8、彷徨の用事
「何?」
夏美はノートパソコンの画面を見ながら、ドア越しに彷徨に聞いた。泊まる部屋には祖母がすべて必要なものを用意しているはずだったが、何か足りないものでもあったのだろうか。
だが、ドアの向こうからは思ってもみない質問が聞こえてきた。
「お話があるのですが、よろしいでしょうか」
夏美の返事の仕方に慄いたのか、彼は改まった言い方をした。
それにしても、話とは何のことについてであろう、と夏美は思った。今日彼がこの家に来たのは、祖父と話をするためではなかったのか。それも「不思議な話」と彷徨が言っている、祖父が昔話してくれたお話について。
彷徨が自分とどんな話をしたいのか想像がつかなかったが、話をするかしないかに関わらずそろそろ就寝の時間のはずだ。彼女は時間を確かめるため、テーブルの上にある置時計を見る。時刻はちょうど0時を迎えた。
「今、何時だと思ってんの」
「えっと…0時くらい」
彷徨はぼそぼそと答えた。訪ねるには非常識な時間だと自覚はあるらしい。
「私、そろそろ寝るけど」
「そこを何とか。お願いします」
夏美は渋々立ち上がって、ドアを開けた。彼女は少し視線を上に向けて、彷徨と視線をかわす。彼は十八の青年だが、その瞳は好奇心に満ち溢れた少年のようであった。
「今じゃないとダメな話なわけ?」
彷徨は顔の前に手を合わせて懇願した。
「できれば、お願い。この…なんて言ったらいいんだろう…そう、興奮!この興奮をなっちゃんと分かち合いたい」
「興奮って何よ…。それにどうして私なのよ。おじいちゃんは?」
彷徨は大きく息を吸って、ふう、と息を吐いた。
「じいちゃんはもう寝たよ。疲れたってさ」
「まあ…、それはそうでしょうね」
夏美は腕を組んで、ドアの縁に体重を預ける。
「エアコンがきいている部屋から出たいと思わないほど暑い日に、外に出たら…ねえ」
昼過ぎに家に帰ろうと梓と外に出たときは、まるでフライパンで熱されているかのような暑さだった。そのため彷徨たちが夕方に出かけたと言っても、うだるような暑さは抜けなかったはずである。その中を何時間も外で過ごしていたら、疲れるに決まっている。
「でも、行こうって言ったのはじいちゃんだよ?」
「別にどっちでもいいけどさ…」
夏美は「彷徨は話相手が寝てしまったから、自分のところに彷徨が来てしまったのだ」と思った。高校を卒業したばかりの彼は、無駄に体力があるようである。部活動のバドミントンが培ったものだろう。
「言っとくけど、僕はなっちゃんに聞いてもらおうと思って来たんだからね。じいちゃんとは、大分話せた。あとは、なっちゃんだ」
夏美は彷徨に心を読まれているような気がしつつも、彼がなぜ自分と話したいのかがよく分からなかった。
「なんで私なわけ?」
「僕以外に、おじいちゃんの話を聞いているのはなっちゃんしかいないから」
「それ、お昼も言ってたけど…」
「そうだよ。じいちゃんから聞いた昔話はなっちゃんと僕しか知らないから。それと今日、僕がここに来た理由のこともなっちゃんに話したいんだ」
「理由…」
夏美は彷徨のその言葉に魅かれた。どうして、彷徨は祖父母の家に来たのだろう。なぜ、祖父の話を聞きたがったのだろう。それが分かる。
(それに…)
夏美自身が見た夢と、彷徨が祖父の話を聞いた日の情景がぴったり当てはまることも不思議だった。
夏休みの台風が来て遊園地に行けなかった日。
そう考えると、夏美自身も祖父の話を彷徨と聞いている。それがどんな意味をもたらすのか。
「分かった、いいよ。部屋の中で話そう」
夏美は部屋のドアを大きく開け、彷徨を招き入れた。