止まった時間
遥斗が部室に体を向けると眼鏡を拭いていた渡辺先生が口を開いた。
「増井は自分が至らなかったって言ってたぞ。あの頃の自分はチームを強くすることしか考えてなかった、新井をレギュラーにするとは目が曇ってた、って。思うことはあるかもしれんけどそう言っていたことは伝えておくよ」
「話してくれてありがとうございます」
「増井は入った大学のチームが強い方じゃなくてプロを目指すのを早いうちに諦めたからな。先生やってても人間だからさ。色々あるのよ」
ふぅ、と渡辺先生は一息ついた。いつもの穏やかな顔になった。
「……そういえば三中と言えば神宮路もだよな、あいつには驚かされたよ」
「何か、あったんですか?」
「図形方程式の授業でさ、ある問題を神宮路は正解とは別の方程式を応用して正解に導いたんだ。それが出来るってことは問題の解答や公式を暗記して式を解くことが出来ますってだけじゃなくて数式を言語として使えてるってこと。あの解き方にはこの歳で既に数学者の領域にいるのかって思わされたよ」
「個人的に気になってなぁ、職員室に来た時に何に興味があってそういう考え方をするようになったのか聞いてみたんだ。そしたらさ、あら幾何学はこの世界が美しいことを数字を使って表すという表現手段ですよね?模様や絵画や芸術、建築に銀河や向日葵などの自然の中、細胞の中、この世界の中にある美しさは幾何学やフィボナッチの比率で説明出来ることが多いですもの。って平気な顔して言うんだよ。彼女は数学者どころか宇宙論を論じられる物理学者にだってなれるかもしれない」
「俺、大学院に残れなくて就職決めたに時にあと2年早く気がついてたらって後悔の涙流したのにさぁ、あいつまだ高校生だよ?」
先生は怒涛の涙を流してつっぷした。
「あれで文系志望なのは凡人の俺からしたらホントにもったいない」
真顔に戻った先生は独り言のように呟いた。
「神宮路は文系志望なんですね……」
綾乃のいる特進クラスはクラス変えが無い。だから志望校の方向性すら分からなかった。ここは平静を装いつつ食らいつくところだ。
「神宮路は何学科を目指してるんですかね?」
「何だ気になるのか?そりゃ気になるよな。同中で大企業のご息女だもんなぁ」
「あいつとは幼なじみなんで、ちょっと気になって」
先生は、お前なら喋らんよな、と目配せひとつ入れた。
「経営か政治かで決めかねてるみたいだ。幾何学の話してる時は生き生きとしてたから本心から望んでるかどうかは分からんけど」
多分、織物の模様を考える情熱がそっちに行ったんだろうなぁ。中学に入ってお母さんが厳しくなったみたいで綾乃ちゃんが神社に行ける時間がほとんど無くなった、ってノーラが言ってたし。
綾乃大丈夫かな?
でも今の俺に綾乃の人生相談に乗る資格はあるんだろうか?と思うとやっぱちょっとテンション下がる。
「俺はさ、高校の教員やってるけど、教育って本来は試験ってやつに答えられるように知識とかテクニック教えるだけじゃなくて、生徒が望む方向に進んで行けるように手助けするのも高校教師の務めだと思ってる。今時知識はスマホでピッだし。何処に行っていいのか分からない生徒に多少年食ってる分アドバイス出来ると思うんだ。そういう意味じゃ俺はお前を買ってるよ」
「えっと、どういうことですか?」
「楠木はさ、ちゃんと目標持ってんじゃん。医療用パワードスーツとか技術を世の中に役立たせたいって気持ちを持ってるだろ。それは立派なことだと思う。だから部室の使用許可取るくらいだけど応援もするさ」
「…………」
言えない、医療パワードスーツをどう改良したらいいのか解らなくて、ほぼ美少女メカ書いてる絵師さんファボってMMDモデルないかなぁ?って探してます!キリッ、とは言ない。
確かに最初はリハビリで辛い思いをしてる人の役に立てればと思った。でも根底には何か世の中に役立つモノを作くれたら綾乃が振り向いてくれるかもしれないっていう不純な動機が流れてるわけで……。けど「世の中の役に立つ立派なこと」って言われたのにはじんわり来るものがある。先生はそれを認めてくれてる。
「それとな、お前色々あっても腐って逃げなかったろ?そこは胸を張って誇るとこだ。もっと自信を持て」
ここでそれ被せて来ちゃうのは反則っすよ。
人生二度目の「誇りなさい」に遥斗の中の何かが溶けていった。
「あ、あの、医療用パワードスーツはもう製品化されてるし、現実的に将来的には素材とか材料系の開発はどうかな。とも思っていて」
まだ誰にも話したことのないことを話していた。
「日本の完成品製造業の競争力は弱わくなってるらしいし、日本人の『極める』っていう気質が、軽く、強く、硬く、靭やかな素材に向かえばこれから先の世界でも戦える武器になるんじゃないかなって思うんです。まだ漠然としてるんですけど」
それは神宮寺家の自動車産業という事業に直接貢献するはずだ。
「あーそれもありだな。お前やっぱしっかり考えてんじゃん。理工系の先生にちょっと聞いてみるわ。出来る範囲でだけど。でも、まっ、あれだ、悩め悩め!楽しいだけの青春なんてありゃしねぇよ」
渡辺先生はニタッとした笑みを浮かべた。
「じゃまぁ今日は此処までにするか」
紙パックとのコーヒーを飲み干すと席を立ってそのまま出口に向かった。
「ありがとうございました」
遥斗は教室を出る先生の背中に向かって一人頭を下げた。
まだ心がカサカサとして落ち着かないけど、取り敢えずやろう。何かやってれば気分は変わるもんだ。あの秋が終わって読めるようになってからはノーラが置いていっていってくれたラノベには本当に助けられた。ノーラに恩返しだ。
遥斗はキーボードを叩いてスリープを解除、作業を再開する。
チュートリアルの目次を読んでいくとどうやら図形のホログラムも出せるらしい。図形を出しておいてそれが文字に変わるっていうのも良いな。何かいい模様はと。
さっきの先生の話しが耳に残っていて幾何学模様を検索した。幾つかの模様を保存しながら調べてるうちにフィボナッチ数列というのは黄金比のことで渦を表すものでもある事を知った。
これか、確かに銀河やオウムガイ、ダビンチの人体の絵にはフィボナッチの渦の形や黄金比があるな。金融とか株の世界にもあるのか。人の欲望も自然のうちってこと?神聖幾何学?何だこれ?超古代文明とか宇宙人とか、ちょっと怪しいけど面白そうなことが書いてあるサイトに辿り着いて気に入ったフラワー・オブ・ライフという模様を落とした。
その模様を使うことにして最初に模様が出て、それが渦を巻いてHの文字に変化、HAPPY BIRTHDAY NORA!とホログラムが出るようにプログラムを組んだ。 最後に「リアルの技術も面白いだろ?ラノベ以外の勉強もちゃんとしろよ☆」と出るように追加した。
一通り出来たな。後はプロジェクターに保存してもう一回チェックしとくか。
そう思った時にノックがして開いた扉の先にはノーラの姿があった。時計を見ると11:30になっていた。慌てて出入り口に向いているモニターの電源を落としてから少し離れたところにあるPCをスリープさせた。
「入ってもいーい?」
「いいよ」
ノーラは部室に入ると生物標本や射撃くんを見回しながら遥斗に近づいた。
「もう終わったの?」
「まだだけどもう終わるから大丈夫」
でもノーラの前だと作業出来ないな。帰る時に先に出てもらって昇降口でちょっと待ってもらえばいいか。保存するだけならそんなに時間はかからない。
ノーラは開いた窓に手を付いた。遥斗も席を立った。
ポロン、とノーラのスマホが鳴った。
「ちょっとごめんね」
ノーラはスマホをチェックすると
「ジミーからだった。ヨーロッパはいま夜でこれから皆既月食を観測するんだって。こっちは昼だからは見えないね」
「ジェームスさん夜空を見るの好きだもんな、ノーラも家族と別れて寂しいよな。家族とは思う存分一緒に居られた?」
「うん、しっかりと良い時間を過ごして来たよ。今はこれからの日本の暮らしが楽しみだよ」
「そっか、勉強は大丈夫そうか?」
「多分大丈夫。日本の本も読んでるし。ソーセキとか。こころ、読んでた」
「へーえ、じゃちょっとテストしてやる」
こころは一学期の期末の範囲だった。確か試験問題がどっかにあったはず。部室の机に積まれた紙の中に試験問題を見つけた。
「先生の、僕はバカだ、とはどういう意味も持つか?」
「んー、んー」
ノーラは、分かった!というようにポンと手を打った。
「召喚獣を召喚する呪文!!」
「「……」」
「その答え自体が間違ってるけど……」
「だってまだ全部読んでないんだもん!今のは無し!」
手でバッテンを作るノーラ。
「まぁ2年のテストだしな。悪かったよ。ところで話しってなんだ?」
「幾つかあるんだけど、最初に……私が三年前にアメリカに行ってからハルトゥん大変だったんだね。マオマオに聞いた」
あいつ余計なことを。でも隠すことでもないか、自分で言うことでもないし言ってもらった方が助かるかも。
「でも、もう大丈夫だ。もう終わったことだし」
ついさっき本当に終わった気がする。感情はまだ残ってるけどそれもそのうち消えるだろう。
「そうなんだね。私もアメリカでちょっとあったんだ」
「そういえばオタクって言われてたって言ってたな」
「アメリカのイジメは直接的だからね。女の子でも暴力に巻き込まれたりする。でもわたし自分が好きなことを侮辱されるのが許せなくて『あんたが何が好きなのか知らないけど、私の大切なものを侮辱するなっ!』ってはっきり言ってやったの。そしたら日本のアニメが好きだよっていう人が加わってくれて棲み分けが出来た。私は大切な思い出を守りたかったの。それからもヘイ、オタークってよく呼ばれたけどそれは親愛の籠もったものだったよ」
唖然とした。自分はちゃんと主張しなかったことで長い時間を失ったのにノーラは自分の力で解決してたのか。強いなノーラは。
「日本はまた違うんだろうけど――ハルトゥんがそんな時に一緒にいてあげられなくて、悔しくて……」
「ノーラがラノベを置いていってくれて随分救われたんだ。ありがとうな」
優しい時間が流れた。その時間が心をゆっくりと温める。
「まだ他にもあるんだろ?」
ノーラは真剣な眼差しで遥斗を見つめた。
「綾乃ちゃんのことなんだけど……ハルトゥんは綾乃ちゃんに誕生会に来て欲しいよね?」
他にも何か意味があるようにノーラが遥斗に尋ねた。
「そうだな、ノーラも来てもらったら嬉しいだろ」
「それはそうなんだけど……」
ノーラは鞄から招待状を出した。
「実は…………きゃっ!!!」
窓から入ってきた蝉がジジジーと鳴きながらノーラにくっついていた。
「うぎゃーーわー、わー、嫌っ!」
ノーラがパニックになって動き回る。振り回した手がキーボードに触れてPCが起動する。意を決したように蝉を掴んだノーラは「えいっ」と外に投げた。
遥斗がプロジェクターの方を見るとグリーンのレーザーが出て模様を描こうとしている。やばい!ここでバレたらちょーかっこ悪い!モニターは切れてるし今の位置からはPCは遠い。遥斗はホログラムプロジェクターに駆け寄ってカバーを手に取った。
ビリリリリリリ――――――――――
部室に非常警報のような歪んだ音が鳴り響いた。
「何だっ!? 保安設備の点検?」
なら事前に放送が無いのは可怪しい。何だ?
ガラーン、コローン。学校のチャイムではない鐘の音が続く。
レーザーで描かれた模様が浮かんだ。
眩しい程に色鮮やかな模様が渦を巻いて天井に登っていく。
何これ?こんな動き設定してない。
天井まで登った光が教室からはみ出る程の大きな円を描いていた。何重かの円になった模様の内側に文字らしきものが浮かんでは回り、中心の円の中に六角形が姿を現す。六角形の各頂点に小さな円が生まれ、赤、青、紫、黄色、ピンク、黒、と色がついて発光した。六角形が外側の文字とは逆の方向にゆっくりと回り出す。
あり得ない!グリーンレーザーのホログラムでこんな色は出ない!
教室が振動を始めた。
「きれい~」
ノーラの呆けたような声に振り向くと、恍惚とした表情でどこか遠くを見るようなノーラの目は何処を見ているのか分からない。
遥斗の視界が振れる。教室が大きく揺れた。
グラングランと大きく揺れる教室がグニャり、と捻じれては曲がってゆく。
魚眼レンズで見たような球体になった教室の中心に満月が浮かんだ。
鐘の音が消え、静寂の中で次第にその姿をくっきりとさせた月は、欠ながら真っすぐ上にゆっくりと登ってゆく。月と一緒に浮かんだ自分がその周りを回って月を見ている。月の周りを回っているのに欠けてゆく月に疑問を感じない。意識はすでに朦朧として論理的な思考は出来ない。移ろいゆく感情だけが取り残された。
遠くで「遥斗くん!」と呼ばれたような気がした。壊れた機械のように繰り返すその声も伸びたり縮んだりしながら小さくなって聞こえなくなった。
冷たく静まりかえった金環食の月のリングがハルトの体を通り抜けると、いつの間にか仰向けになっていた体が床の中に沈んでゆく。リングの白い光がハルトの視界から消えると意識が闇に包まれた。
暗闇の中に小さな星の光が幾つも瞬いている。
体の感覚は無く周囲と自分の境界線がわからない。
だた上を向いて沈んでいく感覚だけがある。
星の瞬きが消えて漆黒の闇に包まれた。
純然たる孤独。
その孤独に遥斗は恐怖を感じた。
増幅された感情は純粋な恐怖となって遥斗の意識と融合してゆく。
怖い。怖い怖い怖い怖い――――
人が負の感情を負った時の時間は間延びして残酷だ。
恐怖そのもののまま、何百年とも永遠とも思える時間が流れた。
無限の恐怖に苛まれた時間が止まった。
時すらが存在しない完全なる無。
どのくらい何もない静寂の中に居ただろう。
広大な無の中に、淡い光が灯った。
「大丈夫」
どこからともなく優しい女性の声が聞こえた。
その希望と安堵の声を堺にゆっくりと闇が動き出す。
闇が動く速さが渦を巻いて一点に収縮した後に世界が凪いだ。
遥斗の閉じた瞼の間に細い光の線が走った。
遥斗の時間が止まりました。
次は、ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン、です。
明日は午後5時、17時過ぎに投稿してみます。




