クリムゾン宮殿の堕天使・後編
私と遥斗くんの入学を祝ってくれたような、校門から校舎の建つ丘の上に続く坂道に並んだ桜が散ってしばらくすると、拉致事件の犯人に情報を伝えた人間がお父様の会社の中にいた、という事実が告げられた。その石山という社員にも事情があったらしいのだが、私を動揺させたのは、私と同い年の息子が小学校から学校が一緒の、中学二年の時には同じクラスだった男の子だったということだった。目立たない男子で、あまり印象に残っていないけれど、石山くんに罪はない。そう思って折り合いをつけようようとした。けれどそうはならなかった。
彼は自ら死を選んでしまったのだ。
既に退職し、行方がわからなくなった父を恨んでのことらしい。一家は離散し、街からいなくなったと聞いた。
立ち上がって前を向こうとするたびに、呪いのようにあの事件がつきまとって離れない。浮き沈みの激しい精神状態を何とかするために弓道部に入って心を鍛えようとした。弓矢はお祖父様の神社の神事でもある。遥斗くんに自分の織った織物をみてもらいたいな。その気持を重ねて無心で矢を放つ練習をした。
相変わらず親しい友達は出来なかった。けれど弓道場を見下ろす昇降口の屋上に時折姿を見せる遥斗くんを見つけるだけで嬉しかった。
遥斗くんが見ていてくれる。
そう思うと、私も頑張ろうと思えた。その思いが夏を越えて、過ぎゆく時を支えてくれた。
ノーラがいなくなってから、家に戻ってもお祖父様の神社に出向くことはなくなっていた。秘密の扉を開くことだけが私が私であれる時間だった。それ以外の時間は、扉の裏に繋がるものにすがろうとして、織物の柄を空想したり調べることが唯一の楽しみになっていた。
遥斗くんと結ばれる日に着る着物はどんな模様がいいかしら?
私の気持ちを形にして織り込むにはどうすれば。
私はありとあらゆる分野の書籍をかき集め、模様の種類や意味を調べることに熱中した。どんどんのめり込む自分に疑問をもつこともなく、空想の世界の幸せに浸ることが、私にとってかけがえのない無上の喜びになった。数学の問題を解いているときでさえ、数式が模様になって浮かんでくる。いつしか幾何学は私の一番のお気に入りの科目になっていた。
もうすぐ三年間という残された時間が半分になってしまう。
シトシトと降り続ける梅雨空のようにじっとりとした焦りが心を蝕み始めていた。焦りが諦めになろうとする。こんなことではダメだ。私は強い自分を取り戻したくて遥斗くんと二人だけの妄想の世界に浸った。どんな時でもそれは私を裏切らなかった。
そんなある日、お祖父様にノーラがアメリカから帰ってくることを聞かされた。しかも二学期から西高に入るという。
光が差し込んでくるのを感じた。
いつものように、時間が止まったような長い夏休みを耐えればノーラが帰ってくる。帰ってくる。帰ってくる。――きっと遥斗くんとの時間も帰ってくる。
その日を夢みて数式を解いた。
その時は突然訪れた。一学期が終わる直前にノーラが学校に来たのだ。やっぱりノーラは遥斗くんを連れて来てくれた。昇降口から校門までの坂を下る短い間だけだったけれど、それこそ時間が止まったみたいな夢のような時間だった。私はその時間を与えてくれたノーラに心ばかりのお礼として不動産屋さんに電話を入れ、お祖父様に報告しに神社に行った。
「お祖父様、ノーラた会ったわよ」
「ほうか。よかったのう」
お祖父様の顔がいつもより優しく見えた。久しぶりに神社の境内に腰を降ろし、遥斗くんと一緒にいるところを想像して帰宅した。
「ただいま帰りました」
自宅に帰ると母が帰宅していた。
「どこに行っていたのですか。夏休みになったからと言って気を抜いてしまったの?」
私は母のきつい表情に説明することもなくすごすごと部屋に入った。
父にノーラの話ばかりをした夕食を終えると、自室に入りベッドに倒れこんだ。一度起き上がって扉を開けた。いつもより写真の中の遥斗くんが笑っているように見えた。やっと今まで考えていたことが現実になっていくんだ、嬉しくて、嬉しくて、勉強もせずにまたベッドに倒れこんだ。
あれこれ考えいるうちにひとつの結論に至った。
新しい世界に進もう。
自分で選んで自分の世界を生きよう。
そう思った私は、母との決別を意識した。
これまで怖くて、萎縮して、出来なかったことから抜けだしたい。きっと遥斗くんも喜んでくれる。私はゆっくりと手を伸ばし、生まれて初めて自慰をした。
恐る恐る指を動かす。慣れ始めた頃に吐息がもれた。体が温かくなって汗が流れる。遥斗くんを思い出しながらゆっくりと快楽に入っていく。気持ち良さに溺れて、温かいものにつつまれた世界の中で、私は遥斗くんと二人きりだった。かつてない安らぎと幸せにつつまれて、そのまま眠った。
翌朝、目が覚めると罪悪感に苛まれた。行為そのものに後悔はなかった。私を後ろめたくさせたのは、ノーラは遥斗くんのことが好き、という女の直感だった。ノーラが遥斗くんの家に泊まったことを知って、それは確信になった。
どうしたらいいの。
私が遥斗くんと結ばれたらノーラが悲しむ。たった一人で日本に戻ってくるほどのノーラの気持ちを私は挫くのだ。囚人のようなジレンマに陥った私は、考えることをやめて快楽に身を委ねるのが癖になっていた。
いつしか、何も考えなくていい真っ白な快楽の世界へ至ることを覚えた私は、毎晩恥部に指を伸ばした。
遥斗くんへの想いだけが私の中で赤々と渦を巻いていた。遥斗くんの姿を、弓道場を見下ろす屋上に思い出すと、遥斗くんの部活の後輩の女の子の姿も浮かんでくる。遥斗くんへの熱く燃え上がるような想いがどす黒い嫉妬に変わる。私と遥斗くんの世界を壊すものは全部消えてなくなってしまえばいい。そう思いながら、私はまた、真っ白な世界に戻ってゆくのだった。
このままではいけない。
昼間でも衝動を抑えられなくなった私は自戒するように部活に出る。
今日は工学部の大会の日だ。
遥斗くんの努力が実を結びますように。そう思いながら射場に立って弓を引くと、遥斗くんが私を見下ろしているのが見えた。
でも、遥斗くんが鞄から私があげたお守りを外しているが見えて心臓が飛び上がった。
遥斗くんにとって私がもう必要のない存在になってしまった、という思いが頭をよぎったのだ。でも遥斗くは外したお守りをすぐに自分の腕につけた。
大切な日だから身につけてくれたんだ。
放った矢は的を大きく外して砂の壁に刺さった。
赤と黒が入り混じった世界が真っ白になって、身体が宙に浮いたようで、身体が火照って動けなくなった。
こんなことじゃダメ。
私は射場から離れ、遥斗くんに背を向けて正座をし、黙想した。
立ち上がって振り向くと遥斗くんの姿はなかった。その日、その後、的に当たった矢は一本もなかった。
大会はどうだったかな? 遥斗くんが喜ぶような結果だといいな。
そう思いながらも、あの後輩の子は一緒にいたんだ、そう思うと、やりきれない気持ちになった。
ハルトくんに触ってもらいたい。ここや、ここも。もっと、遥斗くんを感じたい。もっと、もっと、遥斗くん。遥斗くん。遥斗くんだけのものになりたい。そのためなら私は何だってやる。グツグツと黒いものが煮えたぎる。でも無理やり手に入れようと思うのはあの男を同じなんじゃないの? また自分を阻むものとの間に私は陥って、情熱の赤と嫉妬の黒の間で揺れてはまた、真っ白になった。
そんな浮かれたり、落ち込んだりと、くるくると移ろう虚ろな夏が終わりを告げようとしていた。
ノーラから本格的に戻ってきてマンションに入居したと連絡がきた。その連絡には『わたしの誕生会をやってくれるんだけど綾乃ちゃん来れるかな?』という大きなおまけがついていた。
事件以来、自宅と学校、神社以外に足を踏み入れたことはほとんどない。母が許してくれるはずがない。私は返事をためらってしまった。
『明日、綾乃ちゃんが学校にいるなら話したいな。午前中しか生徒は学校にいられないみたいだけど時間あるかな? わたしは用事が終わったらハルトぅんの部室に行くと思う』
既読のまま返事を返さず、再びノーラから来たメッセージに、私は、
『帰る前になら会えるかもしれないけれど約束は出来そうにないわ』
と返した。
弓道場で弓を引く私はノーラとの関係を心配するよりも、ハルトくんと会える、という期待に胸が高なっていた。そわそわとした気持ちで袴を脱いだ。制服に乱れがないか、内心の乱れが表に出ていないか確かめたくて鏡を見てから弓道場を出る。
向かうのは生物準備室、遥斗くんのいる工学部の部室だ。ドキドキと鳴る心臓の音を聞きながら長い廊下を渡って、校舎の東側の階段を上がる。階段を上がって左を向けばそこはもう遥斗くんの部室だ。私は一度立ち止まって意を決してから階段を登りきった。
視線を左に向けると部室から緑色の光が溢れているように見えた。私は自分の正気を疑って、顔を振ってみたが景色は変わらない。
急いで教室のドアを開けると信じられない光景が広がっていた。
緑色の幾何学模様の中で、ピンク色の髪がふわっとしたかと思うとノーラの後ろ姿が突然消えた。その先には床に仰向けになった遥斗くんが倒れている。
「遥斗くんっ!」
私が駆け寄ると遥斗くんの体が床の中に沈んでいく。
何なのこれはっ!?
そう思っている間に遥斗くんの体は床の中に消えてしまった。
ノーラと遥斗くんが私の前から消えてしまった。
本当に欲しいものは何も手に入らない。
私自身も意識が朦朧としはじめた中で、ある思いが私の中に浮かんでいた。
自分の中で何度も何度も否定してきた思い。
ああ、やっぱり運命なんだ。私は遥斗くんと結ばれることはないんだ。
だって遥斗くんは星の名前だもの。
織物を織っても届くわけがない。
それ以来、私はずっとここにいる。
夢の中で遥斗くんの夢を見ている。
もうここから出たくない。
もしかして死んでしまったのかしら? それでもいいわ。生まれてからずっと小さな世界に閉じ込められていたようなものだし。でも遥斗くんといられるこの夢を壊すのだけは許さない。
私の目を覚ますようなものが現れたらこの世界ごと消してやる。
いっそのこと早くなくなっちゃえばいいのに。そうすれば私は永遠に遥斗くんと一緒にいられる。
「綾乃っ!綾乃っ!!」
また遥斗くんの声が聞こえる。いいえ、これは夢を見ているだけ。だって運命には逆らえないもの。さっきだって、白い騎士の盾の裏から出てきた人の形をしたものから遥斗くんの声がした。びっくりして逃げちゃったけれど、それでいいわ。
ここにいれば私はいつでも遥斗くんと会っていられる。
「綾乃っ!綾乃っ!」
うるさいわね。邪魔をしないでっ!!
「綾乃っ!!綾乃っ!!」
もう、遥斗くんたら諦めが悪いんだから。
……?
遥斗くん? 遥斗くんが私を呼んでる?
それに何だろう、心地のいいリズムの言葉と清らかなメロディーが聞こえる。
「綾乃っ!!」
うっすらと目を開いてみる。目の前に絹の糸が絡んでできた白い壁がある。壁を向こうで誰かが叫んでいる?
「綾乃っーーーー!!!」
「遥斗くんっ!?」
遥斗くんがいる? 遥斗くんがいる。現実の遥斗くんが壁の向こうにいる。
そう思った瞬間、体の中に熱が生まれた。
目の前の壁が赤くなる。
私を包んでいる宮殿が真紅になったことが解った。
遥斗くんがいる。遥斗くんがいる。遥斗くんがいる。遥斗くんがいりゅぅぅぅぅ。
世界が真っ白になった。
これまで私をここに縛っていたものが絶ち切られる感覚がする。
繋がれていた白い糸が揺れている。
あ、遥斗くんが私の敏感なところに触れている。
だめっ、また……っくうぅぅぅぅぅう、
はぁ、はぁ、――――鼓動がうるさい。頭がしびれる。
来て、遥斗くん。
純白の壁に一筋の鮮やかな赤が流れ、割れ目から遥斗くんが入ってくる。
体中の水分が目から溢れた。
「綾乃、大丈夫か?」
遥斗くんに抱きしめられた私は
「――ええ」
頭がしびれたまま
ぐったりとして
震えながら
声を出した。
次回、「人の間」
金曜日の投稿になります。




