息子の婚約者は、私の推しの子です。
痛む腰を侍女らに労られながら、お気に入りの庭にある四阿でお茶会をしたコメットは、いつも通りベッドの中でエリスのことをシリウスに報告した。
「それで、エリス嬢は泣いてたかい?」
「まさか。貴方だってエリスちゃんのこと知ってるでしょ」
「残念だ。あの強い子の泣きっ面を拝めると思ったのに」
「だとしても拝めるのは私ですけどね」
「君は本当に昔からあの子が好きだよね」
「嫁姑の仲が良いのは良いことでしょう?」
「そうだね」と目を細めて、一つ欠伸を零した。欠伸が可愛いなんて言ったら「君には負ける」なんて言われた。この野郎。
昔から、それはまだエリスが一桁の歳の頃からコメットはエリスを見守ってきた。見守ってというのは語弊だとよく侍女に言われるが、首を傾げておく。確かに見守るよりもちょっと前衛的であったことは認めよう。
コメットがエリスを認識したのは梅の香りが芳しい春を迎える季節の頃だった。今日も今日とて、侍女を伴って城内をお散歩していたのだ。侍女から言わせてみれば奔放な王妃殿下を追い掛けていたらしいが、知らぬ。
梅の香りに誘われながらふらふらとしていれば東の塔に続く渡り廊下まで来てしまっていた。ふと、滑らかな弦楽器の音が聴こえて、きょろきょろすれば珍しいものが目に付いた。
小さな女の子が弦楽器の音に合わせてくるくる回っているのである。コメットは、パカッと開いたオルゴールを思い出した。くるくると白いドレスを着たお姫様と燕尾服の王子様がオルゴールに合わせてくるくる回っているのだ。しかし、視線の先にいる女の子には王子様はいなかった。ただ一人でくるくる回っているのである。ステップというにはまだ拙かった。
城内には様々な人間が出入りしている。が、幼い子どもは見たことなかった。下働きの子にしては身綺麗である。下働きの子がくるくる回ってるのもおかしいか、と思い直し首を傾げていればやっと追い付いた侍女が、「アダマス公爵閣下の御令嬢です」と教えてくれた。息も絶え絶えだった。
公爵家の御令嬢が城で何をしてるのかと続けて問いかければ呆れた顔をされてしまった。何故だ。「エリス様は王太子殿下の婚約者候補ですよ」だそうだ。そりゃあ呆れた顔をされても仕方ない。
くるくる回る姿を暫く眺めていれば、エリスは自分の足に引っかかって転んだ。くすくす笑ってしまったが、きっとシリウスがいたら「君に笑う資格あるのかな?」なんて憎まれ口叩かれたことだろう。自他認めるほど、私はダンスセンスが皆無であった。何度シリウスの足をヒールで踏んずけたことか。
それから、私は度々そこに行ってはくるくる回るエリスを眺めていた。そのうち、そこにはいつの間にかテーブルと椅子がセッティングされるようになっていた。きっとコメットが廊下に座りこむのを死守するためだろう。
「今日もエリスちゃんは元気ねぇ。ほら、見て。いつもあそこで転んでたのに、今は上手にステップするのよ。上手ねぇ」
片手にティーカップを持ちながらのんびり言うコメットに侍女らは「そうですね」と答える。「あら、焼き菓子がもうないわ」と零すコメットに「今日はそのぐらいに」と言った。最近、ふくよかになりつつあるコメットをコメット自身よりも侍女らが恐々としているのである。
エリスが一曲を完璧に踊れるようになったのは、もう梅の香りは過ぎ、桜も散った頃であった。ドレスも薄手のものに変わり、セッティングされたテーブルと椅子にはいつの間にか屋根もついていた。
その頃になってようやく自分のふくよかさに気付いたコメットは、戦々恐々と震えた。昨年着ていた薄手のドレスが入らなかったのである。エリスを見つけるまでは、侍女が息切れしながら城内を追いかけ回していたのに、今はのんびりお菓子を摘みながらエリスの観察をしているのだ。当たり前である。しまいには、シリウスにまで「なんだか、ここらへんの触り心地が良くなったね」って、ふにふにされたのだ。あえて何処と何処と何処とは言うまい。その日からベッドを共にするのを拒否したコメットとシリウスが一悶着あったのはまた後で話そう。
つまるところダイエットが必要となったのだ。天使の息子が「ははうえは、やわらかくてきもちいいです」なんて言うが単に肥えたと言いたいのだろう。肥えた母を許せ。
久しぶりに剣を携えて騎士の訓練所に行けば、騎士団長に上から下まで眺められて「わかりました」と言われてしまった。羞恥心で震えた。
気高き赤毛を靡かせる女騎士に慰められながら血の滲む訓練が始まったのである。八つ当たりされた騎士達が地に臥せったのは言うまでもない。
エリスがステップを必死に踏む間、コメットは必死に剣を奮った。昨年のドレスがすっと入るようになった頃には、コメットは密かにエリスを同志と思うようになっていた。
コメットは剣を振ってる間も、こっそりとエリスを覗き見ていた。凛と澄ました横顔が好ましいのだ。ふくふくした気持ちで訓練所に向かうことができた。
日差しが強くなる季節には、エリスの観察を再開していた。もちろん、もうあんなダイエットに挑まなくて済むように、ぽりぽり焼き菓子を摘むことはせず。あの焼き菓子が美味しすぎたせいだと責任を擦り付けた。
その頃は、再びシリウスともベッドを共にするようになった。たったの数ヶ月の事だったが、大騒動となっていたらしい。主にシリウスの側近らが、苛立つシリウスに八つ当たりされて。
久しぶりに愛し合った後、シリウスは「僕は君が太ったって構わないんだけどなぁ」と言った。ちょっと恨めしげに睨めば苦笑しながら、頭を撫でられた。
「だって、僕は君がどんな姿になろうと愛する自身があるもの」
「どんな姿でも?」
「あぁ、君がしわしわのおばあちゃんになろうともさ」
君だってそうだろう?と問われ、私はキッパリ言った。
「いいえ、私はシリウス様が美しくなくなったら嫌です」
シリウスは、唖然とした。シリウスはコメットが自分の顔を好きなのは知ってるが、まさかそんなことを言われると思わなかったのだ。だか、そんな気も知れずコメットは続けた。
「シリウス様はどんなお姿になろうと、しわしわのおじいちゃんになろうと、きっと、いえ、絶対美しいです。歳を重ねる毎に貴方の美しさが増すものですから、私はいったいいつまでヒヤヒヤさせられるのか、悩ましいです」
むすっと膨れた顔をするコメットに、またもやシリウスは唖然とした。しかし、今度は次第にゆるゆると頬が緩んでいく。
「くす、じゃあ僕はずーっと美しくいるから、君もずーっと僕を思ってヒヤヒヤ?ハラハラ?すると良いよ」
「まぁ、本当に意地悪ね」
微笑み合って、熱い夜は更けていったのである。
「それで、事の真相は聞けたの?」とシリウスに聞かれて、どうしたものかと考える。エリスをお茶会に招き、まずは謝罪をと思ったが、それはエリスに拒まれてしまった。エリスの付き添いで来ていた、エリスの弟までもが「お気になさらず、王妃殿下」と言うのだ。アダマス公爵閣下、貴方様の子は皆出来た子です。
「とにもかくにもまずは謝罪をと思ったのだけど、受け取ってはくれなかったわ」
「それほど怒っているのか。まぁ、仕方ないよね」
「いえ、怒っているというよりも、悲しげでした」
「悲しげか」
「エリスちゃんは、あんなことをされてもまだスハイルを慕ってくれているようです」
「あの馬鹿には勿体ない嫁だね」
「本当に。学園でのことを聞いてみたら、スハイルが言ってた通りエリスちゃんがローズクォーツ家の子を虐めたってことになってるみたいで」
「それは、つらいね……」
シリウスはそっと指先でコメットの頬をなぞった。まるでいつかの涙を拭うように。
「学園とは小さき世界だ。だが、子らにとっては世にでる前の社会の理を学ぶ場。学園で疎まれるということは、世界から疎まれているのと同意だ」
「えぇ、でも、エリスちゃんは強い子だから」
「きっと凛とすましていただろうね」
「そうね」
寂しげに笑えば、「君がそんな顔をすることない」と抱きしめられた。あぁ、この温もりが冷える心を温かく包み込んでくれる。どこの世界も学校という小世界は子供たちにとっては、随分と広く重たい世界だ。世界の全てだと言っても過言ではない。前世で勿論一般家庭の庶民であった私も酸いも甘いも経験済みだ。白い目が自分向けられる辛さを知っているつもりである。
「エリスちゃんによれば、男爵令嬢の子はこの春の新入生らしいの。元々は庶民の出らしくて、ローズクォーツ家に養子になったそうよ。だから、令嬢らしからぬ言動にすぐに学園中の的になったみたい」
「ふぅん、庶民の出ねぇ。そりゃあかっちりした貴族の子からしたら嫌でも目につくだろうね。それにあの容姿だし」
「あら、それどういう意味かしら?」
コメットは、ちょっと体を離して何の気なしを装って尋ねた。内心は、疑心で溢れている。
「スハイルにムカついてあまり気にしてなかったけど、チラッと見た感じふわふわして可愛らしい感じの子だっ、ちょっ、コメット?」
「どうせ、私はふわふわでもなくて可愛げもないわ」
「なに?焼きもち?」
「……」
背を向けてしまったコメットに、何やら楽しげなシリウスの声色にむかっときて口を噤んでやった。もう今日は話す気はない。何故だろう、自分の恋敵ではないのに、むかむかが止まらない。エリスは、良く耐えたと思う。そう言えばこんな気持ちになるのは酷く久しい。あぁ、まだ私にもこんな気持ちが残されていたのかと驚きよりも落胆しながら、久しぶりに愛する夫に背を向けて目を閉じたのである。
シリウスといえば、まだまだ片恋らしいあの独特な思いができるのかと少し胸を高鳴らせていたのであった。なにせ、コメットが泣きそうになったり、落ち込んでたりする姿を見るのがシリウスは大好きなのである。わざと冷たい態度をとりながら、じわじわと責めた記憶が懐かしい。やり過ぎて色々とヤバイことになったのも今では良い思い出である。あぁ、またあのスリルと甘美を味わえるのかなんて、うきうきしながらシリウスはわざとコメットに触れることはせず背を向けて目を閉じたのだった。
二人は、三十過ぎた夫婦である。ここで「いい歳して何やってんだ」と突っ込む存在がいないのが残念であった。