となって感じられているのかもしれない。
シシダの学校時代に同年代に一斉に無視された出来事は今でもトラウマで、他人に歩み寄ることに不安で仕方ない。
首都の学院でもなかなか自分から誰かに歩み寄れず、多くの人とは浅い付き合いだった。けれど、その後に教授と研究室の先輩方々との出会いは大きくて、シャーヤランの管理所に来て最初に私の不安の扉を開けて踏み込んできてくれたトーマスとマドリーナから仕事以外のつながりが生まれ、今はたくさんの温かい支えがある。
ああ、でもトウマにどう歩み寄ればいいのかがわからない。怖い。
だいぶマイナスな思考の海を漂っていたら、足に痛くないが柔らかな衝撃を受けた。下を見ればスライムが軽く飛んで足にぶつかってきていた。
うじうじ悩んでいるんじゃねぇという気配を感じるのは、私が誰かにそう言ってほしいからかもしれない。
私が見下ろしたら足元からじっと見てくるスライム。どこに目があるのかわからないけど、相当ジッと見られている気がする。
トウマとの仲が進んだような出来事のときに、スライムに惚気てドン引きされたり、花を活けて祝ってくれたり、踊ってくれたり、一度はいい雰囲気だった際に落ちてきて邪魔してくれたことも忘れてないよ。
椅子から降りてしゃがんでスライムに近づく。
「トウマにさ、トウマのこと聞いたら嫌われるかな……」
スライムは動かない。答えはない。自分で答えを出さないといけないことだ。
数秒見つめていたらスライムはベターっと床に広がりながらずるりと這い動いて、保冷庫を開けて謎茶三号の入った瓶を取り出された。心の安定に効果がある薬草がブレンドされた謎茶三号。
ボロリと涙が零れた。一瓶に詰まったスライムの思いが嬉しい。
「……ありがとう」
ひとまず落ち着こう。
あれこれ考えてもどれもこれもマイナスの方向に向かってしまう。それに考えること自体がとりとめなくて、頭の中も心の中もぐちゃぐちゃだ。
ぬるま湯で謎茶三号を淹れて、予防接種休暇用に買い込んできたものの中からデザートを取り出した。どっしり重たいカスティーラ。午前のおやつの時間には遅く、もう少ししたら昼食だが、休みの日なので自由に食べてしまおう。
茶を入れている間にどこかの隙間からスライムは外のウッドデッキに出ていた。玄関も窓も開けていないのだが、ざっと見回しても隙間を見つけられない。換気扇? と思ったものの考えることを放棄した。
居間からウッドデッキに出るところに草を干さないでとスライムにお願いしたら、屋根の上で干しているらしい。ウッドデッキから外の柱を伝って上へ行くので、多分そうだろう。または屋根の汚れの点検か。
そのままぼーっと外を見つつ、茶とカスティーラで補食していたら通話が入った。学院のチャルデン教授だった。
チャルデン教授ののほほーんとした声の「元気かー?」という声を聞けただけでなんだか嬉しい。
巨大竜となったチビの出現で私は突如として管理所職員となったけれど、あのときチャルデン教授には本当にお世話になった。いろいろな進路を提案してくれて、今も発光苔の研究で師弟関係を続いているのはとても幸運。
通話早々にシシダでのチビと私の報道を見たといい、チビといい相棒関係を築けているようでよかったと言ってくれた。
「そうそう、研究室の集まりな。あれは儂も打診を受けたときは予定を開けておくと返したんだが、その後にジェイドたちがゴタゴタしているから中止にしようと言おうと思っとる」
チャルデン教授の研究室はいくつか会があり、私がシャーヤランの管理所に就職することになって研究室を離れる際にいたメンバーで作られた会は「クサムラトカゲの会」。チビが巨大竜になる前の姿が会の名前になっている。
チャルデン教授が言ったジェイドとは、学院で講師も務めている先輩のこと。チャルデン教授の次に私の食生活を口煩く心配してくれた先輩でもある。
そのジェイド先輩がクサムラトカゲの会では幹事役なのだが、私の知らない約一年のうちに、結婚して離婚して近々再婚するかもしれない状況になったと思ったら、また喧嘩していると聞き、苦笑いしか出なかった。
「ジェイド先輩とヴィオーリアさんは相変わらず喧嘩ばかりなんですね」
「儂もあの二人の喧嘩の仲裁は飽きてなぁ」
飽きる飽きないの問題ではないが気持ちはわかる。
チャルデン教授に出会ったときにはもうお付き合いしていた二人。イチャイチャ熱々な仲を見せつけられたかと思えば、事件に発展しないか不安になるほどの大喧嘩を繰り広げ、学院近くを警備する警備隊に何回かキツめの説教もされたはず。
「そうそう、シュリーがようやく准教授になることを決断してくれたこともあって儂も忙しくてな。集まりの日程を相談されたときはこんなことになると思わなかったんだが、中止にしたほうがいいかと思ってなあ」
シュリー先輩は私が学院に通い出した際の生物学基礎科のときの教師だったので、先輩というより先生と呼びたくなる人だ。能力はあるけれど、詳しくは聞かなかったけれど准教授になるのを踏みとどまっていたのは聞いている。ようやく上に行くことを決断したのはいいことだと思った。
「年明けて、そうだなぁ、春、いやシュリーの准教授の件があるから来年の秋で調整になるかもしれんが、シャーヤランか隣領の森が現場のフィールドワークの話が来てな、そこにクサムラトカゲの会メンバーは全員で参加できないか模索しとるから、そこまで集まりは延期してしまおうと思う」
「本当ですか! 日程教えて下さい! 有休取って会いに行きます!」
「ははは。ジェイドたちも泥沼な私事があってもフィールドワークは別だと参加するだろう。シュリーも准教授としてフィールドワークの現場経験を積ませたいんでな。まだ調整しとるから他のメンバーには言うなよ?」
チャルデン教授からフィールドワークの予定を聞き出したら、教授は再びジェイド先輩たちの喧嘩の愚痴。クサムラトカゲの会の先輩メンバーたちは首都か近い領にいるのでけっこう頻繁に会っているから、ジェイド先輩のゴタゴタはほぼ全員知っているという。
ジェイド先輩とヴィオーリアさんのイチャイチャと熱い関係は、あの頃の思春期の私には憧れだったのだけど、教授からの話しを聞くと学院時代の憧れが色褪せそう。
まわりに何も告げずにいつの間にか結婚していた二人。喧嘩の末に離婚したことで結婚していたことが発覚し、慰めていたら元サヤで再婚話が持ち上がり、その途中でまた大喧嘩。かいつまんだ情報を聞くだけでも何をしているんだと突っ込みたい。
「アレが二人の関係なんだろうが、ここまで来るとあの二人は仲がいいのか悪いのかわからん。恋人や夫婦ではない関係性もあると思うが、まわりは口を出さないのが一番だ」
トウマとの仲を進ませきれない私には若干耳に痛い話ではあった。
ひとしきり私に愚痴ってスッキリしたらしいチャルデン教授に発光苔の生育が芳しくないことを告げると、実験用に苔をいくつかに分けて生育条件を増やすことになった。
発光苔は太陽光も人工的な明るい場所も苦手で、そうかと言って真っ暗闇でも育たない。チャルデン教授と私が研究して生育している発光苔は新種として発見されて、まだ詳しい生態がわかっていないので、何が生育に必要なのか試行錯誤。
「苔のことは追って指示をまとめて送っておこう。儂のほうも生育がよくなくてな。この種は発見されて五十年くらいの新種でわかっとらんことが多い。地道にやっていこう」
「はい!」
チャルデン教授と話したら鬱々悶々としていた気持ちが少し晴れた気がする。
私の様子を知って通話してきてくれたわけではないが、今日の私にはとてもありがたかった。
お読みいただき、ありがとうございます。引き続き、よろしくお願い申し上げます!