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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋蛍

作者: 右田優

 今から十六年ほど前、佐藤マキがまだ十八歳前後の時、彼女は幼馴染である片桐めぐみの夢をよく見た。

 片桐めぐみの肌は白く、ストレートの長い髪は艶のある栗色で、胸はかなり大きく、声はアニメのキャラクターのように舌足らずな甘い声で、やや垂れ目がちな大きな目は心なしか相手に頼りなげな印象を抱かせた。

 めぐみという、かつてマキのそばに存在していた少女について、彼女は今でも上手に語ることが出来ない。マキはもともと状況なり事柄を誰かに向かって語ることが苦手なうえに、なおかつ二人はただの幼馴染という言葉で一括りにしてしまうには、いくぶん関係が複雑なうえに特殊だったからだ。


 めぐみはマキと同じ年齢だった。めぐみの性格はおっとりとしていて、話し方もいくらか緩やかだった。本人は太っていると気にしていて大好きな甘いものを控えていたが、実際には少しも太ってなんかいなかった。ひょろりとして背が高く、過去付き合った男に、胸が小さすぎると言ってからかわれたことのあるマキにとって、そのふくよかで形のいいめぐみの胸はあこがれの対象だった。

 マキとめぐみが通う公立高校は県内でも有名な進学校だった。どうしてもめぐみと同じ高校に入りたかったマキは、それこそ死に物狂いで勉強をしてその高校に入学した。しかしいざ入学してしまうと、彼女はその受験第一の校風に馴染めず、授業に付いていくのがやっとという有様だった。

 マキは女子にしては背が高く、身長は172センチあった。体重は50キロを行ったり来たり。どう見てもやせぎすで、Bカップのブラはパッドを押し込んでやっとつけられるという感じだった。手入れのしやすさが優先事項だったので、髪はいつもベリーショートにして明るい髪色をキープしていた。そのことで担任や生活指導の教師に目をつけられていたが、彼女は地毛だと言い張ってとりあわなかった。

 とくに意識してボーイッシュにしていたわけではない。髪を染め、いくぶん派手で繊細なメイクをし、モノトーンのスタイリッシュな服とかかとの高いヒールを履いている方が、女性らしい格好をしているよりはずっと自然で自分らしく振る舞えた。

 めぐみは絵が上手で、美術の授業では常に教師に褒められていた。マキ以外の人間にはこの地球上の誰にも打ち明けてはいなかったが、彼女は将来漫画家になりたいんだとマキの耳元でこっそりと語った。おっとりとした外見とは違い、彼女の描く絵も漫画のキャラクターも生き生きとしていて力強く、筆遣いの太いタッチは男性の作者だといっても疑われそうになかった。

 めぐみの口元には、だいたいいつも上品で飾り気のない、瀬戸内海の波のように穏やかな笑みが浮かんでいた。マキはめぐみの口から他人の悪口を一度も聞いたことがなかった。めぐみの家はお金持ちで、彼女の両親は尾道市内にある大きな歯科医院を経営していた。父親が歯科医で母親が矯正を担当している。当然のことだが彼女は美しい歯並びをしていて、歯は大理石のように真っ白だった。その美しく整列した白い歯と同じように、めぐみは育ちもよかった。マキよりっずっと成績も上で、ピアノのコンクールで何回も優勝していたが、かといってめぐみは誰に対しても偉そうになんてしなかったし、自慢もしなかった。めぐみはうんと小さな頃から控えめで、出しゃばるところがまるでなかった。マキがほとんど理不尽にめぐみに対して八つ当たりをしても、めぐみは少しも怒ったりはしなかった。

「誰にだって愚痴を言いたい時もあるよね」と彼女は言って微笑んだ。

 しかし彼女がマキに対して、正当な理由もなく怒りや不満を発散したということは、改めて記憶を揺さぶってみても、ただの一度もなかった。

 めぐみは男の子にもてた。もてないはずがなかった。だからといって、彼女は簡単に男と付き合ったりはしなかった。めぐみには彼女にふさわしい、きちんとした、いわゆる爽やかイケメンの恋人がいた。

 二つばかり年上の医学部に通う大学生で、笑顔と青空が似合う(とめぐみは言う)いわゆるスポーツマンだった。でもマキにはその男のことが初めて見た時からなんとなく気に食わなかった。めぐみから彼を紹介された時、この奇妙な感情の正体は、ものごころつく時から一緒にいたかわいい幼馴染を突然取り上げられてしまった、同性にもあるごく一般的な軽いやきもちなのだろうとマキは思った。しかしある日、マキが大型ショッピングセンターの中にある映画館の前で、偶然にもめぐみと歩くその男の姿を目にした時、ほとんど確信と言っていいほどの嫌悪感をマキははっきりと男に対して感じざるをえなかった。マキはしばらく二人を尾行してから逃げるように自宅に戻った。

 あいつはそれなりにいい大学に通い、一応親切で知識人ぶってはいるが、ひとたびその外面のいい仮面を剥いだら、とんでもなく陰湿で下卑た、自分より弱い人間に対してだけ匿名という名の仮面をつけ、相手が息絶えるまで食い尽くす、蠅のように卑怯で陰険な気質の男だということが理屈抜きでわかった。

 しかしマキにはそのことをめぐみに伝える術も語彙もなかった。そもそもあいつが気味の悪い暗闇の蠅だという根拠も証拠もない。それはただ払い難い直感というだけだった。だいたいたい何よりも、めぐみ自身が以前にも増して幸せそうにマキの目には映った。

 だとすればこの私がめぐみを悲しませることになりかねない。理由は不明だが私の頭の中にある数少ない配線の端子は、いつのまにやら接続がおかしくなってしまったのだろうか? とマキは思った。彼女はその夜、自分の部屋のベッドの上で一晩中転がりまわり、結局一睡もできずにめぐみとその彼氏のことを考えた。

 ようするに端的に物事を語るとすれば、めぐみはその彼氏を選んだという事実以外には、欠陥の見当たらない人物だった。しかしそのめぐみの選択は後になって修復し難い決定的な傷を彼女にもたらすことになる。


 夏を思わせる暑い六月の末、50メートルしか離れていない距離に住んでいたマキとめぐみは、いつものように並んで下校していた。

 二人の頭上には、思わず見入ってしまうような濃い朱色の雲が空を覆っていた。

「もうあの彼氏とはやったの?」とマキは隣を歩いているめぐみに尋ねた。

 二人が並ぶとマキがめぐみをわずかに見下ろす格好になった。遠くのほうから、瀬戸内海の穏やかな波の音がしている。

「もうマキったら、あからさまにそんなこと聞かないでよね」とめぐみは言うと、照れたように片方の眉だけを下げてから微笑んだ。「彼とはまだなんにもしていないよ」

 ふうん、とマキは地面に転がっている石ころを軽く蹴飛ばしながら言った。

「なんで何もしないわけ? あたしたちもう18じゃん。まさか結婚するまで誰ともやらない気?」

「そういうわけじゃないのよ。別に」

「じゃあどういうわけなのよ? 前の彼氏にもキスひとつさせなかったらしいじゃん」

「うんとね、そういうことって人生でもかなり大切な出来事でしょ? 私は恋人とはあくまで自然の流れの一環としてそういう気分になりたいの。相手がどれだけ私の体を欲しがっても、お互いが心の底から相手とひとつになりたいと思えなければそんなのってただ男性の生殖行為じゃない? この人にならこの先なんでも……例えば命とかね。差し出せるくらい大事だとお互いが思えなければ、私はたぶん誰ともそういう関係にはならないと思う」

 マキは驚いた。命? なんでも差し出せる? 

 いったいどれくらいの女の子が、相手になんでも差し出せるかどうかなんて考えながら初体験を迎えるのだろうか? ましてや命とまで。なんだかロミオとジュリエットみたいだなとマキは思った。

「私はね、今みたいにこうやって風の音や夕焼けの光を感じて、初めての相手とこの先何十年も、できればこの尾道で時間を共有したいの。それでその相手と一緒に年をとって、白髪が生えて腰が曲がるまで人生をともにしたいの。

 そういうふうに心から思えれば、多少乗り気じゃなくたって、結婚前だろうといくらでも好きなだけさせてあげるわよ。そうして2人は互いを死ぬまで支え合って生きるの」

「ねえ、それってマジで言ってんの?」とマキは呆れて尋ねた。

「もちろん。私にとって初めてというのはそれくらい大事なことなの」とめぐみは真剣な面持ちで言った。「こういう考えかたって相手には重たいのかな?」

「ああ、それは重たいよ」とマキは言った。「むしろやばい。そんなこと言ったら、あんたは結婚するまで処女だね」

「そうかもね。だから三年になってクラスの半分以上の女の子が初体験を終わらせていると知ってびっくりしたの。もうみんな生涯を捧げてもいいと思えるほどの相手を見つけたのかしらってね。だって私にはまだとても先のことなんて考えられない。女性の平均寿命は81歳なのよ。あと63年もあるじゃない。本当にその人でいいのかどうかなんて、まだ判断材料が少なすぎるの」

「判断材料?」とマキはびっくりして言った。

「うん。私はマキよりずっと鈍臭いから時間がかかるかもね」

 なるほどね、とマキは思った。話しているうちにマキはいつの間にか安堵のため息をついていることにそのとき気がついた。

 どうして私が親友の性事情を聞いて、こんなにも安心した気持ちになるのだろうか? とマキは不思議な気持ちになった。とりあえずめぐみがあの気味の悪い男にバージンを捧げることはないだろう。いずれ彼女にもあいつの正体がわかるはずだ。

 だいたい私は、さっきからめぐみの制服のスカートが風になびいていることや、彼女のふっくらとした唇ががいつもと違った色で艶めかしく光っているのが気になって仕方がないのだ。それだけじゃない。めぐみがその運命だか宿命だかの相手と晴れて巡り会い、めでたく結ばれた際には、いったいどのようにしてそのまだ見ぬ王子様と口づけを交わし、いったいどのようにして下着を脱ぐのだろうか(あるいはどんな表情で脱がされるのか)と考えると、いくらでもどこまでもイメージが勝手に膨らんでいってしまいそうだった。そしてマキの心臓は、その妄想に伴って普段より忙しげで乾いた音をたてはじめる。

 マキは両手を顔の前で振り、その奇妙な妄想を無理やり頭から追い払うと、自分より背の低いめぐみの背中を軽く叩いた。

「そんなこと言ってると一生誰とも結婚できないよ」

「実を言うと結婚はできなくてもいいの」とめぐみは小さな声で言った。

マキは首を傾げた。

「言ってることがちぐはぐじゃない?」

「そうね。だって私、本当は……」

「本当は?」

「ううん。なんでもない」とめぐみは言うと、にっこりと微笑んでからマキの手をそっと握った。「このまま時間が止まればいいのになあ」


 そんな会話をした六月の終わりの日曜日、夜の8時ころ、受験勉強に疲れ果て寝転びながらファッション雑誌をめくっていたマキの携帯にめぐみから着信があった。

 電話越しのめぐみの声は酷く落ち込んだ様子で、少しでいいからこれから会えないかと彼女はマキに尋ねた。家に来ていいよとマキは答えたが、どうしても外で会いたいと彼女は言い張った。

 マキは急いで部屋着からGパンとTシャツに着替えると、コンビニに行ってくると家族に言って財布と携帯だけを持ち、近所の公園へと駆けつけた。


 めぐみは街頭の明かりの下のベンチに座り、携帯を握りしめたままじっと地面の一点だけを見つめていた。彼女の洋服のセンスはいつもながら女性らしく清楚だった。

「突然呼び出してごめんね」とめぐみは言った。その綺麗な目はいくらか腫れていた。「どうしても家に帰りづらくて」

 マキは顔をしかめるとめぐみの隣に腰を下ろした。

「あの彼氏と何かあったの?」

 めぐみは俯いたまま、こくんとうなずいた。いったい何があったのかとマキは静かな声で幼馴染に尋ねた。

「あのね、私もうバージンじゃなくなった」

 めぐみは無表情のまま、地面に向かって呟くように話した。

「ちょっと待って」とマキはあわてて言った。「じゃあ今の彼氏がロミオに昇格したってこと?」

「そうじゃないのよ」

「どういうこと?」

「私がただの浅はかで世間知らずな、馬鹿な女の子だったってこと」

 マキは細い眉を寄せてから唇をきつく結ぶと、それまで目にしたことのない不思議な手品でも見るかのように彼女の横顔をじっと見た。それからゆっくりと口を動かした。

「それはめぐみの意思をあいつが無視して、力づくで体の関係に持ち込まれたってことなの?」

「簡単に言うと、そうね」とめぐみは静かな声で答えた。

しばらくして、マキはきつく閉められた蛇口を捻りだすように言った。

「これから一緒に警察へ行こう」

 よく見るとめぐみの目の下と手首にはうっすらと青いあざが浮かんでいた。マキは体中の血液が沸騰して、心臓が喉仏のすぐ下までせり上がってきているのをはっきりと感じた。

「それは無理よ」とめぐみは弱々しい声で言った。

「どうして?」とマキは自分でも驚くほど強い語気で言った。「あんたまさか警察にあれこれ聞かれるのが嫌だとか、そんな阿保みたいな返事ならしないでよ。あれこれ聞くに決まっているじゃないの、それがあいつらの仕事なんだから。まさか泣き寝入りするつもり?」

「でも昨日は彼氏のマンションに泊まったの。前にも一度泊まったことがあって、その時は私の考えを優先するって彼が言ってくれたから、てっきり待つことのできる人なんだと思っていたの」

「だから何なの?」とマキはいつの間にか立ち上がってめぐみに向かって怒鳴っていた。その時にはまるで自分が無理やりあの蝿男に力づくで犯されたような気分になっていた。「あんたはどうしてそんなにお人好しで馬鹿なの? そんなんでこれから先どうやって生きていくつもり?」

めぐみはしばらく口をつぐんでいた。

「マキには、絶対に、わからない」

 めぐみは目を閉じると、低い声で途切れ途切れにゆっくりと言った。

「何よそれ」

「マキは私と違って、誰に対してもはっきりと自分の意見を言えるもの。あなたに対して私が今までどれくらい羨ましいと思っていたのか知ってる?」

 マキは目についたそばにあるゴミ箱を思い切り蹴飛ばした。怒りと失望に体中を支配され、言葉が出てこない。

「私は、あの人と付き合うことで自分の本当の気持ちをはぐらかそうとしていたの。だからきっと罰があたったんだと思う」

「どういう意味?」

「いちいち説明なんかさせないで」とめぐみは目元をハンカチで押さえながら言った。「きっと私の頭がおかしいの」

マキは茫然として昔から見慣れためぐみの顔を見下ろしていた。

めぐみが続けた。「ずっと好きだったひとがいるの。でもその人とはたぶん結ばれないから」

「それって誰なの?」

「昔から一番そばにいてくれて、私をずっと守ってくれてるの。ぶっきらぼうだけど、誰よりも優しくてまっすぐな人」

いまこの短い時間。短いやりとり。確かに紛れもなくマキがはっきりと手に入れたいものを自覚した瞬間だった。これを愛と呼ばずになんと言えばいいのか、と彼女は思った。

マキは深呼吸を一つして「あたしも同じだよ」と彼女に言った。

マキはめぐみの腕を取ると、今すぐ一緒に警察へ行くか家に帰ってシャワーを浴びるかのどちらかを選べ、と言った。

「ありがとう」とめぐみは言った。彼女の目の縁には涙が滲んでいた。

 マキはめぐみの隣に再び腰を下ろすと、しばらく彼女を見つめてからそっと手を伸ばし、青いあざのついた彼女の頬に口づけをした。

気がつくとマキは自分が泣いていることに気がついた。熱い涙が次から次へと頬を伝い、大きな音を立てて落ちていく。めぐみも目を閉じたまま静かに涙を流した。 二人はどちらからともなく、お互いを強く抱きしめ合った。めぐみはマキの腕の中で何度もごめんねと繰り返した。

 これまで近くにいすぎて気がつかなかったのだろうか?

 違う、そうではない。

 私は今よりずっと昔、初めて初潮を迎えた小学校6年生の冬休み。部屋に籠もって、ベッドの中で幼馴染みの少女の体を想像しては、いくぶん辿々しい指で自分のことを何度も慰めたではないか。

 マキはその行為が終わったあと、説明も収拾もつかない自己嫌悪に駆られ、おそらくはマリアナ海溝より深いため息を何度もついた。

 二人は長い間ひとことも口をきかずに、そのままの姿勢で抱き合っていた。ふと気がつくと、弱々しい光を放っている一匹の蛍が、ゆらゆらと彷徨うようにベンチのそばにある低い木にとまった。

 その小さな光をぼんやりと見つめているうちに、マキは自分の中にあった深い闇の中の泥沼を発見した。そしてその泥沼の中でマキは長い時間立ち尽くし、一つの暗い決断をした。

 

 昔から女の友達よりは男の友達のほうがずっと多かったマキは、小学校と中学校の時に仲の良かった男子が高校を中退して、現在は暴走族の総長になっているという噂を耳にした。彼の名前を啓太といった。啓太の父親は何年も前に失踪していて母親は啓太が小学校3年生のときに首吊り自殺をしていた。彼自身は母方の祖父母の家で暮らしていた。無口で小柄な少年だったが、見かけによらずに喧嘩が強く、とても同い年とは思えないほど目つきの鋭い少年だった。

 彼女はなんとか男友達のつてを使い、啓太の連絡先を突き止めた。三年ぶりに近所のファミレスで会った啓太は、マキが記憶していたよりもずっと背が高くなり、肩幅は広く、綺麗な坊主頭をしていた。マキは久しぶりに会う元同級生に対し、緊張をして警戒もしたが、二人はすぐに打ち解けた。 

 マキは頼みを聞いてもらえないだろうかと啓太に訊くと、素早く彼の前に封筒を差し出した。啓太は少し間を置くと難しい顔をして封筒を受け取り中身を確認した。

「ある男に罰を与えたい」とマキはきっぱりとした口調で言った。「今のあたしにはそれくらいしか用意出来ない」

二人はしばらく顔を見合わせた。マキはめぐみの名前を出さずに、親友がある男に痛めつけられたから復讐をしたいんだと説明した。

「中等少年院にぶち込まれる覚悟はあるんだろうな」と啓太は凄みのある冷たい声で言った。

 マキは肯いた。

「構わない」

 啓太はにやりと笑うと、ヘマはしねえよと抑えのきいた声で答えた。


 めぐみは乱暴をされた翌日から一週間学校を欠席した。彼女の体重はたったの7日間でずいぶん減ったようだった。めぐみはみるみるうちに瘦せ細り、無口で俯いてばかりいる幽霊のような少女になっていた。

 二人が恐れていたことは見事に的中していた。めぐみは初めての暴力的な行為で妊娠していた。半狂乱になっためぐみをマキは辛抱強く時間をかけてなだめ、めぐみは堕胎手術を受けた。それからめぐみは酷い拒食症になった。  

 

 顔がばれているんだからお前はくるなと言う啓太の忠告を無視して、マキは廃病院の椅子に裸で縛られ、目隠しをされた男の左頬に思い切り握り拳を打ち込んでいた。

 男は椅子に縛り付けられたまま横向けに倒れた。ゴツンという大きな音がした。マキは自分の拳が男の頬に触れた途端、こんなことをしてもなんの意味もないんだとはっきりと理解したが、彼女はその理性をうち砕くように、さらに倒れた男の顔をかかとの尖ったヒールで蹴り上げ、何度も何度も踏みつけた。

 蹴り続け、殴り続けるうちに、怒りは収まるどころかかえって増幅していき、それまで感じたことのない激しい憎しみで体が震えていた。

 お前は人間のくずだ! とマキは何度も叫びながら男を殴り続けた。男が悲鳴をあげ、泣きながら許してくれと言っても、マキは殴って、殴って、殴り続けた。

 男の顔はぼろぼろになって血まみれになった。啓太が連れてきた大柄な男が、これ以上やると死んじまいますよと背後で言っている声が聞こえた。啓太はマキを背後から押さえつけ、これくらいでいいだろうと言った。

 血まみれになった自分の右手を見て、マキは突然気分が悪くなり、その場で何度も吐いた。啓太はマキを少し離れた場所に連れて行った。

 マキが吐いている間、啓太は男の体中にマジックで下品で卑猥な言葉を書くと、ありとあらゆるふざけたポーズをさせて男の写真を何枚も撮っていた。男が口答えをすると大柄な男がまた殴った。

誰かに話したらこの写真を町中にばら撒くぞと啓太は言った。裸にされた男は、血と涙と鼻水とよだれを垂らし、泣きはらした顔で誰にも言いませんと言った。

 

 マキは受験をやめて、東京でファッションの勉強をすることに決めた。しばらくのあいだ彼女は尾道という街からどうしても離れたかったのだ。

「私も一緒に東京へ行きたい」とめぐみは言ったが、両親に反対されて叶うことはなかった。連休や長い休みには必ず戻るとめぐみに約束をしてマキは尾道を後にした。


 背後から小さな子供の笑い声が聞こえた。

 母親が子供にむかってお墓なんだから静かにしなさいと注意している。

 彼女はローソクの火を線香につけると、手であおいでそれを消した。

 カーネーションとアイリス、キンセンカを一本ずつ丁寧に花瓶に挿す。近所の花屋で売っていたものだ。本当は白とピンクの薔薇が良かった。恵は薔薇が好きだったからだ。でも薔薇は明らかに仏花には向かない。

 だがしかし、そもそも誰にむかって花を供えるのだろうか。

 そんなことを言っても自分が墓の管理をしているわけではないので、とりあえずマキは無難な花を選んだ。


 墓石を前にしてマキはしばらくぼんやりと立ち尽くしていた。その黒く光った固そうな石にはめぐみの面影など微塵もなかったが、それでも長い時間じっと墓石と向き合う。

 めぐみが堕胎手術を受けた一年後の寒い冬の夜。東京から帰省したマキと地元の大学に進んだめぐみは、旅行に訪れたペンションでどちらからともなく――まるで生まれる前からあらかじめ魂にインプットされていたかのように――自然に互いの身体を求め合い、余すことなく重ね合い、二人は何度も互いを求め合った。マキにとってめぐみとの行為は、それまで感じたことのないほどの快感と哀しみを同時に彼女に与えた。

 でも結局のところ――と彼女は思う。私は最終的にあの子を見捨てたのだ。

 マキはめぐみの魂に巣食う、闇という病巣を取り除くことができずに、追いすがる彼女の白い手を振り払ってしまった。そこには二人の尋常ではない関係を察知し、激怒しためぐみの母親の存在もあった。

 でも今ならはっきりとわかる。誰がなんと言おうと、私は彼女の白い小さな手を離すべきではなかったのだ。

「何か話してよ」

 マキは声に出して呟いてみた。

 そのとき「愛している」というめぐみの小さな声が確かに耳元で聞こえた。

 マキは驚いて周囲を見まわす。はっきりとした声ではなかったが、確かに間違いなくそう聞こえた。

「めぐみ」

 マキは小さく声に出して墓石に囁いた。

どこかから飛んできた真昼の蛍が、彼女の目の前を弱々しく飛んでいった。


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