2、夏休みの記憶
あれは昔の夏の記憶。
夏美ががまだ十歳くらいだったときのことだ。
ちょうど学校が夏休みに入り、母の実家である祖父母の家に泊まりに行った時のことである。その日は従姉弟たちと共に、近くの遊園地に遊びに行く予定だったが、あいにく台風が近づいてきたせいで雨脚も風も強く行くことができなかった。
祖父母の家には、母の兄弟も来ており賑やかだった。しかし、その家の中で遊ぶとなると従姉妹たちは夏美より年下なので、おままごとをはじめてしまう。また一方で三歳年上の兄の悠夏に遊んでもらおうと思っても、彼は大人たちに混ざり話をしていたため遊んでくれそうになかった。
仕方なく、夏美が一人で窓辺に座り外を見上げていた時だった。二歳年下の従弟の彷徨が、彼女に近づき小さい声で言った。
「なっちゃん、上の部屋に行かない?」
「上の部屋?」
「ほら、入れない部屋…」
「ああ…〝開かずの部屋〟のこと?」
彷徨はこくりと頷いた。
「入ったことないから行ってみたいんだけど…いっしょに行かない?」
どうやら彷徨は、この家で唯一入ったことのない「開かずの部屋」に行きたかったらしい。しかし、どうやら怖くて一人で行けないようである。「開かずの部屋」は夏美が物心つく前から入ることができない部屋だったので、存在すら忘れていた場所だったため、彼女は気にも留めていなかった。そのため、「開かずの部屋」に行きたいという意欲は全くなかったのだが、ここにいてもつまらないのでついて行ってあげることにした。
「分かった、いいよ」
「ほんと?」
「うん」
「やった!」
大人たちの話は盛り上がっており、夏美と彷徨が出て行ったことにも気づかないようだった。
彷徨が言っていた部屋は、居間から廊下を挟んだ階段を上がった突き当りにある。部屋の前には段ボール箱などが置いてあり、すぐには開けられる状態ではない。それが「開かずの部屋」と言われる所以である。
「ドアの前が半分ぐらい段ボールで埋め尽くされてるね」
「うん」
夏美は試しに上に乗っかている段ボール箱を持ってみた。
「なっちゃん、だいじょうぶ?重くない?」
「ん、大丈夫そう」
夏美はそう言って「開かずの部屋」の前に物を黙々と動かしはじめる。段ボール箱などは重いかもしれないと覚悟したのだが、上に積みあがっているものは案外軽く、夏美でも動かすことができた。また、下に置いあった段ボールや置物は重かったが、引きずるようにどけた。
もう少しでドアが開けられそうな時、彷徨が心配そうに小さい声で言った。
「この段ボール動かして良かったのかな…」
彷徨が急に意気地のないことを言い出す。ほどんどの段ボール箱を片付けさせておいて、よくそんなことが言えるな、と夏美は思ったが、相手は自分よりも年下である。
「いいも何も、動かさなかったら部屋開かないよ?」
「でも…」
彷徨は後で怒られると思ったのかもしれない。夏美は再び手を動かして段ボールをどけた後、ため息をつきつつ、彼を納得させるように言った。
「後でちゃんともとに戻せば大丈夫だよ」
「誰も気づかないかな?」
「気づかない、気づかない」
「そっか!」
彷徨が安心したような顔になったころには、部屋の前の段ボールは動かし終わり、すでに開けられる状態になっていた。
「それじゃあ、開けるよ」
「うん」
部屋のノブを回して奥に押してみる。順調に開くかのように見えた扉は、何かにつっかえて十五センチ程度しか開かなかった。
「止まった」
「え?」
彷徨はきょとんとした。
「これ以上開かない」
「ドアこわれてるの?」
「違うよ。何かにつっかかってる。ドアの開けるところに、何か物が置いてあるみたい」
「そうなの?」
「うん」
すると彷徨は夏美の下に潜り込み、隙間から部屋の中を覗いた。彼女もそれに倣う。
「本がおおいね」
「うん」
彷徨の言う通り、左側に見える壁一面の棚には、はみ出すほどの書籍が並んでいた。文庫は勿論、単行本に図鑑、洋書も置いてあるようだった。
「おじいちゃんかおばあちゃんの、本を入れる部屋なのかも」
「なっちゃん、でもさ」
そう言って彷徨が夏美を見上げた途端、目をまん丸くした。
「何、どうしたの?」
夏美が尋ねると後ろから声が聞こえた。
「部屋の中を覗きたかったのかな?」
夏美は驚いて振り向いた。するとそこには、にこにこ笑った祖父・春道の姿があった。夏美はドアノブから手を離し、慌てて祖父と向き合った。
「おじいちゃん、これはね、えーっと…」
「気になって開けてみたくなった?」
夏美は「彷徨が行きたいって言ったから」と言いたかったのだが、言い訳めいたような気がして、渋々こくりと頷いた。
「そうか。でも、開かなかっただろう」
怒られると思っていただけに、祖父の優しい言い方に夏美も彷徨もほっとした。
「うん」
「無理矢理押せば開くと思うけど、多分今の夏美と彷徨には無理かな」
「あくの?」
彷徨が春道に尋ねる。
「多分ね。それにしても二人は下で遊ばないのかい?」
夏美と彷徨は視線を合わせた。
「おままごとしたくないんだもん」
「ぼくも」
春道は笑った。
「それなら、じいちゃんが何かお話をしてあげるよ。ほら、ここは元に戻して隣の部屋に行こう」
春道は彷徨に手を差し出し、隣の部屋に向かおうとしたが、彼はその手をすぐに取ろうとしなかった。
「彷徨?」
彼の態度に、夏美も春道も首を傾げた。
「じいちゃんには、この部屋開けれないの?」
「え?」
その時、夏美は彷徨の言いたいことが分かった。
さっき祖父は「夏美と彷徨には開けることができない」と言ったのだ。だったら大人である祖父なら開けることができるのではないか、と彷徨は思ったのである。
「ぼく、この部屋に入ってみたい」
彷徨が上目遣いで祖父にお願いしたが、春道は視線を小さな孫に合わせて残念そうに言った。
「彷徨、実を言うとこの部屋はじいちゃんには開けられないんだ」
「どうして!」
彷徨はすぐさま聞き返した。だが、その理由は夏美も知りたかった。春道はどう説明したものか悩みながら、疑問を抱く二人の孫に非現実的な理由を告げた。
「封印がされているんだ」
「ふういん?」
夏美と彷徨は視線を交わした。
「どういうこと、おじいちゃん。鍵がかかっているとか、そういうこととは違うの?」
「鍵がかかっているなら、少しも開けられないはずだろう」
祖父に指摘されて、夏美は隙間の空いたドアを見た。確かに鍵がかかっていたらドアは開かない。
「あ、そっか。じゃあ、封印って何…?」
「詳しくは言えないけど、二人には開けられる可能性はあっても、じいちゃんには開けることができないんだよ。開けられない封印がかかってる」
「おばあちゃんも開けられないの?」
夏美が聞くと、春道は頷いた。
「そうだね」
だったら、誰だったら開けられるのだろうか。すると彷徨が、縋るように祖父に尋ねた。
「じゃあさ、今日じゃなくても、いつか開けることはできる?」
すると春道はあごに手を当てて少し考えると、ちょっと笑って答えた。
「そうだね。彷徨が今よりずっと大きくなったら開けられるよ」
「ほんとう?」
「うん。大きくなってもこの部屋のことを覚えていたら、きっとね」
そうして夏美たちは、「開かずの部屋」が開けられなかったことに対して、後ろ髪を引かれるような思いであったが、祖父に提案された通り「開かずの部屋」の前は元に戻して隣の部屋へ入った。
隣の部屋は客間となっていて、絨毯だけが敷いてある洋間である。
雨の音が窓越しに聞こえる中、祖父は夏美たちに昔話をしてくれた。
祖父が語ってくれた昔話は、夏美たちが生きる世界から「異世界」へ渡り、旅をした青年の話だった。
祖父は過去に何度か夏美を含む孫全員に絵本をはじめ、いくつか読み聞かせをしてくれたことはあったが、これほどまでに心に響き、情景がはっきりと浮かぶ話はなかった。そのため夏美はもちろんのこと、彷徨も前のめりになって祖父の話を聞いていた。
そして最後に、祖父はこう言って物語を締めくくった。
「青年は無事にもとの世界に戻ることができた。しかし、一つだけその世界でやり残しがあった。それだけが心残りだったという」
「おじいちゃん、その心残りってなに?何だったの?」
夏美は尋ねた。すると祖父は少し躊躇ってから、ゆっくりと口を開いた。
「それはね―」