クリムゾン宮殿の堕天使
長くなったので二話に別けました。
年が明けても中学二年生のクラスは、最後まで重い空気のまま春を迎えた。
私はクラス替えが遥斗くんによい方向に働くように祈りながら、別のクラスになった遥斗くんの姿を廊下や体育の授業をしているグラウンドに探した。言葉を交わすことはなかったけれど、すれ違いざまに、ほんの少し明るくした顔を向けてくれると、身体が火照るように疼いた。遥斗くんの鞄に私が渡したお守りが揺れているのを見ると、一緒にいられているような気がして、その時だけは心が落ち着いたのを覚えている。そうして夏が来て、また秋が来た。
その日もそうだった。
遥斗くんと会えたらいいな。まだ鞄にお守りはついているかしら? そんなことを思いながら放課後の廊下を歩いていると『お迎えの車が事故にあいました。代わりの車を手配しているでしばらくお待ち下さい』というメッセージを受け取った。『たまには歩いて帰ります』と、スマホで返した私は遥斗くんの姿を探して昇降口で待った。
秋の長雨に、生徒たちが傘をさして玄関を出てゆく。リノリウムの廊下を歩いてきた遥斗くんは、他の人に分からないように、少しだけ私に手を上げてから、鞄のお守りを触った。たったそれだけのことだったけれど、嬉しくて、嬉しくて。
小雨模様の校舎の外を、傘で顔を隠しながら歩いた。
他の生徒たちに混じって歩く。
ただそれだけのことなのに、みんなと同じことをしている連帯感と、慣れない不安を入り混じらせて校門を出た。校門を出るとすぐにスマホを取り出す生徒が多いことに気がついた。私にとってスマホは持たされている物で、触れることを待ち遠しく思うような物ではないことをあらためて感じた。
いつもは窓の外で流れていくだけの通学路の途中に、パトカーと後ろのボンネットの形が変わってしまった送り迎えの車があった。白い雨ガッパを着た警察官を相手に、事故処理をしている運転手さんに事情を聞き「くれぐれもお気をつけて」という運転手さんの言葉に「大丈夫ですよ」と答えて再び帰路についた。
自宅に続く道に入ろうと角を曲がった途端だった。
黒いワンボックスカーのスライドドアがすれ違いざまに開いて、中から伸びてくる人の手に腕を捕まれたまま、強引に車内に引き込まれた。突然のことに防犯ブザーを鳴らす暇さえなく、急発進した車の中でマスクとサングラスをした男に体を取り押さえられ、何かのスプレーを顔に降りかけられた。
朦朧とする意識の中でアイマスクと猿ぐつわを付けられているうちに意識を失った。
男たちの話し声が聞こえる。
まだ朦朧とした中で私は目を覚ました。
腕は後ろ手に、足首も縛られて、視界は塞がれたままだ。口には布がまわされていて声も出せない。埃っぽさと油が混じったような匂いがする。コンクリートに上にいるのか、お尻と背中が冷たい。
「目が覚めたか」
後ろから聞こえる男の声がコツコツと足音をたてて近づいてくる。
後ろからアイマスクを上げられ、光が戻ってくる。
広く薄汚れた廃倉庫のようなところだった。
日が暮れて夜になっているらしく煌々と白い光を放つ古びた蛍光灯が眩しい。
「そういうことだ。騒がないでおとなしくしていろ」
拉致されたことを自覚した。
「鞄やスマホは処分した。GPSで追われることはない」
それほど大切だと思わなかったスマホを処分されたことがこんなに心細いなんて。
自分がこの世で独りぼっちになってしまったような気がして、怖くて、怖くて。
再び視界が塞がれ、横に転がされた私は得も言われぬ恐怖に襲われた。パニックになって心の中で「助けてっ! 遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん」だたそれだけをずっとくり返していた。
「出発の時間までには戻る」
首謀者らしき男が出ていった。ギィーという扉が軋む音が収まると、後ろの男たちが話しだした。
「楽勝な仕事だったな」
「ところでドコの誰なんす? お嬢様っぽい感じはするけど」
「俺たちにはカンケーねぇんじゃね?」
「そりゃそーだけど、結構な玉ですぜこりゃ。サラサラな長い黒髪もいいねぇ」
男の手が私のい首元から髪をすくい上げたのがわかった。私はただただ震えていた。
「おい、余計なことすんじゃねぇ。俺は隣で仮眠してくる。昨日から寝てないからな。これから長いドライブになる。しっかり見張っとけ」
その声の主がたてる足音が遠のいてからは静かになった。背後にあるらしき椅子が位置を変えたらしきコンクリートを擦る音が時々するだけだった。
どうしよう、どうしたらいいの。
そう思っても、できることは何もなかった。こみ上げてくる恐怖に胃が縮み、制服越しに伝わってくる冷たいコンクリートの感触に小刻みに身体が震えた。私は遥斗くんに、お祖父様、父、と交互に心の中で助けを求め続けた。
また男が座っているらしき椅子が動く音がした。今度は立ち上がったようだ。足音がさっきの男が向かった方向にゆき、扉を開けて締める音が二回して足音が戻ってくる。
「ありゃ完全に寝てるな」
つぶやくような声がしてさらに足音が近づいてくる。
「ちょっとくらい楽しませてもらわねーとな。割に合わねぇんだよ」
タバコの匂いがして何か薬臭い手が私の身体を起こした。
アイマスクが上げられた視界に髪の毛を明るく染めた、いかにも反社会的な男がタバコをくわえた顔を近づけてくる。手にはナイフが握られていた。
「さっき元気になるもんやっちゃってさ、性欲も元気になっちゃったんだよねぇ」
黒いシャツをズボンから出して、ベルトを緩めた男の手が私の髪の毛をすくい上げる。
「口に突っ込むと大声だしそうだからな、こっちにしてやるよ」
黒い服の男に私の太ももの内側をまさぐられた私は身体をよじって必死に抵抗した。
「おとなしくしてろって。すぐ済むからよお」
私の髪の毛を口に含んだ男の手の平が胸を這い、スカートの中に入ってくる。
嫌あああああーーーーーー、嫌、嫌 嫌 嫌 嫌、嫌、嫌、嫌、やめて、やめてっ、嫌っ、嫌、嫌、嫌ーーーー、嫌、嫌、 嫌、嫌、嫌、嫌、 嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、 嫌、嫌、嫌、嫌、嫌ーーーーーーーー、
叫んでも、叫んでも、声にならない振動が喉元で鳴るだけだ。
助けてっ、遥斗くん。遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、遥斗くん、
遥斗くん助けてっ!!!
ガチャン!! ガラスの割れる音がした。投げ込まれた何かから煙が上がる。
「何だっ!?」
口元を押さえて立ち上がった男が振り向く間もなく、倉庫の出入り口が開いてヘルメット被って盾を持った人が何人も流れ込んでくる。紺色の軍服のような服に重ねなられた防弾ベストに「POLICE」の白い文字が見えた。私を犯そうとした男に拳銃が突きつけられて拘束された。隣の部屋の扉にも銃口を持った隊員が突入していった。
「婦女暴行の現行犯と略取実行犯容疑者を確保。被害者を保護しました」
特殊部隊のような男の言葉に、スーツを着た女性が警官隊の中から出てきた。
「神宮路綾乃さんですね。できるだけ怖がらせることがないようにタイミングを見計らっていたのですが、早急な対応が必要になったと判断し、このようなことになりました。怖がらせてごめんなさい。安心して下さい」
後ろから続いてきた刑事さんに毛布をかけられた。
ありがとうございます、の言葉さえ言えずに、私は震えていることしか出来なかった。
護送車のような窓に網のついたトラックの横を通り、パトカーに乗った。渡された温かいペットボトルのお茶を飲んで初めて自分が助けられたことを実感した。
警察署ではお父様とお母様が待っていた。簡単な事情聴取のあと「今日はお帰りになってお休み下さい」と言われた。
恐怖で混乱していたのか、思い出すことすら怖くて思い出すのを心が拒否したのか、その後の記憶は曖昧だ。私の身体をまさぐった男の感触だけが鮮明に残ってしまっていた。警察が居場所を特定できたのは私の靴底にGPSが埋め込まれていたからだった。通学用の革靴は、いつもお手伝いさんが磨いて玄関に用意してくれていた。私を不安がらせないように私に知らされることなく取り付けられていたものだった。
後に学校との送り迎えの車が事故にあったのも計画の一環だったことが判明した。
使われた下っ端が馬鹿な男だったことが突入を決意させたらしい。
未遂、という言葉が使われるたびに、あの時の私の気持ちを軽々しく扱われている気がした。母の言い付けを守ってきたことは何だったのだろう。こんな目にあってまで世の中のために我慢して生きていかなければならないの。これまでの私を支えていた価値観は崩れた砂の城のように散っていた。求めるものを何も手に入れられない私。私の中で遥斗くんの存在だけが唯一無二の私を支える存在になっていった。
けれども、汚ならわしい男に触られた、その思いが遥斗くんさえも私から奪おうとした。私はそれに必死に抗い、消えない記憶を遥斗くんの笑った顔を思い出しては忘れようとした。学校に行くことはできなかった。事件が報道されることはなかったけれど、私は人を信じることが出来なくなっていた。
私は男に触られた部分の髪を切った。
妖精の森では覚醒した將の乗るフォルーマージュと、ハルトのアバターシュの格闘が続いている。
アバターシュの左腕を切り落としたフォルマージュが繭に近づく。
「綾乃、なんだろ?」
剣を下げたフォルマージュの黒い機体を繭に近づける將。繭が一瞬で漆黒になり、繭に近づいたフォルマージュを弾き返した。
「嫌っーーー」
事件の後、黒い服を着たあの汚らしい男が私に近づいてくる夢を何度もみた。その度に黒い塊になった恐怖とねっとりとした汗が身体をつつみ、必死に黒い男から逃げようと夢の中でもがき続けた。
「助けて、遥斗くん……」
嫌な夢を見る度に私は、秘密の扉を開けて写真の中の遥斗くんの姿を見て何とか落ち着くことを覚えた。
繭に弾かれた黒騎士は、地面に転がるアバターシュの左腕につまずき、尻もちに後ろ手をついた。稲光りする雲をかぶった木々の上から、片腕で剣を握ったアバターシュが降下する。フォルマージュの右肩に食い込んだ剣を背後から引き抜くと、パイロットの姿が見えた。
振り向むいた男に向かってアバターシュが右腕を伸ばし、袖下の射出口から眠りの粉を放った。
事件の後、両親は海外の高校に留学することを勧めた。
全寮制の学校で安全だという。
精神的な不調から勉強に手がつかず、合格確実だった学区内トップの高校を受験することに不安をもった両親の勧めだった。しかし私はお祖父様の母校を受験したいと言い張った。たぶん遥斗くんが行くことになる高校なのが本当の理由なのを隠して押し通した。お祖父様が理事長を務める学校ならば……、両親が折れてからは、遥斗くんの通う高校に一緒に行くことを目標することで、家の中で受験勉強を再開することができた。
社会的にしっかりとした人間であろうとすることに意味を感じることはなくなっていた。
遥斗くんが近くにいてくれさえすればいい。
遥斗くんさえ、遥斗くんだけがそばにいてくれればいい。
そう思うようになっていた。
事件以来、中学校に戻ったのは卒業式だけだった。式辞を読むこともなく、体調不良を装って卒業した。しかし私の心は晴れやかだった。遥斗くんと同じ高校に通うことが決まったのだから。
「また同じ学校ね」
真新しいセーラー服を着て、満開の桜の中で遥斗くんと再会したその日、いざ遥斗くんの前に立った私はどう向き合えばいいのか分からなかった。穢されてしまった自分と、遥斗くんのことばかり考えている自分を、どう現実の遥斗くんに向けていいのか分からなかった。
随分とそっけない態度になってしまったと思う。
それでもこれからの三年間を同じ校舎過ごすのだ。きっとまた仲良くなれるチャンスはある。そう思って何とか心を落ち着けた。
両親やお祖父様は喜んでくれたけれど、遥斗くんと同じ高校に行きたいばかりに頑張りすぎて、遥斗くんのクラスから離れた特進クラスになったしまったことを後悔した。学校との行き帰りも昇降口まで車が寄せられるようになって、遥斗くんとあまり顔を合わす機会のない高校生活が始まった。
続きます。




