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甲殻の翼  作者: 月弓 陽
王都編
109/148

神宮路綾乃

「綾乃! 綾乃っ、綾乃ーー!!」

  ハルトの叫びにも似た呼びかけにも、目覚めることのない綾乃は繭の中で夢をみていた。


 遥斗くんの声が聞こえる? いいえ、これは幻聴よ。

 何度も聞いてきた。

 私が夢の中で作り出した遥斗くんの声。

 時間が止まった真っ白な世界にいれば私はいつだって遥斗くんに会える。

 優しくゆれる白い波の中に身を委ねてさえいれば、遥斗くんが来てくれて、私を抱きしめてくれる。

 これが私の至福の時間。

 何物にも変えられない私だけの空間。

 とろくさくて、怖がりで、何も出来ない自分が自分らしくいられるたったひとつの場所。

 そうして私はいつものように夢の中に堕ちてゆく。


 小さい頃の私は怖がりで不器用な子供だった。自分でも自覚できるほどそういう子供だった。自分が何をしたいのか上手く伝えられず、向きたい方に向いては転び、欲しいものを手に取ろうとすれば落としてしまう。そんな子供だった。たぶん他の子と比べてもどんくさい子だったのだろう。「この子はほんとにしょうがないわね」母にそう言われるたびに「出来なくてごめんなさい」と心の中で謝り、次はちゃんとやるから、その気持ちが強すぎて、いざその場になると緊張して失敗してしまう。そんなことを繰り返していたのが私に残る一番古い記憶。

 

 保育園というところには行かず、幼稚園に入ったときには、周りにはすでに保育園時代からのお友達の輪があって、ダメな子の自分がその中に入っていく勇気はなかった。

「アヤノちゃんは幼稚園からのお友達だけど仲良くしてあげましょうね」

 先生はみんなにそう言ってくれたくれたけれど、失敗することを笑われたり、責められたりすることが怖くて、怖くて。夏になってもお友達の輪の中に入ることはできなかった。

 私は送り迎えの車の中から、日差しを眩しそうにして、手をつないで歩いて帰るお友達を見つめることしかできず、仲良くおしゃべりするお友達を羨ましそうに見つめ、お友達を見守るように胸を張って咲くひまわりの列にさえ、仲間はずれにされているんだ、と思った。

 私は口をつぐみ、目立たないようにすることだけを考えて過ごした。

 年長さんになったある日、少しだけ仲良くなったちーちゃんが砂場遊びに誘ってくれた。ちーちゃんと二人だけのときには緊張しないでしゃべれるようになった私は恐る恐るジョーロを受け取った。

 思ったより重い。しっかりがんばらないと。

 そう思ったときには手がすべっていた。重いジョーロは砂の山を崩し、流れ出た水がみんなが作った世界を壊してゆく。

 ごめんなさいっ。

 私はあわてて砂の山だったもの前に膝をついて、泥水にまみれたジョーロを拾ったけれど、もう遅かった。男の子たちから非難の声があがる。私を誘ってくれたちーちゃんまで責められ始めたときになってはじめて、勇気をふりしぼって謝った。

「ちーちゃんは悪くない。わたしが悪かったの。ごめんなさい」

 ちーちゃんに向けられた矛先は収まったものの、私に対する非難はどんどん大きくなっていく。泥だんごを握った男の子たちに囲まれた。

 どうしていいのか分からない私は、膝が震えて、涙で視界がにじんだ目を手で押さえて、何も見ないようにすることしか出来なかった。

「謝ってるんだから許してやれよ」

 私の中で、とても大きな声が響いた。その声を出した男の子はそんなに体が大きいわけでもないのにリーダー格の大きい男の子の前に立っていた。

「関係ない子も汚れるだろ、アヤノは謝ったんだから許してやれよ」

 そう言った男の子は、

 リーダーの周りではやしたてる男の子たちにさえ、

 独りで立ち向かっていた。

 男の子たちに囲まれて、ほとんど話したことがないとはいえ、女の子のお友達も巻き込んで大変ことをしてしまったことに何も考えられなくなって、ただ呆然と立っているだけの自分の前にいる男の子の背中がとても大きくみえた。それは両親と祖父母以外にはアヤノちゃん、お嬢様としか呼ばれたことのない私をアヤノ、と呼んだ初めての男の子の背中だった。背中に大きく縫われた名札にハルトという名前が書いてあった。

 ハルトくんをからかい「ハルトとアヤノはできてる~」取り囲んでいた男の子たちが()()()()()()()の周りをグルグルと走る。ドキン、ドキン、心臓から聞こえくる音がとても大きかったのは、これからどうなってしまうのかという不安だけではなかった。


 砂場事件のあと、私は同じたんぽぽ組みのハルトくんをよく見るようになった。ハルトくんの真似をして隣のお友達に話しかけるとなんなくおしゃべりすることができてしまった。ほんの少しずつだけど、私はお友達とおしゃべりすることができるようになっていった。

 ある日の夕食で、幼稚園は今年で終わりで来年の春からは小学生になることが話題になった。その前に幼稚園で一番大きな行事、お遊ぎ会、があることが父から伝えられた。父は「劇をやるならアヤノのお姫さま姿が見られると嬉しい」と言い、母は「引っ込み思案で不器用なアヤノに主役なんて出来るかしら? 私も綾乃の晴れ姿を見て見たいとは思いますけれど」と言った。私に決意させたのはお祖父様の言葉だった。

「綾乃はやればできる子じゃ。担任の先生もそうおっしゃっておったんじゃろう? 綾乃、大丈夫じゃよ。勇気を持ってやってご覧なさい。すごく勇気のある友達をかっこいいと思ったんじゃろう? おまえにだってできるはずじゃ」

 いま思えばこのとき、両親たちには配役が先に知らされていたのだ。後になって、私が出来ない、と落ち込むことを避けるための配慮だったと祖父が教えてくれた。

 そんなことを微塵も知らない私は翌日、主役をやることを宣言した。それまでの私のイメージから、無理だ、という声や、人気のある女の子を推す声があがった。

「やーめーろ、やーめーろ」のコールが響く中、私はお母さんを失望させたくないのもあって自分を通した。いや、通させてもらったと言ったほうが正しいのかもしれない。

 そうさせてくれたのはやっぱりハルトくんだった。

 ハルトくんに守られて、ハルトくんが作ってくれた道の上に立つ覚悟をしたんだ。今ではそう思う。

 意を決してお稽古に打ち込んでいると、自然とお友達との間にあった垣根が取れていった。私は自信をつけ、さらにお稽古を頑張った。自分がどんどん変わっていくのが分かった。両親ともが観に来てくれたお遊ぎ会を無事に終えたときには、私の苦手な怖い男のたちのリーダーが謝ってくれた。それを見たハルトくんとリーダーのマサルくんは仲良く一緒に笑っていた。

 一番うまくいかなかった怖い人とも仲良くなっちゃうなんてすごい。

 私はまだまだだなぁ。ハルトくんみたいな人になれるかなぁ。

 そんなことを思いながら大きな行事をやりきった清々しい気持ちで夏空の下の幼稚園を出るた。

 大きなひわまりが「よくやったね」と誉めてくれているように見えた。

 その日から世界が変わったように思えた。


 小学校に入ってしばらくすると、私はまた自信を失った。

 お母さまの言いつけを守り、学校で出会う誰しもを、名字にさん、をつけて呼ぶ私は、徐々にクラスの中で浮いていった。いいえ、私が沈んでいったのだ。気安く呼びあえる友達を作れず、登下校も送り迎えに車がやってくる私とクラスメートの間には見えない幕があるようだった。

 廊下や校庭でハルト君とすれ違うたびに、昔のように「ハルトくん」と呼びたかった。

 でも母の言いつけを破る勇気は私にはなかった。

 ハルト君とマサル君が一緒にサッカーボールを蹴るのを教室の窓から見ているのが好きだった。

 いつも私は外側から二人を見ていた。

 二年生になり、三年生になる頃には、自動車メーカーの創業家の娘というものがどういう存在なのか、うっすらと分かって来た。両親や周囲に期待される人にならなければ、一生懸命に勉強をしたことが余計にクラスメートを遠ざけた。学校ではほとんど誰とも話さずに車に乗って帰って家庭教師と向き合う日々が私の全てだった。

 そんな私の冷たい日常を変えてくれたのがノーラだった。アメリカ人なのに日本語を覚えて日本の学校に転入して来た小さなノーラ。図書委員という奉仕活動が私とノーラをつないでくれたことが嬉しかった。まるで妹みたいな大切な友達を遥斗くんが届けてくれたように思えて、ノーラから聞く遥斗くんの話が大好きだった。そして、自分が遥斗くんとノーラのいる世界にいないことをちょっぴり恨んだ。でも私が何も知らない遥斗くんが家でゲームをしたり、妹さんやノーラと遊ぶ姿を想像することは簡単に出来た。遥斗くんだったらきっとこうなんだろうなぁ、そう思ったことがノーラの話にそのまま出てくると、やっぱり、心の中で手をたたいてしまうほど嬉しくなった。

 友達と呼べる誰とも会うことのなかった夏休みが終わると、私はウキウキとした気持ちで登校し、ノーラから遥斗くんの家族とキャンプに行った話を聞いた。来年は絶対に行く、そう心に決めて翌年よくとしの夏を楽しみにすることにした。英会話の家庭教師さんに辞めてもらって、ノーラと一緒に過ごせるようになった英会話の時間は私の宝物になった。お祖父様の神社でノーラと楽しくしゃべる時間が私を支え、蝉の鳴き声が聞こえてくるようになるとノーラからその年の夏休みの予定を聞き出した私は、その日に家庭教師やお稽古ごとの予定を入れないように孤軍奮闘した。けれどお母様にキャンプに行きたいと言い出すことがなかなかできないまま、カレンダーの印の日が近づいてくる。

 口数が少なくなった私にお祖父様が声をかけてくれた。

 忙しい父と厳しい母。冷たい家族関係の中で唯一私の理解者だったお祖父様に私は望みを打ち明けた。

「わしが連れて行ってやるで心配せんでええ」

 そう言ってくれたときには飛び上がって喜んだ。

 

 あの夏の日ことは今でもはっきりと思い出すことが出来る。

 

 降り注ぐ日差しに全てが、この世界の全てが輝いていた。

 遥斗くんと一緒に歩き、ノーラと森に入って花を摘んだ。ノーラが「この花は綾乃ちゃんに似合うねぇ」そう言いながら白い花を麦わら帽子に差してくれる。

 長い吊橋つりばしを渡るのだって怖くない。そう思ったけれど、いざ橋のたもとに着くと足が震えた。怖がりの自分は変わっていなかった。落ち込みそうになる自分を遥斗くんは優しくリードしてくれた。心臓が胸から飛び出てしまいそうなくらいに大きな音をたて、一歩一歩、遥斗くんと吊橋を歩く。足元で揺れる板の間から、深い谷底に流れる川が見えて、川辺にいる家族は米粒みたいに小さい。目眩めまいがしてこのままここから動けなくなってしまいそう。でも遥斗くんがいてくれる。だから大丈夫。自分に言い聞かせながら下を見るのをやめて足を上げた。一歩、また一歩と進むうちに視界の中で山の斜面が切れていった。

 

 突然、山と山の間に開けた景色に思わず立ち止まった。


 自分が住んでいる街並みが遠くに小さくたたずんでいた。


 いままでよどんでいたものをさらうように風が通り抜けた。


 極度の緊張から突然開放されたような私は、いつもなら絶対に口にしない自分の弱いところを遥斗くんに告げていた。バカバカ、なにやってるの? と、思いながらも止まらなかった。自分の弱さを吐露してしまい、それを止められない自分の弱さ。それすら遥斗くんはそのまま受け止めてくれた。私は遥斗くんを神社に誘ってしまっていた。自分でも顔が熱くなるのがわかった。そんな私に遥斗くんは「今日はハルトくんでいいからな」そう言ってくれた。

 夢のような時間だった。

 みんなと合流してまた行進が始まる。恐る恐る暗い森を進み、明るい世界に戻ると、そこは色鮮やかな花に彩られていた。

 サルビアの花を遥斗くんと一緒に見て花言葉を知った。

 私の中に赤く燃えさかるような遥斗くんへの想いが渦巻いていた。

 目的地のセンターにたどり着き、お祖父様が勧めていたカブトムシ相撲を見た。夢中になって応援する遥斗くんをかわいいと思った。大きな外国のカブトムシをひっくり返した日本のカブトムシが空に舞う。大空を飛んでゆくカブトムシを見て今日の自分と重ねた。

 今日という日を絶対に忘れない。

 そう思いながら私は、夏空の中で小さな点になって消えてゆくカブトムシを見つめた。

 今日という特別な一日。

 時間を止めてでもつなぎとめたい一日。

 しっかりと心に刻み込もうとしていたときにノーラが「綾乃ちゃんも泊まっていけばいいのに」と言い出し、それをお祖父様が許してくれた。特別な一日は特別な夜になった。みんなと一緒ご飯を外で食べて、星をみて、ノーラと遥斗くんの妹さんとテントの中で一緒に眠った。自然に目が覚めた。登った朝日がテントの中を緑色のテントの色でいっぱいにしている。目覚まし時計を何とか止めようとしてモゾモゾと起き出すいつもとは全然違った朝。ノーラにTシャツや短パンを借りて川に行った。川の中で水の掛け合いをして転んで水びたしになって、遥斗くんのお母さんに怒られた。怒られて嬉しいと思ったのも初めてだった。

 あの日、撮ってもらった集合写真は今でも自室の机の上の写真立ての中にある。

 私のごく個人的なものを入れて置く、お手伝いさんさえ触らないクローゼットの扉の内側には何枚もの遥斗くんとの写真が貼ってある。

 その中にはお祖父様の神社でノーラと三人で撮った写真もある。

 吊橋での私のお誘いを遥斗くんは覚えていてくれた。ノーラとの英会話の時間に時々遥斗くんも来てくれるようになったのだ。その時間だけは遥斗くん、綾乃、と呼び合えた。私たちはたくさん話をした。家での遥斗くんはやっぱり私が思っていた通りの人だった。私からは神社の由来や神主であるお祖父様の孫娘として将来なすべき神事の話をしたこともあった。

 弓矢と織物。

 私が神様に捧げる神事のひとつは織物だ。しかし織物には神事以上の意味が私にはあった。神宮路の女は嫁に行くときに自分で織った布をまとって嫁ぐのだ。将来、という漠然としたものが私の中で形になってゆく。さすがに恥ずかしくて遥斗くんには言えなかったけれど、成人したら織ることになる布の柄を考えることが私が熱中することのひとつになった。


 六年生になって生徒会に入り、生徒会長という役職と引き換えにノーラとの学校での時間を失った私は、夜な夜な鍵を開けては扉を開き、内側に貼り付けた思い出に浸って毎日を何とか切り抜けた。小学校最後の夏休みに、お母様に反対されてお稽古ごとを休めなくなったときには泣きながら集合写真を胸に抱いて眠った。

 父と母は恋愛結婚だったそうだ。また口数の少なくなった私にお祖父様が話をしてくれた。全国区の政治家の娘からの求婚を断って父は母と結婚したそうだ。見合いよりも職場での恋愛結婚を望んだ父だったが、さして名家の出ではない母に取っては大変なことだったようだ。何かにつけ劣等感に苛まれることもあったのだろう。そこにきて生まれたのが引っ込み思案で不器用な一人娘なのだ。お母様が私に向けて放つ言葉のひとつひとつが、苦労をさせたくない、と思ってのことだったのだろう。しかし、私にとっては重圧以外の何ものでもなかった。


 小学校最後の行事はクラス対抗サッカー大会だった。運動が得意でない私は女子のバスケットには目もくれず、男子のサッカー観戦に夢中になって心の中で遥斗くんを応援した。中学からは別の学校に通うことになる親友のまさる君との別れを惜しむようにサッカーに打ち込む遥斗くんを心の中で大声を上げて応援した。

「優勝おめでとう」

 最後まで勝ち続けた二人に、心からの祝福を、表彰状を授与する台から送った。公の行事を自分の個人的な想いを果たすことに使っていることは、後ろめたくもほんのちょっぴり気持ちよかった。それと同時に私は遥斗くんと同じ中学校に進めることに内心ほっとしていた。中高一貫校への進学を、勇気を出して断ってよかった。心からそう思った。遥斗くんがそばにいない中学生活を想像するのも嫌だった。

 

 中学生活の始まりは予想通り順調ではなかった。もともと友達のいない私に他の小学校から入学した生徒との距離を縮めることはできなかった。

 でもそれでもよかった。

 ふとした瞬間に目があったり、廊下で遥斗くんとすれ違うことができるのだから。

 自分が生まれ持ったものを受け入れよう、運命・・として諦めよう、周囲の期待に応えられる人間であろう。そう決心して変わらない学校生活を受け入れた。勉強は得意だった。友達がおらず、母の期待を満足さえさせれば私に近づいてくる恐怖はないのだ。母からの重圧から逃れるには目の前に用意された参考書と問題集を解きさえすればいい。それは私にとって手っ取り早く簡単なことだった。楽しむことも、充実感も、充足感も、何も感じることなく私は黙々と勉強をこなした。


 二年生になって遥斗くんと同じクラスになった。内心嬉しくてしょうがなかった。同時にノーラも同じ中学に入学した。きっとまた楽しい時間が訪れる。その期待とともに春が過ぎ、夏が来たが何も変わらなかった。変わらなかったどころか最悪の事態が待ち受けていた。遥斗くんが他のクラスの生徒のお金を盗んだといううわさが起こり、扇動していた生徒を私はどうすることもできなかった。せいぜい証拠のない虚言をさも事実かのように言いふらさないように、学級委員長として注意したくらいだ。夏休みに入ってノーラからアメリカに帰国することを告げられた。遥斗くんが怪我をして入院していることを知ったのはノーラを見送りに空港に行った時だ。お見舞いに行こう。今日こそ行こうと何度も思ったけれど、夏休み前の不甲斐ない自分が足を止めさせた。二学期が始まった初日に遥斗くんは来なかった。どんなにひどい怪我なのだろう。

 自分は馬鹿だ。

 なんでお見舞いにすら行くことが出来なかったの。ひたすら落ち込んだ。しかしそれは悪夢の始まりでしかなかった。新井という目つきの悪い生徒の流言にクラス中、いや学校中が従う空気になってしまったのだ。私はホームルームを開いて、その空気を何とかしようとしたけれど、全体に流れる空気に逆らうのは誰だって怖い。私にその流れを変える力はなかった。


 自分の無力さに打ちひしがれた二学期が終わり、クリスマスがもうそこまでやって来ている風の強い、寒い日だった。

 街の中で遥斗くんの家族が前を歩いてくるのを見つけた。

 ペットショップから出てきた両親と小さな茶色い子犬を抱いた妹さんは「これでお兄ちゃん、少しは元気が出るかな?」心配そうに両親に話しかけた。

 家の中でしゃべることもなくなってしまった遥斗くんを想像して胸が痛くなった。言葉の表現ではなく本当にそうなるんだと、そのときに初めて知った。せめて何か出来ることはないかと考え続け、組紐くみひもを編んでお守りを作ることにした。七本の紐を編み込みながら、私には遥斗くんとの将来のために織物をする資格なんてないんだ、と、思った。せめて遥斗くんにこれ以上災いが降りかからないことを祈りながら組紐を編んだ。アニメが好きな遥斗くんのことだ、きっとあの映画も見ていて気に入ってくれる。もしかしたら渡す時に冗談を言ってくれるかもしれない。

 もう一度遥斗くんに笑ってほしい。

 その場面を想像しながら何度も手を交差させた。

「新年のご挨拶に親戚の家に行くわよ」

 母の言いつけを「体調がよくないから」とうそをついて私は部屋にこもり、黙々と手を動かした。


 そのときは意外に早くやってきた。初詣客が落ち着いた頃になって遥斗くんと妹さんの後ろ姿を神社の中で見つけた。

「お祖父様が困ってらっしゃるから」

 母を説得して巫女装束を着続けたのが吉と出たようだ。私は急いでお守りの売り場を出て草履を履いて走った。帰りの鳥居をくぐろうとしていた遥斗くんを見つけて声をかけた。妹さんは犬を連れて先にゆき、遥斗くんと二人になった。

「遥斗くん、あの、守ってあげられなくてごめんなさい。せめてこれを」

 自分がしてあげられなかったことをしっかりと詫びることもできずにオズオズと紙包を差し出す。袋の中から組紐ブレスレッドのお守りを出した遥斗くんはやっぱり冗談を言ってくれた。あまりにも想定通りなのにあっけに取られた私は、つい笑いだしてしまった。

 ほんの少しだけ遥斗くんの顔が明るくなった気がした。


繭の中で夢を見る綾乃の独白がもう一話続きます。

次回「クリムゾン宮殿の堕天使」 

水曜日の投稿になります。

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