25、開かれた運命のページ
午後九時五分。
「何が問題だったんだろう…」
梓は部屋に戻ると、暑い空気が籠った部屋に冷房をかけ、夏美と小さなテーブルを挟んで頭を抱えた。扇風機も回り、梓自身も頭を抱えているので、彼女の肩まである髪がものの見事にぼさぼさになっている。
「道順が違った…?」
夏美はうんうん唸っている梓の隣で、彼女が持っていた道順を記した紙と、「月夜の散歩」に書いてある道順を見比べる。だが、梓が持っていたものは「月夜の散歩」の写真を撮ったデータを印刷したものだった。
「でもさ、梓が持っていたこれは月夜の散歩のコピーだよね?間違いようがなくない?」
「それはそうなんだけど、道を辿るとき私の解釈が間違っていたのかなって…」
「いや、ここに書かれている通りにしたと思うよ」
夏美は辿ってきた道順を思い出す。どこも間違っていなかったはずだ。
「ねえ、梓」
「ん?」
「言いにくいんだけど、そもそも月夜の散歩の訳が違っているとか…あるんじゃない?」
夏美はページを捲りながら呟く。「月夜の散歩」は「ハリスの日記」を訳したものだ。
「ああ…」
すると梓は脱力し、ごろんと夏美に背を向けて横になった。
「訳が違うなら話にならん」
「……だよね」
梓は横になったきり起き上がろうとしないので、夏美はハリスの日記を読んでみることにした。
(どこかに道順について書いてあるページがあるかも…)
パラパラと捲っていくが、全て英語で書かれているので読む気力が少しずつ失っていく。ゆっくり一つ一つの単語を追っていけば、理解できなくもないが、一冊の本の中から異世界に渡る方法が書いてあるページを探さなくてはならないのは、英語が不得意な夏美にとって、ちょっとした試練だった。
(うわー…全部英語…)
イギリス人が書いたのだから当たり前なのだが、つい心の中で呟いてしまう。
(ん?)
その時だった。ちょうど夏美が開いたページが英語ではなく、何かの図を描いたようなページに行き当たった。
「これは…」
それは簡易的な地図だった。ジャガイモのようなごつごつした図が見開きいっぱいに描いてある。この図の特徴は一番下の中央部にある入り江で、そこから図の真ん中までが海になっている。何故そうだと分かったのかというと、三角の旗を付けたヨットのマークがついていたからだ。さらに英語で「Bruer」「Porpotto」「Meibel」など地名が書いてある。
「もしかして、ウィルベルの地図…?」
そう思って夏美がハリスの日記のそのページに、触れた時だった。
ハリスの日記から、泉から水が湧き出るようにゆっくりと光が放たれた。
「光…?」
夏美は目を見開いた。だが次の瞬間、自分の身におかしなことが起こっていることに気が付き、彼女は困惑した。
「何、これっ…!」
横になっていた梓は、その夏美の裏返った声で体を起こした。
「夏美、アパートでは静かにね。それより、どうかしたの?」
すると夏美は引きつったような表情をして、梓を見ていた。
「…声、大きかった?ごめん」
「あ、いや、なにもそんな顔して謝らなくても…。多分下の人、まだ帰っていないから大丈夫だと思うし。まあ、隣の人は帰ってるかもしれないけど…でも、ごめん。言い方きつかったね」
「それは別にいい…」
その時梓は、夏美が手を置いているハリスの日記が光っていることに気が付いた。彼女は驚き、身を乗り出してハリスの日記を見た。
「何これ、どういうこと?」
夏美は俯き、首を横に振った。
「分からない…手を置いたら、急に光りだして…」
「ちょっと、私にも日記をよく見せて―」
そう言って梓がハリスの日記を引っ張た時だった。彼女はある違和感に気が付く。
夏美の手が離れないのだ。
「…夏美?」
「梓、助けて…」
梓は目を瞬かせた。助けるとは、どういうことだろうか。
「助けてって、何かした?紙で手でも切った?」
夏美は顔を上げ、必死に首を横に振った。
「違うの…手が…手が…ハリスの日記から外れない…!」
梓は二回ほど夏美とハリスの日記を交互に見た後、ようやく状況を理解し、ハリスの日記に置かれている夏美の手首をつかみ引っ張った。
「……!」
梓は驚きのあまり絶句した。引っ張ってもびくともしない。
「あ、梓…」
夏美は自分の身に起きている摩訶不思議なことに思考が追いついておらず、恐怖で額に冷や汗をかいていた。
(私が驚いている場合じゃない!)
梓は彼女が安心できるように、笑って優しく声をかけた。
「夏美、大丈夫。絶対離れるよ。とにかく、引っ張るからそっちに」
「う、うん!」
梓はハリスの日記を掴み、夏美とは反対の方向に引っ張る。
「よし、引っ張るよ。せーのっ!」
「はーずーれーてー!」
「……」
「……」
「嘘でしょ?」
思いっきり引っ張ってみたが、ハリスの日記と夏美の手が離れる様子がまるでない。
「わっ!」
その時、突然夏美が大きな声を出す。
「どうしたの!?」
「か、体が…引きずり込まれる…!」
梓は、夏美の手を見た。すると彼女が言った通り、手が日記に吸い込まれて見えなくなっている。
さらに日記から放たれる光も強くなり、同時に日記を中心に風が起こる。
「どういうこと!?」
「分からない!知ってたら説明して欲しいよ!」
夏美は日記に吸い込まれることを拒むように、必死に抵抗しているが吸引力が半端ない。ずるずると彼女の体を引っ張り、飲み込んでいく。
その様子を見ていた梓は、今度は夏美がいる方向に回り、夏美と同じように日記に手を置いた。
「何してるの、梓!?」
「どうせなら一緒に吸い込まれたほうがいいでしょ!」
梓は夏美が手を置いたことによって日記に吸い込まれているなら、自分も同じようにすれば日記に吸い込まれると思ったのである。二人で吸い込まれれば、吸い込まれた先がどんな所であろうと何とかできると思ったのである。
だが、梓の仮定は打ち破られた。彼女は日記に置いた手を離した。
彼女の手は、吸い込まれなかったのである。
「何で?」
梓の傍らで、どんどん夏美の体が吸い込まれていく。吸い込まれる部分は、そろそろ肩に達しそうだった。
「どうしよう、梓!」
涙目で訴える夏美に、梓は努めて明るく声を掛けた。
「大丈夫!絶対に助けるから!」
梓はハリスの日記を引っ張ったり、逆に夏美の脇の下に腕を入れて体を引っ張りつつ、ハリスの日記を行儀が悪いとは分かっているが足で押しやったりした。
「何なのよ、この日記は!」
「うう…!」
悪態をつきながらも、梓は夏美と共に必死でハリスの日記に抵抗した。何としてでも夏美を吸い込ませない。もし吸い込ませるのであれば、梓も行くつもりでいた。
しかし、日記の力には対抗できなかった。
いつの間にか夏美の呻き声が聞こえなくなる。彼女の顔が日記に吸い込まれてしまったのだ。
そして、日記は放つ光が強くなると同時に、吸い込む速度を上げていく。梓は目は薄く開いているのがやっとだし、夏美の手を掴んでいるのが精いっぱい。それ以上は、梓にはどうにもできなかった。
だが梓はこんな時に限って、夏美の旅行鞄の存在を思い出した。彼女は夏美の手を放さないように気を付けながら、夏美の旅行鞄を自分のところに引き寄せた。
「夏美、これだけ持っていけ!何か役に立つかもしれない!」
そう思って、まだ吸い込まれていなかった彼女の右手に旅行鞄を持たせたのである。
そしてそれは、間一髪だった。
夏美が旅行鞄を掴んだ瞬間、吸引のスピードが劇的に上がり、梓の手をすり抜けてあっという間に彼女を飲み込んでしまったのである。次の瞬間、放たれていた眩い光は消え、風もぴたりと止んだ。そして一瞬、宙に浮いたかのように見えたハリスの日記は、夏美を吸い込んだそのページがパタリと閉じられると、重力に従ってその場に落ちた。
まるで何事もなかったかのように。
梓は一人残された部屋で、ぺたりと座り込んだ。日記が起こした謎の風のせいで髪は余計にぼさぼさになり、部屋も台風が去ったかのようになった。
梓はゆっくりと視線を下に落とし、自分の手を見た。
汗と震えが止まらない。必死に抵抗したためなのか、それとも日記に対する恐怖のせいなのか。梓にも分からなかった。
「何だったの…」
この時、彼女の頭の中には、隣近所のアパートの住人に騒音で迷惑を掛けたことについて、考える余裕などなかった。




