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ラヴサムゲーム  作者: 雪村平八
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-後編-

前編からの続きとなります。サイトの仕様上かなり中途半端なところで途切れてしまっている前編ですが、後編の「黒田怜子の決断」からがこの物語の種明かしとなります。是非最後までお楽しみいただければと思います。

 わからない。

 分からない。判らない。解らない。

 オレには怜子がわからない。

 オレはベッドに躰を埋め、枕を掴んで壁に投げつけた。

 怜子は自分が提唱したゼロサムゲームについて、そんなに深く考えていないのか。戦略的な思考も戦術的な調略も、怜子の頭にはなかったのか。

「だったらあの邪悪な笑みは何なんだよっ!」

 そう。あの口元を吊り上げた、いかにも自分の悪巧みが成功しましたみたいな表情があったからこそ、オレは惑ってしまったのだ。遊園地の時もそうだ。確かに一言も口にはしてないが、強がっているような素振りを見せつつ実はそれが強がりでも何でもなかったことを、あの底意地の悪そうな笑みは表していたんじゃないのか。

 オレの勘違いなのか。全部オレの勘違いなのだろうか。

 確かに怜子はオレを騙していますとは言っていない。あなたを欺きましたとも言っていない。ただ表情や言動でそれを匂わせただけだ。だから怜子は嘘は一つも言っていない。オレがただ、勝手にそう解釈しただけだ。

 オレが早合点していたのか。深読みしすぎていただけなのか。怜子は単純にオレとのデートを楽しみたかっただけなのか。怜子の出したカードの数字は、デートの評価以上の意味を持っていないのか。

 そうだとしか思えない。オレが勝手に勘違いをしていたようにしか考えられない。だとしたら、オレはなんて浅ましく卑しい人間なのか。

 オレは怜子を負かそうと躍起になっていた。でも怜子はそんなことを少しも考えていなかった。今回のゼロサムゲームも、単純なデートだけじゃつまらないからと、怜子なりのユーモアでしかなかったのかもしれない。それをオレは逆手に取るような真似をして、怜子を出し抜こうとした。そういう思考で現象を見ているから、勝手に勘違いをして、勝手に空回りをした。

 オレは馬鹿だ。間抜けだ。空けだ。

 今日のデートはとても楽しかった。怜子はそれを素直にプラス1というカードで言い表してくれた。なのにオレは、デートのことなどそっちのけで、自分の恣意的な理由だけでカードの数字を選んだ。怜子を傷つけてしまったかも知れない。とても楽しかったなら、せめて一言でもそう言えばよかったのに。

 そもそもこのゲームのルールはデートでの相手の評価を数値化するというものだ。だったらそこに嘘を混ぜても意味がない。数字がそのまま相手の評価に繋がるのだから、マイナス2を出せば「お前はつまらないヤツだ」と言っているのと同じだ。オレには全く思慮が足りていなかった。相手の気持ちを慮る了見が、オレにはなかったのだ

 オレは泣きたくなってきた。自分という人間の愚かしさに、声を上げて嘆きたくなってきた。

 怜子に謝りたい。でも、どんな言葉でこの気持ちを伝えればいいのだろうか。オレがこれまでこんな風に考えてきたと伝えれば、怜子は分かってくれるのだろうか。オレは怜子に嫌われてしまわないだろうか。

 いやだ。怜子に嫌われたくない。だけど、上手く言い繕えるほどオレは口が上手いわけでもないし、誤解されてしまったら目も当てられない。

 オレは、どうしたらいい?

 女々しい自分の思考が嫌になった。こんなことを考えていると、怜子に知られたくなかった。だったらオレに出来ることは何だろう。怜子は「次はあなたの番」だと言った。オレを嫌っているならもう誘わないでくれと言うことも出来たはずなのに、怜子はオレにチャンスをくれた。ゲームのルール上なのかもしれないが、怜子はオレに「デートに誘ってくれ」と言ってくれたのだ。

 だったら、怜子が楽しめるデートプランを考えよう。怜子に目いっぱい楽しんでもらえるようなデートコースを考えよう。怜子がどんな評価を下そうが関係ない。オレはオレなりの誠意を示すしか、他にやりようがない。

 オレはこれまでの怜子の言動を振り返って、怜子はどんなことが好きなのか、何をすれば喜ぶのかを考えた。怜子は食事にはあまり興味がないようだ。本当にどうかは知らないが、少なくとも女の子特有の、好んで甘いものを食べたりする嗜好はないような気がする。どこに行っても休憩だからとアイスクリームやケーキを食べたがる素振りは一度も見せなかった。

 次に怜子はスピード感のある乗り物が好きだ。遊園地では最初の言動こそよく分からないが、昼食後は積極的に乗りたいアトラクションを指定していた。絶叫マシーンの類が多かったことから推測するに、怜子はその手の乗り物が好きなのだろう。

 怜子は未知のものを恐れる性向はあまりない。むしろ好奇心は強いほうだろう。オレが連れて行った山や川でも、不満そうな素振りを見せはしたが、足場の悪い山道でも恐怖で震えるようなことは一度もなかった。か弱い女ではないようだ。

 怜子は意外にアニメ趣味があるのかもしれない。前回までのコスプレ趣味全開の衣装を持っていることから、その類の嗜好はあるとも解釈できる。が、これは隠れオタクであるオレの感覚で言うと少々危険な賭けだ。オレのアニメ趣味に付き合わせるというのは、万がいち怜子にその手の趣味がなかった場合に甚大な不興を買うことになるし、アニメ好きでもジャンルが分からなければ却って機嫌を損ねてしまうこともある。アニメ好きだからアニメなら何でもいいというわけではないのだ。好きなものだからこそこだわりがある場合のほうが多く、そのこだわりを知らないオレが無作為にアニメショップなどへ連れて行くのはリスキーな行為だろう。

 怜子は山や海のような自然を好む傾向にあるようだ。映画館や美術館、遊園地などよりも川や海に行った時のほうが明らかに笑顔が多かった。怜子に楽しんでもらうなら、そういった場所を選んだほうがいいだろう。川と海にはもう行ったから、次に行くなら山だろうか。いや、怜子の体力はオレに比べて少ない。オレが親父に鍛えられたからだというのもあるが、怜子と付き合いの浅いオレが無理をさせるのはよくないだろう。行くなら高原地帯とか、のんびり楽しめる場所のほうがよさそうだ。

 オレは行動方針をまとめた。

 タンデムでツーリングに行こう。

 数少ない友人に連絡を取り、お願いをしてビッグスクーターを借りることにした。怜子は「ビッグスクーターなら付き合ってもいい」と言っていたから、オレの愛車のような二人乗りに不向きなバイクではダメだ。オレの愛車はレーサーレプリカとツアラーの間の子みたいなバイクだから、お世辞にもタンデムに向いているとは言えない。友達にヤマハのビッグスクーターを持っているヤツがいるので、オレはそいつに後生だからと頼み込んで、一日だけ拝借することに成功した。

 そこでオレは怜子のヘルメットがないことに気付き、どうしようかと思った。確か親父が母とタンデムをするために購入したフルフェイスのヘルメットがあったはずだ。後部座席に乗せる人間には、何がどうあっても絶対にフルフェイスを被ってもらわないと、命に関わる可能性がある。運転しているほうは転ぶ瞬間がだいたい判るので受身を取れることが多いが、後ろに乗っている人間には転ぶかどうかが判らないので、受身を取るのが遅れる可能性が高いのだ。

 怜子のこじんまりした頭を思い起こし、母の頭のサイズと比較してみた。オレは親父に似て普通くらいの頭の大きさだが、母は比較的ちいさかったはずだ。母の器量は怜子のそれとは比べるべくもないが、大きさだけで言うなら似通っていると言えるだろう。もし合わなければ、中途で買い求めるしかない。

 そこまで考えて、オレは怜子に電話をしようと思った。

 デートが終わってその日のうちに、しかもすでに夜の11時を過ぎていたが、オレはすぐにケータイで怜子に電話をかけた。冷静に考えれば性急過ぎる行動だったことは否めない。でもオレは、居ても立ってもいられなかったのだ。

 待たされるかと思ったが、意外にも怜子はすぐに応答した。

「もも、もしもし?」

 怜子の声はなぜか極端に裏返っていた。オレも緊張していたので、怜子の様子を気にかける余裕はなかった。

「も、もしもし、オレだけど」

「れ、れ、れ、怜司くんっ!?」

「あ、あぁ」

「うそ? なんで? やだぁ……」

 通話を切られた。

 オレは自分のケータイをまじまじと見つめながら呆然とした。意味が分からない。

 もしかして、怜子に嫌われてしまったのだろうか。もう一度かけてみようと思ったけど、手が震えてなかなか通話ボタンを押すことが出来なかった。

 オレはそんな煩悶を抱えていると、ケータイから呼び出し音が鳴った。発信者は怜子だ。オレは迷わず通話ボタンを押した。

「も、もしもし!」

 言って、鼻息が荒くなっていることに気付いた。オレは頭を抱えたくなったが、ケータイから手を離さず、怜子の一言一句も聞き逃すまいと耳に押し当てた。

「れ、怜司、くん、かしら?」

 そうに決まっている。オレのケータイにかけてきたのにオレじゃない人間が出るケースなど普通はあり得ない。

 怜子の声はなぜか震えていた。

 何があったのだろう。オレが何かをしてしまったのか。もしかしたらオレとはもう話したくないと思っているのだろうか。

「そう、だけど? 何かあったのか?」

「い、いいえ。さっきは、手違い、で、切っ、ちゃっ、た、けど」

「そ、そうか。いや、別にいいんだ」

「ご、ゴメン、なさい」

「ほんとに気にしてないから。今、いいか?」

「え、えぇ。だだ、だい、じょうぶ」

 ちっとも大丈夫そうには聞こえないから尋ねたのだが、とりあえず話を進めてみよう。

 話を切り出そうとして、デートの日取りを明日のするのはよそうと思った。怜子も疲れているだろうし、オレもちょっと疲れている。オレはインターネットで天気予報を調べつつ、ケータイに話し掛けた。

「その……明々後日、空いてるかな?」

「しあ、さって? え、えぇ。だいじょう、ぶ」

 電話口から聞こえてくる怜子の呼吸が酷く荒い。もしかしたら今日のデートで体調を崩したのかも知れない。

「お前、大丈夫か? 何だか息苦しそうだぞ。風邪でも引いたのか?」

「ちょ、ちょっと……えっと、そ、そう、エクサ、サイズを、していたのよ」

 エクササイズ? 運動のことか。よく分からないが、だから間違えて電話を切ってしまったのかもしれない。

「疲れてると思うから、あんまり無理はして欲しくないんだ。もし都合が悪いならそう言って欲しい」

「悪くないっ! 全然、悪く、ないわ」

「そ、そうか?」

 結構な剣幕で否定された。大丈夫だと強調したかったのだろうか?

「ま、待ち、合わせ、は?」

「うん、いつも通り。十時に例の像の前にしよう」

「わ、わかったわ」

「無理して早く来なくていいからな。体調が悪いなら断ってくれてもいい」

「行く。ぜ、絶対、行く」

「そ、そうか。ありがとう。本当に、無理しないようにな」

「う、うん。あり、がとう」

「じゃあ、お休み」

「え、えぇ」

 怜子の様子は最後までおかしかった。何かあったのかもしれないが、エクササイズをして息切れでもしていたのだろう。電話だけじゃ、怜子の調子までは測れなかった。

 そう言えばツーリングにいくと言うのを忘れていた。大失態だ。ツーリングは普通の格好で行くと必ず後悔することになる。短い距離ならかまわないが、今回の目的地はちょっと離れた高原だ。そういった場所に行く場合、急激に気温の下がる高地の隘路を通ることになる。夏場であっても日が差しにくくて寒い。況してバイクで行くと凄まじい風圧の空気を肌に露出することになるので、体温はぐんぐん下がってしまう。また、仮に転んでしまった時でも長袖長ズボンという出で立ちならば、皮膚が直に路面と擦れる可能性を軽減してくれるため、怪我をしても重くならないことが多い。こういった理由から、バイクでツーリングをする時は夏場であっても長袖の上下があることが望ましいのだ。

 オレはもう一度ケータイで電話をしようと思ったが、何度も電話をされては怜子も迷惑だろうと思い直した。さっきも立て込んでいる時に電話をしてしまったみたいだ。メールアドレスも交換していたことを思い出し、オレは怜子にメールで用件を伝えることにした。

 怜子からの返信はすぐにきた。怜子はなぜかヘルメットを持っているらしいので、持参してこなくていいと断りを入れてきた。持っているのなら問題はクリアだ。遊園地の時は嫌だと言っていたが、メールの文面を見る限り、意外にも乗り気のように思えた。

 オレは怜子に楽しんでもらうためにはどうしたらいいかを、二日間を使って延々と考え続けた。


 三日後―――。

 オレは朝の五時くらいに起床した。

 約束の時間は十時だが、怜子は二時間半くらい前にはすでに到着していると思われるので、オレはそれよりもさらに早く、七時過ぎには待ち合わせ場所にいたほうがいいだろう。

 顔を洗って寝癖を治し、一人でトーストを作ってそれを食べた。親父はもちろん、母もまだ起きては来ない時間帯だ。オレは手早く身支度を整え、出掛ける準備をした。

 ビッグスクーター自体はすでに借りてきた。通常のバイクと違って、ビッグスクーターの荷の積載量はけっこう大きい。オレは怜子が寒いと言いだした時のために、厚手のジャケットを一枚その中に突っ込み、手袋も備えておいた。友達が一緒にナビも貸してくれたので、道に迷うこともないだろう。しかもタンデム用の背もたれまで取り付けてある。オレのためではないのだろうが、気の利く友人だった。

 天候も問題ない。二日前に久方ぶりの雨が振ったようだが、それもすぐに止んだ。

 気がかりがあるとすれば怜子の体調だった。エクササイズをしていたらしいのだが、先日の怜子の電話口での応対は、やはり体調不良の所為なのではないかと思ったからだ。

 もし待ち合わせの場所に来た怜子の様子がおかしかったら、その場でデートは中止にしよう。別に今日である必要はどこにもない。飽くまで怜子を優先しよう。

 オレは入念な準備を終えて、車庫から借りてきたスクーターを引っ張り出した。ヘルメットを被り、エンジンを入れて、待ち合わせの場所へと向かった。

 スクーターを駅から少し離れたコンビニの駐車場に停めさせてもらい、オレは待ち合わせの場所に徒歩で向かった。着いたのは七時前。まだ人影も疎らな静かな駅前だった。オレはそこで人が行き交うのを眺めながらぼんやりと怜子を待った。本当は怜子の家まで迎えに行っても良かったのだが、騒音にうるさいご近所様がいるのでと、メールで断られていた。

 七時半を過ぎるとスーツ姿のサラリーマンの姿を増えてきた。もちろん中には女性もいるが、働くOLがほとんどだ。怜子の姿はまだ見えない。

 八時前になり、八月という真夏にあって異色の格好をした女が歩いてきた。

 淡いピンクのレザージャケットに、薄いブルーのスキニージーンズを纏ったヘソ出しルックの麗しい女だ。ジーンズは足にぴったりフィットする細身のもので、デニムの上からでも彼女の脚線美を窺うことができる。ジャケットの淡いピンクは、真夏の太陽の下でそこだけが春めいた雰囲気を放っている。だが不似合いかと言われるとそうでもない。彼女の持つ凛乎とした空気はむしろ清涼感すら与え、高山の花を思わせる芳しさがあった。ジャケットの胸元は大きく開かれ、自信の表れなのか、ゆっさゆっさと揺れ動くむ、む、胸の谷間が強調されてた。左手にはジャケットよりも濃いピンクのフルフェイスヘルメットを携え、右手には小洒落た白いハンドバッグを手にしている。

 もちろん女は怜子だった。

「怜子!」

 オレは手を上げて怜子を呼んだ。

 怜子はビクリと肩を震わせ、その拍子に手にしていたヘルメットを落としそうになった。慌てて拾い上げて事なきを得たようだが、怜子の顔は真っ赤に染まっており、固まった足を棒切れみたいに前に出してロボットのように歩いてきた。

 オレは怜子に駆け寄った。

 目が少し充血しており、顔色も良くない。額から首筋まで紅潮し、唇は震え、呼吸も不規則だ。やはり今日のデートは中止にしたほうが良いかもしれない。

「お前、大丈夫か? 顔色よくないぞ」

「お、お、おはよう、れれ怜司くん。きょきょ、今日もいい天気ね」

 怜子はぎこちない笑みを浮かべて、オレの問いに的外れな回答を寄越した。

「いや、体調が良くないんだったら無理しなくていい。また今度にしよう」

「だ、大丈夫よ。いたって健康だから」

 怜子は大きく深呼吸をして、円らな瞳をオレに投げかけた。

 オレは怜子の肩を掴んで、瞳を覗き込んだ。

「大丈夫そうに見えねぇから言ってんだよ」

「ひぇっ!?」

 怜子は飛び上がるくらいビックリして、今度こそヘルメットを落とした。オレは寸でのところでそれをキャッチして持ち上げたが、怜子はオレの手からヘルメットを奪い、逃げるように人ゴミの中に駆け去っていった。

「な、なんだぁ?」

 全く意味が分からない。たまに怜子の挙動はあり得ないくらい不自然になる。オレは見失わないように怜子を追いかけたが、駅の女子トイレの中に逃げ込まれてしまった。仕方がないので、オレは壁に背を預けて怜子を待つことにした。

 待つこと三十分。怜子は何気ない様子でトイレから出て来た。

「ゴメンなさい。待たせちゃって」

「いや、別にいいんだけど、お前マジで大丈夫なのか?」

「えぇ。朝はちょっと低血圧なのよ」

 低血圧だとあんなにぎこちなくなるのか。新しい発見だ。

 トイレから出てきた怜子の様子はいつもと変わりなく、顔色も良好だ。化粧で隠しているような不自然さは見受けられない。

 マジマジと観察するオレの視線を気にしたのか、怜子はプイと顔を背けた。

「大丈夫だって言ってるでしょう? 行きましょう」

「わかった。けど、本当に無理するなよ? 具合が悪くなったらちゃんと言えよ」

「う、うん。ありがと」

 怜子は頬を朱に染めて、俯き加減でそう答えた。体調は戻ったようだが、言葉尻にいつもの覇気がない。機嫌が悪いと言うよりは、元気がないと形容すべきか。女は月イチでいろいろあるみたいだから、今日がその日なのかもしれない。なるべく怜子の様子を気遣いながら進むことにしよう。

 オレは勝手な想像を頭に廻らせながら、怜子を先導してスクーターを停めたコンビニまで案内した。

 タンデムは初めてだと言う怜子に基本的な注意事項を説明し、後ろのシートに乗せた。と言うか、怜子はなぜ初めてなのにヘルメットを持っているのだろう。しかもケータイに貼り付けるデコレーション用のビーズ―――スワロフスキーで何やら装飾までしてある凝りようだ。アルファベットでRなのかBなのか判断がつかない文字の横にSと記してあるみたいだ。全く意味が分からない。

 オレはシートにまたがり、キーを刺してエンジンを吹かした。

「背もたれのすぐ下に取っ手があるだろ? それを掴んで後ろに流されないようにな」

「怜司くんにしがみついちゃダメなの?」

「ダメってことはないが、風圧と慣性で躰を後ろに持っていかれるぞ。却って疲れるんじゃねぇかな」

「そうなの? よく分からないわ」

「怖くなったらしがみついてもいいけど、オレも運転しにくいから、なるべく取っ手で躰を固定しててくれ。多分すぐ慣れる」

「怖くならないように運転して」

「そのつもりだ」

 オレは左右を確認して、ビッグスクーターを発進させた。

 ちょうど朝の通勤ラッシュに捕まってしまい、街を抜けるまでに少し時間を食ってしまった。街を抜けて二車線の県道に入ってからは快調に飛ばすことができた。高速道路は使わず、下道で三時間くらいの道のりになるだろう。

 一度やや強めにブレーキを利かせてしまった所為で、怜子のメットがオレの背中にぶつかってかなり痛かった。怜子はすぐにオレの背中にしがみついて、体重を預けるようにしな垂れかかってきた。非常に運転しづらいのだが、ジャケット越しにでもはっきりと分かるくらい大きく膨らんだむ、む、胸の感触が、ふにゃりと背中に伝わってきた。緊張のあまり、首筋と肩が凝りそうだ。

 オレは怜子のしたいようにさせ、一時間に一度は必ず休憩を取るようにした。

 高山の隘路に差し掛かり、かなり気温が落ちてきた。怜子は何も言わないが、恐らく寒いはずだ。胸元も大きく開いているし、ヘソも見えているような格好だ。冷気が服の間から入って徐々に体温を奪われていくのは、正直しんどい。オレは一旦スクーターを停めて、シートの下からジャケットと手袋を取り出した。

「なぁに? これ」

「寒いだろ? 着たほうがいいぜ」

「怜司くんが着るんじゃないの?」

「いや、お前に着せるために持ってきたんだ。寒いと困ると思ってさ」

 ヘルメットを脱いだ怜子の顔は、異様に紅潮していた。やはり寒かったのだろう。持って来て良かった。

 怜子はお世辞にもカッコいいとは言えないジャケットを着込み、オレのお古のライダーズグローブを手に嵌めた。大きく深呼吸をすると、怜子はそのままフラフラとしゃがみこんでしまった。

「お、おいおい。マジで大丈夫かよ。やっぱり帰るか?」

「ち、違うの。体調は、本当に大丈夫なの」

「で、でもよ」

「お願いだから、怜司くんの行きたいところに連れて行って」

 怜子は赤らんだ顔で、オレの目をじっと見つめてきた。何が怜子をそこまでさせているのか分からないが、瞳の色があまりに真摯だったので、オレは怜子の言う通り目的地まで向かうことに決めた。

 目的地、と言っても道の駅があるくらいで、特に観光施設などが整っているわけではない場所だった。ただ、夏場は一面にレンゲツツジの鮮やかな赤が咲き乱れ、陽射しは厳しいのに風は涼しいという、避暑地には最適に場所だった。地形の関係でレジャー設備を整えることが出来ないらしく、ドライブやツーリングが好きな人間以外にはあまり有名ではない、隠れ家的なスポットだった。親父がこういう場所を好んで見つけてくるので、自然とオレも詳しくなってしまった。

 道の駅で停車して、オレたちは周辺を散策することにした。

 バイクを降りてからの怜子は血色もよく、とても病人には見えなかった。やはりタンデム自体が好きではないのだろうか。それにしては、怜子はオレの後ろで景色を楽しんだり、風を浴びて気持ちよさそうにしていたような気がする。ジャケットを貸してやった後は、寒さを感じることもなかったようだ。

 天気は良好、空は青。空気も澄んでいて、風は微風。生い茂る緑の山々と、辺りを彩るツツジの赤がなんとも美しい場所だ。

 怜子は胸いっぱいに息を吸い込んで、青空に吹き掛けた。唇には笑みが浮かんでおり、怜子がこの場所を気に入ってくれたようで、オレも嬉しかった。

 昼食を取った後、オレたちは草原にごろりと寝転んで過ごした。

 そこでオレと怜子はいろんな会話をした。

 怜子は裁縫が趣味だということ。散歩も好きで、暇があれば晴れでも雨でも外を散策していること。料理や家事は厳しい母親に鍛えられたおかげで、得意ではないけどある程度できるだということ。勉強は毎日かかさず4時間以上やっていること。成人して働いている兄がいること。学校での友達のこと。目指している大学のこと。怜子は饒舌で、オレはそれを聞くのが嬉しくて頬を緩めて怜子の顔を眺めていた。

 怜子はオレのことも聞きたがったので、思いつくままに話をした。ツーリングやワンダーフォーゲルの趣味は親父譲りであること。勉強は怜子と同じくらい毎日やっていること。でも勉強も読書も本当は嫌いなこと。母がいろいろ干渉してきてうざったいこと。いろんなことを話した。こうして実のある会話を怜子としたのは、これまで何度かデートをしてきたけど一度もなかったように思った。怜子は穏やかな表情でじっとオレを見つめながら聞いていてくれたので、それが嬉しくもあり、ちょっと照れた。

 もちろんアニメのことだけは頑なに伏せておいた。

「オレさ、大学には行かないつもりなんだ」

「え? どうして?」

「だって、さっきも言ったけど、オレは勉強が好きじゃないんだ。学びたいことがあるわけでもないしさ」

「でも、アタシと同じ大学を目指してるんじゃないの?」

「ん? 誰に聞いたんだ?」

「べ、別に誰でもいいでしょっ」

「まぁいいんだけどよ」

「で、でも、大学に行かないと就職率が悪いって聞くわ。学びたいことも見つかるかもしれないし」

「そうかもな。でも金を出してまで学ぼうって気持ちがねぇんだよ」

「ほ、本当に行かないの?」

「そのつもりだ」

 怜子はなにやら思案げな表情で視線を落とし、何かを決心したようにグッと拳を握った。だが、それ以上オレに追求するつもりはないらしく、「そうなんだ」と呟いて空を見上げた。

 日が傾き始めるより前に高地を抜けるため、オレたちは早めに出立することにした。怜子の体調が心配だったからだ。急変する怜子の体調を考えれば、何度も休憩しながら進んだほうがいい。バイクで走るのは風圧とGの所為でかなり疲れるし、後ろに乗っているほうもそれは同じだ。ドライブに行くのとは少し事情が異なる。

 帰りの怜子の体調はすこぶる良さそうだった。疲れた様子もなく、休憩する度にむしろオレが気遣われて、汗を拭いてもらったり飲み物を買ってきてもらったりした。オレもさすがに疲れていたけど、怜子と一緒にいられるのが嬉しくて、強がって平気な振りを続けた。

 帰り道では渋滞に掴まることもなく、スムーズに道を進むことが出来た。西の空が茜色に染まり始めた頃に、地元の町に辿り着くことが出来た。オレは駅よりもちょっと進んで、怜子の家の周辺で彼女を降ろした。

 エンジンを切ってヘルメットを脱いだ。

 怜子もヘルメットを脱いで、頭を何度か振った。汗に濡れた髪がさらさらと揺れる様に、オレは目を奪われた。怜子の髪はとてもキレイで、思わす手が伸びてしまいそうになるのを堪えるのが大変だった。

「今日はありがとう、怜司くん。とても楽しかったわ」

 その言葉を聞いて、オレはほっとした。多分にお世辞が含まれているかもしれないが、怜子の表情は清々しいものだった。嫣然と微笑む怜子の顔を夕陽が照らし、汗を反射してキラキラと輝いていた。ぬるい風に髪の毛を梳かせる怜子を見るだけで、オレは鼓動の高鳴りを抑えられなかった。

「また機会があれば、誘って。ツーリング」

「あぁ、もちろんだ」

 怜子の言葉はオレの胸を何度も叩き、知らないうちに呼吸が荒くなっていた。怜子の顔をまともに見られないくらい顔が熱くなり、オレは思わず俯いてしまった。

「それじゃ、今日の採点をしましょ」

 頷いて、オレはジャケットの内ポケットからカードを取り出した。怜子はシートの下からハンドバッグを取り出して、その中から白いカードを手に取った。

 オレはビッグスクーターから降りて、シートの上に黒いカードを一枚おいた。怜子も白いカードを一枚ぬいて、そっとオレのカードに隣り合わせた。

 カードは両方とも裏を向いていて、表の数字を読むことは出来ない。

 オレのカードはプラス1だ。純粋に、楽しかった。もっと怜子と時間を共有したかった。その気持ちをカードに込めた。嘘はもう言わない。

 怜子のカードが何なのか、オレは気になった。前回プラス1を使っている怜子は、同じカードを使うことは出来ない。マイナス1か、マイナス2だ。マイナス1なら好意的、マイナス2なら否定的だと解釈できるが、怜子は楽しかったと言ってくれた。だからきっとマイナス1なんじゃないかと思った。そうであって欲しかった。

「じゃあ、オープンしましょう」

 怜子はオレの、オレは怜子のカードを表に返した。

 黒い―――オレのカードはプラス1。

 白い―――怜子のカードはマイナス2だった。

 オレは目の前が真っ白になった。怜子のカードは白地に黒文字でマイナス2と明晰に記してある。頭が混乱しそうになった。つまらない人ねと、怜子がかつて放った言葉が脳裏を過ぎる。

 オレが顔を上げるより早く、怜子が白いカードを手にとってバッグに仕舞った。

 慌てて視線を上げると、怜子は悪戯っぽい笑みで答えた。

「こないだ怜司くん、アタシに意地悪したでしょ? だからその意趣返し」

 怜子は可笑しそうに破顔して、「じゃあね」と手を振って駆けていった。

 途中で振り返って

「次はアタシに番だからねっ!」

 満面の笑みを崩すことなく、もう一度手を振って見せた。

 オレはこの時―――。

 竹中怜司が黒田怜子を好きになってしまったことに気付いた。


 しばらく何も考えられず、オレは痺れた頭のままビッグスクーターを走らせた。友達にそれを返し、上の空でお礼を言った。友達は心配そうにオレを見ていたが、オレは何も答えなかった。「振られたくらいで落ち込むなよ」なんて知ったようなことを言う友人が、ちょっと可笑しくて、でも嬉しかった。

 徒歩で家に帰り、疲れた躰を癒すために風呂に入った。シャワーだけでなく久しぶりに湯船に浸かった。オレはその間ずっと怜子のことを考えていた。

 風呂から上がり、母が用意してくれた夕食を取った。口も利かずに淡々と箸を進めるオレの姿を見て、母は何も言わなかった。気遣わしげな表情をしていたようだが、オレにはそれに構う余裕がなかった。

 部屋に戻り、崩れるようにベッドに倒れた。

 怜子のことを考えると胸がドキドキする。

 オレはいつから怜子のことが好きだったのか、考えてみた。よく分からなかった。

 怜子は美人だし、スタイルも抜群だし、む、む、胸も大きい。黒心珠のような耀いを放つ怜子の瞳は、目を合わせるだけでオレの心を吸い取っていくようだった。白い肌も、桜色の唇も、さらりと肩まで伸びた黒髪も、全てがオレの心の琴線に触れた。

 性格はどうなのだろう。最初は驕慢で居丈高な女だと思っていた。口にすることは全て嫌味と皮肉で、優しさなんてかけらも感じられなかった。でも、怜子の態度は少しずつほぐれて柔らかくなっていった。照れると怒ったり、頬を染めてツンと顔を背けたり、悪戯っぽく笑ったり、怜子の表情の変化がオレには嬉しかった。

 怜子の躰は細くて柔らかい。手も、腕も、肩も、あんなに細いのに崩れそうなくらい柔らかくて、オレは怜子の盾になりたいとさえ思った。手足はあんなに細いのに、む、む、胸ははち切れんほどに膨らんでいて、オレの煩悩を刺激する。近づくといい匂いがして、頭がクラクラした。何度も何度も抱きしめたい衝動を堪え、平静を装うのが大変だった。怜子を全部オレのものにしたかった。

 狂おしい。早く怜子に会いたい。怜子の声を聞きたい。怜子と触れていたい。

 怜子がオレにくれたカードを手に取った。

 怜子はオレのことをどう思っているんだろうか。

 怜子は前回のデートでオレがマイナス2を出したことを許してくれた。今回のデートで自分がマイナス2を出すことで帳消しにしてくれたのだ。怜子はいいヤツだった。五回しか使えないマイナス2を出してまで、オレを許して……。

―――あれ?―――

 なんだ? 何かがおかしいぞ。怜子がこれまで使ってきたカードは何だ? 初回にゼロ、それ以降はマイナス1、プラス1、マイナス1、プラス1と規則的にカードを出している。そして今回だけはマイナス2を使っている。

 何がおかしい? 規則的なカードの出し方がおかしいのか、今回に限ってマイナス2を使ったことがおかしいのか。初回のゼロがおかしいのか。ただの偶然じゃないのか。怜子はこのゲームで何か悪巧みをするような女じゃないはず。ないはずなんだ。

 オレは頭が痛くなってきた。考えないように目を固く閉じた。閉じても閉じても、悪いビジョンが浮かんでくる。最初のデートで見たあの邪悪な笑みが、オレの脳裏を掠めては消えていく。

 オレの使ったカードは何だ? 初回から順にプラス1、ゼロ、マイナス2、プラス1、マイナス2、プラス1。規則性も何もない。その時に思ったこと、考えた結果がその場に反映されているだけだ。

 カードの出し方に法則性があるとどうなる? プラスマイナスを交互で出すことのメリットは何だ? 怜子はオフェンスの時にマイナス1を一度も使っていない。そしてディフェンスの時にプラス1を一度も使っていない。これが違和感の原因か? この法則から導き出される推論は一つ、怜子は得点を稼ぎたい。プラスポイントを自分に集めたいという意思表示にしか見えない。

 いや、怜子ならこんなやり方じゃポイントを集約することは出来ないことを充分に知っているはずだ。単純にプラスとマイナスを繰り返すだけでは、相手の出方によってはあっという間に全てのポイントを奪われて終わってしまう。そもそもプラスポイントを獲得するメリットは何だ? ポイントがプラスの状態でゲームが終了すると、相手に「好き」だと言わなければならない。このゲームのルールを決めたのは怜子だ。怜子はオレに「好き」だと言いたいのか? それが怜子の望みなのか?

―――いいや?―――

 今日のオレの手札はプラス1、ゼロ、マイナス1の三種類だった。対して怜子の手札は何だ? マイナス1とマイナス2しかない。オレの目論見が怜子にポイントを獲得させることだと見抜かれていたとして、かつそれを怜子が誘導していたとしたらどうだ? 今日の怜子の手札はマイナスしかない。オレはゼロを使えば確実に総和はマイナスになり、怜子にポイントを獲得させることが出来る。つまり、怜子は今日オレにゼロを使わせたかった、とは考えられないだろうか。

 なぜか。答えは簡単だ。今日オレがゼロを使えば、特殊カードであるマイナス2とゼロのオレの残数がともに三回になるからだ。対して怜子は今日の分を含めても四回ずつを残している。今日マイナス2を使ったのは、次のデートでの使用制限を回避するためと、露骨な誘導を悟られないためのカモフラージュ―――。

 考えすぎかも知れない、こんなことを考えても無駄だと、怜子はこんな調略をするようなヤツじゃないと、オレは何度も考えたはずだ。でも、なのに、いつも怜子は明らかにオレよりも有利なところにいて、逆算するとオレが怜子の考えるほうへと誘導されているようにしか思えないのだ。

 怜子が知りたい。怜子と話をしたい。怜子を教えて欲しい。

 オレは不安と猜疑心で押し潰されそうな胸を掻き毟った。怜子が好きなのに、怜子が愛しいのに、怜子を信じられない。オレはダメな男だ。好きな女を信じられない、不甲斐なくて女々しい男だ。だからもっと強くならなければならない。もっと強くなりたい。

 オレは肚を決めた。

 怜子を信じよう。裏切られていても許そう。騙されていても許そう。

 本当は怜子に問い質したいけど、それでも怜子を信じようと思った。無理やり自分をそう納得させた。騙されていてもいい。そう思えたら、少しだけ心が楽になった。


 二日後―――。

 まだ八月になって一週間しか経ってない。

 本日の天候は雨。日照りの絶えない真夏日が続いていたが、ようやくそれにも陰りが見えそうだと、天気予報のキャスターが安堵を漏らしていた。

 オレは怜子からの電話が来るまで、ずっと怜子のことばかり考えていた。次に会ったら何を言おうかとか、何かを怜子にプレゼントしたいとか、怜子はどうしたら喜んでくれるだろうかとか、愚にもつかないことばかり考えていた。怜子と顔を合わせたら、多分いま考えたことなんて吹き飛んでしまう。オレは怜子に会いたかった。

 前回のデートが終わったのが六時過ぎだ。怜子が駆け去っていった時の日の暮れ方からそのくらいだろうと想像した。オレは四時くらいから、ずっとケータイを握り締めて怜子からの誘いを待っていた。

 五時半過ぎになった。ケータイの呼び出し音が鳴った。

 怜子からだ。

 オレは逸る気持ちを懸命に抑え、ケータイを開いて通話ボタンを押した。

「もしもし、オレだ」

「怜司くん? アタシです」

「おう」

「デートのお誘いの電話だけど、大丈夫かしら?」

「あぁ、大丈夫だ」

 怜子の声を聞くことが出来て、オレは飛び上がるくらい嬉しかった。怜子に騙されているかもしれないという不安は確かに心のどこかにあったけど、それでもオレは怜子のことが好きだった。好きになってしまっていた。

「夏祭りに行きましょう」

「ん? 夏祭りってどこでやってるんだ?」

「アタシたちの小学校の近所に、大きな神社があったでしょう? あそこよ」

「そうか、そんなイベントあったっけ?」

「えぇ。待ち合わせは、いつもの趣味の悪い像の前でいいでしょ? そんなに離れてないから、のんびり歩きましょう」

「わかった。何時に行けばいい?」

「そうね、七時から花火が始まるから、六時でいいかしら?」

「六時だな、わかった。夏祭りっていつやるんだ? 明日か?」

「いいえ。八月三十一日よ」


 オレの頭は、真っ白になった。


 八月三十一日? 三十一日って、二十日以上も先の話だ。なぜだ? どうしてそんなに間を空けるんだ?

 確かにルール違反ではない。ゲームのルールはデート終了後から四十八時間以内に相手をデートに“誘う”ことであって、実際にデートを行う日取りの指定まではなかった。それはオレの前回の誘い方からも立証されている。ゲームの立案者である怜子が、その時に何も言わなかったのだ。デートを実際に行う日時が四十八時間以上ひらくことは、ゲームのルールに抵触しない。

「な、んで?」

 オレは絞るように声を出した。

「何が?」

「どうして三十一日なんだ?」

「それはお祭りをやる人に聞いて。アタシは知らないわ」

「そうじゃない。どうして、そんなに先にするんだ。もっと、明日とか明後日とかにやってるイベントでいいじゃねぇか」

 返答が、途切れた。電話の向こうで、怜子は困っているようだった。

「アタシね、受験勉強しなくちゃいけないの」

 そうだ。怜子は受験生だ。オレは大学に行くつもりはないが、怜子は目標の大学があるらしい。オレは勉強をする必要がないが、怜子は違った。そんな簡単なことに、オレは気付いていなかった。オレは怜子のことを思いやる気持ちを、少しも持っていなかったのだ。

「そう、だな。すまん。お前は忙しいよな」

「ゴメンなさい。夏休みの前半は遊びすぎちゃったから、少し勉強に打ち込みたいの」

「いいんだ。すまない。オレの思慮が足りなかった。お前に迷惑を掛けるつもりはないよ」

「ううん。怜司くんは悪くないわ。アタシの勝手な都合だから」

「うん。わかった。三十一日だな。忘れないようにするよ」

「あの、アタシね?」

「うん?」

「怜司くんと一緒に大学いきたいな」

 オレはケータイを落としそうになった。何だって? いま怜子は何と言った?

「それじゃあね、怜司くん」

「え? あ、あぁ」

 オレが間の抜けた返事をしているうちに、怜子からの通話は切れた。

 怜子はオレと一緒に大学に行きたいと言った。オレと一緒にだ。

 何だろう、この気持ちは。怜子のことばかり考えていたオレの気持ちに、何かが沸々と湧いてきた。怜子と同じ大学に通う風景を想像した。楽しくなってきた。

 オレはすぐに教科書とノートを机に広げた。志望校の赤本と参考書も広げた。

 足りない。いま目の前にあるものは、ほとんど目を通して記憶し終わったものばかりだった。もっとたくさん勉強しなければならない。我流ではダメかもしれない。予備校の相談も親にしてみよう。

 俄然やる気が出て来た。

 怜子と一緒に大学に行きたい。怜子もオレと一緒に行きたいと言ってくれた。

 オレはすぐに部屋を出て、台所にいた母に頭を下げた。親父が帰ってくると、親父にも土下座をして予備校に通わせて欲しいと拝み倒した。親父も母も優しく微笑んで了承してくれた。「お前がやる気なら、金は出す」と親父は躊躇うこともせずそう言ってくれた。母はどこに仕舞ってあったのか、いろんな予備校のカタログや資料を持ってきてオレに差し出した。オレがいつ予備校に行きたいと言い出してもいいようにと、わざわざ街に足を運んでまで用意していてくれたのだ。この日ほど、オレは両親が頼もしくて温かいものに見えたことはなかった。


 その日からオレは明けても暮れても机にしがみついて勉強に勤しんだ。

 冷静に分析した。オレの成績では、怜子の志望校には受からないことも、内心では解っていた。怜子は超難関国立大学を志望しており、日本で最も難しいとされる狭き門の代名詞だった。今のオレでは、その一つか二つくらいランクの下がる大学が精一杯だろう。

 先の実力考査の結果は偶然の産物だ。たまたま怜子の調子が悪かった。ただそれだけのことだ。調子が悪くてもオレと同じ点数を叩き出せる怜子と、調子が悪いと怜子に二十点以上も差をつけられることのあるオレとでは、やはり才能が違うのだろうことは薄々理解していた。

 でも、オレは怜子と同じ大学に通いたかった。

 恐ろしく不純な動機だが、そんなことはどうでもいい。

 オレはもう、黒田怜子に惚れてしまったのだ。

 オレは寝る間も削って勉強に時間を割いた。寝食を忘れてという言葉が、この時のオレにはぴったりだと自分でも思うくらいに勉強した。オレは元々勉強が苦手じゃない。ただ、怜子という高すぎる壁を追いかけるうちに、嫌気が差していただけだ。

 朝と夜は家で机に齧り付き、昼は予備校で講師の授業を受ける毎日が、二十日ほど過ぎた。二週間の遅れを取り戻すのはしんどかった。八月の末に行われた全国模試では、オレの判定は良くてもBくらいだろうと、自分で予想した。そして―――。


 八月三十一日―――。

 オレはこの日だけは勉強を忘れようと思った。朝早くに目を覚まし、朝食をとって母に頭を下げた。今日だけは勉強を休ませてくれとお願いをした。母は「あなたのペースでやればいい」と、叱りもしなかった。

 オレは予備校に行く途中で見つけた夏祭りのチラシに目を通した。実は密かに浴衣も買ってあった。勉強の合間にインターネットで浴衣の着付けを調べたりしたのだ。夏祭りに行くとなれば、男でも浴衣を着たほうが風情が出るだろう。

 チラシには大きな花火のイラストが描かれているだけで、詳細は載っていない。地元の祭りなんてそんなものだろう。花火を見ながら屋台で買い食いをする。その程度だ。

 オレは夕方までの空いた時間を利用して、神社の周辺や高台などを散策した。

 八月も終わりとはいえ、よく晴れた夏の日だったので、お天道様も最後の意地の見せ所と容赦のない陽射しを振り撒いていた。とても迷惑だったが、太陽に話し掛けても仕様がない。オレはなぜか天を仰いで太陽に文句を言う変な癖があった。

 花火が打ち上げられるのは、この町と隣町の境にある川沿いの南のほうだと聞いたことがあった。おおよその位置の見当をつけて、オレは花火が見やすくて人の少なそうな場所を探した。インターネットでも探したが、そういう場所には大抵すでに知れ渡っていて、隠れスポットでも何でもなくなっている。オレは地図をプリントアウトして、インターネット上で公開されているスポットに印をつけておいた。

 散々歩き回って、汗だくになった。夕方になる前に一度かえってシャワーを浴びないと、とても怜子には会えない。オレは最後に高台にある送電塔のほうに足を伸ばした。

 神社からも少し離れていて、ほとんど住宅街になっている。夜店もここまで出張っては来ないだろうし、付近にコンビニのような商店もない。オレは送電塔を囲う金網をぐるりと迂回して、狭い道を潜り抜けた。

 絶景だ。

 この町で十七年も過ごしてきて、こんな場所があることをオレは知らなかった。

 町を一望できる。

 遠くに川が流れており、町と町を繋ぐ鉄橋が割り箸みたいに小さく見えた。色とりどりの屋根がひしめき合って模型みたいだ。オレの通う高校はここからでは見えなかったが、東のほうに三年前まで通っていた中学校が見えた。オレはあそこに通っていたんだなぁ、なんて感傷が湧いてきた。意識したことはなかったが、オレの地元にはこんなにもたくさんの家やマンションがあったのか。そう思えるほど、そこには町の息吹が流れていた。

 汗ばんだ肌に、吹き抜ける風が心地いい。風はぬるくて清涼さを失っていたが、肌に触れるとひんやりと冷たかった。

 ここからなら花火も見えるだろう。住宅街にある所為か、人通りも少ない。況して送電塔の裏まで回りこまないと来られないのだ。民家のわき道を潜って来ようと思う人間は多くないだろう。

 オレは手にしていた、汗で湿った地図に赤ペンで印をつけた。


 いったん帰宅したオレは、シャワーを浴びるついでに躰と頭を洗った。久々に怜子と会えるのに、みっともない醜態はさらしたくない。オレは入念に歯磨きをし、しっかりと髪を乾かして整髪料で整えた。あまりオシャレに気を遣ったことのないオレは、カッコいい髪型の作り方なんて知らなかったので、とにかくおかしくならないことだけを念頭に丁寧にブラッシングした。

 約束の時間が六時だとすると、怜子は三時半から四時の間に待ち合わせ場所に来るだろうと思われた。オレは浴衣に袖を通し、三時過ぎには全ての準備を終えて、家を出た。

 着慣れない浴衣姿で、オレは市長の像の前に到着した。

 怜子はまだ来ていない。

 ケータイで時刻を確認すると、三時半前だった。もうそろそろ怜子も来るはずだ。オレはきょろきょろしながら、怜子の姿を探した。傍から見ると不審者に見えたかもしれないが、オレは早く怜子に会いたくて堪らなかった。

 背中から肩を叩かれた。

 振り返ると、怜子がいた。

「おはよう、怜司くん」

 息が止まるかと思った。

 久しぶりに見た怜子は、オレの記憶の中の彼女よりもずっと綺麗で素敵だった。纏う浴衣が、さらに怜子の美しさを輝かせた。

 桜色の生地にあしらわれた白百合の花は白鳥のように舞い、結ばれた濃紺の帯の青海を思わせるコントラストがなんとも目映い。洋物の衣服よりもゆとりのある袖口から覗かせる手足の細さが、彼女の可憐さをいっそう引き立てた。怜子の足が長いのか、浴衣の丈が短いのか、膝から太ももまでの艶めいた曲線が露になっており、風が吹いたらヤバいんじゃないかとオレをハラハラさせる。そして何よりも帯の上に乗っかった、浴衣じゃ狭いと苦しそうに生地を押し退けているむ、む、胸の張りが、オレの口を唖然とさせた。

 オレの鼓動は怜子を見てから一秒で、十倍速のビデオのように忙しなく騒ぎ始めた。

「お、おう。久しぶりだな」

「えぇ。元気そうね」

「お、お前どこにいたんだよ」

「そこよ」

 怜子はひょいと市長の像の背後を指差した。ちょうどオレが歩いてくるほうからは死角になっており、怜子はそこでオレを待っていたようだ。

「なんで隠れてるんだよ」

「怜司くんが驚いてくれるかと思って。でも、あんまり驚いてくれなくて残念」

 怜子は朗らかに微笑んだ。

 オレはその笑みだけで、躰まで震えるくらいドキドキしていた。

 祭りの夜店が開くまでまだ時間があった。当たり前だ、夕方というよりは昼下がりという時間帯。もう開いている店もあるだろうが、どうにも風情に欠ける。オレたちは商店街をブラブラしたり、喫茶店で涼んだりしながら、日が傾くのを待った。

 東の空の藍色が濃紺を深め始めた頃合を見計らって、オレたちは神社へと足を運んだ。

 神社の周辺はすでに黒山の人集りだった。オレは怜子の手を取って、人ゴミの中を歩き始めた。怜子はそっと握ったオレの手を握り返してくれた。オレは嬉しさのあまり叫びだしそうだった。

 オレたちは遊んだ。とにかく遊び回った。たこ焼きとフランクフルトと綿菓子を手にしたまま人波を縫うように歩き、金魚すくいや射的、輪投げではしゃぎ、アニメキャラクターのお面を被っては笑い合った。

 怜子は驚くくらいに射的が上手だった。一発も的を外すことなく次々と景品を打ち落とし、圧巻だったのは最も高額の景品だった家庭用ゲーム機本体まで打ち倒したことだった。射的の弾じゃ絶対に倒れないだろうと思わせる重量の景品を怜子の手によって打倒された時の店主の顔は抱腹絶倒ものだった。怜子は「それは要らないから店長さんにあげるわ」と、涙目の店主に慈悲をかけ、仏様のように感謝されていた。

 金魚すくいも輪投げも、どこから持ってきたのかモグラ叩きのアーケードゲームまで、怜子は全てを人並み以上にこなした。オレはその全てで怜子に敗北したけど、怜子がとても幸せそうだったので気にならなかった。

 やがて花火が打ち上がり、オレたちは人ゴミの中でそれを見上げて肩を寄せ合った。オレは花火をキレイだと感じたことはなかったけど、怜子と一緒に見上げた花火はこれまでみたどの花火よりも眩しくて、美しく見えた。

 八時過ぎまでオレたちは屋台という屋台を歩き回り、神社の境内で少し休憩をすることにした。

「花火はキレイだけど、ちょっと人が多すぎるわ」

 怜子は耀う花の浮かんでは消えていく夜空をぼんやり見上げて呟いた。

「花火大会なんてそんなもんだろ」

「そうね。もう少し落ち着いた場所で見られたら良かったんだけど」

 オレは緊張していた。

 怜子からオレが振ろうと思っていた話題を振ってくれた。昼間に探した隠しスポットに案内しようと思っていたところだった。

 オレはそこで、怜子に告白をしようと思っていた。だから、人気の多い場所では不都合だったのだ。

 意を決して口を開いた。

「花火を見るだけなら、いい場所を知ってるぜ」

「あら、そうなの?」

「ちょっと歩くけど、行くか?」

「行きましょう。せっかくだもの、花火も楽しみたいわ」

 オレは境内に腰掛ける怜子に手を差し出した。

 怜子はちょっと恥ずかしそうに、でもしっかりとオレの手を握ってくれた。

 オレたちは人集りを抜けて、神社を後にした。

 通りの夜店を突っ切って、住宅街まで出た。ここまで来ると人通りも疎らで、みんな神社や橋、堤防のほうへと足を向けていた。オレだけはそんな住宅街の細い路地を歩いて、怜子の手を引いた。

 怜子は黙ってオレについてきてくれた。こんな薄暗い場所に連れてこられて不安ではないのだろうか。光に乏しい狭い路地では怜子の表情まで窺うことはできなかったが、怜子はじっとオレを見つめて足を動かしていた。信じてくれているのだと好意的に解釈をして、オレは目的地へと怜子を先導した。

 やがて送電塔までやってきたオレたちは、金網の脇にある細い裏路地を潜り抜けて塔の裏側まで辿り着いた。

 周囲に人影は、ない。

 もうすぐ花火も終わる。

 夏休みも終わる

 オレたちのデートも終わる。

 オレたちのゲームも終わる。

 オレは緊張こそしていたが、肚は決まっていた。振られてもいい。この気持ちを怜子に打ち明けよう。そう決めていた。

 怜子はとても落ち着いていた。

 今日で怜子のゼロサムゲームも終わりだと、怜子なら理解しているはずだ。

 現在のオレのポイントはゼロ。だから怜子もゼロだ。今日これから行う最後の審判で、ゲームの勝敗が決まる。怜子は緊張していないのだろうか。

 オレの見つけた場所からは、打ち上げられる花火が良く見えた。

 町の灯かりは星空よりは明るかったが、花火よりは暗かった。

 怜子はオレの手を握ったまま、じっと花火を見つめていた。

 力強く輝きながら瞬く間に消えていく花火の残光は、どこか儚げだった。

 やがて、腹に響くような打ち上げの音が停止した。これからがクライマックスだという、花火職人の演出だろう。夜空はしばしの静寂を取り戻した。

「ここで採点をしましょう」

 出し抜けに、怜子がカードを取り出した。

 オレは驚きこそしたが、動揺はしなかった。怜子なら、きっとこんな風に淡々と終わりを告げるのではないか。漠然とそんな風に思っていたからだ。

 オレはカードを取り出して、一枚を抜こうとした。

「ねぇ、怜司くん」

「ん? なんだ?」

「今日は、こないだみたいな意地悪はよして、素直に採点して」

 オレは戸惑った。オレから告白するつもりだったから、マイナス2を出そうかと思っていたのだ。オレの今日の手札はマイナス1とマイナス2のみ。プラス1は前回で使ってしまっていたので、ディフェンスであるオレはマイナスのカードしか保有していなかった。

 対して怜子はオフェンスで、プラス1、ゼロ、マイナス1の全てを使用することが出来る。いずれのカードを使っても、オレがマイナス2を切れば怜子にポイントは入らない。マイナス1の場合、ゼロ以外のカードならば怜子にポイントが入る。

「アタシはゼロは使わないわ」

「え? なんだよ、いきなり」

「そのままの意味よ」

 怜子はゼロのカードを表を向けて地面に置いた。残ったカードはプラス1とマイナス1だけだ。怜子はそのうちの一枚を抜いて、オレに裏が見える形で差し出した。

 オレも怜子に倣い、二枚にカードからマイナス1を抜き出して、怜子に裏面しか見えないように差し出した。

 マイナス1とマイナス2しかない場合、素直な評価としてカードを出すならマイナス1は楽しかったという意思表示、マイナス2はつまらなかったという意思表示になる。だからオレは迷うことなくマイナス1を出した。これで怜子がどちらのカードを出しても、怜子にポイントが入る。つまり―――。

 怜子がオレに「好きだ」と告げる、ということだ。

 オレはそれでもいいと思い直した。どんな形でアレ、オレが怜子に気持ちを伝えることに変わりはない。

「自分が出したカードの数字は、覚えてる?」

「あぁ、大丈夫だ」

「それじゃあ、オープンしましょう」

 オレは震える手で、そっとカードを裏返した。

 黒いカードに記されていたのは、マイナス1。

 一瞬オレは、思考が停止した。

 オレにとってのマイナス1は楽しかったという意思表示。怜子にとってのマイナス1はつまらなかったという意思表示。つまりこれは

―――言外に振られたということなのか?―――

 オレはカードから視線を逸らし、怜子を見た。

 怜子の唇は、歪に吊り上がっていた。

 頭を鈍器で殴られたようだ。何もかもに思考が追いつかない。真っ暗闇の世界に落ちていくような感覚だった。

 停止した世界の中で、大きな花火が打ち上がった。

 輝きは夜空いっぱいに広がって、消え行く炎を覆い隠すように光の嵐が天空を舞った。

「『好き』よ、怜司くん」

 怜子は何気なく、挨拶でもするみたいにそう言った。

 オレは考えるのをやめた。

「お、オレはっ!」

 怜子のカードを握り締めて、花火の音に掻き消されないように強く叫んだ。

「お前が好きだっ!」

 怜子は優しく微笑みながら、一歩オレに歩み寄った。

 瞳に涙が滲んでいる。

 溢れそうな涙を、怜子は堪えようとはしなかった。

 両手でオレの頭を掴んだ怜子は

「アタシの勝ちね。怜司くん」

 言って、オレにキスをした。



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2.黒田怜子の決断



「やった」

 アタシは思わず心の中でガッツポーズをしていた。

 小中高と一度も言葉を交わす機会を得られなかった相手と、ついに話をするチャンスを自らの手で掴んだのだ。

 高校三年生の夏、アタシは十七年間の人生で初の試みに心を躍らせた。

 思えば小学二年生。クラスの合唱会の時、アタシは風邪を引いて上手く声を出せなかった。声が出せないのであれば歌っても仕方がない。アタシは壇上で何もせずに突っ立っていたのだが、それがマズかったらしい。小学校の学芸会なんてお遊戯レベルのものだが、クラスの和や一致団結が求められるものでもあった。アタシのクラスはアタシが歌っていなかったことを見咎められて不合格。アタシはみんなに糾弾を受けた。なぜ歌わなかったのかと、ご丁寧に学級会まで開いてみんながアタシをイジメた。泣きそうだった。いいえ、もう泣いていたと思う。怜司くんだけは違った。挙手をして、発言を許された怜司くんはみんなに向かってこう言った。

「黒田が風邪を引いてたことを知ってたヤツ、誰かいるのかよ」

 誰も答えなかった。

「だったらお前ら、黒田の友達になれてなかったんじゃん。文句なんか言えねーよ」

 一致団結をするなら、クラスメイトの不調も考えなきゃダメだって、後で先生が言ってくれた。アタシはそれでもみんなの前で謝り、一部の友達はアタシを許してくれた。許してくれなかった友達のほうが多かった。怜司くんだけは、事件の前でも後でも少しも態度が変わらなかった。

 この時からアタシは怜司くんのリサーチを始めた。怜司くんが何を好きで、どんなことが得意で、友達が何人いて、家族構成はどんな感じで―――。

 好きな人は誰なのか。

 アタシは幼いながらにいろいろと調べて回った。間違いなくストーカーだ。でもいいんだ。アタシは確かにストーカーだけど、怜司くんに迷惑を掛けるようなことは何一つしなかったし、怜司くんの邪魔にならないようにと姿を見せずに活動していたのだから、怜司くんはアタシのことなんてクラスメイトの一人くらいにしか思っていなかったはずだ。

 小学三年生の折、県の学力テストが実施された。アタシはそのテストで一位だった。怜司くんは四位だった。他の子はもっとずっと下のほうにいる子ばかりで、アタシと怜司くんだけがとても近かった。だからすごく嬉しかった。アタシは怜司くんのことが大好きだった。

 その頃から怜司くんはアタシに強い視線を送ってくるようになった。アタシがテストでいい点を取ると、怜司くんはアタシを見てくれる。アタシは一生懸命に勉強を頑張って、常にいい成績を収め続けた。怜司くんが見てくれると思うと、面倒な勉強も頑張れた。

 合間を縫って怜司くんのリサーチを続けたけど、肝心の“好きな人”の情報だけが一向に手に入らなかった。アタシは思った。怜司くんはあんなに強い目でアタシを見てくれてるのだから、きっとアタシのことが好きに違いない。でも、恥ずかしがり屋さんだからそれを誰にも教えていないんだと、アタシはそう考えた。

 中学に上がりクラスも同じになって、アタシは何とか怜司くんと話す機会を得ようと頑張った。けれど、臆病なアタシは怜司くんに話しかけることが出来なかった。でも怜司くんはいつもアタシを見ていてくれる。たまに目が合うと恥ずかしくて顔を背けてしまったけど、怜司くんはずっと、ずっとアタシの事を見ていてくれた。

 その頃からアタシの躰は女らしさを帯び始め、他の女のコよりも豊かな体つきへと変貌を遂げ始めた。男子は揃ってアタシの躰をいやらしい目つきで眺めてきた。汚らわしい。アタシに告白してくる男子もいたが、冷たく振ってやった。怜司くんだけは、アタシの躰が女になる前からずっと見ていてくれた。その視線もいやらしいものではなく、アタシに強い思いを向けてくれているのが判った。

 アタシは臆病で、何度も何度も話をしようと思ったけど、どうしても怜司くんに話しかけることが出来なかった。中学校三年間で、アタシは怜司くんとずっと同じクラスでありながら、ついぞ一度も言葉を交わすことは叶わなかった。

 高校になってからも同じだった。怜司くんはアタシを見ていてくれる。アタシはいつ告白されてもいいように、心の準備だけはずっとしていた。でも怜司くんには色っぽい話はほとんどなくて、誰かと付き合うわけでもなければ、誰かに告白することもなかった。アタシは怜司くんのリサーチをずっと続けていたので、怜司くんのことで知らないことはほとんどないつもりだった。

 怜司くんはきっとシャイな男のコだ。アタシのことが好きだけど、でも好きだってなかなか言えない人なんだ。アタシと同じだ。アタシも怜司くんのことが好きだけど、話し掛けることすら出来ないんだもの。似たもの同士で、何だか嬉しかった。

 そのうちに高校三年生になった。アタシのリサーチの結果によると、怜司くんはアタシと同じ大学を目指しているらしい。でも、アタシの考えだと、怜司くんの学力はアタシに一歩か二歩くらい及んでいない。多分アタシと同じ大学を受けると不合格の烙印を押されてしまうだろう。

 アタシが大学のランクを下げてもいいけれど、もしかしたら別々の大学に通うことになってしまうかもしれない。ランクを下げても必ず怜司くんがそこに受かる確証は、どこにもないのだ。

 このままではマズい。アタシは焦った。何とか早めに手を打っておかないと、取り返しのつかないことになる。怜司くんがアタシの手の届かないところに行ってしまう。

 何かきっかけを、話し掛けても不自然じゃないきっかけを作らなければならない。ううん、怜司くんはアタシのことが好きなんだから、そしてアタシは怜司くんのことが好きなんだから、お互いがお互いを好きだと言ってもおかしくない状況を作らなければならない。

 でも、アタシは怜司くんがアタシを好きなことを知っているけれど、怜司くんはアタシが怜司くんを好きだってことを知らないはずだ。シャイな怜司くんがアタシに告白してくれる可能性は低いかもしれない。

 アタシは何度も何度も頭を捻って考えた。怜司くんはアタシの学力の高さでアタシという人間に興味を抱いてくれた。だからアタシは頭が悪い人間になってはいけないのだ。アタシは怜司くんにとって頭のいい女であり続けなければならない。怜司くんはアタシよりちょっと成績は悪いけれど、他の人よりずっと頭のいい人だ。これまでアタシは一度も怜司くんに成績で負けたことはなかったけれど、だから敢えてギリギリの点数で、怜司くんが不審に思わないくらい紙一重の点数で怜司くんに負けてみる。そうすると、怜司くんはきっと「おや?」と思うはずだ。もしかしたら、怜司くんはアタシにテストの点数で勝つことが出来たら告白しようと考えているかもしれない。

 なんてことなんだろう。アタシは十年間その可能性に一度も気付かなかった。もっと早く気付いていれば、怜司くんはもっと早くアタシに告白してくれたかもしれないのに。

 でも、違うかもしれない。怜司くんはシャイな男のコだから、アタシにテストで勝つだけでは告白してくれないかもしれない。万全を期すべきだ。怜司くんがアタシに告白してくれなくても、アタシたちが相思相愛になるための戦略を練らなければならない。

 アタシがテストの点数で、ほんのちょっとだけ怜司くんに負けることは、アタシが怜司くんに話し掛けるきっかけにはならないだろうか? 今までアタシは怜司くんに一度も負けたことがないのだ。初めて負けたのであれば、それをアタシが怜司くんに話をするきっかけにしたとしてもおかしいとは思われないだろう。

 高校三年になって初めての実力考査。アタシはまず最初の賭けに勝つことが出来た。まさか一点差だとは思わなかったけれど、ギリギリで、本当に紙一重で、アタシは人生で初の大博打に打ち勝ったのだ。

 怜司くんの学力は全て把握している。全教科の成績、どの教科が苦手でどの強化が得意かも知っている。アタシは一つ一つのテストの問題を吟味しながら、慎重に自分の点数を調整した。怜司くんはトータルで七百八十点以上の成績を収めることが出来るだろうけど、七百九十点台には届かないだろうことは、テストの問題から逆算することが出来た。だからアタシは七百八十点ジャストを目指した。たとえ同じ点数だったとしても、それはやはりアタシから怜司くんに話し掛けるきっかけくらいにはなるはずだ。

 アタシの読みは的中した。アタシは七百八十点ちょうどで、怜司くんは七百八十一点だった。

 もしかしたら、もしかしたら怜司くんはアタシに告白してくれるかもしれない。アタシは期待に胸を膨らませながら放課後を待った。けれど、成績上位者が発表されてから、怜司くんはアタシの事を見てくれなくなった。たった一日のことだけど、今まで一日たりとも怜司くんからの視線を感じなかった日はなかったので、アタシは不安になった。怜司くんは自分より頭の悪い黒田怜子という女に興味を失ってしまったのかもしれない。

 アタシは意を決して席を立った。やはりこちらから仕掛けるしかない。興味を失ったのではなく、テストの成績に安堵をして気が緩んでいるだけかも知れない。成績表を見てからの怜司くんはどこか上の空だったから、恐らくアタシに点数で勝ったことへの驚きが強かったのだろうと、アタシは判断した。アタシは怜司くんに嫌われるようなことを何一つしていないからだ。

 その時の会話の内容は、実はよく覚えていない。初めて真正面から怜司くんと顔を、目を合わせたことで、アタシの緊張はピークに達していたのだ。何かキツいことを言ってしまったかも知れないけど、怜司くんはちゃんとアタシについてきてくれた。だからとりあえずはヨシとしよう。

 アタシは怜司くんを屋上に連れ出した。途中の廊下で、怜司くんがアタシの背中を見てくれるのを感じていた。それが嬉しくて思わず叫んでしまいそうになるのを、アタシは一生懸命に堪えた。やはり怜司くんはアタシのことを嫌いになったのではない。単純に少し気が緩んでいただけだと確信した。

 アタシは考えた。最終的にアタシと怜司くんが相思相愛になるにはどうすればいいか。アタシから怜司くんに告白しなければならない状況を作るか、怜司くんからアタシに告白しなければならない状況を作るか、そのどちらかを達成できればいい。愛を賭けたゲームをすればいい。勝ったほうは負けたほうの恋人にならなければならない。そうすれば、アタシたちは晴れて相思相愛のカップルになれるのだ。

 アタシは逆算をした。自分が考えたゲームでどういう展開に持っていけばベストなのか。最終的に、怜司くんがアタシのことを好きだと言ってくれるようにしなければならない。怜司くんがアタシのことを好きだというのは知っているけど、もっと、もっとアタシのことを好きになってもらって、好きだと言わずにはいられない状況を作らなければならない。

 怜司くんは他の凡俗な衆愚とは違うけれど、年頃の男のコだからきっとエッチなことも好きに違いない。幸い、アタシのスタイルは人並み外れて優秀なことも自覚している。今までは他の男子に舐めるような目で視姦されるこの躰が嫌いだったけれど、考えようによっては効果的に使うことも出来るはずだ。その相手が怜司くんだと考えたら、アタシはそれだけで昇天しそうなくらい嬉しくなってきた。

 アタシは怜司くんにゲームをけしかけた。話をちょっと聞くだけでは理解しづらい内容のゲームだ。最初にやや理不尽に聞こえるかもしれない勝敗の結末を持ってくる。次に少し複雑なルールを説明すると、そのルールを理解することに思考を割かれるから、最初の結末に関する言及は思考の端辺に追いやられるだろう。アタシは自分の考えたゲームを説明しようとしたけれど、怜司くんはそれがゼロサムゲームであることをピタリと言い当てた。あぁ、やっぱりアタシと怜司くんは心のどこかが繋がっているんだ。

 アタシは不自然にならないように、ちょっと強気な女のコを演じながらゲームの説明を行った。怜司くんがアニメ好きでゲーム好き、メイド好きでツンデレ好きなのはすでにリサーチ済みだった。メイドを演じるのは不自然だったので、ここはツンデレ路線で行こうと割り切った上での行動だ。

 最後は緊張のあまり逃げ出すように帰ってしまったけど、これで怜司くんとデートをする正当な権利を得ることが出来たのだ。アタシは浮かれてスキップをしそうなくらい心の中ではしゃいでいた。

 予め断っておくと、アタシは予想外のハプニングには滅法よわい。どのくらい弱いかと言うと、レベルがマックスの勇者なのにレベル一の雑魚敵にバックアタックされると敗北してしまうくらいだ。

 だから予測できる範囲のことは、全て想定して頭に叩き込んでおかなければならない。予想外のことが起きる可能性は、極力なくしたほうがいい。

 アタシは家に帰ってデートの算段を立てた。

 まず、初回のデートでどのカードを出すかから考え始めた。

 このゲームで最も大事なことは、相手にこちらの思考を読まれないこと。アタシの理想は、アタシがプラス1ポイントの状態でゲームを終えること。つまり、プラス5ポイントを先取するというのは単なるブラフ。5ポイントを先取するのは相当に大変だ。互いの利害が一致すれば五回のデートで終了してしまうが、恐らくルールを正しく理解し切れていないだろう怜司くんは、最初の一、二回を無為無策に使用するだろう。そこでアタシは揺さぶりをかける。怜司くんにアタシの目的を悟らせないための布石を、そこで打つ。

 怜司くんの知能レベルなら、一回目か、恐らく二回目のデートでこのゲームの仕組みを八割がた理解するだろう。その前に先手を打って、怜司くんの思考を誤った方向に誘導する。そうすることで、後にアタシの誘導を見破った怜司くんは、アタシの真の目的を自分の考えで糊塗してしまうに違いない。

 だから極力ポイントがゼロの状態を保たなければならない。ポイントが大きく離れてしまうと取り戻すのが大変だ。ただし、誤差1ポイントの揺れ幅だと怜司くんに見破られてしまう可能性がある。誤差3ポイントでは大きすぎるし、誤って修正をミスすると誤差が4ポイントになりリーチが掛かってしまう。プラスマイナス2ポイントを行ったり来たりするのが望ましい。

 プラス1ポイントという状態での決着なら、怜司くんにアタシの思考を読まれることなく、アタシの思い通りの結末を迎えられるだろう。ポイントが偏りすぎると、怜司くんに不審がられてしまう可能性が高い。

 ゲームを思い通りに進めるにはもう一つ、特殊カードであるゼロとマイナス2を無駄に使用させることが大切だ。マイナス2は誘われた側が使用できる最強のジョーカー。絶対にプラス1ポイントを獲得できて、かつ次回のデートでの使用カードに何の制限も与えない、最も使いやすいカードだ。そこにアタシは使用制限を設けた。夏休みという長い期間に五回しか使えないのであれば、かなりのプレッシャーだ。二回も使わせれば、もうそれ以上は使えないと思ってしまうだろう。

 ゼロは一見すると使い道が少ないようで、その実とても使いやすいカードだ。このゲームは同じカードを連続で使用することが出来ないのに、使用できるカード枚数が極端に少ない。仮に誘う側がプラス1を使用すると、次回のデートで使えるのはマイナス1とマイナス2しかなくなるのだ。そうなった場合、こちらの手札にゼロがあるという事実は、相手にとっての心理的負担になる。どちらを選んでも必ずマイナスになるので、もしポイントを相手に与えたいと思っているなら打つ手がない。しかもマイナス2を使うのは使用制限があるのでリスキーだし、マイナス1を使うとその次のデートでの使用カードに制限が掛かってしまう。

 こうした心理的な要因も含めて、大きな戦略を立てなければならない。その戦略に則った個々の戦術も重要だ。そしてその戦術を悟らせない演技。これがアタシにとっての最大の難関だ。予想外の事件さえ起きなければ、大抵のことはやってのける自信はあるけれど、何かハプニングがあった場合、アタシの性格から言って取り返しのつかない事態を誘発してしまう可能性がある。

 大まかな戦略としては最初にアタシに得点が入るように調整する。次に怜司くんの得点が入るよう操作をして、双方のポイントをゼロに戻す。あとは微調整を繰り返して、最終的にアタシがデートに誘ってゲームを終えられるようにすればいい。出来ればその段階で怜司くんがマイナス2を使えない状態まで持っていければ上出来だ。

 この方法で行くと、怜司くんは最初はアタシがポイントを稼ごうとしているような錯覚を覚え、ポイントがゼロに戻ったところでそのスタンスがアタシの欺罔だったのではという疑念に行き着くはずだ。そしてポイントを上下させることで怜司くんはアタシのスタンスを読めなくなる。アタシの真意に気付くことは絶対にないだろう。

 この過程で、アタシのカードの出し方がゲームの勝敗ではなく単純なデートの評価としてのものだと錯覚できるような采配をするのが望ましい。怜司くんの性格上、その疑念まで辿り着けばアタシに合わせて単純なデートの評価としてカードを使用するようになるだろう。そうすれば得点操作は楽だ。ポイントを稼ぎたい時は楽しそうに振る舞い、稼ぎたくない時はつまらなさそうに不貞腐れていればいいのだから。

 怜司くんは恐らく気付いていないだろうけれど、デートに誘うのは四十八時間以内でなければならないのに、デートを実行する日時に関する制限は設けていない。怜司くんがこのギミックに気付くよりも前にアタシが終止符を打てるように、慎重に怜司くんを観察しなければならない。

 ここまでが大まかな戦略だ。細かい戦術にはその都度の試行錯誤が必要になるだろうけれど、大きな方向さえ見失わなければいくらでも調整できるはずだ。

 アタシは次に明日のデートでの戦術を考えた。

 アタシにとって生まれて初めてのデートなので、出来れば思い出に残る楽しいものにしたいけれど、戦略上それを行っていいものなのかどうか思案した。最初にプラス1を出すことは問題ないけれど、その次でプラス1を使用する必要があるかどうかはどうだろう。二回目のデートでアタシがプラス1を出すと、百パーセントの確率で怜司くんにポイントが加算されてしまう。アタシはポイントを稼ごうとしているスタンスでいくので、二回目のデートでアタシがプラス1を使うことは出来ない。だから明日のデートでプラス1を使っても特に問題はないだろう。ただし、あまりに見え見えすぎる得点操作はしたくない。怜司くんは頭のいい男のコだから、あまり早期にこちらの手の内をさらけ出すと、怜司くんの思考が読めなくなってしまう。

 最初のデートではアタシではなく怜司くんにプラス1のカードを出させるように仕向けよう。アタシのカードはゼロ。そうすれば怜司くんは「アタシにプラス1を出させられた」と思うはずだ。その着想は怜司くんの思考を、ポイントを稼ぎたいという方向に誘導するのに好適だ。

 また、仮に明日のデートで怜司くんがマイナスのカードを出したとしても、それは怜司くんのスタンスを探るという意味で有効だ。2ポイントまでなら点数は変動させてもいいのだから、戦略さえ違えなければ一、二回のデートで一喜一憂する必要はない。

 最初にアタシがゼロを出すことで、怜司くんは戸惑うはずだ。そしてゼロのカードは相手に得点の遷移を委ねるという意思表示に見えるので、怜司くんはアタシが最初のデートを様子見に使ったと思うだろう。

 そこでアタシが思惑通りに行ったと思わせる演技を上手くできれば、怜司くんはアタシの思考をそこから逆算するはずだ。そしてアタシがポイントを獲得しようとしている、という推論に至るだろう。

 さて問題は、どうやったら怜司くんにプラス1を出させることが出来るのかだ。

 アタシは怜司くんの趣味嗜好を分析した。怜司くんはアニメ好きでゲーム好きだ。そしてメイド好きでツンデレ好きだということも知っている。つまりアニメやゲームに登場するメイドでツンデレなキャラクターのように振舞えばいいはずだ。多分これで間違いない。メイドって何をすればいいんだろう? アタシにはよく分からなかった。

 アタシは怜司くんとは違ってアニメがあまり好きではない。ゲームもあまりやらないほうだ。友達がよく話をするトレンディドラマも見ないし、小説を読むわけでもない。その手の娯楽がアタシは好きではなかった。

 そんなものに時間を割くくらいなら、一人で怜司くんとイチャイチャしている妄想に耽っていたほうがよっぽど有意義で楽しめる。妄想の中でなら怜司くんと好きなところにデートに行ったり、学校から一緒に帰ったり、おしゃべりしたり、人には言えないことをしたり、してもらったりできるのだ。アタシは考えるだけで鼻血が出そうになった。

 客観的に考えると、アタシは変態なのかもしれない。でもいいんだ。アタシは確かに変態だけれど、怜司くんに迷惑を掛けるようなことは一切してこなかったつもりだ。だからアタシは自分の性格が少しおかしくても気にしないことにしている。

 さて、アニメが好きではないアタシだが、アニメやゲームは人並み以上に詳しい。怜司くんがアニメ好きであることを知った時から、アタシはお小遣いのほとんどをアニメのビデオやマンガに注ぎ込んできた。それだけじゃ足りなかったので、時折マンガ喫茶に足を運んでは、手当たり次第に片っ端からマンガを読み漁った。面白いと思うものもあったけれど、やっぱり空想の中で怜司くんとイチャイチャしていたほうがずっと楽しかった。

 アタシはいつアニメの話を怜司くんに振られてもいいように、アニメ番組は欠かさず録画をした。時間が足りなかったので、倍速再生が出来る録画機をお父さんに買ってもらって、民法で放映されている全てのアニメを把握することに心血を注いだ。

 明日のデートは、怜司くんに気に入られるような服装をしていこう。これは怜司くんにプラス1を出させるための手段でもあり、怜司くんのアタシへの好感度を底上げする手段としても有効そうだ。アニメっぽい服装を、アタシは何着も持っている。買うとお金が掛かるので、裁縫が得意なアタシは自分でそれらを作成した。アタシの体躯に適う洋服は、巷にはなかなか売っていないのだ。

 次にどんな会話をすればいいのだろうか。メイドのような口調で話したほうがいいのだろうか。いや、ゼロサムゲームの説明をする時に、ツンデレとして話を進めたので、いきなりキャラが変わるのは不自然だ。やはりツンデレっぽくキツい口調で臨んだほうがいいだろう。ツンツンしながら時折デレを挟む。うん、このスタンスで行こう。

 アタシはさらに考えた。

 一度ツンデレというスタンスで行くのなら、それは戦術的なものであってはならない。戦略的にもアタシはツンデレでなければならないだろう。最初の数回はツンツンしているけれど、徐々にデレていく。こういう流れを作る必要がある。怜司くんはツンデレ好きだからこの戦略で間違いないはずだ。アタシはこれを戦略的ツンデレ計画と名づけた。

 アタシにとってこのゼロサムゲームは、怜司くんを囲い込むための二重の懐柔策だ。アタシの理想を実現するための方策なのだけど、最悪ゲームの勝敗として怜司くんに「好き」と言ってもらって、彼氏彼女になってもいい。打てる手は全て打たなければならない。

 とにもかくにも初回は様子見に徹したほうがいいだろう。怜司くんの性格は掴んでいるつもりだけど、実際にほとんど会話をしたことのないアタシに対して、怜司くんがどんな態度をとり、どんな心証を抱くのかは具に観察しなければならない。

 アタシは想定外の事態が発生する可能性を極力なくすため、予想される約三百通りの会話を全て諳んじられるくらい暗記し終えたところで、床に就くことにした。


 翌日―――。

 アタシはいつもより少し早めに、朝の五時に起床した。

 シャワーを浴びて朝ごはんを自分で作って食べて、お化粧をして髪形を整えた。昨日のうちに選んでおいたゴシックドレスに身を包み、怜司くんとのデートの時にと買っておいたフレグランスを一吹きして、家を出た。

 待ち合わせ場所には八時前に着いてしまった。ちょっと早く来すぎたかな? 些細な問題だ。アタシは一人でいる時間が好きだった。一人でいる時は脳内で怜司くんとイチャイチャしていられるからだ。アタシは立っているだけで流れ出す汗をハンドタオルで丁寧に拭っては、妄想の世界にダイブした。

 朝の九時を過ぎると、駅前の賑わいも一段落し始めた。これから営業を開始する商店の人たちが、店先で忙しなく動き回っている。怜司くんはまだかな。アタシは妄想と現実を行ったり来たりしながら怜司くんを待ち続けた。

 やがて怜司くんがやってきた。アタシは喜びで小躍りしそうになるのをグッと堪えた。アタシは現実と妄想の切り替えがとても早い。現実世界に妄想を持ち込むような愚昧な女であってはならない。怜司くんは、頭のいい女のコが好みだからだ。

 アタシは努めてツンデレっぽく振舞いながら、怜司くんを公園へと誘導した。怜司くんは予定よりも早く来てしまったので、映画の上映まで時間があったからだ。

 アタシはガッチガチに緊張していたので、怜司くんに上手く話し掛けられなかった。怜司くんもアタシに話し掛けてくれない。これまでアタシたちは会話をしたことがなかったのだ。普通に会話をするというのはなかなか難しい。

 アタシは妄想の中に逃げ込みたかったけれど、映画の時間が迫っていたので覚悟を決めて怜司くんに話し掛けた。しかもツンデレっぽくだ。

 アタシはこの計画のために前もって購入しておいたチケットで映画館に入った。怜司くんもアタシの後についてきてくれた。

 映画の内容はインターネットでリサーチ済みだ。見なくてもいい。アタシはじっと怜司くんを観察した。途中で怜司くんがアタシの視線に気付いた時の会話のパターンも暗記している。大丈夫、きっと上手くやれるはずだ。

 アタシは予定通りに映画館でのやり取りを終え、昼食をとることにした。ここで殊更にツンデレのデレをアピールし、ツンツンしながらデレるという高等テクニックをデート終了まで続けなければならない。ツンデレというのは極めて困難な属性だった。

 アタシは想定内の会話を織り交ぜつつ、想定外ではあるが予想に類似する内容の会話をしながらつつがなくデートを終えることが出来た。途中で怜司くんは何度も赤面することがあったので、多分ツンデレ効果は上手く発揮できているのだろう。

 そして最大の難関に差し掛かった。ここでアタシは自分の思惑が上手くいったことを示す“ニヤリ”をしなければならない。アタシは怜司くんが好きそうなアニメからそういったシーンを探し、何度も鏡の前で練習した。だからきっと上手くやれるはずだ。

 アタシのカードと“ニヤリ”を見た怜司くんは、非常に混乱しているようだった。アタシはそれを見て心が痛くなった。怜司くんを抱きしめたい。怜司くんを癒してあげたい。怜司くんとイチャイチャしたい。でも今はまだその時ではない。アタシは欲望を抑えることの出来る賢い女だ。

 そのまま怜司くんを置き去りにして、アタシは立ち去る振りをした。

 小一時間ほど怜司くんは同じ場所で呆然としていた。アタシは物陰からじっと怜司くんの様子を窺っていた。怜司くんはトボトボと家路に着いたようだ。アタシは怜司くんを追いかけた。尾行は小学校二年生の頃から続けているので慣れたものだ。アタシは怜司くんに悟られることなく、怜司くんを観察することに終始した。

 怜司くんは家に帰ってからしばらくして、部屋に戻ったようだ。ここからはさすがに中の様子を窺い知ることは出来ない。アタシは仕方がないので家に帰ることにした。


 ひとまずこれで今日の計画は成功だ。怜司くんの状態からすると、まず朝の時点でこのゲームへの考察を深めていた様子もないし、カードの出し方も今日のデートの採点を本心で行っているように見えた。この後も冷静にゲームの内容を把握するよりは、アタシの言動から何かを読み取ろうとするだろう。

 怜司くんを騙しているような気がしたけど、きっと大丈夫だ。怜司くんは何があってもアタシを許してくれるし、最後までバレない自信もある。アタシはアクシデントさえ起きなければ大抵のことは上手くやってのけることが出来るのだ。物心ついた時から、そういった器用さだけは持ち合わせていた。

 さて、次回の戦術を考えよう。次回はもうマイナス1かマイナス2を出すと決めてある。プラス1は絶対に出さない。ではマイナス1とマイナス2のどちらを出せばいいのだろう。確実を期すならばマイナス2を出したほうがいい。マイナス1だと、怜司くんにもマイナス1を出された時にポイントを奪われてしまう。

 うん、それはそれでいいかも知れない。どの道ゼロに戻すつもりのポイントだ。ここではそれほど悩む必要はないだろう。

 けれど怜司くんはきっとゼロを使ってくる。アタシにプラス1を使わせることを想定してゼロを使用するだろう。なぜなら今日アタシが使ったカードがゼロだからだ。ゼロは次回のデートに影響を与えない手札だと、怜司くんなら気付いたはずだ。デートに誘う側の怜司くんがマイナスのカードを使うのはかなり勇気のいる決断だ。特に次回のデートでプラス1のカードがない怜司くんにとって、マイナスのカードは使いたくないと思っているだろう。ポイントを稼ぎたい怜司くんが、誘う側でマイナスのカードを使うのは心理的に負担になるはずだ。

 冷静に考えれば、デートに誘う側にとってのプラス1とマイナス1は、その場においてはほとんど同じ意味なのだと気付けるはずなのだが、先ほどの様子から考えて怜司くんにはそれだけの余裕はない。仮にそれだけの冷静さがあったのだとしても、マイナス1はその次のデートで同じカードを使えなくなってしまうというデメリットを持つ。誘われる側でこそマイナス1は重宝したいはずなのだ。だからポイントをマイナスに出来ない怜司くんは、次のデートでマイナス1を使わない。必然的にゼロを使用することになるだろう。

 そこでアタシはマイナス1を焚き付ける。そして怜司くんを挑発する。そうすれば怜司くんはその次のデートで必ずマイナス2を使用してくるだろう。ここでポイントの調整が行える。次のデートで慌てて行う必要はどこにもない。

 さらに今回のゼロと次回のマイナス1は、デートは楽しくなかったけどつまらなくもなかったという意思表示のカードでもある。この事実は後々の戦術で重要な意味を持ってくるだろう。戦術的ツンデレと戦略的ツンデレを両立するための基盤になるはずだ。

 アタシはそこで思考を一旦ストップし、受験勉強に切り替えることにした。怜司くんと相思相愛になることも重要だけれど、怜司くんと過ごすキャンパスライフを豊かなものにするための下準備も忘れてはいけない。アタシは参考書とノートを取り出し、勉強に集中することにした。


 翌日―――。

 アタシはいつも通り六時に起きて、朝ごはんを作ってそれを食した。料理はあまり得意じゃないけれど、怜司くんにいつでもお弁当を作って上げられるくらいには習熟しておかなければならない。朝食を終え、部屋に戻って録画してあるアニメを四倍速で再生した。アニメの勉強を怠っては、怜司くんの彼女としては失格だ。

 アタシは九時までアニメと受験の勉強して、家を出ることにした。行き先は怜司くんの家だ。もちろん家の中に入るわけではないが、怜司くんをリサーチしなければならないからだ。着慣れたジャージに帽子を被り、日焼けをしないように目いっぱいローションを塗って、サングラスを装着した。これでアタシだと一目でバレるようなことはないはずだ。

 お母さんもお父さんも、アタシの行動に疑問を抱いているかもしれないけど、常に学年トップの成績を維持している限り何も言われないだろう。きっと大丈夫だ。

 出来るだけ日陰に陣取りながら、怜司くんの家宅―――特に怜司くんの部屋を観察し続けた。怜司くんは出掛けるつもりがないらしい。部屋の中で何をしているかまでは分からないけれど、きっと勉強をしているのだろう。怜司くんも受験生なのだ。

 怜司くんを観察しながら、アタシは怜司くんからのデートのお誘いがあった時の対処法を考えた。場所は怜司くん次第だけど、もちろんアタシは地の果てだって行くつもりだった。五十通りほどの会話の可能性を考え、暗記した。

 その後、めぼしい情報を得ることは出来なかったけれど、アタシは満足して家に帰った。


 翌日―――。

 今日もアタシはいつもの休日と同じように日課をこなして怜司くんの家に向かった。怜司くんは出掛けるつもりがないらしく、一日じゅう家にいた。アタシは怜司くんを近くに感じられて、満足だった。

 夕方までには怜司くんからデートの誘いがあるはずだった。まさかデートに誘わないなんて姑息な手を怜司くんが使うとは思えない。怜司くんは正々堂々と意見を言える男のコだからだ。

 アタシはリサーチを早めに切り上げて家に帰ろうと思った。

 出し抜けにケータイの呼び出し音が鳴った。

 時刻はまだ三時半。まさかとは思ったけど、発信者は怜司くんだった。

 きゃーーーーーー! きゃーーーーーーー! きゃーーーーーーーーーーー!

 どうしようどうしようどうしよう。アタシの予想よりも一時間以上も早く怜司くんから電話が来てしまった。マズいマズいマズい。落ち着け落ち着け落ち着けと、何度も念仏のように唱えた。想定より一時間くらい早いだけだ。落ち着いて準備した内容を思い出し、電話をとることにした。呼び出し音が消え、恐らく留守番電話のメッセージを促す音声が再生されているだろうタイミングで、アタシは通話ボタンを押した。

 上手く誤魔化せたと思うけれど、ちょっとツンデレっぽくなかった。失敗だ。怜司くんが面妖に思っていなければいいのだけれど、仕方がない。アタシは明日の準備をすべく、帰路を急いだ。


 翌日―――。

 アタシは朝の日課を終え、用意しておいたゴシックドレスに身を包み、お化粧をして家を出た。今日マイナス1のカードを出すことは予め決めてある。誘われる側のマイナス1なので、面白くもつまらなくもない、といった体で一日を過ごせばいい。本当は怜司くんにべったりくっついて楽しみたいのだけど、戦略上いまはまだその時ではない。アタシは冷静に行動できる女なのだ。

 待ち合わせの場所に着いたアタシは、前回と同じように怜司くんを待つことにした。こうして一人で何もせずにいられる時間は幸せだ。吹き出る汗をまめに拭いつつ、アタシは怜司くんとイチャイチャする妄想の世界へと身を投げ出した。

 九時になる直前に、怜司くんの姿か向こうから見えた。アタシは妄想ビジョンをストップして、全ての意識を怜司くんに向けた。今日も怜司くんと過ごせると思うと、躰が羽のように軽くなった。

 でもこの気持ちを表情に出してはいけない。アタシはツンデレなのだから。ツンツンした受け答えで朝の挨拶をクリアしたアタシは、怜司くんに連れられて遊園地に向かった。

 電車の中で、怜司くんの視線を感じた。アタシはこんなに間近で怜司くんに見てもらえていると思うと、気を失いそうなくらい躰の芯が疼いた。怜司くんに抱きしめてもらいたい。抱きしめたい。でもアタシは妄想を現実に持ち込んだりはしない。大人の対応が出来る女だ。怜司くんの視線がアタシの胸元に釘付けになっているのを感じていた。やっぱりこの衣装は効果がある。もっと見て欲しかったので、電車が揺れる度に少し大げさに躰を揺らしてみた。怜司くんの視線はますますアタシの胸に釘付けになった。アタシは天にも昇る気持ちでその視線を受け止めた。

 遊園地に着いた怜司くんは、アタシの分までチケットを購おうとした。おごってもらえるのは嬉しいけれど、怜司くんのお小遣いはそんなに多くなかったはずだ。怜司くんの月々の使用金額まで事細かにリサーチしているアタシのデータでは、怜司くんのひと月のお小遣いは五千円くらいのはずだ。これまでに余禄を貯蓄しているのだろうけど、そこまでお世話になるわけには行かない。アタシは飽くまでツンデレらしく怜司くんの申し出を断った。

 怜司くんが最初に選んだ乗り物はジェットコースターだった。アタシは怜司くんがバイクに乗ることを知っているので、この類のスピードマシンが好みだろうことは予測がついた。アタシは乗る前にトイレに行きたかったけれど、怜司くんが何だか嬉しそうだったので、そのままジェットコースターに乗ることにした。

 その後、アタシは言いそびれる前にトイレに行きたい旨を怜司くんに伝えた。戻ってきた怜司くんが何を考えているか分からないけれど、トイレくらいでアタシへの心証を悪くするほど、怜司くんはダメな男の子ではない。

 怜司くんはなぜかスピードの出る乗り物を避け、ゆったりと楽しめる乗り物ばかりを選んだ。アタシはスピードが出る乗り物が嫌いではなかった。むしろ好きだったけれど、怜司くんがそうしたいうなら特に反対する理由はなかった。こんなところでツンデレを発揮しても、却ってワガママだと思われるのが落ちだろう。

 昼食を取った時、アタシは致命的なミスを犯した。怜司くんにバイクの話を振られて、アタシは思わす答えてしまったのだ。

「あなたのバイクはタンデムには向いてないでしょ? ビッグスクーターとか、乗りやすいバイクなら付き合ってあげてもいいわ」

 タンデムに付き合いたくないという意味ではない。アタシはどちらかと言えば怜司くんの後ろでぎゅっとしがみついてバイクに乗ってみたかった。ツンデレとしては正しい対応なのだけど、問題はそこではない。怜司くんは、アタシが怜司くんのバイクのことを知っているという事実を知らないはずだ。なのにアタシはそれが当然のように答えてしまった。

 幸い怜司くんはアタシの発言を疑っている様子はなかった。アタシはほっと胸を撫で下ろし、事なきを得たことに安堵した。

 昼食を終え、アタシは少し考えた。怜司くんはバイクの話を振るくらいだから、スピード系の乗り物が好きなはずだ。午前中は、恐らくアタシのことを考えてスピードの出ない乗り物を選んでくれたのだろう。ここはアタシがツンデレのデレを少しだけ発揮して、怜司くんの嗜好を忖度してあげよう。アタシも乗ってみたいのだし、一石二鳥だ。

「次はアレに乗りましょう」

 アタシは絶叫マシンの部類に入る乗り物を指差して、にっこり微笑んだ。

 怜司くんが物凄く驚いた顔をしていた。なぜかしら? 何かを間違えた気がするけれど、気のせいだろう。怜司くんはきっと喜んでいるはずだ。

 アタシは次々と絶叫マシンを指定し、怜司くんに喜んでもらおうと思った。ちょっとデレを前面に出しすぎたかもしれない。怜司くんも疲れているみたいだし、控えめにしたほうがいいだろう。日も暮れかかっていたので、最後にアタシは観覧車に乗りたいと申し出た。

 観覧車での怜司くんは、ずっとアタシの事を見ていた。何かを話してくれれば少しは気が楽だったかも知れないけれど、好きな女のコと二人っきりでいるというシチュエーションに緊張しているのだろうと、アタシは思った。アタシも心臓がバクバクして、顔から火が出そうなくらい緊張していた。ちらりと怜司くんのほうを見たら、ばっちり目が合ってしまった。心臓が口から飛び出るくらい恥ずかしかったので、アタシは思わず目を逸らしてしまった。

 観覧車を降りて、アタシたちは帰路に着いた。

 地元の駅前のベンチで、アタシたちは今日の採点をした。

 怜司くんのカードは案の定ゼロで、アタシは予定通りマイナス1を出した。

 アタシは

「意外に臆病なのね、怜司くん」

 と、怜司くんを焚き付けておいた。これで怜司くんは躍起になってポイントを獲得するようになるだろう。戦略的ツンデレ計画からも外れていない行為だ。

 アタシは怜司くんの脇をさっと歩いて立ち去る振りをした。

 すぐにアタシは姿を隠して怜司くんの様子をじっと観察した。

 怜司くんは呆然と佇んでいるように見えた。アタシの思考が読めなくて苦悩しているのだろうと、アタシは推論した。アタシは怜司くんに申し訳ない気持ちになったけれど、怜司くんがアタシのことで悩んでくれていることがとても嬉しかった。

 しばらく怜司くんを観察していると、一人の下郎が怜司くんに話し掛けてきた。ブッ殺そうかと思ったけれど、あの下衆野郎は見たことがあった。アニメショップで怜司くんと楽しげに談話をしていた凡愚だった。アタシはわなわなと震える拳を必死に抑え、怜司くんの会話の内容に耳を傾けた。

 怜司くんとカス野郎はアニメの話をしているようだった。怜司くんがアニメの話をするのはあのクズ野郎にだけだ。アタシは悔しくて歯がゆくて今にも飛び出しそうになるのを我慢するのが大変だった。去り際に怜司くんは、とあるアニメキャラクターの名前を出した。アタシはアニメの知識に関しては人後に落ちるつもりはない。そのキャラクターがネコ耳を標準装備した従順なメイドキャラだということはすぐに判った。怜司くんはネコ耳メイドが好みらしい。ゴミ野郎に別れを告げて、怜司くんはその場を立ち去った。

 なんということだ。アタシの情報にはまだ足りない部分がたくさんある。アタシは怜司くんがメイド好きなことは知っていたが、ネコ耳メイド好きだとは知らなかったのだ。アタシはメイド服もアタシのスタイルに合うように作ってあるけれど、ネコ耳は持っていない。アレを作るのはちょっと大変そうだ。

 アタシは怜司くんが帰宅し、部屋に戻って灯かりが点いたことを確認すると、家には帰らずに駅に戻って、アニメショップがある駅へと向かった。

 帰宅したアタシは、着替えて食事をした。お父さんとお母さんがアタシの帰りが遅いことを心配してくれたけど、アタシは何も心配ないと告げて、両親を安心させた。たとえお父さんとお母さんの頼みであっても、怜司くんのことだけは譲れない。貯金を全てはたいてでも、怜司くんのために怜司くんの喜ぶ衣服を手に入れることは最優先事項だった(ネコ耳カチューシャはそんなに高くなかったけれど)。

 アタシは部屋に戻ってネコ耳カチューシャを装備すると、インターネットを使って怜司くんの好きなネコ耳メイドキャラクターの情報を片っ端から拾い集めた。


 翌日―――。

 アタシは試しにネコ耳を装備して町に出掛けてみた。いえ、正確に言うと町に着く前に外してしまった。想像以上に恥ずかしい。怜司くんのためなら頑張れると思ったけれど、怜司くんが隣にいないのにこの恥辱は耐えられなかった。

 アタシはネコ耳カチューシャをカバンにしまって、怜司くんのリサーチに出掛けた。

 怜司くんは出掛けてはいないようだった。怜司くんは出掛ける場合、バイクを使わなければ自転車を使うことが多い。怜司くんのバイクも自転車もいつもの場所に停めてあったので、アタシはほっと胸を撫で下ろした。

 怜司くんの部屋で、カーテン越しに人が動く気配がしていたので、怜司くんはきっと家にいるのだろう。アタシは怜司くんの気配に癒されて、リサーチを終えた。

 家に戻ったアタシは、次のデートにどこへ行こうか考えた。美術館へ行くことにした。有名な画家が絵画展をやっているらしいのだが、その画家の名前をアタシは聞いたことがなかった。インターネットで調べられる限りの情報を全て記憶し、パソコンの電源を落とした。残った時間は受験勉強に当てた。


 翌日―――。

 朝の日課を済ませ、アタシは家を出た。今日ももちろん怜司くんのリサーチだ。

 怜司くんは今日も家にこもっているようだった。怜司くんは浪費癖がないみたいだし、将来きっといいお父さんになるだろう。出掛けて遊んでばかりいる男は、湯水のごとくお金を使ってしまうので、アタシは怜司くんみたいにずっと家にいてくれる人のほうがいいと思った。もちろん怜司くん以外の男ならただの引きこもり野郎でしかないのだけれど。

 怜司くんは夕方から出掛けることは少ない。夕方になる前に、アタシは家に戻ることにした。

 家に戻って、アタシはしばらく受験勉強に身を投じた。日も暮れて、頃合を見て怜司くんに電話をすることにした。もちろん電話で話す内容はすでに考えてある。

 アタシは待ち合わせ場所を美術館の前にした。あの辺りなら人通りも然ほど多くない。ネコ耳姿でも羞恥に耐え切れるだろうと踏んでのことだった。さすがに駅前の往来でネコ耳メイド服は恥ずかしすぎる。アタシでもきっと耐えられない。

 その夜、アタシは受験勉強を終えて、明日のデートで想定される四百二十三通りの会話を全て暗記して、床に就いた


 翌日―――。

 アタシはいつも通り六時に起床して、朝の日課を終えた。、約束は十一時だから、八時半くらいに着いておけば大丈夫だろう。怜司くんがどんなに早く来ても、アタシが怜司くんを迎えて上げられるというのは、とても嬉しいことだった。

 アタシはメイド服に身を包み、ネコ耳カチューシャを着けようとした。つ、着けられなかった。アタシにはこのネコ耳というものに抵抗がある。これを着けて往来を歩くのは至難の業だ。多少のことなら頑張れるし、コスプレもそこまで異端ではなくなった昨今だが、さすがにネコ耳はない。これは同じ趣味の人たちが集まって着ける衣装であって、一般的なアクセサリーからは程遠かった。さすがのアタシも後ろ指を差されながら歩きたくはない。メイド服とはワケが違う。

 アタシはネコ耳カチューシャをハンドバッグに仕舞おうと思ったけど、バッグをオシャレなものにしすぎたので入らなかった。アタシは頭を悩ませた。デパートの紙袋にカチューシャを入れて、現地に持っていくことにした。着用はその場でしよう。ネコ耳を着けて電車に乗れるほど、アタシは勇者にはなれなかった。

 美術館に到着して、人の往来が少ないことを確認すると、アタシはネコ耳を装着した。凄まじい羞恥心が襲ってきた。人の数は少ないけれど、みんなアタシに注目していく。アタシは奇異の視線から逃げるために、妄想世界へとダイブした。

 どれくらいそこに立っていたのかは覚えていないけれど、怜司くんの足音がしたので現実に戻ってきた。美術館の周囲には清掃員の方以外には誰もおらず、アタシはほっとした。怜司くんはアタシに声を掛けてきたけれど、なぜか固まってしまった。

 アタシは戸惑った。こちらから声を掛けても怜司くんは頷くばかりで返事をしてくれない。じっとアタシを見ている。アタシは気恥ずかしくなったけど、堪らなく嬉しかった。けれど今回はさすがに気恥ずかしさのほうがちょっと大きかった。

 清掃員の方が言外に邪魔だと言ってきたので、アタシは怜司くんの手を引っ張って付近の小さな公園に退避することにした。

 怜司くんはずーっとアタシを見ていてくれる。これは間違いなく見惚れていると形容してもいいだろう。ネコ耳メイドとはこれほどまでの威力を持つものだったのか。相応の犠牲を払うことで怜司くんから絶大な好意を得ることが出来る、禁断の秘術だ。ただし、代価が大きすぎるのが難点だ。

 アタシは怜司くんに何度も話し掛け、正体を取り戻してもらうまでに一時間ほど掛かった。怜司くんは何度も謝ってくれた。もちろんアタシは怜司くんがやることなら何でも許すけれど、ツンデレっぽく許してみた。上手くできた自信はないけれど。

 結局のところ、美術館はつまらなかった。アタシには芸術を解する才能がないみたいだ。誘った手前、興味がありそうな素振りをしては見せた。それは今日の採点でアタシがプラス1を使うことの布石でもあるのだが、怜司くんがそれを理解してくれるかどうかは分からない。さっきからずっとアタシのことを見つめてばかりいるからだ。

 美術館は一時間ほどで切り上げ、アタシたちは昼食をとることにした。本当はこれから近くのボーリング場に行く予定だったのだが、この格好で行くのは厳しすぎる。アタシは何とか昼食を取って帰る方向に話を進めようと方針を変更した。ゴメンなさい、怜司くん。アタシは愚かな女です。あなたの嗜好を叶えてあげられない蒙昧な愚女でした。次までには、必ずネコ耳メイドをマスターし、あなたのご希望に添えられるよう十全の努力をいたします。

 美術館の周辺で食事を取れるところは多くなかった。元々住宅街のような場所だ。美術館の周辺に定食屋のようなお店はあったけれど、デートで行くような場所ではない。仕方がないのでファーストフードにしようと提案した。もちろん怜司くんからの反論はあったけれど、想定の範囲内の会話だったので、上手く誘導することが出来た。

 何かの本で好きな人の気を引くにはどうすればいいか、という内容の話を読んだことがあった。相手の真似をすると同調や共感が得られて効果的だと書いてあったので、試しにそれを実践してみることにした。怜司くんと全く同じものを頼んでみた。失敗した。どう考えても量が多すぎる。

 アタシは食べきれないものを怜司くんに分けてあげることにした。怜司くんは男のコだからきっと食べられるだろう。案の定、怜司くんはアタシの分まで食べてくれた。

 好きな人の気を引くにはどうすればいいか、その二。軽いボディタッチをするのが効果的らしい。あんまりぺたぺたしすぎると返って逆効果の場合があったり、効果がありすぎて困ったことになる可能性があるらしいので、飽くまで軽めのボディタッチに留めておくことが重要らしい。アタシは怜司くんの口元がほんのちょっとだけ、見えないくらいだけど汚れていたので、それを拭き取ってあげることにした。怜司くんは顔を真っ赤にしてしていた。恥ずかしかったのか嬉しかったのかは分からないけれど、アタシも死ぬほど恥ずかしかった。でも怜司くんに触れられてラッキーだった。このハンドタオルは後生大事に保存しておかなければならない。

 昼食を終えて、帰宅することにした。地元の駅前で、今日の採点をした。

 今日の怜司くんが出してくるカードがマイナス2であることは予測済みだ。

 アタシが出すカードはプラス1。マイナス1は前回で使用済みだし、ゼロの使用回数を減らすメリットが何もない。

 さすがに怜司くんもこの時までにはゲームのルールを理解していたようで、驚いた様子はなかった。アタシはツンデレメイドならこういう場合どうすればいいか、予めインターネットで調べてあった。いろいろあったけれど、最も簡単そうだったのが“鼻で笑う”だった。実践してみた。失敗した。絶対に怜司くんに悪い印象を与えたに違いない。やはり人から聞いた方法を鵜呑みにするのは良くないと、この時アタシは学習した。

 とはいえ、戦略ツンデレ計画で行くという方針に対して、今回の言動が不適切であったかというとそうでもない。怜司くんはツンデレ好きだから、もしかしたらまんざらでもないのかも知れない。ただ、ツンデレ路線はけっこう疲れる。アタシはしたくもない冷たい態度を怜司くんに取り続けなければならないのだ。そろそろツンからデレに移行してもいいだろう。

 アタシは次回のデートではツンを弱め、少しデレを強めて見ようと考えた。

 アタシは怜司くんと別れた振りをして、すぐにリサーチを始めようと考えた。失敗した。怜司くんがこちらをじろりと睨んでいた。アタシは動揺した。先ほどのツンデレ対応が失敗したのかと思ったからではなく、アタシがこれまでしてきたストーキングがバレてしまったのではないかと思ったからだ。

 アタシはパニックに陥りそうになった。このままストーキングを続けると怜司くんに嫌われてしまうかもしれない。アタシは脱兎のごとく逃げ出した。その日は怜司くんのリサーチを行うことが出来なかった。


 アタシは家に帰って(家に着く前にネコ耳カチューシャは外した)、次なる戦術を練ることにした。

 まず、戦略的ツンデレ計画はそろそろ転換期を迎えているだろうということだ。このままでは怜司くんに悪い印象を与えてしまうかもしれない。ツンデレはツンがデレるからいいのであって、ツンツンしているだけではダメだ。戦術的ツンデレは初回のデートでも実証されたように確かに効果があるが、あんな露骨なやり方では怜司くんにアタシの目論見が露見してしまう可能性が高い。ツンデレは戦略的に行うからこそ効果を発揮するものだ。アタシは次のデートから少し態度を軟化させ、デレを少しずつ織り交ぜていこうと考えた。

 さて、次に戦術を考えなければならない。

 まず今回のデートで怜司くんはアタシの出すカードを正確に予測できていただろう。それは怜司くんの反応から見ても間違いない。怜司くんはゲームのルールを正確に理解し始めた。でもまだ完璧じゃない。完璧に理解しているならば、マイナス2は使わないはずだ。もし怜司くんがゲームのルールを理解したうえで、それでも積極的にポイントを稼ぐことに執着し始めたら、その時はそれに乗ろう。そうすると、怜司くんは必ずアタシの反応がおかしいことに気付き、方向修正を始めるだろう。怜司くんが方向修正をしないならば、それでもいい。アタシの理想とは違う形になるけれど、アタシは目的を近い形で達成できるだろう。

 では次にどうすべきだろうか。

 怜司くんは得点をプラスにしようと躍起になっているはずだ。それだけでもプラス1を使う可能性は高いが、こちらの手札にマイナス2というジョーカーがあることも理解しているだろう。怜司くんは今日マイナス2のカードを自ら切ったのだから、マイナス2が最強のカードであることを充分に知っているはずだ。次の次のデートでの状況を考えると、怜司くんはディフェンスとしては総和マイナスに持って行きたいはずだから、プラス1という選択肢はあり得ない。つまり、次のデートでプラス1を使っても何も支障がないと考えるだろう。確かに得点を獲得しようとする戦略なら間違いない。プラス1とマイナス2を交互に繰り返すのは道理だ。

 アタシの戦略は最終的にアタシがプラス1ポイントでゲームを終えることだから、ここで怜司くんにポイントを与えてしまっても問題ない。双方のポイントをゼロに戻すのだ。アタシが大きくプラスポイントを維持している理由は何もないのだから。したがってアタシは次のデートではマイナス1を使う。マイナス1を使うことで、怜司くんのプラス1との総和はゼロになり、怜司くんにポイントが入る。怜司くんは大いに戸惑うだろう。

 アタシがマイナス2を使わずにマイナス1を使うという事実は、怜司くんの心に小さな波紋を落とすだろう。次回のデートでプラス1のカードが使えないアタシがマイナス1を出す理由は何か。怜司くんは二つの可能性に思い至るはずだ。一つは、実はアタシがポイントを獲得しようとしていないという可能性。もう一つが、アタシは純粋にデートの評価としてカードを使用しているという可能性。その二つの可能性に至らせるために、次のデートをアタシは笑顔で終わらせなければならない。楽しかったという意思表示をすることで、怜司くんに二つの可能性を抱かせるのだ。

 アタシが怜司くんにポイントを獲得させる選択を取ることで、怜司くんはゲームのルールを完全に理解するだろう。最終的にプラスポイントを獲得したほうが相手に「好き」と言わなければならず、相手に「好き」と言わせたほうが勝ちなのだから、ポイントは相手に獲得させたほうがいい。怜司くんはそう考えるだろう。そう考えてくれれば、アタシの調略は八割がた上手く行ったと言っていい。

 同時に、アタシがカードの数字で純粋にデートの評価をしているのではないかという疑念を抱かせることで、怜司くんの思考には迷いが生じるはずだ。迷っている人間を誘導するのは難しくない。アタシの思う通りに事を進めるためには、少しだけ怜司くんに迷ってもらわなければならない。ゴメンなさい、怜司くん。素直になれないアタシの所為で、怜司くんの心を乱してしまって。このゲームを最後まで終えた時、怜子はあなたに幸せを与えられるよう、あなたのためだけのメイドになります。だから許してください。あと、ネコ耳はやっぱり勘弁してください。


 翌日―――。

 アタシは怜司くんのリサーチに出掛けた。怜司くんはやっぱり家の中にいるみたいだ。よかった。アタシは怜司くんの所在を確認できて、安心した。壁で隔てられてはいるけれど、アタシはあなたのお側にいます。

 アタシはコンビニでおにぎりとお茶を買ってきて、怜司くんのリサーチを続けながらお昼ご飯を食べることにした。腹が減っては戦は出来ない。食事をしつつ、カーテンの向こうで揺れ動く影を見ながら、とても癒された気持ちになった。

 おにぎりを飲み下そうと、ペットボトルのお茶に口をつけたところでケータイが鳴った。落っことしそうになったお茶を拾い、ケータイを確認した。

 発信者は“竹中怜司はぁと”と表記してあった。

 きゃーーーーーー! きゃーーーーーーー! きゃーーーーーーーーーーー!

 どうしようどうしようどうしよう。え? なに? どうしてこのタイミングで電話してくるの? まだデートから二十四時間も経っていないのに、四十八時間の半分も経過していないのに、どうして怜司くんはアタシに電話をしてくるの? まさか、いつも怜司くんを見守っているアタシの存在に気付いた? 暑いから中に入ってきていいよって言おうとしてくれている? う、うん、アタシはいつでもいいよ。あなたが望むなら、怜子はいつでもあなたのお側に参ります。

 違う違う違う。そんな急展開にはならない。確かに昨日ヘマをやらかしたけれど、怜司くんの影はずっと確認していたから、アタシの存在に気付いた可能性はない。落ち着かなければならない。アタシは今、現実と妄想を混同しそうになっている。

 そうこうしているうちに着信音が切れてしまった。留守番電話にメッセージを残してくれるかもしれないけれど、留守電にデートの誘いを入れるとは思えない。アタシは酷く動揺していたけれど、電話に出ることにした。

「も、も、もしもし?」

 最悪だ。いつも冷静なツンデレであるアタシがこんな変な受け答えをしてしまった。この答え方は明らかにツンデレ路線から外れている。怜司くんに余計な疑念を抱かせてしまうかもしれない。

 怜司くんは昨日アタシを睨みつけたことを謝ってくれた。アタシは睨まれたことよりもアタシのストーキングがバレてしまったことを危惧していたので、安心した。怜司くんはこんなアタシを気遣ってくれていることも嬉しかった。嬉しくてダンスを踊り狂いたかったけれど、残念ながらここは住宅地の道端だった。

 アタシは気にしていない旨を伝え、大きく深呼吸をした。デートの誘いに対する答えの返し方は、何度もシミュレーションしたはずだ。アタシは数百通りの受け答えのパターンを頭の中に廻らせた。アタシは冷静沈着な女なのだ。

 怜司くんは次にどこへ行くかを教えてくれなかった。内緒にしたいらしい。アタシは怜司くんと一緒ならどこでも構わなかったけれど、適度に不安な感じを滲ませつつ、了承することにした。動きやすい服装で、という指定があったので、何を着ていこうか頭を悩ませつつ、アタシはその日のリサーチを終了することにした。

 アタシは家に帰って、動きやすいコスチュームを探した。アニメキャラクターのコスチュームは何通りも用意していたけれど、動きやすいコスチュームというのは限られていた。スクール水着? 確かに動きやすいけれど、往来を水着で歩くのはどうだろう。レオタード? スクール水着と大して変わらない。軍服? 軍服は機能性を重視しているので、実はあまり動きやすくない。体操服? コレだ! 体操服ならよく小学生が着て歩いているし、ジャージ姿の中学生もけっこう見かける。高校生のアタシが着用するのはやや問題かもしれないけれど、それなら小学生も問題だろう。だからきっと大丈夫だ。

 アタシはどこに行くか分からないデートのために、およそ四千通りの想定会話を全て暗記して、受験勉強に頭を切り替えることにした。四千通りは、さすがのアタシもちょっとしんどかった。


 翌日―――。

 アタシは体操服にブルマ姿で家を出ようとした。お母さん止められた。「何て格好をしているの?」と叱られた。アタシは動きやすい格好をして行かなければならない旨をお母さんに伝えたけれど、お母さんは貧血でも起こしたみたいによろめいてしまった。お母さんが心配だったので、ベッドに寝かせて濡れたタオルと手桶に冷たい水を汲んでおいた。お母さんには申し訳ないけれど、あまり遅れるわけには行かない。どこに行くのか分からないのだから、少し早めに出掛けたかった。

 濡れタオルを額に乗せて、アタシは「行ってきます」とお母さんに伝えた。

 怜司くんは八時前に待ち合わせ場所に来てくれた。アタシがちゃんと動きやすい格好をしてきたことに、怜司くんはちゃんと気付いてくれた。お母さんと同じ反応をしていたけれど、些細な問題だ。

 アタシたちは満員電車に揺られて目的地に行くことにした。電車の中で、怜司くんはアタシを痴漢から守るために盾になってくれた。アタシは感動で泣きそうになった。電車が揺れる度にアタシの躰は怜司くんにしな垂れかかった。本当は手すりを掴んで耐えることも出来たのだけれど、アタシは怜司くんと触れていたいという誘惑に勝てなかった。アタシの胸が怜司くんに触れる度に、怜司くんの鼻息は荒くなった。アタシで興奮してくれていることに嬉しくなって、アタシはもっと積極的にしな垂れかかることにした。

 今日からはデレを織り交ぜていくという戦略なので、アタシは電車が空いたところで怜司くんにお礼を言った。怜司くんはちょっと照れているみたいだった。待っていて、怜司くん。もうすぐあなたに全てを捧げられる日が来ます。それまでは小さなデレで許してください。

 到着した駅はのどかな田舎だった。怜司くんはどんどん進んで行くので、アタシは頑張ってそれについていった。危険なところではちゃんと手を差し伸べてくれる怜司くんの優しさに、アタシは卒倒しそうな喜びを感じた。

 目的地はとても閑静な、緑の溢れる場所だった。小川のせせらぎが耳に心地よく、陽射しも然して強くない。穏やかな場所だった。

 怜司くんはキャンプや野宿が得意なようだった。怜司くんがよくお父様とどこかに行っていることは知っていたけれど、どうやらサバイバル技術の修練を行っていたようだ。アタシの知らない怜司くんの一面はまだまだたくさんあるのだろう。アタシはよりいっそう綿密で詳細なリサーチを行うように頑張ろうと決意を新たにした。

 川原での怜司くんはとても頼りになった。アタシの知らないことをたくさん知っている。アタシは頼り甲斐のある怜司くんを見て、心臓が張り裂けそうになった。アタシはもっと怜司くんのことを好きになれる。アタシは怜司くんのために全てを捧げたいと思った。

 帰りの電車で、アタシは眠った振りをしてみた。怜司くんはアタシが体重を預けると、頭を乗せやすいように肩の位置を調整してくれた。嬉しい。いつまでもこうしていたい。アタシは怜司くんの温もりに安らぎを感じていた。しばらくすると、怜司くんの頭がアタシのほうへ倒れてきた。怜司くんは眠ってしまったみたいだ。そしてアタシに頭を預けてくるということは、アタシは怜司くんに信頼されているということの証だ。アタシは今すぐ怜司くんを抱きしめて全身にキスをしてあげたいと思ったけど、必死に我慢した。まだ早い。まだデレの初期状態だ。完全にデレるのはアタシと怜司くんが彼氏彼女になった後にしなければならない。アタシは怜司くんの頭を優しく何度も撫でながら、地元の駅に到着するまでの時間を過ごした。

 地元の駅に戻り、アタシたちは今日の採点をすることにした。

 怜司くんのカードはプラス1で間違いないだろう。アタシの出すカードはマイナス1。けれど、楽しかったという明確な意思表示を行う。これを忘れてはいけない。

 アタシたちはベンチの上にカードを置き、互いのカードを表に返した。

 結果はアタシの予想通りだった。何も問題はない。

 アタシは笑顔で「楽しかったわ」と伝え、怜司くんを置いて立ち去る振りをした。前回の反省として、やや離れた場所から怜司くんの観察を行うことにした。

 怜司くんはアタシがマイナス1を出したことに明らかな戸惑いを覚えているようだった。アタシの思った通りだった。このまま予想通りに怜司くんの思考が進めば、次の手を予測するのは容易い。アタシは怜司くんが家に帰って部屋の灯かりが点くまで、じっと怜司くんの様子を見守った。


 家に帰ったアタシは、着替えて夕食をとることにした。お母さんとお父さんはなにやら怒っていた。アタシは何も悪いことをしていないのだけど、もうあんな格好で出掛けるのは止めろと強く諭された。仕方がないので、体操服とブルマというチョイスはしばらくやめにしようと、アタシは思った。

 部屋に戻ったアタシは次なる戦術を考えた。

 怜司くんは今日の採点でアタシのカードの出し方に猜疑心を抱いたはずだ。アタシが実はポイントを獲得しようとしていない可能性、アタシのカードの出し方は純粋なデートの評価でしかない可能性、その二つに頭を悩ませているだろう。怜司くんを思うと、アタシは酷く申し訳ない気持ちになった。これも夏休みが終わるまでの辛抱だ。アタシは耐え忍ぶことが出来る女なのだ。

 さて、怜司くんの立場になって考えてみる。怜司くんは悩みながらもアタシにポイントを与えようとしてくるだろう。ただし、怜司くんは今回プラス1を使ってしまったので、次回の怜司くんの持ち札はマイナス1とマイナス2しかない。アタシが怜司くんにポイントを付与しようとしていると考えている怜司くんは、どういう行動に出るだろう。怜司くんとしては、アタシがゼロを出してくると考えているはずだ。そうすれば怜司くんがマイナス1を出してもマイナス2を出しても総和がマイナスになり、怜司くんにポイントが入る計算になるからだ。誘われる側に立った時のマイナス2の使い道がないことに気付いた怜司くんは、どうやっても総和がマイナスになる状況ならマイナス2を積極的に消費することを厭わないだろう。マイナス1を使うと、その次のデートで使えるカードが一枚へってしまうからだ。

 ではアタシはどうするべきなのか。怜司くんがマイナス2を使うなら、アタシはどちらを選んでも怜司くんにポイントを獲得させることになる。もし次回のデートでアタシがゼロを選べば、その次のデートでアタシはプラス1を使用することが出来るので、怜司くんにさらにポイントを追加することが出来るのだけど、そんなことをする必要は全くない。むしろゼロに戻せるなら戻しておいたほうがいい。

 怜司くんは今アタシのカードの出し方がデートの評価そのものであるという疑念を抱いているはずだから、アタシがどんなカードを出しても、それをポイントをゼロに戻すという行為とは受け取らないだろう。したがって、次の次のデートでポイントをゼロに戻したいアタシは、次のデートでゼロを使う必要はない。ゼロとマイナス2は使わないに越したことはないのだ。

 アタシは次のデートで使うカードはプラス1にした。その次はマイナス1でもマイナス2でもいい。あまりマイナス2を使わない状態が続くと、怜司くんに疑念を抱かせてしまうかもしれないので、次の次ではマイナス2を使っておこう。怜司くんは次の次では間違いなくゼロを使ってくるはずだ。マイナスのカードしか持っていないアタシに対してポイントを確実に与えるにはゼロしかないからだ。

 大まかな算段は立った。次はデートでどこに行くべきかを考えなければならない。

 今日は川に行ったので、次は海に行こうかしら。安直だけれど、夏と言えば海というのは定番だ。ちょうど八月にも入ったし、行ける時に行っておこう。幸い天候も崩れないみたいなので、アタシはあっさり海に行くことに決めた。

 アタシは寝るまでの時間を受験勉強に費やした。ときどき怜司くんと触れ合った腕や胸がじんと熱くなって、アタシはシャーペンを放り出して身悶えをしたりした。


 翌日―――。

 海に行くと決めたアタシは、水着を買うことにした。怜司くんのリサーチもしたいけれど、水着は買わなければならない。去年の水着では、胸が苦しくて入らないのだ。アタシは手持ちのお小遣いで足りるかどうか分からなかったので、お母さんにお小遣いをねだった。お母さんは、買ってきた水着をちゃんと自分に見せることを条件に、お小遣いを出してくれた。ありがとう、お母さん。アタシは喜び勇んでデパートに向かった。

 これまでの怜司くんの動向から、怜司くんの嗜好を考えた。怜司くんはメイド好きでツンデレ好きだけど、巨乳好きでもあることが予想される。アタシの胸が揺れ動く度に、怜司くんの視線はアタシの胸に釘付けになっていることを、アタシは良く知っている。したがって、胸が良く見える水着を選ぶのが望ましい。幸いアタシは巨乳だから、怜司くん好みのスタイルだと言えるだろう。スクール水着という方法も考えたけれど、アニメで水着と言えばビキニがほとんどだ。スクール水着は一部のコアなマニア向けの属性だと、アタシは判断した。

 デパートに行くと、ずらりと水着が並んでいた。もうすぐシーズンも終わりだから、全て売り尽くそうという店員の熱気が伝わってくる。アタシは大きめの水着を扱っているお店を選び、胸が良く見える水着が欲しいと店員に伝えた。店員は目を丸くしたが、「彼氏を誘惑したいの?」とにこやかに話し掛けてきた。さすがショップの店員ともなると、この程度のことでは動じないらしい。アタシが自分のスリーサイズを店員に伝えると、店員は「そのサイズの水着はうちにはありません」と申し訳なさそうに謝ってきた。アタシのバストは一メートルオーバーだけど、ウェストが五十センチちょっとしかないので、洋服を探すのはとっても大変だ。こうなることは予想できていたので、次なるお店を探すことにした。

 散々歩き回って挙句、ようやく外国人向けの洋服店でアタシのサイズに適う水着をいくつか見つけることができた。アタシはその中で一番キワどいビキニを選んで、それを購うことにした。試着したりお店の人に見せたりするのはとっても恥ずかしかったけれど、これで怜司くんの好感度を上げられると思うと、アタシは何だかワクワクしてきた。

 お店を探すのに時間が掛かりすぎた所為で、家に帰るのが夜の八時になってしまった。

 お母さんが「買ってきた水着を見せなさい」と言ったので、アタシはそれを着て披露することにした。アタシの水着姿を見たお父さんは飲みかけのお茶を噴き出し、お母さんはその場で卒倒してしまった。どうしたんだろう? 確かに恥ずかしいけれど、グラビアアイドルとかは同じ格好をしてるんだから、そこまで気にするほどでもないだろう。

 お父さんはお母さんを介抱しながら「そんな格好をすることは許さん!」と怒っていた。アタシは冷静に、理詰めでお父さんを説き伏せることにした。この格好は全て計算のうちで、戦略的ツンデレ計画を実行しているのでこのくらいの格好でなければデレは表現できないこと、ちょっとエッチな格好だけど別に性交渉をするつもりはまだないこと、将来的にはアタシはその人のメイドになりたいことなど、アタシの考えを掻い摘んでお父さんに聞かせた。お父さんは頭を抱えてうずくってしまった。アタシはお父さんとお母さんが心配だったので、二人を寝室に運んだ。


 翌日―――。

 アタシはいつも通りに起きたけれど、お父さんとお母さんもアタシに合わせて起きてきた。アタシはお父さんとお母さんの分まで朝食を作り、それを振舞った。お父さんは怜司くんのことを聞きたがった。アタシは怜司くんがいかに素晴らしい人物かを一時間ほど説明した。あと八時間くらいは怜司くんについて語り聞かせることが出来たけれど、お父さんは「もういいよ、お前の好きにしなさい」と、疲れた様子で家を出た。お母さんは頭痛がすると言って、寝込んでしまった。お母さんに濡れたタオルと冷たい水を用意して、アタシは家を出ることにした。

 アタシは浮かれていた。お父さんが、アタシと怜司くんが結婚することを認めてくれたのだ。体調が回復したら、お母さんにも確認しておかなければならない。アタシは踊るような歩調で怜司くんの家に向かった。

 九時くらいから怜司くんのリサーチを始めたアタシは、十一時過ぎくらいに怜司くんが家を出て来るのを発見した。慌てて電柱の陰に身を潜めた。どうやらバイクでどこかに出掛けるらしい。アタシは怜司くんを追いかけたかったけれど、残念ながら足がない。タクシーで追いかけようと思ったけれど、そんなお金もなかった。アタシは恋愛にはお金も必要だということをここで学習した。

 バイクにまたがった怜司くんの姿は、とっても格好良かった。アタシは思わず見惚れていたが、ミラーにアタシの姿が映ったのだろう、怜司くんがアタシを振り向いた。アタシは電柱の陰に隠れたけれど、バレてしまったかも知れない。油断した。今朝、初めてお父さんに怜司くんとの交際の許可をもらった所為で、気が緩んでいたのだ。アタシはドキドキしながら怜司くんの様子を窺った。怜司くんは小首を傾げただけで、そのままバイクで走り去ってしまった。遠目では、野球帽にサングラスをしているアタシをアタシだと判断することは出来なかったようだ。アタシはほっと胸を撫で下ろし、怜司くんが帰ってくるまで、その場で参考書を開いて勉強することにした。とても暑かったけれど、怜司くんの家の前だから気にならなかった。

 夕方四時くらいに怜司くんが帰ってきた。アタシは小躍りしながら怜司くんのことを見つめていた。怜司くんが部屋に戻ったことを確認すると、アタシはすぐにケータイを取り出した。デートに誘わなければならないからだ。

 アタシはシミュレートした五十通りの会話を頭の中で廻らせて、怜司くんに電話をかけた。

 つつがなくデートに誘うことが出来たことに、アタシはほっとした。次のデートでの戦術も固まっているので、アタシはカーテンの向こうで動く怜司くんの影を見ながら心を癒すことにした。

 家に帰ったアタシは、次のデートで何を着て行こうか頭を悩ませた。これまではいかにもアニメというコスチュームばかり選んできたが、ちょっと趣向を変えてみよう。アタシは半年ほど前に流行したアニメの準ヒロインが着ていた水色のワンピースを手に取った。夏らしい爽やかなデザインだが、巨乳好きの怜司くんの好感度を得るにはもう少しエッチな感じにしたほうがいいだろう。アタシは裁縫道具を取り出して、コスチュームを少し改造することにした。胸元を広げ、胸の谷間が良く見えるように細工をして、作業を終えた。


 翌日―――。

 昨夜のうちに準備を済ませて置いたアタシは、いつもと同じように家を出た。怜司くんは、デートを重ねる度に来る時間を三十分ほど早めてくれていた。すると、今日はもしかしたらアタシより早く来ているかもしれない。怜司くんがアタシを待ってくれている。アタシはスキップをしながらアニメソングを口ずさみ、待ち合わせの場所に向かった。

 アタシを待っている怜司くんは、何だか緊張している様子だった。嬉しい。アタシのことを意識してくれている証拠だ。アタシは努めて平静を装いながら、怜司くんに話し掛けた。

 少し時間は早かったけれど、アタシたちは出発することにした。アタシは躰を後ろに向けて窓の外を見る振りをしながら、横目でじっと怜司くんのことを観察していた。怜司くんもアタシの事を見てくれているようで、とても気恥ずかしかった。目が合ってしまうと、アタシは恥ずかしさのあまり視線を逸らしてしまった。怜司くんは腕を組んで躰の向きを戻した。怜司くんの熱い視線がアタシの胸に注がれているのを感じて、アタシの顔は火照った。もっと見て欲しい、でも見て欲しいなんて言えない。アタシは頭の中で悶え苦しんだ。

 目的の駅に到着したアタシたちは、いったん別れて着替えてから合流することにした。アタシは怜司くんに水着を披露できるのがとっても楽しみだったけれど、アタシの水着姿を他の汚らわしい下郎どもに見られるのが耐えがたかった。でも仕方がない。怜司くんに喜んでもらうためなら、アタシは鬼にも悪魔にもなる。アタシは水着を着替え、隣で着替えをしている女性の方にスキンローションを塗ってもらった。女性の方は「すごいスタイルしてるね」と褒めてくれた。アタシは夫のために磨きましたと笑顔で答えておいた。女性はさらに「ダンナに塗ってもらえばいいじゃん」と言ってきたが、相手をするのが面倒になったので、気恥ずかしいので無理だと曖昧に濁しておいた。

 脱衣所から出て、アタシは怜司くんの姿を探した。人が多すぎて、なかなか見つからなかった。すぐにナンパに引っかかった。精悍な体つきで、小麦色の焼けた肌を見せ付ける軽薄そうな男だった。アタシはそのクズ野郎の首根っこを掴んで「殺すぞ、テメェ」と脅してみたら、一目散に逃げていった。愚かな下衆野郎だった。

 アタシはなるべく躰を隠すようにして怜司くんを探した。やはり怜司くん以外の男に肌を見られるのは耐え難い恥辱だ。アタシは我慢をして、怜司くんの姿を探した。怜司くんは手持ち無沙汰そうに腕時計を眺めていた。良かった。他の女を眺めていたら、その女を八つ裂きにしなければならないところだった。

 アタシは怜司くんに声を掛けようと思ったけれど、存外に緊張してしまっていた。躰を隠しながら、思い切って怜司くんを呼んだ。怜司くんはアタシを見て呟いた。

「美しい」

 私は思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまった。

 きゃーーーーーー! きゃーーーーーーー! きゃーーーーーーーーーーー!

 美しい、美しいって、もも、もしかしてこれは、告白? いいえ、プロポーズ? 怜司くん、アタシはいつでもあなたのお嫁に参る覚悟が出来ております。こんなアタシですが、どうぞもらってやってください。怜子はあなたを一生涯をかけて支え続けます。

 違う違う違う。いきなりプロポーズはブッ飛びすぎだ。アタシは妄想と現実の区別がつかない暗愚な女ではない。落ち着かなければならない。でも頭に血が上りすぎて何をしたいのか分からない。

 アタシは気がついたら怜司くんの手を引っ張って歩き始めていた。どうしてこんな展開になっているのか良く覚えていない。とにかく体中が火照って居ても立ってもいられなかった。

 海水に浸って、少し頭が冷えた。アタシはデレを見せなければならない。さて、どうすればいいのかしら? 怜司くんがアタシの水着がキワどすぎることに難色を示したので、これを使おうと思った。アタシはツンデレっぽくデレたセリフで好意をアピールしつつ、怜司くんとの水遊びに興じることにした。

 結論から言うと楽しかった。これまでいろいろ考えながら行動してきたアタシだけど、今日は途中から童心に返ってはしゃいでしまった。怜司くんもとても楽しそうに笑っていた。こんな風に笑いあったことが、今までのデートで一度でもあっただろうか。きっとなかったはずだ。計算尽くの打算だらけの行動に、笑顔なんてあるはずない。アタシはそのことにちょっぴり後悔したものの、怜司くんと相思相愛のカップルになれればそんなことはいくらでもできると思い直した。

 帰りの電車で、アタシは迂闊にも眠ってしまった。怜司くんを眠らせてあげようと思っていたけれど、アタシが眠ってしまっては意味がない。アタシは目を覚ますと、怜司くんが優しく微笑みかけてくれていた。アタシはついその唇にキスをしようと思ってしまったけれど、鋼の忍耐力で我慢した。口元を拭いて、顔を逸らすことで、何とか平静を保つことが出来た。

 地元の駅に戻ったアタシたちは、いつものベンチで今日の採点をすることにした。

 アタシは今日の戦術は予め立ててあったので、迷う必要はない。今日はとっても楽しかったし、素直な気持ちでプラス1を出しても問題ないだろう。怜司くんはほぼ間違いなくマイナス2を出してくるはずだ。そしてアタシのカードをゼロだと思っているはずだから、驚くだろう。ゴメンなさい、怜司くん。もう少しで、怜子はあなたのお側に参ります。それまで辛抱してください。

 アタシも怜司くんもカードを裏向きにしてベンチに置いた。そして、両方のカードを同時に表に返した。

 アタシのカードはプラス1。怜司くんのカードはマイナス2。予想通りの展開だ。

 アタシは怜司くんにもう少しだけ揺さぶりをかけることにした。

「今日のデート、つまらなかったの?」

 アタシは真顔で尋ねた。怜司くんは何も答えられなかった。

 これでいい。これで怜司くんはアタシの真意を読み測ることが出来なくなったはずだ。そしてミステリアスかつツンデレなアタシの魅力にメロメロになっているはず。あと少し、あと少しでアタシの計画は成る。アタシは怜司くんの心を手に入れて、アタシの心を全て怜司くんに捧げるのだ。

 アタシは怜司くんが家に帰るまで見守ってから、帰宅した。


 帰宅して、アタシはお父さんとお母さんと一緒に夕食を取った。

 お父さんとお母さんは、いつも通りにアタシに話し掛けてきたけれど、どこか緊張しているようだった。きっと体調が悪いのだ。だから無理して心配をかけないようにしているのだろうと、アタシは思った。

 部屋に戻って、アタシは次の戦術を考えた。

 正直に言うと、アタシは迷っていた。このままデートを繰り返したほうがいいのか、当初の計画通り最後のデートを八月三十一日に指定して、そこで決着を成すか、アタシは判断がつかなかった。

 アタシの計画は、アタシがプラス1ポイントの状態でこのゲームを終えること。つまり最初にデートに誘ったアタシが最後にデートに誘った状態で、八月三十一日を迎えるのが望ましい。アタシは次に怜司くんをデートに誘う時、日時を三十一日に指定しようと考えていた。アタシたちは受験生だ。アタシは成績がいいので少しくらい遊んでも問題ないけれど、怜司くんはアタシより少しだけ成績が悪い。このまま遊び続けると、アタシたちのキャンパスライフに暗雲が立ち込めてしまうかもしれない。

 けれど、ここ二回のデートでのアタシたちは、本当にカップルみたいに自然に過ごせていたような気がする。もっと一緒の時間を共有できれば、自然に相思相愛の彼氏彼女になれるのではないだろうか。

 アタシはアタシの計画がどこかで綻び始めているような気がした。何か致命的なものを見逃しているような気がする。ここまではほぼ計画通りに進行しているけれど、何かを見落としている。

 アタシの計画は、怜司くんを囲い込むための二重の懐柔策だ。ゼロサムゲームの結果がどうであったとしてもアタシと怜司くんは絶対にカップルになれることになっている。でもそれだけじゃ意味がない。アタシと怜司くんは相思相愛のカップルにならなければならない。だから“ゲームのルール上、仕方なく「好き」と言わなければならない”なんて結果ではダメなのだ。アタシは怜司くんにアタシを「好き」と言って欲しい。そう言わずにはいられないほど、怜司くんにアタシを好きになってもらう。このゲームはそのための方策なのだ。だからアタシの理想はアタシがプラスポイントの状態でゲームを終了し、ルール上の「好き」を言った後に、怜司くんからリアルの「好き」をもらうことだ。怜司くんにルール上の「好き」なんて言って欲しくないけれど、ゲームの結果がそうなってしまったら仕方がない。でも、アタシの理想は怜司くんにリアルの「好き」をもらうことなのだ。

 そのためにアタシは戦略的ツンデレ計画を発動した。成り行きではあったけれど、確実な計画としてそれに着手したのだ。

 だからゼロサムゲームは撒き餌でしかなく、アタシの真の目的は戦略的ツンデレ計画にあると言っても過言ではないだろう。

 アタシは計画を忠実に遂行するか、一部を改変するか悩んだ。けれど、今のアタシでは判断できなかった。次のデートで決めよう。怜司くんの様子を見て、このままデートを続けたほうが良いのであれば、計画は改変する。そうでなければ、計画は続行だ。

 アタシは怜司くんと一緒に遊んだ海の風景を思い起こした。妄想の中の怜司くんも格好いいけれど、一緒に笑って遊んでいる怜司くんは、本当に素敵だった。とても楽しかった。アタシは記憶の中の怜司くんにアタシの妄想を織り交ぜて、たっぷりと妄想に耽った。

 出し抜けにケータイが鳴った。

 誰だろう。アタシの友達は多くないし、こんな夜更けに電話をかけてくるほど親しい友人もいない。発信者は怜司くんだった。

 きゃーーーーーー! きゃーーーーーーー! きゃーーーーーーーーーーー!

 なに? なんで? どうして怜司くんがアタシに電話をかけてくるの? まさか、こ、告白かしら? 告白かしら? プロポーズ? プロポーズ? アタシは混乱した。怜司くんから電話が掛かってくるなんて、露ほども思っていなかった。アタシは頭が真っ白になり、勢いで通話ボタンを押してしまった。

「もも、もしもし?」

 アタシは動揺しすぎていて、自分が何を喋っているのかよく分からなかった。

「も、もしもし、オレだけど」

「れ、れ、れ、怜司くんっ!?」

「あ、あぁ」

「うそ? なんで? やだぁ……」

 電話を切ってしまった。

 なんてことをしてしまったんだ、アタシは。今までのアタシのイメージを全てブチ壊すような醜態をさらしてしまった。どうしよう? このまま電話をかけ直さないと、怜司くんに嫌われてしまうかもしれない。怜司くんに嫌われたら、アタシは自殺するしかない。アタシはガタガタと震える指先で、何度も失敗しながら怜司くんに電話をかけ直した。

 電話の内容はデートのお誘いだった。アタシはこれまでの人生で最悪の失敗をしてしまったかも知れない。怜司くんはきっと大いに疑っているはずだ。アレがアタシの本性だと思われてしまったら、アタシは怜司くんに嫌われてしまう。

 アタシは震えが止まらなかった。怜司くんに嫌われたくない。怜司くんに嫌われるくらいなら、この命を絶ったほうがマシだ。でも、死ぬ勇気なんてない。そんな勇気があるなら、アタシはとっくに怜司くんに告白している。

 アタシは枕に顔を埋めながら、必死に恐怖に耐えた。怜司くんが蔑んだ冷たい視線でアタシをゴミみたいに見下ろしてくる映像が、何度も何度もアタシの脳裏を過ぎった。

 アタシの恐怖を中断させたのは、怜司くんからのメールだった。

 アタシは血走った眼でメールの内容を確認した。ツーリングに行きたいから相応の準備をして欲しい、とのことだった。

 よかった、本当によかった。嫌われてるなら、こんな風にメールをくれたりもしないはずだ。よかった。アタシはまだ嫌われていない。

 アタシは怜司くんに嫌われたくない一心で、すぐにメールを返した。いつ怜司くんにツーリングに行こうと誘われてもいいようにと、アタシは一年も前からヘルメットを用意していたのだ。寒くないような服装も何とかなりそうだ。アタシはまだ震えの止まらない手で必死に文章を打ち込んで、怜司くんに返信した。


 四日後―――。

 アタシはこの三日間を不安と恐怖で覆われながら過ごした。頭もちっとも回らなかったし、勉強もちっとも捗らなかった。長袖のジャケットとパンツは、持っていたコスチュームを組み合わせて何とかなった。春っぽい出で立ちになってしまったけれど、これ以上のコスチュームを作る余裕は、アタシにはなかった。

 待ち合わせの像の前で、怜司くんが待っていてくれた。アタシを見つけた怜司くんは、手を上げて「怜子!」とアタシを呼んだ。

 きゃーーーーーー! きゃーーーーーーー! きゃーーーーーーーーーーー!

 今、怜司くんはアタシの名前を呼んだ? 名前を呼んでくれだ? 怜司くんが、生まれて初めてアタシの名前を呼んでくれた! アタシの頭はパニックに陥った。名前で、しかも呼び捨てでということは、ゆ、結納と受け取ってもいいのかしら? 苗字を同じくすべく籍を入れようということなのかしら? こ、婚約指輪も用意してくれている?

 違う違う違う。そんなハジけた展開になるはずがない。これまではたまたまアタシの名前を呼ぶ機会がなかっただけだ。いきなり籍を入れるとかあり得ないから。アタシは現実を侵食する妄想を振り切った。

 怜司くんの顔を見たら、アタシの緊張はピークに達してしまった。この三日間ずっと恐怖に怯えていたのだ。怜司くんの爽やかな笑顔は、アタシの緊張と煩悩を全開にした。アタシがあまりにたどたどしい受け答えしか出来ないことを訝った怜司くんが、アタシの肩を掴んだ。アタシの緊張メーターは振り切れて壊れてしまった。

 アタシは逃げ出した。怜司くんの優しさを受け止めるだけの器量が、アタシにはなかった。アタシは臆病な人間なのだ。自分を嘘で糊塗しなければ、怜司くんに話し掛けることも出来ない臆病者だった。

 駅のトイレに逃げ込んで、必死に呼吸を落ち着かせた。心臓の鳴る音が治まらない。アタシは三十分もかけて、何とか平静を取り戻した。トイレの横で待っていてくれた怜司くんに謝って、アタシたちは出発した。

 タンデムシートで、アタシは怜司くんの後姿をじっと見ていた。手を伸ばせば触れられる距離だったけれど、怜司くんがあまりしがみつかないでくれと言うので、アタシは我慢した。でも怖かったらしがみついてもいいとも言っていたので、急ブレーキで躰が大きく揺れたのをいいことに、アタシは思いっきり怜司くんにしがみついた。怜司くんの背中は温かくて、頼もしかった。気絶しそうな喜びを噛み締めながら、アタシはツーリングを楽しんだ。

 途中で何だか寒くなってきた。怜司くんの躰は温かいけれど、風がとても冷たい。夏だと思って胸元の大きく開いた服装できたけれど、アタシはツーリングを舐めていたのかもしれない。怜司くんはすぐに停車して、アタシにジャケットとグローブを貸してくれた。アタシのために用意してくれたものらしい。アタシは感激して、涙が出そうになった。差し出されたジャケットとグローブを装着して、アタシは大きく息を吸った。怜司くんに匂いがして、アタシはフラフラとしゃがみこんでしまった。が、我慢できない。このジャケットに顔を埋めたい。アタシは煩悩と必死に戦った。怜司くんはアタシのことをとても心配してくれた。おかしな目で見られるかと思ったけれど、怜司くんはすごく優しくしてくれた。何だか怜司くんがいつもより優しいような気がした。きっといつもより緊張しているアタシを気遣ってくれているのだ。ありがとう、怜司くん。このご恩は、必ずお返しいたします。もう少しだけ、もう少しだけ怜子をお待ちください。怜子は必ず、怜司くんのためだけのメイドなって差し上げます。

 しばらくして目的地に着いた。目的地は単なる道の駅だった。とても見晴らしのいい場所で、真っ赤なつつじの花が一面に咲き乱れる、美しい場所だった。

 アタシたちはそこで、いろんな話をした。アタシと怜司くんはデートを重ねても、会話らしい会話をしたことがなかったのだ。アタシはそこで、怜司くんが大学に行くつもりがないことを知った。非常に由々しき事態だ。アタシは怜司くんとの素敵なキャンパスライフも視野に入れてこの計画を練ったのに、肝心要の怜司くんが大学に行かないのでは意味がない。

 アタシは冷静に思考を働かせ、怜司くんと一緒に大学に行くための方略を練った。計画を予定通りに進行させ、怜司くんを受験勉強へと引き戻すことを、アタシは決意した。

 帰り道は行きよりも空いていた。アタシを乗せた怜司くんのバイクは快調に道を滑り、二時間半も掛からずに地元の町に到着することが出来た。アタシは駅まででいいと言ったけれど、怜司くんは近所まで送ると強い眼差しで答えてくれた。アタシは怜司くんの瞳の輝きに胸を高鳴らせながら、その申し出にこくりと頷いた。

 バイクを降りて、アタシたちは今日の採点をすることにした。今日アタシが出すのはマイナス2。これは前回のデートの前から決めていたことだ。怜司くんはきっとゼロを出す。これまでアタシの読みは一度も外れたことはなかった。今回もアタシの読みに間違いはないはずだ。

 お互いにカードを伏せて、同時に表に返した。

 アタシのカードはもちろんマイナス2だけれど、怜司くんのカードはプラス1だった。

 アタシは一瞬ワケが分からなくなった。

 けれどアタシは落ち着いて思考を働かせた。数字や難しい言葉を見ると、アタシの頭は異様に冴え渡る。恐らく混乱しているだろう怜司くんよりも、さらに高速で思考を廻らせた。怜司くんの意図は読めないけれど、怜司くんのカードがゼロでもプラス1でも今回の結果は変わらない。変わらないなら、予定通りの行動で切り抜けるべきだ。混乱を悟られてはならない。今日はデレで締め括るのだ。

 アタシは練習しておいた精一杯のスマイルで「意趣返し」だと答えた。アタシを見つめる怜司くんに背を向けて、その場を離れようと思った。最後にもう一度だけ怜司くんの顔を見たくて、アタシは振り返って「次はアタシの番だから」と大きな声で伝えた。

 アタシは角を曲がってすぐに身を隠した。怜司くんの様子を窺うだけだ。怜司くんは口元を緩めたままヘルメットを被って、バイクで走り去ってしまった。バイクを追う足はアタシにはないので、アタシは仕方なく家に帰ることにした。

 家に帰ったアタシは部屋にこもって今日の反省をした。

 午前中はアタシの緊張がピークに達していた所為で、いろいろ失敗してしまった。けれど今日の怜司くんはいつもよりも優しくて、アタシの予想とは違ったパターンで行動していた。もちろん予測の範囲内ではあったけれど、確率的には低いと思われたパターンだった。

 そして怜司くんは大学に行くつもりがないということ。これは何とかしなければならない。アタシは怜司くんと同じ大学に行き、同じ学科に入り、同じゼミに所属して、同じサークルに所属して、同じ就職先にして、同じ部屋に住んで、同じ仕事をして、同じ毎日を送ると決めていたので、怜司くんが大学に行かないのはとてもマズい。アタシが大学に行くのを止めてもいいのだけれど、お父さんとお母さんは激怒するだろう。最近なにやら心痛が多いようなので、出来るだけ悩みの種は取り除きたかった。

 であれば、怜司くんに心変わりをしてもらうしかない。怜司くんの好きな女のコであるアタシがお願いするのだ。きっと怜司くんは勉強をするようになるはずだ。

 そして一番の懸案事項が怜司くんの出したプラス1だ。

 怜司くんは何を思ってプラス1を出したのだろう。次回のデートでディフェンスになる怜司くんにとって、プラス1は捨てがたいカードのはずだ。なぜなら怜司くんはアタシにポイントを稼がせるスタンスを取っているので、ディフェンスである怜司くんがプラス1を出せば、アタシがどのカードを使用しようとも必ずアタシに得点が入る計算になる。だから今日ゼロを使わない手はないと、怜司くんならそう判断するだろうと思っていた。

 まさか、アタシの誘導策がバレたのだろうか。それとも、アタシがゼロとマイナス2をほとんど使っていないという事実に気付き、この二種類の特殊カードの使用を控えようと考えた? あり得る話だった。さすが怜司くん、頭のイイ人だ。

 いずれにしても、アタシは次回のデートでケリを着けるつもりだ。怜司くんの思考は読めないけれど、だったらこっちで誘導すればいい。次回のデートでは怜司くんに確実にマイナス1を使わせて、アタシがプラス1を出すことで、このゼロサムゲームを終了させる。それでアタシの計画は成るはずだ。

 今日の怜司くんの優しさだって、アタシの戦略的ツンデレ計画が功を奏しているからだと解釈することも出来る。であれば間違いない。アタシの計画はきっと成功する。

 怜司くんは女のコのアタシの「好き」を聞けば、絶対に自分から「好き」だと言ってくれるはずだ。

 アタシは心のどこかで何か引っ掛かりを感じていた。それが何なのかは分からないけれど、具体的な形を帯びない不安など些細な問題だろうと、そこで思考をストップした。


 二日後―――。

 アタシはいつものように怜司くんの家に出掛けては、怜司くんが今日も家にいることを確認して胸を撫で下ろしていた。怜司くんをデートに誘う会話のシミュレーションも完璧だ。何も問題はない。アタシは怜司くんのリサーチを終えて、部屋に戻って電話をかけることにした。

 やはり怜司くんは動揺した。これまで電話の翌日か三日後にしかデートを行ってこなかったのだ。いきなり最終日を宣告されて、怜司くんは戸惑いを隠しきれないようだった。ゴメンなさい、怜司くん。これが最後です。八月三十一日をもって、怜子はあなたの妻となり、メイドとなります。それまでのご辛抱をお願いします。

 アタシは最後に「怜司くんと一緒の大学に行きたい」と告げて、一方的に電話を切った。これで怜司くんは受験勉強を再開してくれるはずだ。アタシは自分の首尾に満足して、早めに床に就いた。


 翌日―――。

 いつも通りに怜司くんのリサーチに出かけると、怜司くんは朝からどこかへ出掛ける様子だった。自転車を取り出して駅のほうに走り去っていく。アタシは駆け足で怜司くんの後を追ったけれど、自転車より速くは走れない。駅前にずらりと並ぶ違法駐車の自転車から怜司くんのものを特定したアタシは(このくらいは朝メシ前だ。アタシは怜司くんのものなら一目でそれと判るくらいリサーチを繰り返している)、その周辺のお店やビルの看板から怜司くんが行きそうな場所を探した。答えはすぐに分かった。怜司くんは予備校に通おうとしているのだ。アタシはその場所から最も近い予備校に足を運び、何気ない振りをしながら怜司くんを探した。

 怜司くんは予備校の案内員に熱心に話を聞いているようだった。アタシは見つからないように、ロビーで単語帳を開いている学生に混じって、怜司くんの話に耳を澄ませた。どうやらこの予備校に入校するするらしい。断片的に聞こえる情報から怜司くんのコースを全て推測したアタシは、怜司くんが帰るのを待ってすぐに帰宅した。

 帰ってすぐに、お母さんに予備校に行きたいとお願いをしたら、お母さんはたいそう喜んでくれた。アタシは怜司くんと同じ予備校に入校の手続きを済ませ、念のため怜司くんのことを案内員に聞いてみた。案内員は曖昧に濁してはいたが、その挙動からアタシと同じコースで間違いないと、アタシは推察した。


 それからの日々はアタシは怜司くんを追いかけることだけに集中した。予備校の話なんて聞かなくても分かるし、テストもやろうと思えば満点を取ることのできるアタシは、授業の内容はどうでも良かった。いつも満点を取らないのは、怪しまれるのを防ぐためだ。

 怜司くんは熱心に勉強をしているようで、アタシは嬉しかった。アタシの言葉で、怜司くんはやる気になってくれた。それはアタシにとって喩えようもない幸福だった。

 八月末の模擬テストで、アタシは久しぶりに本気で答案を記入した。たぶん全ての教科で満点を取れるだろう。ケアレスミスもないはずだ。アタシにとって重要なのは、同じテストを受けながらアタシの存在に気付いていない怜司くんの様子をじっくり観察することだった。怜司くんは難しい顔をしていたから、あまり調子は良くなかったのだろう。怜子が妻となった暁には、怜司くんに勉強の手解きもさせて頂きます。


 そして、八月三十一日―――。

 アタシが怜司くんの妻となり、メイドとなる日がついにやってきたのだ。

 アタシはもちろん朝から怜司くんのリサーチに出掛けていた。怜司くんが朝から出掛けるのはいつものことだったけれど、今日は自転車を使わずに徒歩で出掛けるみたいだ。しかもカバンを持っていないということは、予備校には行かないつもりなのだろう。アタシは気取られないように、慎重に怜司くんの後を尾行した。

 怜司くんは何かを探すように、町の小高い場所を行ったり来たりしていた。何をしているのかよく分からないけれど、アタシは怜司くんを見ているだけで幸せだったので気にしないことにした。怜司くんは、汗を拭いながら一生懸命にあちこちを歩き回っていた。思わず声を掛けて手助けしたくなるような、鬼気迫る雰囲気を醸していた。アタシはドキドキしながら、そんな怜司くんの背中を真剣に見守った。

 やがて怜司くんは金網に囲まれた送電塔のある場所までやってきた。アタシは怜司くんの後を追って、金網をぐるりと迂回して、細い裏路地を潜った。

 そこにあったのは町を一望できる小高い坂だった。草が生い茂っていて急勾配なため、人道として使うことは出来ないだろう坂の下からは、涼しげな風が吹き抜けてくる。怜司くんは地図のようなものを取り出して、この場所に印をつけているようだった。


 そこは、花火が良く見える場所だった。


 アタシの中で、全ての嘘が繋がった瞬間だった。

 アタシは音を立てないようにそこを離れ、矢のように駆け出した。

 アタシは嘘を吐いていた。怜司くんにも、そして自分自身にも嘘を吐いていた。アタシは頭を廻らせるばかりで、ちっとも怜司くんのことを考えていなかった。怜司くんの行動を予想して、アタシの思う通りにしようとしていただけだ。

 怜司くんは違った。アタシのために、今日の花火を最高の場所で見るために、あんなに汗だくになって絶好のポイントを探してくれたのだ。アタシはアタシのために、けれど怜司くんはアタシのために行動してくれたのだ。

 アタシは嘘を吐いていた。本当は、怜司くんがアタシを好きじゃないことを知っていた。でもそれを認めると、アタシという人間が崩壊しそうで怖かった。だから隠した。自分自身からも隠蔽した。見えないように嘘で塗り固めた。

 ゼロサムゲームもそう、戦略的ツンデレ計画もそう、全部全部そうだ。アタシは嘘ばかり吐いていた。どちらが勝ってもアタシは怜司くんの恋人になれるように仕組んだ。自分を上手く表現できないから、ツンデレなんて演技で誤魔化した。揺さぶりをかけるだなんて、結局は怜司くんにアタシのことを見て欲しいだけだ。けれどアタシは、この夏休みで何か一つでも怜司くんのためにしてやれたことがあっただろうか。

 何もしてない。アタシは何もしていないのだ。アタシはただ、怜司くんから逃げていただけだ。

 でも怜司くんは、好きじゃなかったアタシを好きになろうとしてくれている。

 こんなに卑しくて、卑劣で下劣で陋劣なアタシのために、頑張ってくれている。

 涙が止まらなかった。走りながら、流れ落ちる涙を拭おうともしなかった。

 アタシに出来ることは何か。何かアタシに出来ることはあるだろうか。

 アタシは人よりも頭が回る以外に取り柄のない女だ。ならば回せ。人よりも回る頭で考えろ。怜司くんとアタシにとっての、最良の結末を考えるのだ。


 アタシは、嘘を吐き通すことを決めた。


 家に帰って、シャワーを浴びて汗と涙と迷いを洗い流した。

 怜司くんは今日の採点で、マイナス2を出すつもりだ。そうすることで自らこのゲームに終止符を打つつもりなのだろう。アタシは先手を打たなければならない。怜司くんの今日の手札は二枚。マイナス1とマイナス2だ。アタシが素直に採点して欲しいと言えば、怜司くんは迷わずマイナス1を出すだろう。前回のデートで、怜司くんは調略に走らず素直な気持ちをカードに込めてくれたのだから。

 だからアタシはマイナス1を出す。事務的な「好き」を言う。怜司くんが「好き」を返してくれなければ、怜司くんの勝ち。怜司くんに「好き」を言わせてはならない。アタシはマイナス1を出すことで「お前はつまらないヤツだ」という意思表示をする。初めに見せた冷笑を見せる。最後の最後まで、アタシは嫌な女であり続けよう。きっと怜司くんには振られるだろう。

 でも、もし―――。

 もし、怜司くんがそれでもアタシを「好き」だと言ってくれたのなら、その時アタシは勝利を宣言しよう。怜司くんが好きになってくれた女は、きっと計算高い女のはずだから。

 アタシは髪を乾かして、いつもより入念に化粧をした。用意しておいたピンクの浴衣に袖を通し、いつもと変わらぬ調子で、怜司くんにはいつも通りだと思われる表情を作って、家の扉を開けた。


 いまだ傾がぬ日の光は、いつもより少しだけ眩しかった。

 初めてまともに執筆した小説、というよりはライトノベルの類になるかと思いますが、拙い部分も多く読みにくい作品となっているかと思います。作品に登場するゲームのルールを図示した画像ファイルもあるのですが、どうやって掲載すればいいのかわからないので、いずれ追加するかもしれません。

 某社の募集の応募して落選したような拙文です故、読者様にお楽しみいただけるかどうかは不安ですが、誰にも見せたことのない作品をPCに保存しておくよりは、せめて誰かの目に留まる場所にと思い、こちらのサイトに辿り着き、掲載させていただこうと思った次第です。せめて少しでも楽しんでいただければ、それだけで幸甚に思います。読了ありがとうございました。

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