17、異世界の名
夕飯を食べ、片付けも終えたところで夏美と梓は部屋に戻った。現在時刻が午後八時十分なので梓が帰ることを考慮すると、話ができるのはあと一時間ほどである。二人はその間にできるだけ、「月夜の散歩」について話そうと思った。
「それじゃあ、改めて。やりますか」
「お願いします」
夏美は自分で「月夜の散歩」を読む気はないので、梓に教えてもらう形である。
「とりあえず、ハリスの日記と春道さんたちの日記は別々にして説明するね。一緒にするとややこしいから」
「うん」
「ハリスの日記の方なんだけど、ハリスさんは十七歳の時に、異世界に渡っている」
夏美は、それは彷徨もしていたな、と心の中で思った。
「そして異世界へ渡った方法っていうのが、突如として異世界に飛んだとかじゃなくて、ある道順を辿って辿り着いたっていうのね」
「道順?」
「そう」
梓は頷いた。
「異世界に行くには、異世界に通じる扉を開かなくちゃいけないんだけど、その扉は普段は姿を消していて、私たちの日常で見つけることはできない」
「じゃあ、どうすればその扉を見つけられるの?」
「それが道順を辿ることで繋がるんだよ」
夏美は梓の説明がよく分からず、顔をしかめた。
「どういうこと?」
「えーっと…あ、ほら。ゲームとかで塞がれている道を通るときに、パズルを解いたりするじゃない。そういう要領で、異世界に行くときに、ある道順を通ると扉が出現する鍵が開かれる…というか条件が揃うというか…」
梓は上手く説明したつもりだったが、夏美は余計眉間に皴を寄せた。
「ちょっと、やっぱり分からないや。道順って具体的にどういったものなの?」
「現実世界の道で、右行ったり、左行ったり…ここに書いてある通りに進むんだよ」
すると夏美の顔がぱっと明るくなった。
「成程、そういうことね。つまり決まった道を通ることで、異世界へ渡る扉が開かれるのか。それが鍵だから」
「そういうことになるかな」
「だけどそれなら、どうしておじいちゃんも異世界に行くことができたの?だってハリスってイギリス人でしょ。イギリスにそういう道があるから行けたんじゃない?あ、だとしたらおじいちゃんはイギリスに行ったことがあるってことなのかな」
すると梓が大きく頷いた。
「そう、そこがポイントなんだよ。イギリスにある、特殊な道じゃないと行けないんじゃないかって思うでしょ。だけどそうじゃなかった。確かにある程度は、道を選ぶかもしれないけど、日本でも行けないことがない。現に、春道さんはそれで異世界に行ってる」
「異世界があればね」
梓は夏美の素っ気ない言い方に、ため息をついた。
「もー…夏美ってば、ここまで来たら異世界があることを信じなよ」
「何かねえ…ダメなんだよなあ」
「何で?」
夏美は隣に座っている梓から、窓の外に視線を移す。眺める先には、深い深い藍色が広がった夜空が見える。しかし星はよく見えない。実際は沢山の星が散らばっているはずなのだろうが、都会の眠らぬ街の光のせいで地上まで光が届かない。
ハリスや春道が渡ったという異世界は存在するのかもしれないが、夏美にとってそれは見えない星のようだった。
「多分、お母さんの口癖かな。『現実を見なさい』ってよく言われてせいかもしれない」
「親によっては言うかもね」
「そうかな」
「そうだよ」
「梓は言われたことある?」
梓は言い淀んだ。
「私は…ないけど」
「でしょ。やっぱりうちが特殊なんだなあ」
ため息をつく夏美に、梓はおずおずと尋ねた。
「どんなときに言われたの?」
夏美は頬杖をついてその時のことを思い出す。
「ほら、子供のときに夢を発表したりすることってあるじゃない?」
「まあ、あるね」
「私は幼稚園児の時に、魔法使いになりたくて『魔法使いになりたいです』って言ったことがあるんだよ。そしたら、後からお母さんに『現実を見なさい』って言われた」
「き、厳しい…」
「ホントにね。子供心に傷ついたよ。そんなこと親に言われなくたって、物心つく頃には気づくものでしょ。それをはっきりと、夢を壊すようなこと言ってさ」
「お母さんは、夏美のことが心配だったんだよ」
「でも、言って良いことと悪いことがある。私はこれで魔法使いとかの物語は見なくなった」
「え、勿体ない!」
夏美はため息をつく。
「そうなんだけど、お母さんに否定された手前、なんか反発心芽生えちゃって。『あなたの言うとおりにすればいいんでしょ!』って思っちゃったんだよね」
「普通、逆じゃないの?」
「お母さんに嫌われるのが嫌だったのかもしれない。それと、妹よりも自分を見てほしかったっていうのもあったと思う」
夏美は兄の悠夏、夏美、妹の美波の三人兄妹である。
「妹のなりたい夢はさ『パティシエール』だったから、お母さんは『現実は厳しいけど、頑張りなさい』って言ってた。だから、悔しくて。何で妹のはよくて私のはダメなのって。でもお母さんが妹の夢に対してそう言ったのは、とりあえず現実にある職業だから否定しなかっただけみたい。だけど、そう理解できるようになったのは高校生になってから。子供って、他の角度から中々物事見れないんだって、痛感した」
「……」
夏美は肩を竦めて自嘲した。
「これで私は夢を見れなくなっちゃった。母親に注意されたせいで、夢が見れなくなるなんて馬鹿みたいだけど、お陰で今も自分が何になりたいかも分からなくなっちゃった」
夏美の理論は、きっちりと筋が通っているとは思えないが、それでも「異世界」の存在を信じられない理由としては納得できる。母親がこの世にないものを否定したとき、夏美の中で同じ常識が作られたのだ。母親が魔法を信じないように、夏美も魔法を信じなくなった。
「だから夏美は異世界のことを信じ切れないのか」
「そうかもしれない。信じたい気はするんだけどね…。あ、話大分逸れたね。戻そう」
梓は頷いた。
「じゃあ、次ね」
「うん」
「さっきから私たち、異世界、異世界って言ってるけど、ハリスさんや春道さんが渡った世界には名前があって」
夏美はちょっと驚いた様子だった。
「え、そうなの?異世界って、名前があるものなの?」
「私もそう思ったんだけど、私たちの世界で言うところの『地球』に位置するような名前なんじゃないかなあ…と思う」
「それで、名前って?」
「『ウィルデアルヌス』だって」
夏美は自分の口でその名を呟く。
「ウィルデアルヌス…」
「名前が分かったからってどうってことないけど、名前が分かると少し安心するよね」
夏美は初めて聞く異世界の名に戸惑いを感じたが、梓の言うことに一理あるなと思った。
「確かに。全くイメージが湧かなかったものが、少し捉えどころがあるものになったみたいな…」
「ね。私が読んだ限り、ウィルデアルヌスは地球で言うところの、ヨーロッパに近い印象がある。そしてハリスさんは、街を転々してた」
「何で街を転々としてたの?」
「それがね、『シアフィス』を封印するために『イレイラル』を持っている者を探すため、みたい」
「『シアフィス』と『イレイラル』って何?」
夏美は初めて聞く単語に喰いつく。すると梓は頬杖をついて、空いている手で水色とピンクのルーズリーフを交互に見た。どうやら彼女は、色別にして情報を分けていたようである。
「それが抽象的で…。『シアフィス』は闇を持った人で、『イレイラル』は力を持った人って訳されているのよね」
「具体的なことは分からないの?」
「もう少し読めば分かるかもしれないけれど、今のところはどちらの単語も『人』を指していることしか分からない。それにこの二つのことをもっと詳しく知るには、ハリスの日記を読んだ方がいいかもしれない」
「月夜の散歩だけだと、分からないの?」
「うん。それがさっき夕飯の前に言ったように、所々抜けているんだよね」
「どうして抜けてたんだろう?」
梓は肩を竦めた。
「さあ、ね。何でかなあ」
「ハリスの日記」も、「月夜の散歩」も読めば読むほど謎が深まるばかりで、考えれば考えるほど夜も更けていくのであった。