16、月夜の散歩
「梓、ご飯出来たよ」
あれから二十分ほど経った頃である。夏美は自分の部屋で、一人残された梓を廊下から呼んだのだが返事がない。
「……」
聞こえなかったのかと思い、今度は部屋に入り隣に座る。だが、それでも梓は夏美の方を見ようとしなかった。
(気づてない?)
夏美が疑問に思いながら、テーブルに視線を移すと、梓が普段愛用しているパステルカラーのルーズリーフが散らばり、何かしらが書かれている。夏美が部屋から出て行ってから何があったというのだろう。梓は電子辞書を片手にカリカリと何かを書いていた。
「梓…?」
集中している様子の梓に、夏美がそっと声をかける。すると、彼女はルーズリーフに何文字か書いてから、大きく深呼吸をした。
「ふう。ごめん。夏美のことは気づいてはいたんだけど、区切りがいいところまで書きたかったから」
「びっくりしたよ。呼んでも返事がないんだもん」
「ごめんって。でも、まあ、読みだしたらとまらないかも」
「ふーん。じゃあ、面白いってことだ」
夏美は感心した。
「そうだね」
「何か分かった?」
内容を聞こうとする友に、梓はちょっと意地悪な顔をする。
「月夜の散歩は夏美も読めばいいのに」
夏美は視線を梓から逸らした。さっきの今で、そう易々と心変わりはするものではない。
「まあ、梓がそういうなら読んでみないこともないけど…それよりも、どうだったか感想聞きたい。どこまで読んだの?」
梓は友の反応に対して少し残念そうだったが、聞かれると素直に月夜の散歩の四分の一をつまんで見せた。
「これくらい」
「早いね」
「そうでもないよ。ハリスの日記を翻訳したページの合間に、春道さんや雨宮さんの日記が入っているから意外と読みにくいんだよ。これだけ進んだのは、その二人の日記をとばして読んだからと、中には一ページいっぱいに書いていないものもあったせいかな」
「雨宮さん?」
夏美は梓の会話に出ていた、人物名に首を傾げる。どっかで聞いたような気はするが、ピンとこない。
「ハリスの日記を翻訳した人だよ。それと、この月夜の散歩の編纂者…みたいなものかな」
そのように説明されて夏美は思い出す。確か、雨宮光次という名前だったはずだ。彷徨が夏美に教えてくれた、祖父の友人の名である。
「でもその名前、何で分かったの?書いてあった?」
「うん。春道さんの日記に登場してたよ」
「ふーん。おじいちゃんの日記にねえ…。それで、異世界のことは、何か分かった?」
「それが…」
梓が答えようとしたとき、下から美桜の声がした。
「夏美、梓ちゃん呼んできてって言ったでしょ。ご飯ですよー」
「あ、そうだった」
夏美はすっかり梓を呼びにきたことを忘れていた。
「はーい、今行きます」
美桜に返事をした夏美は立ち上がった。
「梓、行こう。折角作った料理、冷めちゃう」
「あのさ、夏美ー…」
「ん?」
梓は何か言いかけたのだが、テーブルの上に散らばったルーズリーフを整えながら首を横に振った。
「ううん。何でもない。ご飯楽しみだな」
「期待していいよ。絶品だから」
梓は嬉しそうに笑う夏美を眺めると、先ほど言いかけた言葉を飲み込んだ。
だが、梓は本当はこんなことを夏美に提案したかった。
『彷徨君がもう一度聞きたかったという昔話、春道さんに聞くことってできないかな』
しかし、それは夏美が望んでいることではない。
(何で夏美は春道さんに彷徨君とのこと聞かないんだろう。それを聞いてしまえば、こんな風にわざわざ『月夜の散歩』を読む必要もなかったかもしれないのに…)
だが、そう思ってから梓は首を横に振った。
(でも、それは私が口出しすることじゃない…よね)