優しい夜の訪問者
夜の廊下でりりりんと電話が鳴る。祖母が住んでいたこの家はとても古く、設置されている電話機も昔ながらの黒電話だ。普段暮らしていない家なので電話の位置が分からず、音を頼りに探すしかない。相手が切る前に出なければ…。そう思って冷たい床下を爪先立ちで急いで渡る。
大好きだった祖母が亡くなったのは三日前。死に際に立ち会えたのは私と母だけだった。父は仕事だったし、弟は東京に出ていたせいで間に合わなかった。その後母は後から来た父と合流し親戚の家に泊まっているが、私は明日の朝やって来る弟を迎えるために祖母の家にいることにした。
りりりん。嫌だなぁ。私は鳴っている電話を前にしてそう思う。祖母の死を知らない人間にそれを知らせることがだし、知っていたとしても話題は自然と祖母のことになるだろう。この家に来てから祖母の生活していた跡を見ると何度も泣きそうになる。祖母の帰りを待ちわびているのはここにある家具と猫だけではないのだ。会いたいなぁ。そんなことを思ってしまう。それでも電話を無視するわけにはいかないのできゅっと下唇をかんで受話器に手を掛ける。
「はい、もしもし月見です。」
「…。」
しばらくしても返事がなく、悪戯電話かと思って受話器を耳から離そうとする。
「あの…文恵さんでは…ないですよね。」
小さな男性の声。思わず離しかけた受話器を耳に押し付ける。
「はい。孫の藍華です。その…祖母は今…」
不幸を告げるべきかどうか迷った。知り合いなら告げるべきだし、そうでないなら気を使わせるだけだ。
「そうですか…今いないのですか。困ったなぁ…。困った。」
「あの、私でよければ用件を伺いましょうか?」
そう言うとしばらく相手は考え込むような空気を受話器越しに沈黙で伝えつつ、またちょっとしてから尋ねてきた。
「あの、藍華さんとおっしゃいましたよね。」
「はい。」
「文恵さんの孫の?」
「はい。」
また沈黙が続く。そんなに大事な話なのだろうか。だったら私がどうにかできることではないのかもしれない。変な気配りをしちゃったかな。そう思っていると相手は今まで以上に小さい声でつぶやいた。
「文恵さんは…亡くなったのですか?」
私は驚いてしまう。どうして分かったのだろう。電話の相手は返事も聞かずに続けた。
「そうですか…。文恵さんが…。ではあなたにお願いさせてもらっても良いですか?これからそちらに向かいますので。夜分失礼かとは思いますが、少し事情がありますので…。」
私はさっきの驚きが尾を引いていて、はいとつい答えてしまった。すると相手は礼を告げてすぐに電話を切ってしまう。名前を聞き忘れた。そのことに気が付いたのは受話器を下ろした後だった。
10分後玄関のチャイムが鳴る。電話の主だろうか。いやそれにしては早い。それでも私は玄関に駆けつけてがらっと扉を開ける。だがそこには誰もいなかった。おかしいな。辺りを見渡すが人影もない。少し怖くなって扉を閉めようとした。
「あの…」
「ひゃっ!?」
驚いてつい声が出てしまう。先程の声だ。いつの間にと思って探してみるが誰もいない。トントン、何かが私の足をたたく。急いで視線を下に下ろすと…
兎がいた。え? 兎!?
声をあげなかったのは上出来といえるだろう。白い産毛に赤いビー球を埋め込んだような可愛らしい顔がこちらを覗いている。
「すみません。驚かしてしまって、私が人前に出られないのはこういう訳でして…」
ぷっ。思わず噴出してしまった。鼻がひくひくして兎そのままの雰囲気なのに丁寧な言葉を使うのが可笑しかったのだ。すぐに失礼だったかと思って私は謝ろうとしたが、彼(?)も可笑しそうに笑った。
「ふふ。この姿を見ても驚いたり気味悪がったりしないんですね。文恵さんのときを思い出しますよ。初めましてエトラと申します。まぁ見てのとおり兎なんですがその…本当は宇宙人といったほうが正しいのかもしれません。」
「宇宙…人?」
私は不思議そうに尋ねた。
「はい。月に住んでいます。で、日本人の皆さんのご期待通り餅を突いている訳なんですが毎月この日の夜はもち米を受け取りに来ておりまして…」
なるほど。だから祖母の家に…。私は納得する。祖母は米屋を営んでいた。今はもう店は開いていないがそれでもこの家に置かれている大量の米は何のためにあるのか不思議に思っていたのだ。
「わかりました。裏の台所の方に積んであるので持ってきますね」
そう言うとエトラは耳をピンと立ててすぐに答える。
「いえ、あとで仲間が運びに来ますから。それよりあの線香をあげさせてもらえませんか?」
有難い申し出だがまだ祖母の仏壇はできていないので丁寧にそれを告げると彼の耳はしゅんとしてうつむいてしまった。
「そうですか三日前に…。」
雰囲気がどんどん暗い方向に向かっているのに気づき私は慌てて話題を変えようとする。
「あの…。私のことを聞いて祖母が亡くなったことを知ったようでしたがあれは…」
彼は顔を上げた。相変わらず鼻をひくひくさせたままだ。
「ああ、文恵さんから伺っていたんですよ。彼女がお亡くなりになったら孫がいるから大丈夫だと。決して驚いたりするような子ではないから…と。私は縁起でもないといったのですがまさか次の月に亡くなるなんて。気づいていたんですかねぇ。」
また暗い雰囲気になってしまった。私はまたほかに話題を探す。
「でも兎が月でもちをつくのって本当だったんですね。私てっきり迷信だと思っていました。」
「あの影は私たちが投射したものですよ。日記みたいなものでね。遊び心といいましょうか。今ある月の影も私たちにとってはちゃんと意味のあることなんですよ?」
彼は楽しそうにそう言った。よくわからないが簡単に月と地球を行って帰るのだ。人間よりずっと頭がいいのだろう。私はもっと色々尋ねようとしたが彼の耳がピンと立ち上がりそれを遮った。
「どうやら仲間が来たようです。そろそろ失礼します。あの…遅ればせながら藍華さん。…お悔やみ申し上げます。」
彼はそう言ってペコリと頭を下げる。それからピョンピョンと玄関に向かっていく、私も着いていくとどうやって入ったのか沢山の兎がそこにいた。黒い兎から斑の兎のまで。
彼らは勝手知ったるように台所に向かうエトラについていく。私は動かずそこにいたがしばらくしてすぐにかれらはもち米の袋を持って戻ってきた。二匹で4、5袋持っている姿には驚かされたが彼らはそれを苦にもせずどんどん玄関の外へ運び出してゆく。
最後に残ったエトラは丁寧に頭を下げた。
「夜分遅くに失礼しました。それでは…」
私は帰ろうとする彼を見送りながら声を掛けた。
「来月も用意しておきますからまた来てください。」
エトラは鼻をひくひくさせて笑っていたのだろうか優しい目つきをしてもう一度頭を下げた。
「おやすみなさい」
そう言って彼はこの家を後にした。
次の朝私が昨夜のことを夢ではないかと思ったのは言うまでもないが、置いてあったもち米が無くなったのを見て確信を持ったのだ。
告別式も葬式も私はずっと祖母との思い出に浸っていた。亡くなったのは祖母の方なのに走馬灯のように思い出すのは私の方だ。実感というものが今ひとつ足りなかったようだが、本当に祖母がいなくなってしまったと気づいたのは火葬のときだった。火葬した骨はもう祖母の面影をどこにも残していなかった。祖母の願いどおり祖父の墓に埋められることになった遺骨は骨壷に納められ、出棺して行ったのだ。
「本日は本当にありがとうございました。」
葬式が終わったあとに来てくれた人たちに家族で挨拶をし終わり、家に戻ると私は泣いた。遺体を焼く前に花を供えたときにも沢山泣いたのだが私はもう一度泣いた。声を上げて泣くことが出来るのは今だけだ。そう思って。ずっと、ずっと泣き続けて目もはれて声も枯らしてようやく泣き止んで空を見上げると綺麗な満月が浮いていた。
『文恵さん 今までありがとうございました』
ぐちゃぐちゃの影で読みにくくもあったが、そこには確かにそう書いてあった。
私はふっと笑って優しい眠りに落ちていった。