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ラヴサムゲーム  作者: 雪村平八
1/2

-前編-

 初めて投稿いたします。

 この作品は2,010年に執筆したものとなりますので、スマートフォンなどの最新デバイスの類は登場しません。現代の作品ではありますが、数年前を描いたものとしてお読みいただけると幸甚です。

 なお、文字数制限によりかなり中途半端なところで話が途切れますので、続きは後編にてお読みいただけるようにいたします。

 よろしくお願いいたします。


1.竹中怜司の苦悩



「勝った」

 オレは思わず呟いていた。

 小中高と一度も勝てなかった相手に、初めて勝った。

 高校三年生の夏、オレは十七年間の人生で初めての凱歌に酔いしれた。

 思えば小学三年生。県の学力テストのようなものが実施され、オレは実に四位という好成績を収めた(その後、各方面から散々叩かれて、現在このテストは行われていないそうだ)。親からも近所のおばさんからも褒められた。神童だと囃された。とても嬉しかったのを憶えている。だが、学校では違った。なんと一位の女子がいたのだ。それが、その後九年間オレがその背中をひたすら追い続けることになる、黒田怜子クロダサトコだった。

 話を聞けば、小学校に上がって以来テストで百点以外の点数を取ったことがないという空恐ろしい天才少女。小学校を卒業するまで、ただの一回も二桁の点数を取らなかったこの女こそ、まさに神童の名に相応しい。

 県で最高の頭脳を持つ少女として、彼女は学校の話題を全て掻っ攫った。四位程度のオレは見向きもされなかった。オレを褒めてくれたのは担任と両親、母と親しい近所のおばさんくらいなもので、誰もがオレの成し遂げた偉業を気に留める者はいなかった。

 正直に言えば、悔しかったのだ。

 子供のころの話とはいえ、頭の良かったオレを認めてくれるのが近しい人間しかいないことに、腹が立った。だから必死で勉強した。いつも怜子を目で追いかけていた。いつもあの女のケツを追いかけていた。怜子のことが好きなんじゃないかとからかわれても、オレは怜子の背中をいつも見つめていた。

 中学に入ると、途端に周囲の成績に差が出始めた。オレは来る日も来る日も必死に勉強を続けたおかげで、常に学年二位というこれ以上を望むのは酷だといわんばかりの地位を維持し続けることが出来た。だが―――。

 一位に君臨するのはあの女だった。それが許せなかった。何をどうやっても絶対に怜子に勝てないことが、どうしても許せなかった。

 それを親の所為にしたこともあった。オレの両親は放任主義で、オレを塾に通わせることも宿題を強いることもなかった。特に親父は奔放で、オレが勉強したいと駄々を捏ねても、外に連れ出しては野山を駆けずり回るのに付き合わせた。そのおかげかどうかは知らないが、不必要なサバイバル技術なども身に着けることになったのだが、身体は至って健康。体育の成績もすこぶる良好だった。

 信じがたいことに、怜子はスポーツも万能だった。あれだけの知能を維持しながら、運動会では常にスターダム。クラス対抗のリレーでもしようものなら、怜子は必ずアンカーを務め、先を行くライバルを華麗に抜き去って白線を切っていた。

 せめて体育ではというオレの細やかな願いさえ、彼女はやすやすと打ち砕いた。オレは運動には興味がなかったので、勉学方面で彼女を打倒することだけに、生活のほとんどを費やした。友人から文武両道で羨ましいと褒めそやされても、ちっとも嬉しくなかった。オレは怜子に勝ったことが、ただの一度もなかったからだ。

 オレは怜子のことを小学校のころから知っているのだが、怜子は恐らくオレのことを知らないだろう。話したこともない。実は中学に上がってからはずっと同じクラスだったのだが、六年間でただの一言も言葉を交わしたことがない。怜子もオレには興味がないらしく、たまに睨み続けるオレと目が合ってもプイと視線を逸らしていた。オレも友達になろうとも思わなかった。ただオレは、いつもその背中を見つめ続けていた。

 だから嬉しかった。

 八百点満点でオレが七百八十一点、怜子が七百八十点。いつも七百九十点前後をうろうろしている怜子は、今回に限って少しだけ点数を落としていた。調子が悪かったのか、ケアレスミスでもしたのか、そんなことはどうでもいい。ともかく、初めてオレの名前が怜子のそれよりも上に来たのだ。

 オレは北叟笑んだ。廊下に貼り出された成績上位者のみがその名を連ねることを許される実力考査の順意表で、オレの名前が学年一位の座に燦然と輝いていた。

 周囲に誰もいなければ、オレは高らかな哄笑を上げていたに違いない。

 十二年だ。怜子の存在を知ってからだと換算しても九年。実に人生の半分以上もの時間を、怜子を追い抜くためだけに費やしてきた。それが今日、こうして実った。

 オレはもう思い残すことは何もなかった。

 明日からは勉強をやめようと思った。

 大学に行くことに興味はなく、もし怜子が大学にいくのなら、オレも同じ大学を目指しただろうとは思うが、それは昨日までの話。両親もオレが行きたいのなら金を出してくれるらしいが、別に大学で学びたいことがあるわけでもない。あとは働き口と適当な女を見つけて結婚でもして、慎ましやかな家庭を築ければ、オレの人生はそれでいい。オレは怜子に勝ったのだ。


 事件はその日の放課後に起こった。

 これまで一度たりとも話をしたことのなかった相手が、オレに声を掛けてきた。

「怜司くん、ちょっといいかしら」

 なぜに下の名前で?と思ったが、それ以上に黒田怜子がオレに話し掛けてきたことに驚いた。クラスメイトではあるが、ただの一度も会話をしたことのないオレに、彼女と話すことは何もなかった。だがオレは内心で北叟笑んだ。馬鹿め、この女。このオレに負けたことがよっぽど悔しかったらしい。だが残念だったな。オレはもう勉強はやめる。お前がどれだけ勉学に打ち込んだところで、オレはもはや一つ次元の違うところにいるのだ。せいぜいオレのケツでも舐めてろ。

 ちなみにオレの名前は竹中怜司タケナカレイジ。古くは竹中半兵衛重治を祖先に仰ぐ優秀な血脈だ、とは親父の弁だ。もちろん信じたことはない。家系図すら残っていないのだ。竹中という姓であれば誰でも同じことが言えることになる。怜子の名前と一文字だけとはいえ被っているのが癪だったが、それも今となっては気にならない。

 ともあれ、オレは真ん前にいる怜子に視線を移した。体面上さすがに無視するのもマズいだろうとの思いがあってのことだ。

 初めて怜子を真正面から見たような気がした。

 なんというか、凄絶な美人だなと、内心で思ったが口にはしない。

 黒真珠のような円らな瞳に細やかな影を落とす長い睫毛の曲線が印象的で、すらりと伸びた鼻梁はとても日本人とは思えない。陶器のような滑らかな肌は雪のようで、雪原に咲く一輪の唇は桜よりも鮮やかな色香を放っていた。細面のあごは、だが柔らかな女の質感を損なうことなく緩やかなカーブを描き、その先にあるこじんまりした耳は艶やかに伸びた真っ直ぐな黒髪に僅かなアクセントを与えている。

 身長はオレよりやや低いくらいだが、だからこそ顔の小ささが際立った。すらりと伸びた白磁の足を覆う濃紺のハイニーソックスが彼女の脚線美をいっそう引き立て、男子であれば思わず生唾を飲み込むこと請け合いだ。そして何よりオレの目を引いたのが、居丈高に組んだ腕の上に乗っかる―――否、腕から溢れているむ、む、胸。高校三年生だろう、コイツ。なんでこんな熟れ過ぎたグラビアアイドルみたいなスタイルをしているんだ? しかもウェストがオレの太ももくらいしかない所為で、その胸の巨大さが水際立って映えた。

 突然に話し掛けられてどう返そうか迷ったが、普通に話してみることにした。

「オレに何か?」

「話があるの、屋上に来なさい」

 なんで命令調?と思ったが口には出さない。

 よく見ると、桜色の唇はへの字に曲げられ、白皙の肌には不似合いな眉間のしわが刻まれている。頬は僅かに紅潮しており、心なしか膨れていた。

 要するに怒っているのだ、黒田怜子は。

 オレ何かしたかと思ったが、思い当たる節はアレしかない。先の実力テストの結果のことだ。馬鹿め、ようやく気付いたのか。貴様が常にナンバーワンに君臨していられる時代は終わったのだ。これからは群雄割拠の乱世が始まるに違いない。残念ながら貴様を打ち負かしたこのオレは、舞台から早々に降りさせてもらうがな。貴様は追いすがられるウサギのように逃げ惑うがいいさ。

 オレは内心で口元を歪に吊り上げながら、平常心を装って答えた。

「話ならここでいいだろう?」

「いいから来なさい。アタシが言ってるのよ。あなたは黙ってついてくればいいの」

 たった二言三言だが、黒田怜子は恐ろしく居丈高で傲慢な女のようだということがよく判った。こんな女のケツを追いかけていたかと思うと、昨日までの自分に憐憫さえ覚えた。

 つかつかと先を行く怜子の様子にただならぬ気迫を感じたのか、いつもは気さくなクラスメイトが誰も話し掛けてこない。はン! 女のヒステリーに付き合うのは大変だ。どうせ妙な言い掛かりでもつけてくるつもりに違いない。今回のテストの結果は本当の実力じゃないだとか、イカサマでもしたんだろうとか、そんな類の話だろう。

 オレは肩を竦めながら怜子の後を追った。

 いつも背中を見ていた怜子の後姿は見知ったものだ。初めて真正面から見た時はとんでもない美人だと思ったが、背中はいつもの怜子だった。後ろから見る彼女の足は、とても細いのに妙にむちむちしていてエロかった。

 屋上に着いた怜子は、そのまま真っ直ぐ歩いていき、ちょうど中央に立ち止まった。

 風がやや強く、靡く艶やかな黒髪が暮れ行く斜陽を煌かせていた。それ以上に見えそうで見えないスカートの中が気になって仕方なかった。

 怜子は振り向いて腕を組んだ。腕からこぼれるむ、む、胸の肉の存在感が艶かしい。

「勝負してあげるわ」

 彼女の声は強く引っ張った弦のように鋭く、強風をものともせずオレの耳朶に響いた。

 オレは頭にはてなマークを浮かべていただろう。何を言っているんだ、この女は。そんな顔をしていたに違いない。

「あなたが勝ったら、あなたの彼女になってあげる」

「いや、別にいいです」

「アタシが勝ったら」

 人の話を聞けと。

「あなたにはアタシの彼氏になってもらうわ」

「いやです」

 反射的にお断りしていた。

「逃げるの?」

「はい」

「あなたは勇敢な男のコですもの。まさか逃げるはずがないわ」

 敢えてもう一度だけ言わせてもらう。人の話を聞けと。

「勝負の方法は簡単よ。あなたがアタシに『好き』と言わせたら、あなたの勝ち」

「予想は出来るんですが、あなたの勝利条件をお伺いしてもよろしいですか?」

「アタシがあなたに『好き』と言わせたら、アタシの勝ちよ」

「そうですか。これがラヴゲームというヤツですね、わかります」

「勝負の期間は明日から夏休みが終わるまでよ」

「いえ、受験勉強があるんで」

「あなたのシングルタスクな脳内プロセッサーじゃ難しい条件かもしれないけど、そのくらいはこなしてもらわないと話にならないわ」

「えぇ、クァッドコアの黒田さんには敵いませんよ、ははは」

「当該期間中は、互いに互いのデートの誘いを断ることは出来ないわ」

「予備校があるんで。ゼロサムゲームにならないといいですね」

 皮肉を言ったつもりだったが、

「さすが、アタシが認めただけのことはあるわね。これはゼロサムゲームよ」

 もう笑うしかない。オレがアンタのことを嫌いにならなければいいですねという意味の、諧謔よりも嗜虐を込めたジョークのつもりだったが、それすら逆手に取られるとは。

「あなたの得点がプラス1ポイントになると、アタシの得点はマイナス1ポイントになるわ。マイナス1ポイントをプラス1ポイントにするには、プラス1ポイントを二回連続で獲得しないとならない計算になるわね」

「さすがマルチプロセッサー。計算がお早いですね」

「デート一回ごとに、そのデートでの相手の評価をを数値化、紙に表記して最後にお互い見せ合う。ただし、同じ数字を二回連続で使うことは出来ないわ」

「もうデートとか関係ないですよね」

「誘った側が使えるのはプラス1、ゼロ、マイナス1の三つの数字よ」

「ゼロとマイナス1を交互に繰り返していけばいいわけですね、わかります」

「誘われた側が使えるのはマイナス2、マイナス1、プラス1の三つの数字よ」

「マイナス1とマイナス2を交互に繰り返してもいいんですね、わかります」

「誘った側と誘われた側の得点の総和がゼロかプラス1以上になれば、誘った側にプラス1ポイント、誘われた側にマイナス1ポイントの得点が加算されるわ。それ以外の数字の場合はその逆よ」

「総和がマイナスになった時点で誘った側はマイナス1ポイントということですね」

「ただし、双方がマイナス1の評価を下した場合のみ、誘った側にプラス1ポイントの得点が入るわ。つまり、誘われた側の得点はマイナス1ポイントになるということね」

「それはまた奇抜なアイデアですね」

「どちらかの得点がプラス5ポイントになった時点で、プラス5ポイントを獲得した側は相手に『好き』と言わなければならないわ」

「もう彼氏彼女とかどーでもいいですよね、それ」

「夏休みが終わるまでに勝負がつかなかった場合、その時点で得点が多いほうが『好き』と言わなければならないわ」

「最短で勝負をつけるには、最低でも五回はデートをしなければならないと」

「えぇ、そしてもう一つ。二回連続でデートに誘うことは出来ないわ」

「権利は平等に与えられるわけですね」

「ただし、デート終了時点から四十八時間以内に次に誘う側が相手をデートに誘わなかった場合、誘う側にマイナス1ポイント、誘われる側にプラス1ポイントの得点が加算されるわ。そして、デートに誘う権限はもう一方に譲渡されるわ」

 そろそろうんざりしてきた。オレは早く話を切り上げたくなってきた。

「ルールは以上か?」

「いいえ。もう一つだけ。誘う側が使えるゼロ、誘われる側が使えるマイナス2、これはそれぞれ五回しか使うことが出来ないわ」

「プラス1とマイナス1に使用制限はないってことだな。これで終わりか?」

「えぇ。質問はあるかしら」

「オレはそれに乗るとは一言も言ってねぇぞ」

「あなた、明日ヒマでしょう?」

「いいえ、とても忙しいです」

「駅前の趣味の悪い市長の像があるでしょう? そこで待ち合わせましょう。時間は、そうね、十時くらいでいいかしら」

「行かないよ?」

「遅刻したら、許さないんだからねっ」

 そう言い残して軽やかにオレの横を通り過ぎ、怜子は屋上を立ち去った。

 残されたオレは、ミニチュアみたいなビルの向こうに沈んでいく夕陽を、引きつった笑みで眺めていた。

 これがオレの高校最後の夏休みの物語、怜子とオレの壮絶な頭脳戦の幕開けだった。




 翌日―――。

 結局オレは、夏休み初日にもかかわらず早起きまでして、駅前の無駄に金の掛かった市長の像を目指して歩いていた。

 無視しても良かったが、それでは怜子があまりにも可哀相だ。あの女が何を考えているのかは分からないが、デートに誘ってくれたと解釈して一日くらいは付き合ってやろうと考えた。

 断言するが、現段階でオレは怜子と交際するつもりはない。あの女はオレの目標ではあったが、異性として意識したことは九年間で一度もなかった。アレはオレの越えるべき壁。オレの人生に豪然と立ちはだかる巨大な障害物に過ぎない。否、過ぎなかった。

 ただ、男としてあんな美人にデートに誘われるのが嬉しくないわけじゃない。もしかしたら昨日の態度は単なる照れ隠しで、本当にオレのことを好いてくれているのかも知れない。いまだかつて女性と交際したことのないオレには、その想像はちょっと甘美なものだった。

 一つだけ懸念材料があるとすれば相手があの天才少女だということだ。黒田怜子は並みの天才ではない。全国模擬試験でも一桁の順位から剥落したことがないほどの英明さ。このオレでも全国模試での順位が一桁どころか二桁だった経験すら皆無なのに、あの女はこのオレの一歩も二歩も先を行く怪物だった。まぁ、そんな女を打ち負かしたこのオレは、もはや全国一位と明言しても過言ではないだろう。さらば、怜子。お前の時代は終わった。

 駅前の市長の像が見えてきたのはちょうど九時半ころだった。なんで三十分も前に来てしまったんだろうと自問してみたが、たぶん生まれて初めてのデートだから緊張したんだろうと結論を出した。像の前には黒いゴシックドレスに身を包んだ清楚なお嬢様が、ひとり閑雅に佇んでいた。誰かと思ったら怜子だった。

 オレは目を疑った。何だアイツは。なぜあんなアニメのコスプレみたいな格好をして、こんな往来の駅前で澄まし顔でいられるんだ? 確かにオレはアニメが嫌いかと問われれば、むしろ好きだと答える部類の人間だが、それを怜子に知られるようなヘマはしていないはずだった。ならばアレは怜子のシュミなのだろうか? 人形のような整った顔立ちは日本人離れした清艶さを放っており、黒地に白いラインで象られたドレスがその目映さをさらに引き立てていて、少しも不自然さがない。端的に言ってしまえば、怜子のコスプレ衣装はよく似合っていた。

「遅かったのね」

「少しも遅くねぇだろうが」

 怜子は開口一番オレに皮肉を告げた。待ち合わせより三十分も前に着いたのだ、賞賛こそされても唾棄される謂れはないと、言いたかったが言わなかった。

「それで? 今日はどこに行くの?」

「はぁ? お前が決めるんじゃねぇの?」

「あなた馬鹿じゃないの? デートの行き先は男が決めるものでしょう?」

 この女、マジで殴ってやろうかしら。オレは胸襟で拳を握りながらその衝動を懸命に堪えていた。

「減点一ね。まぁ、そんなことだろうと思って、行き先はアタシが考えてきたわ。感謝なさい」

「なら初めからそこに行けばいいじゃねぇか」

「男なのに細かいことを気にする人は嫌いよ。行きましょ」

 ツンと顔を背け、怜子は駅とは逆方向に歩き始めた。

「どこに行くんだよ」

「男なのに細かいことを気にする人は嫌いよ。行きましょ」

 全く同じ言葉を一言一句違えずに口にした怜子は、オレを無視してどんどん歩を進めていった。仕方がないのでオレもそれに従うことにした。

 ゴシックドレスの裾をフリフリと揺らしながら歩く怜子の後姿は、いつも見つめていたそれとは随分と違った印象で、心なしか嬉しそうに感じられた。気の所為だろう。さっきから嫌味しか言われていない。

 怜子が向かった先は大きな公園だった。住宅地を抉るように作られた遊歩道は鮮やかな緑の萌える木々に囲まれ、僅かに朝の涼しさを保っていた。すぐ脇に広がる溜め池は泉と呼ぶにはあまりに薄汚い色の水質だったが、陽光を反射して煌く様はどことなく気分を落ち着かせた。早朝と呼ぶには遅いが、昼と呼ぶには早いこの時間、公園を利用している人間は思いのほか少ない。年配の夫婦やうらぶれたスーツ姿のサラリーマン、キックボードを持ってはしゃぎ回る子供たち以外の姿はどこにもなかった。夫婦や子供は分かるが、なぜサラリーマンがこんな時間に休憩しているのか、想像するのがイヤだったので見ないことにした。

 怜子は先ほどから無言のままだ。オレも無言のままだ。そもそもオレと怜子には共通の話題がない。「今日もいい天気ですね」「そうですね」なんて初々しいカップルめいた会話は、残念ながらオレたちの間にはなかった。怜子は会話がないことを気にする性質ではないのか、表情ひとつ変えずに道行く人たちを観察していた。オレは正直に言って退屈だった。

「お前、ここに何しに来たんだ?」

「散歩に来たのよ。見て分からないの?」

 ならば何も言うまい。オレは黙って怜子の後ろをついて回った。

 結論から言うと暑かった。十時前とはいえ真夏の公園だ。陽射しは容赦なくアスファルトを焦がし、照り返す光すら鬱陶しい。早くも汗ばみ始めたオレのTシャツは、べったりと背中に貼り付き始めた。怜子のドレスは暑くないのだろうか。

 何を思ったのか、怜子が突然に振り返った。

「そろそろ行きましょ」

「どこにだよ」

「映画を見に行くのよ」

「そうか。涼めるならどこでもいい」

 なぜ初めから映画館に行かないのか。この女の考えることはオレにはさっぱり理解できなかった。映画に行くならもう少し遅い時間を待ち合わせにすればよかったものを、無駄な体力を浪費してしまったではないか。

 町で一つしかない映画館は、夏休み初日の所為かとても盛況していた。そう言えばお気に入りのアニメが映画化されていたのを思い出したが、まさかそれを見に行こうとは口が裂けても言えない。怜子は予めチケットを購ってあったらしく、それを受付で提示してさっさと中に入って行った。

 映画はこてこてのラブロマンスだった。舞台はアメリカの片田舎。男と女はずっと同じ学校に通いながら全く言葉を交わしたことがなく、男は女に懸想しているのだが話し掛けられないでいるという、非常にやきもきする展開だ。イライラするような前半が終わり、後半に入ると急展開を見せる。女が誘拐されてしまうのだ。犯人は女の家族に身代金を要求し、警察に連絡することを禁止する。気になって仕様のなかった男は、女の家の周りを徘徊していたことでその事実を知り、女の救出に奔走することになる。身代金の受け渡し場所が分かると車を借りてきて、そこで待ち伏せをする。身代金を強奪して逃げる犯人を、主人公は必死に追いかける。廃工場で拉致監禁されている女を見つけ、男は意を決してそこに飛び込む。犯人は身代金を置いて逃走し、男は女を救出することに成功する。ありふれた展開のつまらない話かと思ったが、最後に誘拐が芝居だったことが明かされる。女は初めから男に惚れていたのだと告白するのだ。多分オレならブチ切れてブン殴っているところだが、男は女を許し、そのまま結婚するという強引な展開だった。

 怜子はどんな顔をしてこの映画を見ているのか、ちょっと気になった。顔を向けると、怜子と目が合った。薄暗い映画館では怜子の顔色までは読めない。

「な、何よ」

「い、いや?」

「ちゃ、ちゃんと映画みなさいよ」

「お前こそ」

「フン!」

 とても不機嫌そうな声で、怜子が顔を背けた。相変わらず居丈高な女だ。

 なぜか高鳴った鼓動を努めて鎮め、オレはスクリーンに視線を移した。怜子の視線を感じたような気がしたが、気まずかったので無視して映画に集中している振りをした。

 映画の内容ははっきり言って微妙だった。ただ、小さいころからずっと同じ学校に通っているという設定がオレと怜子の関係と被っていたことが、心に靄のような感覚を残した。

 劇場を出て軽く伸びをした。さすがに二時間も同じ体勢でいると、肩が凝って仕方がない。

「じゃあ、食事にしましょう」

「あぁ、昼メシな。どこに行く? ハンバーガーとポテトでいいか?」

「あなたのセンスのなさには付き合ってられないわ。上の階にレストラン街があるでしょ。そこで食事を取りましょ」

 言って、怜子は明後日の方向に歩き始めた。エレベータは真逆の方向だったので、オレは怜子の手を掴んで呼び止めた。

「そっちじゃねぇだろ。すぐそこにエレベータがあるぜ」

 手が触れた瞬間、怜子はビクッと肩を震わせた。恥ずかしそうに振り向いて

「し、知ってるわよ! ちょっと歩こうと思っただけよ!」

 顔を真っ赤にしてオレを睨んだ。膨れっ面が、どこか可愛らしい女だった。

 オレは手を離し、肩を竦めてエレベータへ向き直ったが、

「い、行くわよ!」

 怜子は逆にオレの手を掴んで早足で歩き始めた。今度はオレが赤面する番だった。

「ば、ちょ、手ぇ離せよ」

「あ、あ、あなたがハグレないようにするためよ! べ、別にあなたのことが、その、どうだっていうわけじゃないんだからねっ!」

 女性経験のないオレが、ドキドキするのを隠すのに懸命だったのは言うまでもない。

 二人で頬を朱に染めながら、混雑するエレベータに乗った。ちょうどお昼時の所為か、サラリーマンやOLの姿もあり、エレベータの中でオレと怜子は肩を寄せ合う羽目になった。怜子の腕は驚くほど細いのに、信じられないくらい柔らかく、オレはなるべく怜子を見ないように上を向いたまま時が過ぎるのを待った。

 レストランでの食事は、互いに無言のままだった。食事代くらいオレが持ってやろうと思ったが、怜子が割り勘でと言って聞かなかったので、個別に清算を済ませた。

 その後、デパートでウィンドウショッピングをしたのだが、あまりの会話の少なさに、段々気まずくなってきた。朝方はそうでもなかったが、手を握ったり握られたりするうちに、緊張してきてしまったのだ。時々視線が合うと、お互いに恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。

 デパートを出て、駅に向かって歩き始めた。趣味の悪い市長の彫像がある待ち合わせスポットは、意外にも空いていた。ちょうど待ち合わせには向かない時間帯だったらしい。僅かに傾きかけた太陽は、昼間よりも少しだけ熱を弱めながらも、町を照らし続けている。

 オレたちは彫像のそばに建てられた小さなベンチで腰を下ろした。喉が渇いたのでジュースを買ってくると言い、近くの自販機でコーラを二本買ってきた。コーラを渡そうとすると、怜子は何かカードのようなものを手にしていた。

「何だそれ?」

「これをあなたにあげるわ」

 コーラと引き換えに、カードを受け取った。六枚のカードがあり、三枚は白地に黒い文字、もう三枚は黒地に白い文字で数字が書かれていた。

「これは?」

「今日の採点よ」

 まさかこの女、本当にあのゲームとやらをやるつもりだったのか。侮れない女だ、黒田怜子。お前の考えていることは、オレには全く理解できない。

 怜子の手元を見ると、彼女も同じカードを手にしていた。

 黒地のカードにはマイナス1、ゼロ、プラス1。白地のカードにはマイナス2、マイナス1、プラス1と表記された六枚のカードを、二人ともが持っている。お手製なのだろう、質のいい厚手の紙に印字したものをきれいにラミネートして切り取ってあった。

「今日アタシが使うのは黒いカード、あなたが白いカードよ」

 今回オレは怜子の誘いを受けたわけだから、誘う側は黒を、誘われた側は白のカードを使うということだ。

「単純なゲームだからイカサマが出来るようには作ってないわ。もし疑うのだったら、そのカードは上げるから家でじっくり調べてみれば? アタシのカードも調べてもいいわよ」

「別に疑ってねぇよ」

「では、採点をしましょ」

 怜子は表情を少しも変えずに、黒いカードを一枚抜き取って、それを裏返してベンチに置いた。

 オレはどうすればよいだろう。気詰まりのするデートだったが、楽しかったかどうかと問われたら、楽しかったと答えざるを得ない。怜子の反応は新鮮で、いろいろと文句も言われたが総じて見ていて飽きないものだった。プラスかマイナスかで判断するならプラスだ。僅かに思量して、オレは選んだカードを裏向けてベンチに置いた。

「それじゃ、お互い相手のカードを同時にオープンしましょ」

 怜子の顔は冷静だ。その表情から一ミリだって感情を読み取ることが出来ない。感情を隠しているのか、何も考えてないのか。

 対してオレは内心でドキドキだった。怜子はオレをどう評価してくれたのか。今日のデートは楽しかったのか。オレは怜子を楽しませることが出来たのか。オレが企画したわけでもないのに、オレはそんなことばかり気にしていた。こうやって互いの評価を明確にその場で知ることができるというのは、案外おもしろいかも知れない。

「いっせーのー、せっ!」

 同時に返したカードは二枚。

 一枚はプラス1。

 一枚はゼロ。

 ゼロ?

 黒地のカードにははっきりと縦長の“丸”が一つ。

 白地のカードには十字と縦棒が一つずつ並んでいる。

 ゼロとは一体どういうことだろう。オレは恐る恐る怜子の顔を覗いた。

 怜子は、笑っていた―――否、口元を吊り上げていた。

―――やられた―――

 瞬間的に思ったのはそれだ。

 同時に今日の出来事がまざまざと頭の中を駆け巡った。

 公園での素っ気ない仕草は単なる伏線。映画館に入ってオレに寄せた視線はほんの引き金。明るい場所で殊更に照れた表情を作り、手を握ってオレを動揺させた。食事の割り勘だって、ちょっとした殊勝さをアピールするための罠。その後のウィンドウショッピングでたまに目を合わせては逸らしたのも、罠。

 一度落としておいて、その後に持ち上げて持ち上げて持ち上げる。

 何も知らないオレの内心は有頂天になっていたはずだ。

 だから怜子には確信があった。オレに必ずプラス1を選ばせるという、確然たる調略を怜子はやって見せたのだ。それは同時に、オレがプラス1以外の数字を選ばないという自信の表れでもあった。

 怜子は自分の黒いカードを何気ない所作で仕舞い、ケータイを開いて差し出してきた。

「何をボーっとしているの? ほら、番号交換をしましょ?」

「あ、あぁ」

 オレは間の抜けた返答をしていただろう。言われるがままにケータイを取り出して、電話番号とメールアドレスの交換をしていた。

「これでいつでもデートに誘えるわね。次はあなたの番よ。あなたがアタシを誘って」

 話はこれで終わりだと言わんばかりにさっと立ち上がり、怜子は流し目を作って「じゃあね」とオレに告げた。

 オレはその後たっぷり一時間、ベンチで呆然としていた。


 ふらふらとした足取りで帰宅したオレは、母に「デートどうだった?」と尋ねられたのを曖昧に躱し、軽くシャワーを浴びて自分の部屋にこもった。

 甘かった。オレは黒田怜子を甘く見ていた。

 これは頭脳戦だ。

 戦略を練らなければならない。戦術を練らなければならない。確固たる方針と、次の戦場での計略を考えなければならない。

 オレは時計を確認した。時刻は午後七時半。今日のデート終了はいつだろうか。憶えていない。だが、早めに見積もったほうがいいだろう。四十八時間が経過したと怜子が判断すれば、難癖つけてでも自分に得点をプラスし、デート権の譲渡を要求してくるだろう。その段階でオレはマイナス2ポイント、怜子がプラス2ポイント。これを覆すには三回以上連続でオレがプラスのポイントを稼がなければならない。かなり絶望的だ。マイナス分は早めに回収しておくに越したことはない。

 どんなに遅くても明後日に正午、十二時までにはデートの誘いを入れる。まずこれを行動方針の基幹として組み込んだ。そうは言っても実質四十時間の余裕がある。向こうはこちらのデートの誘いを断れないのだから、デートの誘いは遅くても全く問題あるまい。

 次にオレがプラス1ポイントを獲得するにはどうすればよいか。オレは床に六枚のカードを並べてみた。考えられる数字の組み合わせは九つ。その九つの数字の組み合わせの中から、勝利の可能性をパターン化することから始めた。

 誘う側と誘われる側。仮にこれをオフェンスとディフェンスという風に弁別しよう。その方が判りやすい。オフェンス側の勝利条件は五つ。

 双方ともにプラス1を出した場合(総和プラス2)。

 オフェンスがプラス1、ディフェンスがマイナス1を出した場合(総和ゼロ)。

 オフェンスがゼロ、ディフェンスがプラス1を出した場合(総和プラス1)。

 オフェンスがマイナス1、ディフェンスがプラス1を出した場合(総和ゼロ)。

 そして特殊なルール、双方ともにマイナス1を出した場合(総和マイナス2)。

 最後のパターンだけが特殊で、二人の出したカードの総和がマイナスの場合でも、マイナス1が二枚という条件を満たした場合のみ、オフェンスにプラス得点が入る仕様だったはずだ。総和がマイナスでない場合、つまりゼロでもいいわけだが、ゼロを作れるパターンは二パターンのみ。プラス1とマイナス1による相殺というパターンだけだ。

 ではディフェンス側で勝利するにはどうすればいいだろう。パターンは四つ。

 オフェンスがプラス1、ディフェンスがマイナス2を出した場合(総和マイナス1)。

 オフェンスがゼロ、ディフェンスがマイナス1を出した場合(総和マイナス1)。

 オフェンスがゼロ、ディフェンスがマイナス2を出した場合(総和マイナス2)。

 オフェンスがマイナス1、ディフェンスがマイナス2を出した場合(総和マイナス3)。

 意外にもディフェンス側の勝ちパターンが少ない。ただし、ディフェンス側に立っている時にオフェンス側に何らかのアクシデントが発生し、デート終了時点から四十八時間以内にデートに誘えなくなった場合、ディフェンス側にプラス1ポイントが加算され、オフェンス側はマイナス1ポイントの損害を被ることになる。

 結果的にオフェンス側でもディフェンス側でも、それぞれ五つのパターンでポイントを獲得することが出来る計算になる。数字の組み合わせのパターンは九つだが、そうするとオフェンスとディフェンスで不公平が生じてしまうため、怜子は敢えて救済措置的な枷をオフェンスに課した。

 次はオフェンスに回るオレがポイントを獲得するには、五つのパターンが考えられることになる。

―――いや? ちょっと待てよ?―――

 確か怜子はこう言っていた。「同じ数字を二回連続で使うことは出来ない」と。つまり、オレはプラス1を、怜子はゼロを、次のデートで使用することは出来ない。

 なんということだ。オレは今日プラス1を使ってしまっているため、次回の勝ちパターンは三パターンに限局されてしまう。対して怜子が使用したのはゼロ。そしてディフェンス側にはゼロのカードがない。つまり怜子は全ての勝ちパターンを想定して戦いに臨めるということになる。

 ここまで読み通して、怜子はあの状況でゼロを選んだというのか? オレにプラス1を出させることのメリットは二つ。一つは次のデートでのオレの使用カードに制限を課すこと。もう一つは怜子自身に次回のデートでの制限を負わせないこと。そうすることで、怜子は圧倒的なアドバンテージを得ることが出来る。そのために、怜子は今日なんとしてもゼロのカードを使わなくてはならず、そしてオレにプラス1のカードを使わせなくてはならなかった。

「何だあの悪魔のような女は!」

 オレは頭を抱えてベッドに倒れこんだ。

 完全にしてやられた。オレは怜子に成す術もなく敗北したのだ。

 あの態度も、あの表情も、あの仕草も、全てが演技―――嘘だったのだ!

「フフ、フ……」

 上等だ、黒田怜子。これは貴様のオレに対する宣戦布告と見做した。貴様からすれば、ゴミにも等しいこのオレに一度でも敗北を喫したことが癇に障ったのだろう。だから敢えてオレに勝負を挑むことで、徹底的に徹頭徹尾このオレを打ち負かし、己の矜持と尊厳を取り戻そうとしたに違いない。

 黒田怜子、過去の女よ。貴様がオレに勝つことは出来ん。なぜならオレは貴様に勝った男だからだ。今日は油断したことを認めよう。だが次はこうは行かん。必ず貴様を八つ裂きにしてくれる。


 と、意気込んでみたのはいいものの、全く勝てる算段が立たない。オレはその後たっぷり三十時間ほど悩み、そしてデートに誘わなければならない当日になってしまった。そうか、よく考えたら相手の都合だってあるはずだ。だったら早めに予定を聞いておくべきだったか? いやいや、よく分からないが互いに互いのデートの誘いは断れないはずだ。

 オレは予備校があるなどと言ったものの、実際には予備校になど行くつもりはない。受験勉強で忙しいなどと言ったものの、受験勉強をするつもりもない。敢えてするなら就職活動だが、親父が考古学者をしていてそちらの人手が足りないとぼやいていたので、それを手伝ってもいい。ともあれ、オレは友達と遊びにさえ行かなければ暇なのだ。

 だが怜子はどうだろう? アレだけの容姿をしているのだ。彼氏がいるなどという話は聞いたことがないが、いてもおかしくはないだろう。あれ? じゃあなんでオレとデートするんだ? すると彼氏はいないということなのか。だが、アイツにだって友達はいるだろう。現に教室では楽しそうに他の女子とおしゃべりに興じていたのを、オレは何度も目撃している。

 いずれにしても、怜子はオレの誘いを断れないのだ。都合が悪い日があれば日にちをずらせばいい。

 夜中の三時を過ぎても、オレはまだ煩悶し続けていた。一体どうすればいいのか。どうすれば怜子に勝てるのか。オレは今回のデートでゼロとマイナス1しか使えないわけだが、オレが勝利するには怜子のカードとの総和がゼロ以上でなければならない。畢竟すると、怜子にプラス1のカードを切ってもらうしかないのだ。互いにマイナス1を出すというパターンも想定できるが、オレがマイナス1のカードを切るというのは非常にリスキーだ。怜子に悪い印象を与えてしまえば、マイナス2を出されて終わりだ。

 したがって、怜子にプラス1のカードを切ってもらう、怜子にデートを楽しんでもらうにはどうすればいいか。オレはそんなことばかりに腐心していた。後から思えば、とんでもない視野狭窄を招いていたのだが、最初に与えられたショックと睡眠不足で、オレの思考は完全に泥沼に落ちてしまっていた。

 いつの間にか眠ってしまっていたようで、あまりの暑苦しさに目を覚ました。考えもまだまとまっていないのに眠ってしまうなんて、我ながら気が緩んでいる。目覚まし時計を確認すると

「一時!?」

 だった。馬鹿な、オレは一体どれだけ眠っていたというのか。記憶にあるのは三時半くらいまでなので、実に十時間くらい眠っていた計算になる。ケータイで時間を確認したが、やはり十三時過ぎであることが明確になっただけだ。いかん、急いでデートに誘わなければならない。

 慌ててケータイに手を伸ばしたところで、一度大きく深呼吸をして、落ち着くように自分に言い聞かせた。

 十二時というのは飽くまで目安であって、実際は三時くらいまで余裕はあるはずだ。あまりギリギリにならないよう調整する必要はあるが、焦ってどもるよりは落ち着いて対処したほうがいいだろう。

 とりあえず何も決まっていないのでぶっつけ本番で行くしかない。場所は遊園地とかでいいだろう。時間は遊園地の開園時間に合わせるよりは、少し余裕を持たせたほうがいい。すると前回と同じ十時に駅前で待ち合わせるのが無難だと思われた。

 最寄りの遊園地をインターネットで検索して、そこに行くことにした。ついでにどんなアトラクションがあるかもざっと確認しておいた。怜子にどんな嗜好があるのか、オレは知らない。不本意だが、ご機嫌取りに終始しなければならないだろう。

 オレは再びケータイを手に取り、アドレス帳から番号交換したばかりの“黒田怜子”を選択した。

 発信ボタンを押せばいいだけなのだが、手が震えた。いや、落ち着け、落ち着くんだ。別に好きな女をデートに誘っているわけじゃない。これはゲームだ。そう、好きな女を将来デートに誘う時の予行演習だと思えばいい。思えばいいのだが、結局オレは発信ボタンを押すまでに三十分を費やした。自分で自分が嫌になる。

 耳に当てたケータイから、呼び出し音が鼓膜を叩いてくる。

 二回、三回、四回回。怜子はまだ出ない。

 五回、六回、七回目の呼び出し音が終わり、不在の案内が始まった。

「だぁー、いねぇのかよ!」

 ケータイを耳元から外し、通話をキャンセルしようとしたところで、音が変わった。

「はい、黒田です」

 来た。

 ヤバい、どうしよう。完全にタイミングを外されてしまった。えーっと、どう答えればいいんだ? オレは近所のお姉さんに声をかけられた小学生みたいに動揺していた。

「も、もしもし」

 いきなりどもった! オレは頭を抱えたくなった。

「はい、怜司くん?」

「あ、あぁ。オレだ」

 ケータイの向こうから、微かに笑い声が聞こえてきた。

「緊張してくれているの? 嬉しいわ」

「べ、別に緊張なんてしてねぇよ。約束通りデートの誘いだ」

「そう。どこに連れて行ってくれるの?」

「遊園地。明日の朝十時でいいか? 場所は前と同じあの彫像の前だ」

「えぇ。分かったわ。楽しみにしてるわね」

 通話終了のボタンを押して、大きく溜息をついた。

 とりあえず、デートプランはこれから考えれば間に合うだろう。遊園地に行くだけだ、テキトーに乗り物に乗って時間を潰せばいい。なるべく怜子の顔色を伺いながら、だが。

 そう言えば、怜子の電話口での対応は、どこか柔らかかった。キツいことしか言われた記憶がないので、妙な違和感を感じた。いや、それすらも計算の内かもしれない。ヤツの言動には、必ず何か意味がある。オレは油断なく怜子の挙動を観察し、最適な結果を出さなければならないのだ。

 その後オレは、昼飯も食わずにインターネットで遊園地の施設や構造などを把握することに腐心し、いつどんな順番で何に乗るか、などのプランを考えた。まずはジャブで様子を見て、怜子の反応から考えられる彼女の嗜好を予測し、どんな場合でも自然に対応できるよう何パターンかのプランをまとめた。いちいちメモを見て次の行動に移るわけにはいかないので、立てたプランを全て暗記し、初動をミスしないよう頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。


 翌日―――。

 前回は九時半でも怜子より遅かったことを教訓に、今回は九時に待ち合わせ場所に着くよう家を出た。

 まだ九時前だというのに、家の前のアスファルトは陽炎を吹いており、今日これからの気温の変化を思うと憂鬱になった。そして怜子と対面することも憂鬱だった。何を話していいか分からないからだ。

 駅前は前回よりもやや混雑していた。九時というと、ちょうど普通の会社では始業の時間になるはずだ。慌てて駅から出て来る人間の姿が目立った。腕時計で時刻を確認した。八時五十八分。悪くない時間だ。まさか怜子も一時間も前に来ているはずはあるまい。

 趣味の悪い市長像の前に、これから結婚式ですか?と質問したくなるような真っ白いゴシックドレスに身を包んだ女が、清楚に手を組んで立っていた。生ぬるい微風に煽られて、フリフリの裾が僅かにはためいている。黒髪を束ねて流す真っ白なカチューシャが目に眩しい。ウェディングドレスにしてはスカートの丈が異常に短いので、アレはああいうファッションなのだろう。誰かと思って目を凝らしてみた。怜子だった。

 オレはセリフにすると「……」となるような沈黙を頭の上に浮かべ、その姿を遠巻きに眺めていた。この女がいったい何を考えているのか、本当にさっぱり解らない。

 一応、念のため、再確認という意味も込めて、オレは腕時計を見た。九時ジャスト。ケータイの時計も九時ジャスト。電話の時報で確認もしてみたが九時ジャスト。駅前に設置された丸い時計も九時ジャストを指していた。

 考えられる可能性は三つだ。一つ目はオレが時間を伝え間違えた。二つ目は怜子が時間をきっかり一時間ぶん間違えている。三つ目が、オレも怜子も正確に時間を覚えているが、怜子は敢えて一時間以上も早く待ち合わせ場所に来ている。正解がどれなのか、考えるだけで頭が痛い。

 怜子は少し汗ばんだ額に、真っ白なハンカチを当てて汗を吸い取らせているようだ。化粧でもしているのか、男のように無造作に拭ったりはしない。その仕草はどこか可憐で、また染み一つない脇と、その傍らで弾むように揺れるむ、む、胸が、艶かしかった。

 オレは早鐘を打つ心臓を押さえつけ、何気ない所作で怜子に近づいた。

「よ、よう。また待たせちまったか?」

「あら、怜司くん。おはよう。今日も遅いのね」

 断言してもいいが、お前が早いだけだ。

「時間、十時って言わなかったっけ?」

「えぇ、そう言ってたわ」

「まだ九時だぜ?」

「あなたもここにいるじゃない」

「オレは誘った手前、遅刻するわけには行かねぇだろ」

「そういう常識はあるのね」

 言うことがいちいち皮肉っぽいヤツだ。

「それじゃ、行きましょう?」

「おう」

 オレは怜子を先導して駅に入り、切符を二枚買って怜子に一枚を渡した。怜子には「要らないわ」と断られたが、無理やり渡した。電車代も馬鹿にならないが、気にしないことにした。

 電車で揺られること三十分。オレたちは目的の遊園地に到着した。ちなみに電車の中は夏休みということもあってか、子供連れの乗客と、走り回る子供たちでかなり混雑していた。降りるのはもちろんオレたちと同じ遊園地に最寄りの駅だ。やや混み合う車両の中でオレたちのような若者が座る余地などなく、当然オレたちは吊り革に掴まって窓の向こうの景色を眺めていた。怜子のゴシックドレスは前回のものよりかなりキワどいデザインになっており、電車が揺れる度に、怜子のむ、む、胸の谷間も、大きく弾んだ。オレがそれをちらちらと見ながら、心の中で頭を抱えていたことは言うまでもない。

 さて、早速入り口の受付で入園料と一日フリーパス券を購った。怜子の分も払おうかと思ったが、「あなた馬鹿じゃないの?」と言われ、怜子は自分でフリーパス券を買い求めた。懐的には大変ありがたかったし、口調はキツいが怜子がオレのことを慮ってくれたのだと考えた。

 まず、何をしようか。オレは昨日の夜に考えた行動計画を思い起こし、とりあえずジェットコースターでジャブを打つことから始めた。ジェットコースターは二種類あるらしく、スリルとスピードに特化したものとループに主眼を置いたものが同じ料金で楽しめることは事前に確認済みだった。

「で、どうする? 最初はジェットコースターに乗りたいんだが」

「子供ね」

 本当にいちいちムカつくヤツだ。だがこの回答は予想の範囲内だった。オレは入り口でもらったパンフレットのアトラクション案内表を見て、さもいま初めて見たかのように振舞った。

「二種類あるみたいだな。スリルのあるほうと、ループのあるほう。どっちにする?」

「あなたが決めればいいじゃない」

「お前、スピード恐怖症だったりするか?」

「いいえ。あなたに任せるわ」

 全く、にべもない。オレは個人的に乗りたいと思っていたスピード型のジェットコースターを選び、その列に並んだ。

 園内は平日に比べればかなり混雑しているようだったが、朝早く出かけた所為でそんなに待たされることもなくジェットコースターに乗ることが出来た。

 スピード型のジェットコースターは想像以上に凄まじい速度でレールの上を軋ませながら駆け抜けた。インターネットの案内で見るのとは大違いだ。これを真顔で乗り切れるヤツがいたら尊敬してもいい。縦に横にと引っ切り無しに向きを変えつつも全く速度を落とさず進んでいくコースターは、小学生をとうの昔に卒業したオレでも冷や汗物だった。正直に言おう。乗っている最中は怜子の顔を見る余裕すらなかった。

 コースターを降りてすぐに怜子はトイレに行くと言って、しばらく戻ってこなかった。ビビっていたのかいないのか、顔色を見る前に背中を向けて行ってしまった。戻ってきた怜子は相変わらずの澄まし顔。血色も悪くないのでビビっていたというわけではなさそうだが、トイレで気持ちを落ち着けてきただけなのかもしれない。

 オレは少しだけ悩んだ。ここで怜子がビビリかそうでないかを判断しようと思ったのだが、決定的な材料がない。だが、ここはスリルは嫌いだと判断したほうが無難だ。プランBに移行したほうがいいだろう(プランAは怜子がノリノリでジェットコースターを楽しんだパターンだ)。

「大丈夫か? まさかあんなにスピードが出るとは思ってなかったんでな。すまん」

「いいえ。大したことはなかったわ」

 怜子はツンと顔を背けた。この女の言葉を真に受けることは出来ない。表情も揺らいではいないが、パッと見で決め付けるのは早計だ。オレは予定通りプランBでデートを進めることにした。プランBは安全な乗り物をゆっくり楽しむプランだ。

 次に選んだのは空中ブランコだ。絶叫マシン系ではなく、緩やかに回転するブランコに乗って景色を楽しむものだと解釈したほうがいいだろう。空中ブランコに乗っている怜子はとても気持ちが良さそうだった。午前中とはいえ、厳しい陽射しが降り注いでいたが、頬を撫でる風と全身に掛かる心地よいGが、束の間だけ暑さを忘れさせてくれた。景色を楽しむには少し高さが足りなかったが、怜子に顔に浮かんだ笑みはオレを少しだけほっとさせ、少しだけドキッとさせた。

 まずまずの成果だった。この調子で絶叫マシンは回避してゆっくり楽しむ方向で行こうと、オレは方針を固めた。

 オレが次に選んだのはメリーゴーランドだ。この遊園地は馬ではなく猫の上に乗るアトラクションらしい。うんまぁ、何というか、オレは楽しめなかった。どちらかと言うと絶叫マシンのほうがオレは好きだ。今回は怜子に楽しんでもらうことが主眼なので、オレの好き嫌いはこの際どうでもいい。怜子の様子を観察したが、オレの視線に気付くとプイと顔を背けてしまった。これは学校でもよくあった仕草だ。オレの視線に気付くと、怜子は必ず顔を背けた。

 メリーゴーランドから降りたオレたちは昼食をとることにした。入園料とフリーパス券だけで五千円くらい出費しているが、怜子の分も払う予定だったので、予算的にはまだ余裕だ。昼飯くらいおごってやってもいいだろう。園内のレストラン街へ足を運び、何を食べたいか怜子に尋ねてみた。

「お腹にもたれないものなら何でもいいわ」

 怜子は抑揚のない声で答えた。だが、残念なことにレストラン街にあるのはパスタとピザの店、ラーメン屋、バーガー系、丼系の店など、割とガッツリ食べる店が多い。これも事前に調査済みだったが、怜子の好みまでは調査していなかった。前回のデートでレストランを選び、その時はパスタを食べていたのを思い出した。二回連続でパスタはないだろう。かと言ってファーストフードは好みではないらしいことも前回のデートで言質が取れている。ラーメン屋とか選んだら何を言われるか分からない。そばとうどんが食べられる店があったので、オレはそこを選んだ。

 怜子は月見そばを、オレはタヌキうどんの大盛りを注文した。味は普通だった。この手の行楽施設の飲食店で味を求めるのは無理と言うものだろう。不味くなければ客は入るというのがこういった施設内での特権だ。味の割に値段の高いそばとうどんを平らげたオレたちは、小休止することにした。

「お前さ、どんな乗り物が好きなの?」

 今後の方針の参考にと、オレは怜子に尋ねてみた。

「別に。これと言って好きな乗り物はないわ」

「バイクとか、乗ってみたいと思わねぇ?」

「思わないわ。バイクなんて事故を起こしたらそれで終わりでしょう?」

「だが、あの風を切る感覚は車じゃ味わえないぜ?」

「リスクの問題ね。危険を承知で風を感じたい人は、バイクが好きなんでしょう。アタシはそこまでして風になりたいとか思わないわ」

「逆に安全なら乗ってもいいのか」

「そうね。ハイリスクローリターンのゲームなんて、よっぽどギャンブルが好きな人じゃないとやらないわ」

「別にバイクはそんなに危険じゃねぇよ」

 ちなみにオレは親父の趣味に付き合わされた結果、バイクを一台所有している。カワサキの去年のモデルが、オレの愛車だ。フルカウルで一面ブルーの限定モデルは、オレの数少ない人に自慢できる所持品だったりする。もちろん金を親父に出してもらってる時点で威張れることではないが。

「あなたのバイクはタンデムには向いてないでしょ? ビッグスクーターとか、乗りやすいバイクなら付き合ってあげてもいいわ」

「ビッグスクーターはギアがねぇから面白くねぇんだよ」

「そう。それじゃ、ツーリングには誘わないで」

「お前をケツに乗せるつもりはねぇよ。オレがコケてオレが死ぬのはいいけど、お前まで死ぬのはオレ自身が許せねぇし」

 怜子は目をパチクリさせてオレを凝視した後、プイと目を逸らした。露骨に目を逸らされると、ちょっとヘコむ。

 いずれにせよ、怜子はスピードにスリルを求めるタイプの人間ではなさそうだ。やはり今後の行動方針はプランBのまま続行するほうがよいと、オレは判断した。

 金を払って店を出たオレは(怜子はやはり割り勘でいいと主張したので、勘定は折半した)、次に乗るべきアトラクションを選ぶ振りをして、パンフレットに視線を落とした。プランBで乗るアトラクションはすでに決めてある。園内を一周するゴンドラがあるので、食後はそれに乗ってのんびり景色を眺めることを予定していた。

「次はアレに乗りましょう」

 これまで積極的ではなかった怜子が、急にオレの袖を引っ張り指を差した。

 白くて細い怜子の指先が示すのは、この施設で最恐と評判のハイパー絶叫マシン“ランダムUフォール”だった。

 説明しよう。“ランダムUフォール”とは、通常のフリーフォールと同じように高所から急転直下して地面まで落ちていくアトラクションではあるが、地面に降りた後、ジェットコースターのようにレール上を上昇して行き、再び背後から落下を始めるという乗り物だ。側面から見るとレールの形状がアルファベットのUの字型になっており、そのUの字を何度も行ったり来たりする。Uの先端までの長さが左右で異なり、初期位置とは逆側の先端は高さが二倍になっている。どこまで上ってどのタイミングで落下するのかが完全にランダムで、乗客はいつ落下するのか判らないまま恐怖にさらされることになる。背面から落下する時に失神する人間もいるほどだと、インターネットの各種掲示板で話題になっていた。

 要するに、食後に利用する乗り物ではないということだけは、確実だということだ。

 オレは首を傾げつつ、怜子の顔色を窺った。

 怜子の口の端は、歪に吊り上がっていた。

―――この女は―――

 オレは臍を噛んだ。そう、この女は黒田怜子。絶叫マシンが嫌いだとは一言も口にせず、だがそれを言外に含ませつつ、オレにそうだと悟らせるように振舞うことで、スピードやスリルのある乗り物を回避させた。その上でオレにたらふくメシを食わせた直後に胃が逆流しそうな乗り物を選ぶ周到さ。オレはこの後もゆったりとしたアトラクションに乗るつもりだったので、食事はうどんを大盛りで頼んでいたのだ。そこまでオレの行動を誘導しつつ、ここで奈落に突き落とす。オレはまたも怜子の罠にハマってしまった。

「嫌なの?」

「いいや? お前がいいんなら、行こうぜ」

 オレの額にはアニメのような血管がありありと浮かんでいただろう。女に乗ろうと言われて男が嫌だとは言えない。それすらも怜子の計算の内だと考えるべきだ。ならばここで弱みを見せるわけにも行くまい。オレは本当は嫌だったが、それをおくびにも出さず、怜子の手を取った。怜子は一瞬だけ躰を震わせたが、特に嫌がる素振りも見せずオレについてきた。手が汗ばんでいるのが、分かる。どんな顔をしているのかと思ったが、俯いている所為で表情までは読めなかった。怜子は何を考えているのか。オレは注意深く観察しながら、噂の絶叫マシンに乗り込んだ。

 結論から言おう。オレは吐きそうだった。怜子は涼しい顔をしたままだ。怜子がこの手のスリルを嫌いではないということがよく分かった。午前中はまんまと怜子に騙されたというわけだ。

 その後は怜子が乗りたいと言うものに全て付き合った。これまで避けてきた絶叫マシンを網羅する勢いで園内を回り、その度にオレはひぃひぃ言いながら胃の中身が逆流しそうになるのを懸命に堪えた。

 気付けば、日が落ちかかっていた。時計を見ると午後六時過ぎ。怜子の顔色を窺う余裕を失ったオレは、ただただ怜子に振り回されたことになる。

「そろそろ疲れてきたわ」

「オレも疲れた」

「じゃあ、最後にアレに乗りましょう」

 怜子が指差したのは、どこの遊園地にもある、お馴染みの観覧車だった。この時間帯はカップルも多く、乗るまでに結構な時間を待たされたが、文句は言わない。待っている時間も、怜子がどことなく楽しそうだったからだ。

 観覧車から眺める景色は、普段オレたちが住んでいる町並みだ。ありふれた地方都市。こんな機会でもなければ、それを眺めようとは思いもしなかっただろう。斜陽に照らされた町はどこか悲しげで、くたびれて見えた。それはオレが疲れている所為なのか。

 怜子はしとやかな所作で手を前で組み、短いスカートの中身が見えないようにしているのかは判らないが、足を閉じて窓の向こうをずっと眺めていた。

 キレイだった。

 可愛いという形容は似合わない。美しい女だった。

 オレは見惚れていたのだろう。怜子の物憂げな面差しは凛とした耀いを放っていた。夕陽に差されて赤みを帯びた怜子の横顔は、オレの心を奪うには充分すぎる色香を孕んでいた。

 怜子がオレの視線に気付き、プイと視線を逸らした。心なしかその面持ちが赤みを増したのは、暮れ行く黄昏の夕陽の所為か、それとも―――。

 オレたちは無言だった。オレが口下手だったというのも多分にあるのだろう。女の子受けのする男子のような話の振り方を、オレは知らなかった。ただ、怜子の横顔があまりにも美しくて、それだけで今日の溜飲は下がってしまった。

 観覧車を降りて、その足で遊園地を出た。最寄りの駅で缶ジュースを買って、怜子にそれを手渡した。駅は親子連れで賑わっていたが、偶然にも備え付けのベンチは空いていた。オレと怜子はそこに腰を掛け、のんびりと電車が来るのを待った。会話は全くなかったが、オレはその空気が嫌いじゃなかった。

 電車を降り、待ち合わせをした市長の彫像の前まで来た。この時間になると、さすがに駅も混雑していた。怜子はレンガでできた植え込みに腰を掛け、カードを取り出した。すっかり忘れていたが、オレももらったカードを持参してきていたのだ。

「それじゃあ、今日の採点をしましょう」

 怜子の表情は相変わらず読めない。長く伸びた睫毛が、白い肌に僅かに影を落とした。

 オレが使うカードは黒いカード。使えるのはゼロとマイナス1だけだ。オレは迷わずゼロを出した。プラス1が出せるなら、オレは迷うことなくそれを差し出しただろう。

 怜子は三枚のカードから一枚を抜き出し、それを自分の脇に裏向きに置いた。オレのカードも隣に置き、

「オープンするわ」

 怜子は二枚のカードを同時に表に返した。

 オレはドキドキしていた。昨日までどうやって怜子にプラス1を出させるか、それしか考えていなかったが、今のオレは今日のデートを怜子がどう思ってくれているのか、それだけを思っていた。逸る鼓動が、耳に痛い。

 オレのカードは分かりきっている。黒いカードに記されている数字はゼロだった。

 怜子のカードはマイナス1。

 オレはがっくりと肩を落とした。怜子は今日のデートを不満に思っているということだ。

 顔を上げて、怜子を見た。

 怜子の口元は、邪悪に吊り上がっていた。

 その時のオレの表情を、もし見られるのなら見てみたい。

 何だ、コイツ。なんでこんな顔で笑ってるんだ?

「意外に臆病なのね、怜司くん」

 怜子は自分のカードをカバンに仕舞い、オレのカードを差し出した。

 オレはそれを無意識に受け取りながら、怜子の顔を見ていた。怜子は

「じゃあね、怜司くん。次はアタシから誘うわ」

 余裕すら感じられる澄まし顔でオレの傍らを通り過ぎていった。

 オレは怜子の後姿を追うことも出来ず、受け取ったカードを見つめていた。


 声を掛けられて、オレは我に返った。

 聞き慣れた声でオレを心配そうに見つめてくるのは、数少ないオレの友人だ。

 どれくらいそこで放心していたのか。時計の針がほとんど動いていないところを見ると、そんなに長く呆けていたわけではなさそうだ。

 彼はオレの貴重な友人の一人だ。

 オレは隠れアニメオタクだが、彼もその一人。アニメショップに足を運んだ時に偶然に顔を合わせたことから意気投合した。彼は“妹マニア”で、オレは“メイドマニア”だ。ツンデレ好きでも評判のオレだが、特にネコ耳メイドは見るだけで垂涎するくらい興奮を覚えるほどのこだわりを持っている。彼は義理の妹が起こしに来てくれるなら悪魔に魂を売ってもいいと豪語するほどの勇者だった。

 オレも彼もその事実を他人にひた隠しながら生きており、パッと見はオタクには見えないよう心掛けている。そんなところまで気の合うオレたちは、出会ったその日から親友になった。今でもたまにコスプレ喫茶に足を運び、ささくれた心を癒してもらっている。

 別に何でもないと取り繕い、オレは笑顔を向けた。彼はアニメショップからの帰りらしい。オシャレなトートバッグから突き出ているのはキャラクター物のポスターだろう。彼は今日も“妹”のためにバイトで稼いだ金を貢いできたのだと言う。オレは「金じゃない、心だよ」と彼を諭し、お気に入りのメイドキャラが待っているから先に帰ると別れを告げた。彼は「ネコ耳は邪道だ」と返してきたが、「だがそれがいい」とオレも言い返した。笑顔で手を振り、オレは家路に着いた。


 友人と会ったことで、オレの気持ちは少しだけ落ち着きを取り戻していた。家に帰り、部屋にこもってベッドに倒れこんだ。

 怜子のカードはマイナス1。

 何がいけなかったのか、とは思わない。これは明らかな戦略的敗北だった。

 オレは今回のデートで“怜子にプラス1を出してもらう”ために策を練った。だがそもそもこの戦術こそが過ちだったのだ。オレは策を弄しすぎて、より大局的な戦略目標を見失っていた。

 怜子はオレと遊んでいるんじゃない。オレ“で”遊んでいるのだ。

 その事実に気付いたオレは、耐え難い慙愧と憤怒に襲われた。

―――あのアマぁ……ッ!!―――

 オレは冷静に、戦略目標から見直すことにした。

 このゲームはゼロサムゲーム。つまり双方のポイントの総和が常にゼロになるゲームだ。現在オレがマイナス2ポイントだから、怜子はプラス2ポイントということになる。これをゼロに戻すには怜子と二回デートを行い、その両方でオレがプラスポイントを獲得する必要がある。オレは次はデートに誘われる側―――ディフェンスだ。ディフェンスがプラスポイント獲得するにはデート時の採点での評価の総和がマイナスであればいい。

 ディフェンスがプラスポイントを獲得するのは極めて容易だ。何も考えずにマイナス2のカードを切ればいい。オフェンスがどのカードを切ろうが、どうやってもマイナス1以上にはならない。パターンだけを考えるとディフェンスが不利なように見えるが、その実ディフェンスは絶対的にポイントを稼ぐことの出来るカードを初めから所有している。

 問題は、マイナス2を使う上でのデメリットとして五回しか使用できないという制限があることだ。ディフェンス側は最強の切り札を持っているのだ。使用制限なしではゲームは行ったり来たりを繰り返すことになる。怜子がマイナス2のカードを切らなかったのはそういう意味もあるのだろう。

 怜子は今回マイナス1のカードを切った。オレがマイナス1を出していれば、この場合のみ特別ルールでオフェンスにプラスポイントが入ることになっている。にもかかわらず怜子は迷うことなくマイナス1を出してきた。

 怜子は「意外に臆病」だとオレを評価した。もしオレに敢えてマイナス1を出す勇気があれば、今回オレにプラスポイントが入り、ゲームは振り出しに戻ったはずなのだ。だが、1ポイントを先取されている状態で、オフェンスが自らマイナスのカードを切るのは相当にリスキーな行為だ。当然オレがマイナス1を出さないことを、怜子は見通していたに違いない。その上で怜子はマイナス1のカードを切った。つまり、怜子はオレを試した。

 オレは勘違いをしていた。これはデートの評価を競うゲームじゃない。相手の出方を窺い、自分に有利な方向へ誘導することを念頭に進めなければならない心理ゲームだ。そして怜子は前回と合わせて二回、オレを誘導することに成功している。オレのスタンスを見極めることに最初の二回を費やそうと、初めから考えていたはずだ

 今回の評価でオレはこのゲームに対する考えを変えた。恐らく怜子もそれに気付いているだろう。次回は何を思われようがオレは必ずマイナス2を切らなければならない。このままでは怜子に3ポイントを奪われ、取り返しがつかなくなってしまうからだ。

 まずは1ポイントを取り返す。これは確実に出来ることだ。次にオレが考えるべきことは、オレがオフェンスの時にどうやって怜子からポイントを奪い返すか、だ。そうすることで、ゲームを振り出しに戻すことが出来る。その段階でようやく対等な戦略を練ることができる。

 怜子は何を考えているのか。

 怜子は今回ディフェンスとしてマイナス1のカードを切った。次に怜子がオフェンスとして使えるカードはプラス1とゼロのみ。順当に考えれば怜子はプラス1を出してくるだろう。オレがマイナス2以外のカードを切れば、評価の総和はゼロかプラス1になり、怜子にプラスポイントが入る計算になるからだ。だが、オレはディフェンスとして最強の切り札であるマイナス2を使うことができ、それを使うことを躊躇している余裕はない。それを見越した上で、怜子がどのカードを切ってくるか。

 ゼロが五回というのはよく分からないが、マイナス2が五回しか使えないというのはもっとしっかりと把握しておくべきだった。この状況でマイナス2を五回連続で使っても、その時にオレが勝負を決することが出来なければ、絶望的に不利な状況に立たされることになる。逆にゼロは使えなくなってしまっても、戦局を左右する事態にはならないのではないか。いや、怜子が考えてたルールだ、どこかに落とし穴があると考えて然るべきだ。

 このゲームのネックは、同じ数字を二回連続で使用することは出来ないという制限だ。つまり、次とその次のデートまで考えて戦術を構築する必要がある。その上で、五回しか使えないゼロとマイナス2をどこに置いていくか。戦略的なビジョンも同時に考えなければならない。

 単純なゲームだと怜子は言ったが、実際に筋道立ててみると結構な複雑さだった。オフェンスとディフェンスが必ず入れ替わるので、その度に立ち位置を反転させてポイントを計算しなければならない。解りづらい複雑さではなく、考えづらい複雑さだ。

 怜子の立場になって考えてみる。次回の怜子はオフェンス。使えるカードはプラス1とゼロのみ。今回マイナス1を使用している怜子は、次のデートで同じカードを使用することは出来ない。さらに、怜子は初回にゼロを使用しているので、ゼロを使用できる回数は残り四回だ。これを考慮に入れると、怜子はほぼ間違いなくプラス1を使ってくることが予想される。次回オレが使うのがマイナス2である以上、ゼロを切って使える回数を削るメリットはなく、次々回のデートで総和マイナスを目指す怜子が、次回のデートで敢えてプラス1を使わず残しておくという選択肢も常識的にはあり得ない。ゆえに次回のデートでプラス1を使ってしまっても、次々回でプラス1を使う必要がない以上、問題がないということになる。なるはずだ。

 対してオレは今回ゼロを使用したので、次のデートでの使用制限はない。怜子がプラス1を出してくる以上、オレはマイナス2を出さないとディフェンス側としてポイントを獲得することが出来ない。そしてマイナス2を使用することで次々回のデートでの制約も回避することが出来る。

 この戦術で行くと、次回のデートでオレはゼロとマイナス2の残り使用回数が四回になってしまう。マイナス2はあまり多用できないということだ。相手が間違いなくプラス1を使ってくるという確信の下に、切り札として使用するしかない。相手がプラス1を使えないのなら、こちらはマイナス1を切ったほうが無難だろう。ただし、マイナス1を切る場合、相手もマイナス1を出してくる可能性があり、その場合はポイントを奪われることになる。

 いずれにしても次回はマイナス2を使い、ポイントを奪取する。明確な戦術目標が出来たことで、オレは一息つくことにした。

 怜子からの電話はない。デートが終わってすぐ次のデートのお誘いがあるとも思えないが、怜子のことだ、何を仕出かしてくるか予想をすることは出来ない。どの道デートの誘いを断ることはルール上できないのだ。あまり警戒しすぎても疲れるだけだ。そう判断したオレは、母の作ってくれた食事を取り、シャワーを浴びてのんびり過ごすことにした。母は「彼女は可愛いコなの?」とか「ちゃんとエスコートしてあげた?」とか、しきりに尋ねてきた。非常に小うるさかったので曖昧にやり過ごし、オレは部屋にこもることにした。録画してあるアニメを見て、ネットゲームのレベル上げをしているうちに眠くなった。オレは疲れた脳を休ませるべく、クーラーをつけっぱなしにして床に就いた。


 翌々日―――。

 オレは怜子からの電話がないことに焦りを覚え始めていた。

 まだ日差しは暑いとはいえ、日は傾き始めていた。夏の太陽はなかなかに頑固で、仕事を終えた会社帰りのサラリーマンが居酒屋で一杯引っ掛け始めても、まだ粘り強く空にしがみついている。オレは何度もケータイをいじりながら、新着メールの確認をしたり、開いては閉じたりを繰り返していた。

 やがて西の空が真っ赤に染まり、日は山の端に姿をひそめ始めた。太陽がどれだけ頑張っても、世界の摂理には逆らえない。夜は太陽を押しやり、太陽は泣きながら地平線の向こうへ帰っていった。

 怜子からの電話は、まだない。オレは段々イライラし始めた。

 前回のデート終了が正確にいつだったかはオレも覚えていない。遊園地を出たのが七時前で、電車で三十分揺られて市長の像の前に戻ってきた頃には暗くなっていた。すると太陽がほとんど見えなくなったこの時間帯は、ちょうど電車に乗っていた頃だろうか。次回からはちゃんと時間を確認しておかなければと思った。

 オレは窓の向こうで沈んでいく夕焼けの残光を眺めながら、怜子からの連絡を待っていた。時計の針は七時を回り、自宅の台所からは味噌汁の匂いが漂ってきた。もうさすがにタイムアップだろう。オレはケータイを閉じてポケットにしまいこんだ。

 部屋を出ようとしたところで、ケータイが鳴った。

 慌てて取り出した所為で落としてしまったケータイを拾い上げ、発信者を確認した。ディスプレイには“黒田怜子”と表記してある。

 来た。時刻を確認した。午後七時十四分。オレはよく憶えていないが、怜子は正確に憶えているのだろう。四十八時間ギリギリで電話を入れてくるなんて、どこまで陰湿なヤツだとオレは思った。

 オレは通話ボタンを押してケータイを耳元に運んだ。

「オレだ」

「こんばんわ、怜司くん。今お暇かしら」

「あぁ、大丈夫だ。連絡が遅ぇから来ねぇかと思ったぜ」

「あら、そんなに心待ちにしてくれていたの? 嬉しいわ」

「ち、違ぇよ。そんなんじゃねぇ。四十八時間オーバーしたら、ポイントが移るだろ? それを期待してたんだよ」

「そう。それは残念ね」

 オレが待っていなかったことを怜子が残念に思っているのか、ポイントが変動しなくてオレが残念に思っているということなのか、怜子はどちらのことを言ったのだろう。

「それじゃあ、デートのお誘いよ」

「おう」

 デートのお誘いと聞いて、心臓が跳ね上がった。これはゲームなんだと言い聞かせても、鼓動の高鳴りはなかなか消えてくれない。

「隣の駅の近くに美術館があるの、知ってる?」

「あぁ、オレは行ったことねぇけど、あるのは知ってるよ」

「明日はそこに行きましょう」

「美術館にか? 面白いのか?」

「さぁ? 判らないから行くんじゃない。フランスの有名な画家の絵画展をやっているらしいわ。たまには高尚な芸術鑑賞も悪くないんじゃない?」

「どうだか。オレには理解できねぇと思うけどな」

「あなたには無理かもしれないわね。どうせ暇なんだから行きましょう」

 本当に、つくづく皮肉の多いヤツだ。オレは文句を言いたくなるのをグッと堪え、承諾の返事をした。

「現地集合にしましょう。毎回同じ場所で待ち合わせじゃつまらないわ」

「分かった。時間は?」

「十一時くらいでいいんじゃないかしら。美術館が十時半に開館するから、そのくらいがちょうどいでしょ。入り口付近で待ってるわ」

「十一時だな。了解だ」

「それじゃあね、怜司くん」

 言って、怜子は通話を切った。

 握っていたケータイが、僅かに湿っていた。オレは手に汗を掻いていたのだろう。我がことながら情けないと思う。怜子はあんなヤツとはいえ、女なのだ。クラスの女子と話をするくらいは問題ないが、オレにとってある意味で特別だった怜子がデートに誘ってきたのだ、女を意識しないほうがおかしいだろう。

 ケータイをベッドに放り、自分の躰もベッドに寝かせた。

 黒田怜子。オレの越えるべき壁。壁だった女。

 オレは怜子をどう思っているんだろう。

 もはや怜子は壁ではない。クラスの女子の一人でしかない。怖いくらいに美人だが、アレだけの器量良しなら怜子を憎からず思っている男子は少なくないだろう。しかもアニメでもないくらい抜群のスタイルで、頭も良くてスポーツも出来る。草食男子がどうだと騒がれている昨今ではあるが、怜子を狙っている肉食の男子もまたいるはずだ。

 だが話をしてみると、これはナイと思う。少なくとも怜子を狙って話し掛けた男子は、次から怜子に話し掛けようとは思わないだろう。オレだってこんな変なゲームに乗らなければこんな風に怜子のことを考えることもなかったはずだ。

 そもそもの失敗は初日にヤツの誘いに乗ってしまったことだ。あのまま無視を決め込んでいれば、あんな悪辣で酷い性格の女のことに頭を悩ませることもなかったはずなのだ。オレはそれを猛烈に後悔していた。

 ともかく一度ヤツの話に乗ってしまった以上、最後までやるしかない。途中で逃げようものなら、それこそ何を言われるか分かったもんじゃないからだ。怜子に勝っても負けても、そこで怜子との関係を終わりにしよう。これまで通り話したこともないクラスメイトという関係が望ましい。あんな女と好んで付き合う男の顔が見てみたいほどだ。

 そこまで考えてオレは起き上がった。事前の調査は重要だ。インターネットで明日のデートで訪れる美術館について調べた。有名だと大きく説明されているが、オレは聞いたこともない名前の画家の個展らしい。一部だけ撮影された絵画をネット上で閲覧することが出来た。何が素晴らしいのかさっぱり理解できない。実物を見ればオーラのようなものが伝わってくるかもしれないが、オレの感性では無理だろうなとも思った。

 有名だと宣伝しているくらいだ、調べればその画家がどんな人物なのかくらいすぐに分かるだろう。インターネットで検索を掛けると、一万件くらいヒットした。日本語のサイトで、しかも個人名で一万件もヒットするのなら、かなりの有名人なのかもしれない。だが最近の検索エンジンは優秀すぎて、画家の名前の一部だけが検索文字に引っかかっているようなサイトも非常に多かった。実際にこの画家について言及しているサイトは二~三割もないだろう。日本での知名度は低そうだ。生まれや育ち、主な活動場所、描写の方法、得意な画法などを説明しているサイトが何件かあったが、読んでもさっぱり理解できなかった。言葉として頭に刻み込んでおくのが精一杯だ。オレはそれらの情報とともに美術館の歴史なども調べて、頭に入れておいた。怜子のことだ、細かいことまで調べ上げてくるかもしれない。

 間に食事を挟み、風呂に入ってデートの予習を終えた頃には、すでに日にちが変わっていた。そんなに早起きする必要はないだろうが、やはり一時間くらい前に行かないとまた嫌味を言われてしまう。いや、前回は一時間前でもダメ出しされたくらいだ。一時間半は余裕を持っておくか。

 なんでデートに行くのに一時間半も前倒しで行動しなければならないのか。オレはほとほと嫌になったが、仕方がないと割り切って、早めに就眠することにした。


 翌日―――。

 夏休みに入ってから一度も雨が降っていない。水不足を懸念するニュースのアナウンサーの声が、朝食を取るオレの耳に入ってきた。親父は昨日の夜に一度だけ戻ってきたが、すぐにトンボ返りだと言って北海道へ旅立っていった。何を専門に研究しているのかはオレも知らないのだが、どうやら考古学者であることだけは確かなようだった。

 母は夏休みにもかかわらず早起きをしているオレを目敏く見つけて「今日もデート?」とか「ちゃんと気遣ってあげないとダメよ」とか、口うるさく小言を言ってきた。殴ってやろうかと思ったが、本当に親を殴れるほどオレの肝は据わっていない。適当にやり過ごして、オレは家を出た。

 時刻は朝の九時前。隣の駅まで十五分は掛かるので、駅までの道のりを考えても九時半には現地に着くことが出来るだろう。オレは悠々と駅まで歩を進めた。

 予想通り九時半前に隣の駅に到着した。美術館は歩いて五分も掛からないから、そんなに急ぐこともないだろう。まさか怜子もこんなに早く来ているはずはあるまい。まだ美術館の会館まで一時間以上あるのだ。

 美術館はすぐに見つかった。それなりに大きな建物だ。コンクリートで出来ているのは一目瞭然だが、ヨーロッパの遺跡みたいな趣向が凝らしてあった。怜子が来るまで時間を潰せるよう文庫本を一冊持ってきた。中身はライトノベルだが、ブックカバーでそれを隠してある。

 入り口付近では、従業員なのだろう、くたびれた線の細い五十歳くらいのおじさんがせっせと美術館の周囲を箒で掃いていた。その傍らに、手持ち無沙汰そうに空を眺めているメイドがいた。

 正確に言うと、その女はメイドではない。だってネコ耳とかつけてるんだもん。やべぇ、興奮してきた。オレは頭を振って自分の性癖を懸命に抑え込み、コスプレガールを観察しようと思った。女はメイド服のように見える衣装を着込んでいるが、決してメイドではないだろう。ネコ耳もそうだし、スカートとか歩くだけで中身が見えるんじゃないかと思うほど短い。も、萌えるっ! だ、ダメだ。落ち着け、オレ。か、カメラを持って来ればよかった。

 言動が滅裂になりそうになるのを死ぬ気で抑え、さらにメイドの様子を観察した。女のメイド服は恐ろしく躰にフィットしており、一目でスタイルの良さが確認できる。スカートはふわりと広がっており、それが逆に彼女のウェストの細さを際立てていた。清楚に組まれた手には小さなハンドバッグが握られており、誰かと待ち合わせでもしているのだろうことが窺える。両腕の間には、溢れて零れ落ちそうなむ、む、胸が実っており、そよ風に揺られるスカートの裾と一緒に楽しそうに揺れていた。

 もちろん女は怜子だった。

 オレは頭を抱えてしゃがみこんだ。あの女が何を考えているのか、オレには本当に、さっぱり、露ほども理解できない。前回までのゴシックドレスも存外イカれていたが、今回のこれはさらに輪をかけてヒドい。

 仮に、仮にだ。仮にオレのシュミに合わせてくれたのだと解釈しよう。それでも平仄が合わない。なぜならオレは怜子に自分のアニメ趣味を披瀝したことはないからだ。リアルにオレの趣味を知っているのは駅前で会ったあの友人しかいない。その彼も自分の趣味を吹聴するような露悪趣味はないのだ。怜子がオレの趣味を知っているはずがない。

 しゃがみこむことおよそ五分。オレは何とか立ち直り、平静を装って怜子に話し掛けることにした。

「よ、よう」

「あら、怜司くん。今日も遅いのね」

 いつもならイラッと来るところだが、今日の怜子になら何を言われても許せる。オレは底なしの馬鹿だった。

「どうしての? ボーっとして」

「あぁ」

「あの……て、照れるから、見つめないで」

「あぁ」

 脇から「あの~」と、変なおっさん(先ほど入り口付近を掃除していた初老の男性だ)に声を掛けられたが、オレは無視した。

「な、なんでしょう?」

 怜子は動揺しながら男性の声に応えた。

 男は、会館まで時間があるので散歩でもしてきては?という趣旨の提言をしてきた。要するに、掃除をするのにお前ら邪魔だから退けよと、言外に言いたいらしい。怜子は「分かりました」と頷き、オレの手を引いて美術館から離れることにしたようだ。オレは怜子に見惚れたまま、手を引かれるがままに怜子についていった。近くの小さな公園のベンチで小一時間ほど時間を潰した。オレはようやく我に返り、怜子に平謝りした。

「べ、別に変なことされたわけじゃないから気にしてないわ」

 怜子はツンと顔を背けて口ごもりながらそう言ってくれた。頬が朱に染まっているのはオレの気の所為か、そういう化粧をしている所為か。

 オレたちは微妙な空気のまま当初の予定通り美術館を訪れた。

 はっきり言って美術館の絵画は意味が解らなかった。確かにとても上手なんだろうが、うんだから?と描いた人間に問い質してみたい。それくらいオレの感性は芸術というものに縁遠かった。

 怜子は真剣に絵画を鑑賞しているようだったが、その横顔があまりにも美しくて、オレは怜子の顔ばかり眺めていた。ネコ耳とメイド服はガチだった。怜子はたまに困ったような表情をしていたが、どこか嬉しそうに見えた。

 結局、一時間もすると怜子も絵画の鑑賞に飽きたようだ。オレたちは美術館を出て町をブラブラすることにした。

 ちょうど昼時になり、腹も空いてきたので食事をすることにした。

「どこか、美味い店でも知ってるのか?」

「いいえ。お金ももったいないし、ファーストフードでも食べましょう」

「お前、その手のジャンクフードは嫌いなんじゃなかったのかよ」

「そんなこと言ったかしら?」

「映画を見に行った時に言ってたぜ」

「あなたのセンスのなさに驚いただけよ」

 いちいちムカつくヤツだ。

「次の予定があるんならそこに行くまでで探せばいいじゃねぇか」

「次の予定? ないわ」

 ないのか。

「細かいことにこだわる男の人は嫌いよ。行きましょう」

 この女はいちいち皮肉の一つでも言わないと気が済まないのか、何かある度に余計な一言を付け足してくる。怜子と付き合う男は大変だ。

 オレたちは大手のファーストフードショップに足を運び、冷房の効いた店内で食事を取ることにした。

 夏休みということもあって、店内は学生の団体やカップルで賑わっていた。怜子のメイド服は当然だが目立つ。しかもネコ耳まで着けているからなおさらだ。どんな勘違い女かと怜子を注視する輩も少なくない。そんな連中は、決まって怜子の美貌に食べ掛けのハンバーガーを落としては放心していた。

 オレもこれだけ注目を浴びると少々やりづらかった。知った顔に出会うのも気恥ずかしい。隣にいるのが学校でも評判の天才美少女だということも、オレの煩悶に輪をかけていた。

 怜子はというと、そんなオレの苦悩を知ってか知らずか、ツンと澄まし顔で行列に並んでいた。視線を浴びることなど何とも思っていないのだろうか。怜子の気丈な眼差しは、オレを余計にやきもきさせた。

「オレ、席を確保してくるわ」

「あらそう。意外に気が利くのね」

 意外は余計だ。

「オレはてりやきのセットとナゲットでいいから。あぁ、ソースはバーベキューな。ドリンクはコーラ」

「分かったわ。憶えていたらそう注文しておくから」

 何か言い返そうかと思ったが、どうせ言い返されるのが落ちなのでやめた。

 オレは同年代の学生がひしめき合う店内で二人分のカウンター席を見つけ、そこに陣取ることにした。しばらくすると、トレイにハンバーガとドリンクを載せた怜子が鋭い視線で周囲を見回しているのが遠目に見えた。オレは手を上げて怜子に場所を知らせた。

 さて、トレイに載っていたのは二つのてりやきハンバーガーと二つのポテト、二つのコーラ、二つのナゲットだった。ソースも二つともバーベキューだった。通常のセット商品は女の子なら充分なくらい量があったはずだが、怜子はそれに加えてオレと同じようにナゲットを注文していた。以前に食事をした時はもっと小食だったような気がしたが。

 そこまで考えてオレは気がついた。前々回はまだしも、前回はオレを嵌めるための策略だったはずだ。だからオレは怜子が大飯食らいの健啖家なのかどうか正確には知らないわけだ。しかし怜子は一部を除いて線の細い女子だ。あの体型を維持するのは並の努力では無理だろう。だからといって、トレイを持って歩くだけでぷるんと弾むあのむ、む、胸は、ダイエットに夢中な女子のような食事量では到達できない至尊の領域だ。オレは頭を悩ませた。

「何をしているの?」

 頭を抱えて固まっているオレの隣に怜子が腰を掛けた。

「す、すまん」

「何を懊悩しているのか分からないけど、食べましょう?」

「あ、あぁ」

 小さな疑念はあったが、たかが昼飯だ。そう思い直し、オレは怜子が運んでくれたてりやきバーガーに齧り付いた。怜子はオレが食べる様子をちらちらと横目で除き見ながら、小さな口でハンバーガーをかじった。怜子のペースは非常にスローで、オレがハンバーガを一つ平らげてポテトに手を伸ばし始めた時に、ようやくハンバーガーが半分になっていたくらいだった。ナゲットまで全て食べ終えたオレは、コーラーをストローで啜りながら怜子の様子をぼんやりと眺めた。怜子は食べるのが本当に遅い。しかも大味のジャンクフードが好きではないのか、あまり美味しそうには見えなかった。

 ポテトを半分ほど食べ終えると、怜子は持参してきたハンドタオルで口元を拭った。もう食べたくないという意思表示にさえ見えた。

「怜司くん、まだ食べられる?」

「あぁ? まぁまだ腹六分目くらいだな」

「そう。じゃあこれをあげるわ」

 言って、怜子は一つも手をつけていないナゲットをオレに差し出した。

「なんだ、やっぱりジャンクフードは苦手か?」

「いいえ、暑いから食欲がないだけよ」

 怜子はオレの口元を見て、

「汚れているじゃない。もっとキレイに食べられないの?」

 と、先ほど自分の口を拭いたハンドタオルでオレの口元を拭った。オレは抵抗しようとしたが、ハンドタオルから漂ってくるクラクラするような甘い香りに思わず陶然としてしまった。し、しかもか、か、間接キスだ。オレは顔が真っ赤に染まっているのが自分でも判るくらい頭に血が上っているのを感じていた。

 怜子は吐息がかかるくらい顔を寄せて、オレの瞳を覗いた。タオルを除け、指先でオレの目元を拭った。オレの鼻息は緊張と興奮で大いに荒くなっていた。

 このままではキスをしてしまうと思ったところで、怜子は手を離してテーブルに向き直った。そして何事もなかったかのように、カウンター越しに窓の向こうを眺めながらコーラに口をつけた。

「だらしがないのね。子供じゃないんだからもっとキレイに食べなさい」

 流し目でオレをちらりと一瞥した怜子は、プイと視線を逸らした。

 オレは怜子の甘い香りと行動の不可解さに煩悶する頭を他所に、差し出されたナゲットに呆然と手を伸ばした。

 ファーストフードショップを出る前に、オレたちは次にどこへ行こうか検討することにした。屋内で遊べる施設のない駅周辺にはスーパーマーケットか本屋くらいしか涼める場所がない。この茹だるような暑さの中を散歩にシャレ込めるほど、オレたちは忍耐強くなかった。

「で、どうすんだよ、これから」

「さぁ? あなたが決めて」

「んなこと言われても何も考えてねぇよ」

「使えないわね」

 お前が計画を立てずに来たからこんなことになったんだろがと、口から出かかった言葉をオレは飲み込んだ。何を言っても怜子にやり込められるのは目に見えている。

「面倒ね、今日はもう帰りましょうか」

「え? もう帰るの?」

「なぁに? 何か建設的な案でもあるの?」

「ない」

「そう、じゃあ帰りましょう」

 結局、他にやることもないオレたちは店を後にして駅に戻ることにした。

 地元の駅を出て趣味の悪い市長の像まで戻ってきたオレたちは、ベンチに腰を掛けて今日の採点をすることにした。

 オレが出すカードはもうすでに決まっている。怜子の出すだろう手札の見当もついている。オレは然ほど緊張はしていなかった。恬然とマイナス2のカードを抜いて、裏を向けてベンチに置いた。怜子も躊躇なく黒いカードの一枚を選び、オレのカードの横に差し出した。

「それじゃ、オープンしましょう」

 オレは怜子のカードを、怜子はオレのカードを同時に表に返した。

 白いカード―――オレの手札はもちろんマイナス2だ。

 黒いカード―――怜子の手札は案の定プラス1だった。

 オレは怜子の表情を探るべく、視線を僅かに上げた。

「はン」

 鼻で笑われた。

 なんだろう、非常に腹立たしい気持ちが沸々と湧いてきた。

 怜子はそんなオレの様子に興味がないのか、無言で黒いカードを手にとって仕舞い込んだ。オレは白いカードをポケットに戻し、立ち上がった。

「つまらない人ね、怜司くん」

 オレは頭の中の怒りメーターが振り切れそうになるのを懸命に堪えた。この女はいつか泣かせてやる。

 怜子はすっと立ち上がり

「次は怜司くんがアタシを誘う番よ。期待しているから」

 挑発するようなセリフを告げてオレの横を颯爽とすり抜けていった。

 オレは顔だけ振り向いて、去っていく怜子を凝然と睨みつけた。

 怜子と目が合った。

 怜子はビクリと肩を震わせて、逃げるように足早に駆けていった。

 なにか、物凄く申し訳ない気持ちになった。

 別に脅すつもりもなかったし、悔しさの鬱憤を晴らす程度の気持ちだったのだが、怜子を怯えさせてしまったのではないかという不安がオレの心に暗い幕を張った。


 オレは家に帰って、自分の部屋のベッドの躰を投げ出した。

 今日の出来事の反省を頭の中で行うことにした。

 デートの内容ははっきり行って最悪だ。出だしからオレは間抜けな放心状態に陥り、怜子の提案した美術館は大して面白くもなく、ジャンクフードで昼食を済ませて暇になったので帰る、という計画性もなければ生産性もないデートだったと言えるだろう。この内容なら怜子はオレにマイナス2を出されても文句は言えないし、逆に怜子がプラス1を出したことのほうがよっぽど疑問だ。

 これは飽くまでもデートの評価という観点で考えた場合であって、怜子の提唱したゼロサムゲームに則った場合はこの限りではない。

 オレがマイナス2を使用することも、怜子がプラス1を出すことも、双方にとって当然の帰結だったと言える。怜子はオレがどんなカードを出すか興味を抱いているようではあったが、あの小馬鹿にするような態度を見る限り何の捻りもない予想通りの展開に冷笑を付したというところだろう。怜子の思惑通りの展開だっただろうが、こちらも予想通りの展開に持ち込むことが出来た。つまり、三回目のデートにして、オレはようやくスタートラインに立てたのだ。二回分の遅れを取り戻すために、まずは一石を投じることが出来たと、オレは判断した。

 さて、次回からの戦略を練らなければならない。1ポイントを取り戻したとは言っても、まだ点数で後塵を拝していることには違いない。次のデートでもポイントを奪取することで、ようやくゲームを振り出しに戻すことが出来るのだ。オレは次なる戦術と今後の戦略を立てるために、具体的な現況と方針を練ることにした。

 まず、オレの現在の状況だ。オレは現在マイナス1ポイント。次のデートでプラス1ポイントを獲得できれば、状況を怜子と五分に持ち込むことが出来る。オレが今回のデートで使用した手札はマイナス2。次のデートはオレがオフェンスなので、使用できるカードはプラス1、ゼロ、マイナス1の三種類だ。マイナス2はオフェンスでは使えないので、オレは次回のデートで三枚の手札を全て使用することが出来る。ゼロとマイナス2は一度ずつ使用しているので、残り四回ずつしか使うことが出来ない。

 対して怜子の状況はプラス1ポイント。怜子が一歩リードしている。次のデートで怜子が使用できるカードはマイナス1とマイナス2の二枚だけだ。今日のデートでプラス1を使用している怜子は、次回のデートでプラス1を出すことが出来ない。だが、怜子はマイナス2のカードをまだ一度も使っていないので、次回のデートで使用しても何のデメリットもない。すると、怜子はマイナス2を躊躇なく切ってくることが予想される。仮に怜子がマイナス2を切った場合、オレがどのカードを出したとしても怜子にポイントを奪われ、オレはマイナス2ポイントに逆戻りだ。そうすることで、怜子のゼロとマイナス2の使用上限も残り四回になるので、特殊カードに関してはイーブンになる。しかし如何せん先に2ポイントを奪われているので、状況は圧倒的に不利だと言わざるを得ない。

―――ん? 待てよ?―――

 仮にこのままオレと怜子がディフェンスになる度にマイナス2を使用し続けた場合、八回後のデートでマイナス2の手札が双方から消える計算になる。そしてその時の状況を考えると、怜子がプラス2ポイントでオレがマイナス2ポイントになる。つまり、マイナス2がなくなった時点でオレは絶望的な状況に立たされることになる。

 怜子はプラス2ポイントを先取しており、ディフェンス時にマイナス2を使えないデメリットを然ほど感じずに済むだろうが、オレは違う。ディフェンス時でも積極的にポイントを獲得できる手段を持っていないと、時間に追い詰められて敗北を喫してしまう。勝負の期間は夏休み終了までしかなく、八回のデート、否、次回も含めて九回のデートが終了するのに、最短で九日はかかるだろうが、怜子が昨日やったように、四十八時間ギリギリまでデートの誘いを遅延させると、最低でも八日は延長されることになる。オレがデートが終了して即デートの誘いを行ったとしても、デート一回につき一日、デートが九回だから九日を必要とし、さらに怜子の遷延策で八日を費やすとすると、すでにゲーム開始から一週間が経過しているので、二十四日後の段階でオレはマイナス2ポイントの状態に陥ることになる。夏休みは四十一日しかないので、残り十七日で逆転を図らなければならない。

 さらに残り十七日で逆転を図る戦術を考えてみる。オレがオフェンスの時にデート終了後にすぐに次のデートに誘ったとしても一日を費やし、怜子がオフェンス時には遷延策で三日を要するとして、一巡するのに四日掛かる計算になる。単純計算で、残り十七日の段階で四回しかデートのチャンスはない。オフェンスとディフェンスが二回ずつだ。

 可能性は四パターン。まず怜子が全てのポイントを奪取する。この場合、夏休み終了を待たずして勝敗が決することになる。次にオレが全てのポイントを奪取する場合。四回ともデートでポイントを獲得できれば状況は翻り、オレの勝利が確定する。そして怜子とオレがともに2ポイントずつを取り合いをするパターン。この場合の結果は全く変わることなく、この段階で怜子の勝利が確定する。最後に怜子が1ポイントを獲得し、オレが3ポイントを獲得するパターン。この場合のみ双方の獲得ポイントがゼロに戻り、勝敗がなくなる計算になる。

 双方のポイントがゼロでゲームが終了するとどうなるんだろう? 怜子に確認しなければならない。

 ちなみに怜子が3ポイント、オレが1ポイントを獲得するというパターンは除外する。その段階でオレの敗北は確定しているので、怜子に全てのポイントを奪われた場合と変わらないからだ。

 つまり、オレはどうあっても3ポイント以上を獲得しなければならないということだ。どうすれば3ポイントを獲得できるのだろう。

 怜子とオレの手札は残り十七日の段階で全く同じ、マイナス2を失いディフェンス時に使用できない状態だ。その段階で怜子がオフェンスで始まるため、怜子はプラス1、ゼロ、マイナス1の三枚のカードを使用でき、オレはディフェンスとしてプラス1とマイナス1の二枚しか使用できない。この状況でディフェンスはマイナスを作らなければならないのだが、怜子がゼロを出す以外に総和がマイナスになる可能性がない。怜子がマイナス1を出したとして、オレがプラス1でも総和はゼロなのでオフェンスである怜子にポイントが入り、オレがマイナス1を出したとしても特別ルールでオフェンスにプラス1ポイントが入ることになる。怜子がプラス1を出したらもうどうにもならない。オレはどちらの手札を切ってもオフェンスに得点が入ることになる。したがって、怜子がゼロを出す可能性はゼロ。オレに得点が入る可能性もゼロということだ。

 その次のデート、オレがオフェンス側になる状況をシミュレートしてみよう。仮に怜子がその前のデートでマイナス1を出していた場合、ディフェンスとして使用できるカードがプラス1の一枚に限局される。オレはオフェンスとしてプラス1、ゼロ、マイナス1の三枚を使用できるので、残り四回しかないデートでゼロを出し惜しみする理由がない。ここでポイントを取り戻すことが出来る。

 逆に怜子が前のデートでプラス1を出していた場合、ディフェンスの怜子はマイナス1を出すしか選択肢がなく、オレはプラス1でもマイナス1でも得点を獲得することが出来る。この場合ゼロの使い道はなく、オレはさらにその次のデートでどちらかのカードを使用できないという制限を負うことになるので、次のディフェンスを想定した場合プラス1のカードを切るべきだろう。

 さらにその次のデートのことを考えてみよう。頭が段々こんがらがってきて、オレはいろいろとどうでもよくなってきたが、根気よく思考を廻らせることにした。

 残り十七日の段階で怜子が最初にプラス1を出した場合、次は必然的にマイナス1で固定されるので、さらにその次―――つまり残り四回のうちの三回目のデートでの使用可能カードはプラス1とゼロに限局される。オレはマイナス1、プラス1という順番でカードを切っているはずなので、最後の三回目のデートではディフェンスとしてマイナス1のカードした使用することが出来ない。怜子は必然的にプラス1を出してオレの敗北が確定する。

 怜子が最初にマイナス1を出していた場合、怜子は次のデートでディフェンスとしてプラス1を出さざるを得ない状況であり、オレはその段階でゼロを使用することが出来る。最後の三回目のデートで怜子は再びオフェンスに戻り、オレはどうやってもポイントを奪われるので結果的に敗北するしかない。

 要するに、詰みだ。

 何ということだ。オレはどうやっても怜子に勝てないという計算になっている。

 オレは頭を抱えて悶絶した。

 夏休みが始まって最初の二回のデートですでに勝敗は決してしまったということなのか。

 普通の勝負したのではどうやっても怜子に勝つことが出来ない。何か起死回生の戦略を練らなければ百パーセントの敗北が待っている。

 恐るべし黒田怜子。オレはお前を侮っていた。

 ちょっと人よりもお勉強が出来る女、程度の認識だったが、それを改めざるを得まい。

 怜子には、このゲームを始めた段階ですでに明確な勝利のビジョンが見えていたに違いない。だからこそ最初の二回でオレからポイントを先制し、逃げ切る算段を立てていたのだろう。信じがたい周到さだ。

 現状を打破するにはどこかで一発逆転を試みる必要がある。つまり、マイナス2の使い方をいずこかで覆さなければならない。マイナス2のゴリ押し戦法では、オレは百パーセント負けることが確定しているからだ。

 だが、オレが今日マイナス2を迷うことなく切ったことで、怜子はオレがこのゲームの意味を理解したことを知ったはずだ。オレがマイナス2を使わなければ、状況はますます不利になるばかりで、一歩も前進しない。怜子は躊躇なくマイナス2を使用してくることが予想され、オレがディフェンス―――つまり怜子がオフェンスの時はプラス1を使用し続けるだろう。

 デートの評価という観念は捨てなければならない。これは評価という名を借りた頭脳戦だ。いかに相手を欺き、自分のペースに引き込むか。怜子は最初の二回でオレを欺き、オレは怜子に振り回された。現況がそれを如実に物語っている。振り回された結果、オレはゲームの序盤で早くも窮地に立たされてしまった。この不利な状況を打開する会心の策はないのか。

 いっそ早く終わらせてしまおうかと、思った。そうすれば残りの夏休みを怜子に思い悩むことなく有意義に過ごすことが出来る。黒田怜子はかつてオレの目標であった女であり、そしてただの顔見知りに戻る。それでいいじゃないか。

―――否。断じて否だ―――

 オレは敗北を認めるわけにはいかない。九年間だ。人生の半分以上を費やして追い求めてきた仇敵が、オレに勝負を挑んできた。これまで見下し、鼻で笑い、歯牙にもかけなかった竹中怜司という存在を、黒田怜子が認めたという証だ。そしてオレはその勝負に乗った。ならばここから逃げるわけには行かない。

 オレは確かに黒田怜子を追い抜いた。だが、追い抜こうとした時に足を掴まれたのだ。あの女はオレを引き摺り下ろそうと必死になっているに違いない。ならば逆にオレが怜子を突き落としてやる。

 そう自分を奮い立たせながらも、オレは怜子の巨大な影に怯えていた。オレのやること成すことの全てが怜子に見透かされているようで、本当は怖かった。だからこそ、もう一度あの巨大な壁を越えなければならない。今度こそ亡霊のようにオレの人生に纏わりついてきた怜子の存在を振り払わなければならない。

 オレは倒すべき怨敵の姿を思い浮かべた。

 ゴシックドレスを着た怜子。メイド服姿にネコ耳を着けた怜子。

 思い出すだけで胸が高鳴った。ツンと澄ました顔は白く透き通っていて、同い年なのにオレよりもずっと大人びて見えた。白磁の肌を伸びやかに誇張する足のラインは艶かしくて、ほっそりとした腕は触れば折れてしまいそうなくらい脆く見えた。それなのに歩くだけでふるふると揺れ動く柔らかそうなたわわなむ、む、胸だけは豊かで、オレの脳裏に焼きついて離れない。

 オレは頭を振った。

 怜子は嫌な女だ。

 何を言っても皮肉か嫌味しか返してこない。思い通りに事が運んだ時の邪悪な笑みも、オレを軽侮するような冷笑も気に入らない。外見がいいのは確かに認めよう。中身は最悪だ。オレはあんな女とは絶対に、絶対に……。


 付き合いたくないと思っているほど嫌いなのだろうか?


 オレはまた頭を振った。

 付き合わない。オレはあんな女とは付き合わないぞ。

 近づくとクラクラするような香りがしたり、ハンドタオルから蕩けるような甘い香りがしたり、吸い込まれそうなほど透徹した円らな瞳で見つめられたりしても、オレは黒田怜子とは付き合わない。あの女はオレの敵だ。

 そもそも付き合うも何も、オレはあの女に告白されたわけでもないし、オレも告白なんかした覚えはない。便宜上デートなぞしてはいるが、これは勝負を挑まれたから受けて立っただけで、実際にはオレと怜子のプライドを賭けた頭脳戦なのだ。

 オレは意気込みを新たにし、怜子を打倒すべく今後の戦略の勘案に腐心した。

 腐心したのだが、何もいいアイデアが浮かばなかった。そもそもどうやっても勝てる気がしなかった。

 結局オレは、その日のうちにデートの誘いを入れることが出来なかった。時間が経てば経つほどオレの状況は不利になるという状況を知りながら、どうにも出来ない現実に切歯扼腕しながらベッドの上で悶え苦しんだ。


 翌日―――。

 ここ最近ずっと怜子のことばかり考えているような気がしてならない。

 起き抜けにそんなことを考えた。

 沸々と腹の底から湧き上がってくる得体の知れない感情が、オレの頭脳を活性化した。活性化しても事態が好転するわけでもなければ良案が浮かぶわけでもなく、大して意味はなかった。

 昼まで悩んで埒が明かなかったので、とりあえず怜子をデートに誘おうと思ったが、肝心の場所を決めていなかった。とりあえず誘ってから場所を考えようか。どこに行くのと尋ねられたら内緒だと誤魔化しておけばいいだろう。オレは半ば自棄になって怜子に電話を掛けてみることにした。

 七回コールを待って、留守番電話サービスの案内に切り替わった。

 なんだ、いないのか。オレはケータイを耳から離し、閉じようとしたが、前回も同じような流れだったようなことを思い出し、もう一度耳元に当てた。メッセージを促す音声の途中で怜子の声に切り替わった。

「も、も、もしもし?」

「あ? あぁ、オレだ」

 なぜだろう。怜子が酷く動揺している。もしかするとオレが前回のデートの別れ際に睨みつけた所為で、怜子を怯えさせてしまったのだろうか。だとしたら悪いことをしてしまった。折を見て謝らなければならない。

「こ、こ、今回は、はは、は、早いのね」

「うん? 別に必ず二日分を空けなきゃならねぇわけじゃねぇだろ?」

「そ、そうね」

 怜子の声が上ずっている。

 怜子はアレでも女だ。気丈に振舞っていてもか弱いところもあるのだろう。

「その、何だ。昨日はすまなかったな」

「なな、何が?」

「いや、帰り際に睨みつけるような真似しちまってさ。悪気があったわけじゃねぇんだ」

「べ、べ、別に気にしてないわ」

 ケータイの向こうで怜子が大きく何度も深呼吸をしているのが聞こえた。

 ゲーム云々は関係なく、怜子には申し訳ないことをしてしまったと、オレは改めて思った。

「そうか。とにかく悪かったよ。で、本題だけど、明日は空いているか?」

 怜子は一度だけ咳払いをして

「明日? えぇ、大丈夫よ」

 それでいつもの調子に戻ったようだ。

「待ち合わせは例の趣味の悪い像の前で、そうだな、十時に落ち合おう」

「どこに行くの?」

「それは、内緒だ」

「内緒って? 男の怜司くんには分からないかもしれないけれど、いちおう言っておくわ。行く場所を指定してくれないと服を選べないの。砂浜に行くのにハイヒールなんて履けないでしょう?」

 そりゃそうだ。だが、行き先を尋ねられても決めてませんとしか答えられない。とりあえず何とか言い繕っておこう。

「言いたいことはわかるが、明日の楽しみにしておいてくれ。服装は動きやすい格好で来てくれればいい」

 怜子は呆れたように溜息をついて

「分かったわ。動きやすい服装で行くから、変なところに連れて行かないでね」

「どこだよ、変なところって」

「あなたがいま想像しているようなところよ」

 相変わらずの皮肉たっぷりな口調を遺憾なく発揮してくれた。怜子に言い返してもやり込められるだけだというのは充分に学習しているので、この辺で引き下がっておくのが無難だろう。

「何でもいいさ。とにかく明日な」

「えぇ。楽しみにしているわ」

 オレは通話をオフにして、ケータイをベッドに放り投げた。

 さて、本当にどうしようか。動きやすい服装だなんて言ってしまったからには、相応の場所を選ばなければならない。しかももったいぶって秘密にしたわけだから、ありきたりの場所では怜子から矢のように鋭い皮肉が飛んでくることは請け合いだろう。

 スポーツ? いや、範囲が広すぎる。そもそもオレは部活などやったことはないのだから、得意なスポーツなどない。怜子がどんなスポーツが得意かも知らない。そもそも怜子も部活には所属していなかったはずだ。

 躰を動かす遊び? 何だろう、ボーリングとかだろうか? ありきたりすぎる。だとするとビリヤード? もったいぶるほどの娯楽ではないだろう。そもそもオレはビリヤードなどやったことがない。ダーツはどうだろうか? もっとアダルトになってしまうし、ルールが全く分からないからやめにしよう。

 夏と言えば海だ。海に行こう。そうすれば怜子の水着姿が拝めるはずだ。空けるように白くて細い躰の怜子なら、どんな水着でも似合うだろう。何より制服の上からでも自己主張して已まない豊満なむ、む、胸を、水着越しとはいえナマで見ることが出来るかもしれない。素晴らしいアイデアだ!

 しかし、着想はいいかもしれないが、それなら怜子に秘密にする理由が全くない。そもそも海に行くのに動きやすい服装だけでは意味がない。水着を持参してもらわないと話にならない。仕方がない。海はまた次の機会にしよう。

 夏祭りはどうだろう? 明日この近辺で夏祭りのようなイベントを開催している場所はあるだろうか。インターネットで検索してみたが皆無だった。そもそも夏祭りに行くなら花火などのイベントがある夜にしたほうがいいだろう。真昼間の十時に約束しておいて夜まで待てなんて言ったら、怜子にどんな嫌味を言われるか分かったもんじゃない。第一、夏祭りに動きやすい服装はあまり関係ない。

 動きやすい服装かと、独り言のように呟いて気がついた。オレは昔から親父に連れられて野山を駆け回っていた。無駄に体力のある親父は、休日になるとしょっちゅうオレを外に連れ出しては山に行ったり川に行ったりしていた。そのおかげで無駄なサバイバル技術と基礎体力を鍛えられたのだが、今のところそれが役に立った例はただの一度もない。ならばそれを役に立てて見ようじゃないか。

 オレは押入れから登山用の装備を取り出した。ただし、登山をするわけではない。本気で登山をするつもりならそれなりの装備が必要だし、怜子にも予め心構えと準備をしてもらう必要がある。だから、飽くまでも登山用の装備を使って、動きやすい格好をしてくる怜子でも楽しめるような場所に行く。

 オレは怜子とのゼロサムゲームのことを少し忘れて、川遊びの準備に勤しんだ。怜子がどんな反応をするのかとか、驚く怜子の様子を無意識に想像して、口元が緩んでいることにしばらく気付かなかった。


 翌日―――。

 オレはいつもより少しだけ早起きをして、装備の確認を行った。

 約束の時間までまだ3時間以上あるので、今回のデートでどのカードを切ろうか考えた。

 前回のデートでオレはマイナス2、怜子はプラス1のカードを切っている。今回はオレがオフェンスで怜子がディフェンスだから、オレが使えるカードはプラス1、ゼロ、マイナス1で、怜子が使えるカードがマイナス1とマイナス2だ。怜子の得点はプラス1ポイントで、オレの得点はマイナス1ポイント。怜子はディフェンスだから、マイナス2を出せば絶対にプラス1ポイントを獲得することが出来るため、オレがどのカードを切ろうが関係ない。したがって、オレが切るべきカードは次回のデートになるべく影響を及ぼさず、使用回数に制限のあるゼロ以外を選ぶのが望ましい。

 次回はオレがディフェンスなので、ゴリ押し戦法を取るならばマイナス2を使うことになる。今回どのカードを切っても無関係に使用できるカードだ。だが、マイナス2にはゼロと同じく使用制限があり、オレはそのどちらもあと四回ずつしか使用することが出来ない。ゆえに、もしマイナス2を温存するならば、次回のデートでマイナス1を使える状態にしたいところだ。つまり、今回のデートでオレはプラス1を出せばいいことになる。

 難しく考えすぎても、このままの戦法で行く限りオレの敗北は決定的だ。何かいい策が見つかるまではマイナス2のゴリ押しで突き進むしかない。

 オレは考えるのをやめて軽く朝食を取った。前回は一時間半前でも怜子はすでに待ち合わせの場所にいたので、オレはさらに早めに駅に行こうと思った。

 十時に待ち合わせをしているが、八時には駅に着けるよう家を出た。

 まだ八時前だというのに、今日も朝っぱらから太陽は有り余る元気を惜しみなく大地に降り注いでいた。はっきり言って迷惑だが、言って聞くような輩なら苦労はしない。そもそも太陽に話しかけている時点でおかしな人だ。

 オレは眠たげな眼を擦りながら歩くサラリーマンに混じって、駅へと急いだ。

 趣味の悪い彫像の前でたむろしている人間は少なかった。待ち合わせをするには早すぎる時間帯だ。みな足早に彫像の前を通り過ぎていく。面妖なことに、過ぎ行くサラリーマンは、こぞって彫像前にいる背の高い小学生に目を引ん剥いていた。小学生は体操服にブルマ姿で、小さめでちょっとオシャレなリュックサックと可愛らしげな水筒を携えていた。下ろしたてのスニーカーが、遠足にでも行くであろう彼女の高揚感を醸していた。ただし小学生はたった一人。手持ち無沙汰な様子で足元の小石を爪先でいじっていた。ブルマからすらりと伸びる色っぽい脚線美はとても小学生のものとは思えないし、不自然なくらい盛り上がってはち切れんばかりにその存在を強調しているむ、む、胸の膨らみが、彼女を子供という印象から遠ざけている。もちろん女は怜子だった。

 オレは絶望感に襲われた。インターネット上の巨大掲示板でしばしば使用されるアスキーアート風に表現すれば“orz”という形容が最も好適だろうポーズで打ちひしがれた。

 なぜだ? オレは「動きやすい格好で」と言ったが、ブルマで来いとは一言も言ってはいない。確かにブルマは動きやすいだろうし、体操服も運動には適しているだろう。だが、なぜだ? なぜお前のチョイスはいつも奇を衒って眩しすぎるほどの輝きを放っているのだ、怜子。オレにはお前がさっぱり理解できないよ。

 オレは気を取り直して怜子に近づいた。

「よう。待ったか?」

「あら、怜司くん。おはよう、今日も遅いのね」

「お前はいつも何時からオレを待っているんだ」

 約束の時間までまだ二時間以上ある。いくら午前中とはいえ、この炎天下の中を突っ立ったまま待ち続けるのは想像以上にツラいはずだ。

「アタシはいつも早めの行動を心掛けているだけよ」

「早すぎだろ」

 オレはうんざりするように溜息を一つ漏らした。

「怜司くんだって約束の時間よりずっと早く来てるじゃない」

「お前がいつも早く来るからだろうが」

 早いって自覚はあったんだな。天然じゃなくて何よりだ。

 怜子の額にはうっすらと汗が滲んでおり、今しがた来たばかりではないことを窺わせた。怜子が何を考えているのか、オレには本当に理解できなかった。

「それからなぜお前は体操服にブルマなんだ」

「あら、動きやすい服装でって言ったのは怜司くんじゃない」

「それはそうだが、限度ってもんがあるだろう」

「動きやすいわ、この服」

「もういい。何も言わん」

「文句があるならちゃんとオーダーして。アタシが叶えられる範囲内で実現してくるわ」

 怜子はその格好が何でもないような素振りで、肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪を掻き上げた。そのちょっとした仕草でむ、む、胸の肉がふるふると揺れ動いた。え、エロい。体操服とブルマは想像以上にエロい。

 オレは努めてそれを気にしないように振舞いながら、駅へ向かった。

 電車に乗り、怜子が痴漢に遭わないよう扉に背を預けられる位置に陣取って、オレ自身は怜子を守るような形で吊り革に掴まった。通勤ラッシュのピークに当たる時間帯なので当然電車は満員だ。座る余地などどこにもなく、みんなそれが当たり前であるかのように狭い空間に新聞を小さく広げたり、イヤホンから漏れるくらいの音量で音楽に興じたりしている。

 電車が速度を変えたり停止したりする度にオレの躰は大きく流され、怜子のほうに押し付けられたり怜子からしな垂れかかられたりした。片手はポケット、片手は吊り革を掴んでいるオレだが、躰が流される度にオレの胸板が怜子のこぼれそうなむ、む、胸の膨らみに触れた。ブラジャーをしているのだろうが、それでもふにゃりとした感触が布越しに伝わってきて、オレの下半身は非常にマズいことになっていた。怜子は怜子で俯いたまま声も上げず、じっとその状況を我慢しているようだった。頬が朱色に染まっているところを見ると、相当に恥ずかしいのだろう。

 やがて街を抜けて山間部へと電車が差し掛かると、人の数も極端に減って座れるくらいのスペースが出来た。オレたちは一時間にも満たないサラリーマンの苦悩のおかげで、目的地に辿り着く前からへとへとになっていた。

 座席に着くと

「その、ありがと」

「あぁ?」

 ツンとそっぽを向きながら怜子が呟いた。紅潮した顔色は、未だ治まっていない。

「ツラかったでしょう? あの立ち方」

「あー、逆にするわけには行かねぇだろ。オレはこれでも男だからな」

「そう。とても助かったわ。だからありがとう」

 はン、だったらそんな格好をしてくるんじゃねぇよと、オレは声を荒げたかった。露出した肌と薄い布切れ一枚で守られている豊満な体躯は、満員電車の痴漢からすれば格好の的だ。少し考えれば分からない怜子ではないだろう。一部の特殊な方々にはさらに扇情的に見えるに違いない。残念ながらオレにはブルマ属性はないので我慢できないほどではないが、それでも見るだけでそそる格好だ。そんな怜子を盾にして男のオレが踏ん反り返っているわけにも行くまい。

 オレは本当は内心で照れていたのだが、それを悟らせないように怜子と同様そっぽを向いて「気にするな」とだけ答えた。

 席に座れてからの三十分で交わした会話はそれだけだったが、不思議と居心地は悪くなかった。触れそうで触れない肘や肩の距離が、ちょっとだけもどかしかった。

 目的の駅に着いたオレたちは、揃って大きく深呼吸をした。電車に長時間のるのはけっこう疲れる。それは怜子も同じようだった。

 駅の周辺には古びた商店らしき体をした木造の建物が散見していたが、その区画を通り抜けると長い間ずっと補修されていないだろうアスファルトの山道が顔を覗かせた。木々を揺らして吹き迷う山風には、夏の都会を忘れさせてくれる清涼さがあった。

 オレは虫除けスプレーの存在を思い出し、露出した手足に吹き掛けた。怜子にそれを手渡して、同じことを促した。怜子は眉をひそめていたが、虫に刺されるよりはと思ったのだろう、黙ってそれに従った。

 オレは慣れた足つきで歩を進めた。怜子はというと、どこに連れて行かれるか未だ知らされていないからか、不安げな表情だ。

「ちょっと、どこに連れて行くの?」

「だからお楽しみだっつったろ? たぶん気に入ってくれると思うぜ」

 怜子はわざとらしい溜息を一つついて、顔を上げた。オレに不安を悟られたくなかったのだろう。不満げではあったが、不安そうな色は消えていた。

 途中で折れ曲がった山道に入り、やや急峻な地形をゆっくりと下っていった。歩きづらい場所では必ずオレが先行し、怜子の手を取って進んだ。怜子の手はとても滑らかで柔らかかった。

 小一時間も歩くと、開けた場所に出た。

 人の姿も全くなく、上を見上げても青空の半分以上が緑に覆われていて、日の光もまばらな場所だ。足元には大小の石ころで溢れており、そのどれもが角のとれた丸い形をしていた。

 水がせせらぎ、浅い小川の走る川原だ。

 空気も澄んでいて、オレは思わず深呼吸をした。親父に連れられて何度か足を運んだことがある場所だ。車では入ってくることが出来ず、付近の村や町から歩いてくるにはちょっと遠い。釣りをする人間はもう少し下流に穴場があることを知っている所為か、この場所までやってくることは少ない。要するに、人が滅多に足を運ばない静かなところだった。

 オレは適当な大きさの石を見つけて、そこに腰を下ろした。怜子にもと隣の石を指差した。

「ここがあなたが連れてきたかった場所なの?」

「そうだ」

「何もないじゃない」

「だからいいんじゃねぇか」

 怜子は周囲を見渡して、大きく息を吸った。溜息交じりの吐息に、不満は含まれていなかった。

「そうね。とってもいい場所」

「だろ? 地元の人間もここには来ねぇらしいからな。のんびりしようぜ」

 オレは水筒のお茶で喉を潤しながら言った。

 腕時計を見ると、昼食にはやや早い時間だった。

 オレは転がっている礫石の中から均一な高さのものをいくつか見繕い、それを並べて輪を作った。

「何をしているの?」

「メシの準備だよ」

「まだ少し早いじゃない」

「メシ時になってから作り始めたんじゃ遅いだろうが」

「怜司くんって、お料理できるのね」

「料理なんて小洒落たもんじゃねぇけどな。お前は料理とか出来るのか?」

「簡単なものなら。やってるのはお母さんの手伝いくらいよ」

「へぇ。家では勉強ばっかりしてんじゃねぇかって思ってたんだけどな」

「アタシもあなたはこういう外での遊びなんて知らないと思ってたわ」

「だろうな。友達とキャンプしに行くことでもなけりゃ、オレの趣味まではわからねぇだろうし」

 オレの趣味ではなく親父の趣味なのだが。

「手伝うわ。何をすればいいの?」

「米を研いできてくれ」

「研ぐってどこで?」

「水ならそこにあるだろ?」

 言って、オレはすぐそこを流れる小川を指差した。

「か、川の水でお米を研ぐの? 大丈夫なのかしら」

「ここの水は飲めるくらいキレイなんだ。ほとんど清水さ」

 怜子は「本当に大丈夫かしら」と呟きながら、米とスチール製の椀を手に取った。オレは火を熾こしながら怜子の手際をこっそり覗き見ていたが、料理を知らない手つきではなかった。母親の手伝いをしているというのは本当らしい。

 オレは怜子に飯盒を手渡し、川の水を掬って喉を潤した。

「あら、本当に飲めるのね」

「なんで嘘を吐かなきゃならねぇんだよ。この水でメシを炊くんだから、オレが飲めねぇ水を使うわけねぇだろうが」

「そう? アタシと心中を図るつもりなんじゃないかって危惧しただけよ」

「川の水を飲んだだけじゃ死なねぇよ」

 オレは川の水を手で掬って、怜子の顔にぶつけた。

「つ、冷たいじゃないっ! 何するのよっ!」

「ははっ、お前でも驚く顔するんだな」

「当たり前でしょ。人間だもの」

 怜子は不機嫌そうな表情で立ち上がり、火の横に水と米を含んだ飯盒を置いた。不機嫌そうだが、口元だけは僅かに緩んでいた。

「これ、どうするの?」

「とりあえずそのまましばらく放置だ。三十分くらい水につけておくといい」

「火はどうするの?」

「消えないように小さな枯れ枝を定期的に放り込んでくれればいい」

 オレは靴を脱いでズボンの裾を捲し上げた。

「な、何をしているの?」

「白米だけじゃ味気ねぇだろ? 鮎でも捕ってくる」

 オレは首だけ振り向いて、川の中にずぶずぶと足を沈めていった。

「ちょっと、置いていかないでよ!」

「そんなに遠くまで行かねぇよ。ちゃんとお前が見える場所にいるから、お前は火加減を見てろ」

 怜子は「もう!」と頬を膨らませて、急造のかまどの前に腰を下ろした。怜子が怒ったりするところをあまり見たことのなかったオレには、その表情がとても新鮮なものに思えた。なぜだろう、段々楽しくなってきた。

 天然の鮎はそんなにうようよいるわけじゃない。とは言ってもここより上流に行くのは地形的に厳しいし、下流に行っても釣り人の邪魔になるだけだ。オレは適当に見つけた鮎を素手で掴み、川の水を汲んだバケツに放り込んだ。そのままもう一度さっきと同じ場所まで進み、呑気に泳いでいる鮎を見つけて手で掴んだ。

「鮎ってそんなに簡単に捕れるものなのね」

 いつの間に来ていたのか、怜子は少し大きめの石に腰を掛けてオレの様子を眺めていた。少しはいい格好が出来ただろうかと思ったが、どうせまた嫌味を言われるだけなので肩を竦める仕草で怜子に応えた。

「お前もやってみるか?」

「嫌よ。どうせ上手く捕れっこないわ」

「やってみれば意外に面白いかもしれないぜ?」

「そうだといいわね」

 プイと顔を背けて、怜子は立ち上がった。背を向けた怜子の太ももの付け根にブルマが食い込んでいてエロかった。

 オレは捕獲した鮎を手で掴んで、腹の辺りから上下に何度かしごいた。すると鮎の尻から糞が零れ落ちた。

「何をやっているの? 汚いじゃない」

「その汚いものを食う前に出してるんだよ」

 怜子はオレの行為を不思議そうに眺めていた。オレは親父に教わったことをそのままやっているだけなので特に不思議だとは思わないのだが、怜子にとっては違うらしい。

「血抜きとかはしないの?」

「鮎は必要ないんだ。他の川魚ならやるんだけどな」

「詳しいのね」

「このくらいはちょっと調べれば誰でも分かる」

 鮎の糞を落とし終えて、リュックサックから取り出した串を口から尾にかけて刺し込んだ。火に焼べる前に集めておいた薪をかまどに放り込み、火の勢いを強くした。串刺しにした鮎に塩を振って、強くなった火からやや遠ざけたところに固定した。それから軍手をはめて、飯盒を火の上に固定した。

「あ、危なくないの? 火を熾こすのは後にしたほうがよかったんじゃない?」

「面倒くせぇ。ちょっと火に手を突っ込んだくらいじゃ火傷はしねぇよ」

 怜子の言うことはもっともなのだが、オレは不精な親父のやり方しか知らない。親父は少しくらい危なくても手早く済ませられる方法を取る。

 鮎は腹から焼いたほうが美味いらしいので、腹を火に向けてじっくりと焼いた。その間に飯盒が沸騰し始めたが、オレは気にせず火を眺めていた。

「れ、怜司くん? 沸騰してるわよ」

「いいんだよ。あぁ、言っておくが上手に米を炊くんなら、最初は弱火にしてしばらくしたら強火にしたほうがいいんだ。でも今回は鮎も一緒に焼くから面倒くせぇ。一緒にやっちまったほうが早いだろう」

「そ、そうなの? アタシにはよく分からないわ」

 そりゃそうだ。生まれた時から炊飯器でしか米を炊いたことのない人間に、いきなりかまどで米を炊けと言っても上手に出来るはずがない。オレはただ、親父に教わって知っているというだけだ。

 しばらくして鮎の腹がこんがりと色づいてきた。飯盒の沸騰も収まり、蓋がカタカタと音を鳴らさなくなった。オレは鮎の背を火に向け直して、飯盒を火から外した。熱くなった飯盒をひっくり返して地面に置き、再び腰を下ろして待つことにした。

「どうしてひっくり返すの?」

「あぁ? 強火で炊いたからたぶん下のほうが焦げてるんだよ。ひっくり返して下のほうを蒸らせば、おこげの部分も柔らかくなるんだ」

「へぇ。本当に手馴れてるのね」

 怜子は本当に感心した様子で、オレの手際を褒めた。ちょっと照れたが、努めて顔に出さないように無表情を装った。あんまり調子に乗っていると、きっとまた怜子に嫌味を言われるに違いない。

 米を蒸らしている間に鮎の側面を焼き、頃合を見て米をスチール製のお椀によそった。紙皿を用意して、香ばしい匂いを醸す鮎を怜子に差し出して、完成だ。さすがに暑いので、その場で火は消した。

「どうやって食べるの、これ?」

「何でもでいいんだよ。頭も骨も食えるから、テキトーに齧り付け」

 オレはぶっきら棒にそう答え、尾から鮎を齧った。

 鮎は中まで火が通っていて、ふっくらと焼き上がっていた。我ながら上出来だ。ご飯は予想通り焦げていたが、こうして外で食べていると気にならなかった。

 横目で怜子を見ると、恐る恐るといった体で鮎の腹に齧りついていた。

「あら、美味しいわ」

「だろ? やり方を間違えなけりゃ、けっこう何でも美味く食えるんだぜ」

 腸は苦いかもしれないが、他の川魚と違って鮎の腸は臭みが少ない。骨まで食べられるのが、鮎のいいところだ。

 オレよりもずっと小食な怜子だが、鮎を一匹とお椀のご飯まで全て平らげてくれた。オレはそれがちょっと嬉しかった。

 その後オレたちは水深の浅いところで足だけ水に浸って川を眺めたり、川原を歩いたりして小一時間ほど時間を潰した。

 太陽が傾き始めるより前に、オレたちは片づけを始めた。ここから駅まではそれなりに遠いし、駅から地元までも結構な距離がある。少し遠出をして疲れていることも考慮して、早めに切り上げることにした。

 電車に乗って、オレたちは地元の駅を目指した。さすがに疲れているのか、怜子は座席に着くとすぐにうとうとし始めた。オレも正直に言うと眠かったが、なんとか起きていようと必死に目をこじ開けた。

 怜子のこじんまりした頭が、オレの肩に触れた。驚いて躰を震わせそうになったが、眠っている怜子が目に入ったので我慢することが出来た。体重を預けてくる怜子の様子がなぜだかとても可愛らしくて、オレは胸が温かくなるのを感じていた。行きは触れ合わなかった肩と肘が、帰りはぴったりとくっついているのも嬉しくて、思わず鼓動が高鳴った。怜子の腕は、無骨なオレのそれよりもずっと柔らかくて華奢だった。


「怜司くん? 怜司くん?」

 肩を揺すられて、オレは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。眼を擦って、周囲を確認した。乗客の数が、記憶にある時のそれよりもずっと多い。

「もうすぐ着くわ。支度をしておいて」

「あぁ、すまん。眠っちまったみたいだ」

「別に気にしてないわ」

 怜子は相変わらずツンとそっぽを向きながら答えた。心なしか頬が赤い気がするが、日に焼けたからだろう。オレはリュックサックを手にして、車内アナウンスが地元の駅の名前を告げるのを聞いた。

 駅を出て、趣味の悪い市長の像までやってきた。時間的には夕方過ぎだが、夏の日は長い。空はまだ青々としていて、じっとりとした暑さが肌にまとわりついた。

 オレたちはベンチに腰を掛けて、

「それじゃ、今日の評価をしましょう」

 恒例となったカードゲームを始めることにした。オレと怜子はリュックサックからカードを取り出した。

 今日オレが使用するのは黒いカード。オフェンスのカードだ。

 怜子が使用するのは白いカード、ディフェンスのカードだ。

 出掛ける前に何を出すかは予め決めておいた。今日はプラス1を出す。どうせ怜子はマイナス2を出すのだろうが、万が一の可能性に賭けてという意味と、ゼロの使用を回避する意味を込めて、オレはプラス1のカードを抜いてベンチに置いた。

 怜子は淡々とカードを一枚抜いて、オレのカードの隣に差し出した。

 ともに裏を向いているため、上から見ても数字を読み取ることは出来ない。

「じゃあ、オープンしましょう」

 オレは白いカードを、怜子は黒いカードを手に取り、同時に表に返した。

 黒―――オレのカードはもちろんプラス1だ。

 白―――怜子のカードはマイナス1だった。

「え?」

 オレは意味が分からなかった。

 カードを見るために落としていた視線を、オレは僅かに上げた。

 怜子は笑っていた。

 それは邪悪な笑みでもなければ、歪な冷笑でもなく、朗らかで艶冶な微笑だった。

「今日はとても楽しかったわ。もったいぶってどこに連れて行ってくれるのかと思ったけれど、とても新鮮で新しい発見がたくさんあったもの。だからありがとう」

「あ、あぁ」

 オレは馬鹿みたいに口を半開きにして、怜子の微笑を眺めていた。

 全く予想だにしなかった展開に、オレの思考は完全に置き去りにされた。

 あぁ、コイツ笑うとこんなに可愛いんだと、胡乱な頭でそんなことを考えていた。

「それじゃ、次はアタシから誘うわ。今日の怜司くんに負けないくらい楽しめるデートに出来るといいわね」

 怜子は自分のカードをカバンにしまうと、呆然と座り込むオレを無視して軽やかに立ち去った。

 オレは「なんで」と頭の中で何度も何度も繰り返したが、答えてくれるべき怜子の姿はそこにはなかった。


 オレはどの道をどう辿ったのか、気がついたら自分の部屋のドアの前にいた。無意識に帰ってきていたらしい。頭の奥のほうが、まだぼんやりしている。

 ドアを開けて、そのままベッドに躰を投げ出した。

 怜子はいったい何をしたいのか。

 最後に怜子は「今日は楽しかった」と言っていた。それは今日のカードがマイナス1だったことの理由なのだろうか。怜子は前回プラス1を使っているので、今回はマイナス1とマイナス2しか使えない状態だった。だからマイナス1を出して、オレに言葉で意思表示をしたのだろうか。だとすると、オレが今まで散々考えてきたことはいったい何だったのか。オレは頭を抱えて思わず呻き声を上げた。

 仮に、仮にだ。怜子がこれまで提示したカードの数字が全てデートでのオレへの評価だったとしよう。そこに何か作為や悪意のようなものはあったのだろうか。

 一回目のデートでの評価はゼロ。怜子はオフェンスだ。ゼロのカードはオフェンスにとって中間を意味するのだろう。ということは、怜子は最初のデートに満足こそしなかった

が、不満に思っていたわけでもないということだろうか。

 二回目のデートの怜子の評価はマイナス1。怜子はこの時ディフェンスだ。マイナス1のカードはディフェンスにとって中間の意味なので、一回目と同様に怜子は満足でも不満でもなかったという意思表示をカードを使ってオレに示したのかも知れない。

 三回目のデートの怜子の評価はプラス1。それこそ「楽しかった」の意思表示ではないのか。怜子はあのデートを楽しんでいたのだろうか? オレは絵画の鑑賞などつまらなかったが、怜子はそうでもなかった? やることもなくて食事をして切り上げるようなデートが楽しかったのだろうか。

 そして今回のデートの怜子の評価はマイナス1。ディフェンスにとっての中庸策だ。だが二回目の時とは違い、今回の怜子はプラス1というカードを切ることが出来ない状態だった。したがってマイナス1のカードは今回に限り、意味的にプラス1も含有していると好意的な解釈をすることも出来るだろう。

 もし怜子が「楽しかった」などと言いつつマイナス2のカードを出したのなら、あの女は間違いなく確信犯だ。だが、怜子の出したカードはいずれも彼女の心情を表していたものだと考えても、確かに不自然ではないのだ。三回目のプラス1も、怜子が絵画鑑賞を充分に楽しめたという意思表示だったと仮定すれば平仄が合わないこともない。

「だとしたらあの邪悪な笑みはいったい何だったんだ!」

 あの歪に吊り上げた笑みの所為で、オレは惑い迷ったのだ。

 もしあの悪意にしか見えない笑みがなければ、オレは今でも純粋に怜子への評価としてカードを提示していただろう。

 もし怜子がもっと素直に感情を表現してくれたら、このゲームはもっと解りやすい単純なものになっただろう。

 もしかしたら、怜子は単純に内気で感情を顔に出すのが苦手なだけの、本当は気の弱い普通の女の子で、あの澄まし顔や不敵な態度は単なる照れ隠しなのかもしれない。

「全部“もし”だ」

 オレには怜子が解らない。聞いてみればいいのかもしれないが、オレにはそんな勇気はない。

 いずれにせよ、今回のデートでオレにプラス1ポイントが加算され、双方の得点はゼロに戻った。マイナス2の使用回数で怜子に若干のアドバンテージがあるものの、互いの条件はほぼイーブンになったわけだ。ほとんど詰みだと思っていた状態を脱することが出来たということになる。

 怜子の感情云々は置いておいて、オレはこのゲームに勝利するための算段を再び立て直すことに

―――あれ?―――

 しようと思ったところで疑問が湧いてきた。

 このゲームに勝利するってどういうことだ? オレはもう一度、怜子の言うゲームのルールを頭の中で反芻してみた。

 ゲームの勝利条件は“相手に「好き」と言わせる”ことだったはずだ。そしてこのゲームのルール上、プラスの得点を有しているほうが相手に「好き」と言わなければならない。

「ということは?」

 これはガラにもなく小首を傾げて、全ての現象を考え直した。

 相手に「好き」と言わせることが勝利条件なのに、得点が多いほうが相手に「好き」と言わなければならない。オレが思い違いをしているのかとも思ったが、怜子は確かにそう言っていた。

 何だ、何だ? またワケが解らなくなってきたぞ。

 怜子は何を考えている? 怜子はオレに何をさせようとしているんだ?

 デートの評価という観念を脇において、ゲームのルールに則った怜子のカードの提示の仕方を考えてみた。

 一回目の怜子のカードはゼロ。これは間違いなく様子見という意味だ。ゼロを出す以上、相手の出すカードにポイントの遷移を委ねることになるからだ。

 二回目の怜子のカードはマイナス1。これはどういう意味を持っているのか。ポイントを得るという観点で考えると、ディフェンスにとってマイナス1というカードは鬼門だ。オフェンスがゼロ以外のカードを出せば、相手に得点が入ることになるからだ。双方がマイナス1を出した場合のみオフェンスに得点が加算されるというルールがあるので、ディフェンスはマイナス1というカードをおいそれとは出せないことになる。

 逆に相手にポイントを与えたいならばどうか。ディフェンスにとってのマイナス1はかなり有効なカードに様変わりする。相手がプラス1を出してもマイナス1を出しても、相手にプラス1ポイントが加算されるのだ。確率論で言うならば、実に七割近い確率で相手にポイントを与えることが出来る。

 だが二回目のデートでは、オレはプラス1のカードを所有していなかった。それを怜子が見逃していたとは考えにくい。つまり、この条件でならディフェンスにとってのマイナス1はオフェンスのゼロとほぼ同じ意味を持つ。相手にポイントの遷移を委ねるという行為の表れだ。

 怜子は最初の二回を、オレのこのゲームへの理解度と戦略を測る物差しにした。これは以前も考えたことだが、視点が逆になることで全く別の意味を持つ。怜子はポイントを獲得したいのではなく、オレにポイントを獲得させたいのだ。「意外に臆病なのね」と怜子は言ったが、それはオレの考え方をポイントを獲得する方向へと誘導するための布石であり、罠だったのだ。

 二回のデートでオレがこのゲームへの理解を深め、怜子にポイントが入るのを防ごうとすることを、怜子は感じていただろう。オレがマイナス2というカードを使用することを前提に考えれば、怜子が三回目のデートでプラス1のカードを出したとしてもなんら不自然ではない。むしろ怜子自身の目的をオレに悟らせないためのカモフラージュとも考えられる。

 そして四回目のデートで、怜子はマイナス1のカードを出した。マイナス1はディフェンスが相手にポイントを獲得させるのに有効なカードだ。オレがゼロ以外のカードを使えば、オフェンスであるオレに得点が加算される。怜子は今回のデートで、オレがプラス1を出そうがマイナス1を出そうがどちらでも良かったのだろう。

 要するにオレは、まんまと怜子に騙されていたのだ

 腹の底から怒りが湧き出てきたが、すぐに消えた。

 オレは本当に、怜子に騙されていたのだろうか?

 分からない、判らない、解らない。オレには黒田怜子がわからない。

 騙されていたのだとすれば、腹も立つ。でも騙されているかどうかが判らない。

 怜子に会いたい。会って話をしたい。けれど、オレは怜子に会って聞けるのだろうか?

 お前はオレをどう思っているんだって、オレは怜子に尋ねることができるのだろうか?

 多分、出来ない。オレにはそんな勇気はない。お前はオレを騙していたのかなんて聞いたら、怜子は傷ついてしまうかもしれない。腹を立てて引っ叩かれるかもしれない。

 オレは怜子のことを何も知らなかった。

 怜子がどんな性格で、趣味が何で、好きな食べ物が何で、好きな音楽が何で―――。

 好きな人が誰なのか。

 オレは知らなかった。

 だから怜子のアレが演技なのか、性格なのかも判らない。怜子の行動の意味が解らない。

 九年間もずっと見てきたのに―――。

 竹中怜司は、黒田怜子を何一つ知らなかった。


 小鳥のさざめきで、目が覚めた。

 東の窓から突き刺すような日の光が漏れている。

 目覚まし時計の針は、ちょうど真っ直ぐ垂直に上下を指していた。

「六時? 眠っちまったのか」

 オレは風呂にも入らず、夕食もとらずにあのまま眠ってしまっていたらしい。母は恐らく起こしに来たのだろうが、それにすら気付かなかったということだろうか。

 躰がベトベトして気持ち悪い。

 ケータイ電話を確認したが、着信履歴もメールも受信していなかった。

 オレは友達が少ないから、一日に一件もメールが来ないことなんてザラにある。別にいいんだ。もう慣れたからさ。

 自分に強がりを言い聞かせながら、シャワーを浴びて頭と全身を洗った。風呂から出た頃には母と親父も起きていて、何か談笑をしているようだった。親父は昨夜に帰ってきたらしい。

 母はオレの顔を見て、親父に「この子にもついに彼女が出来た」とか「最近デートで忙しいみたい」だとか口うるさく捲くし立てていた。親父はそんなことを気にするような性格ではないので「そうか、よかったな」と適当に相槌を打っていた。オレから話を切り出せばちゃんと乗ってくれるんだろうが、母の話のほとんどが拡大解釈と誇大妄想で出来ていることを親父は良く知っている。喧しい母の戯言を曖昧にやり過ごしながら、オレは久しぶりに家族三人で朝食を取った。

 部屋に戻ってぼんやりと天井を眺めた。

 眠りすぎて、頭が上手く働かない。

 オレは怜子にもらった6枚のカードを手にとって眺めた。意識してみたことがなかったので、改めて観察すると、随所に手作りらしい粗雑さが見て取れた。怜子の性格なのか非常に丁寧に作られてはいたが、手作りゆえの線の歪みやハサミで切った痕が、逆に温かさを与えていた。

 怜子のゼロサムゲームはそれほど複雑ではない。攻守が交互に入れ替わるので複雑に見えるだけで、やっていることは単純だ。ルールさえ解ってしまえば、あとは天秤をどちらに傾けるかを考えるだけでいい。

 問題は相手も同じように天秤をどちらに傾けるかを考えており、双方の利害が符合しない場合、いかに相手に狙い通りのカードを切らせるかに心を砕かなければならない。かと言って、相手の動きばかりに囚われると、次に自分が打つ手を誤ってしまう可能性がある。同じカードは二回連続で使えないからだ。

 怜子の戦略は、オレのポイントがプラスになるように誘導することだろう。そのために最初の二回を犠牲にする戦術を取った。実に鮮やかな戦法だ。逆にオレは怜子の調略にまんまと引っかかり、巧みに誘導されていた。

 それに気付いたオレが取るべき戦略は、どういったものにすべきなのだろうか。怜子の戦略に乗っかって、天秤がオレに傾くようにするべきか。あるいは怜子の戦略に対抗すべく、天秤が怜子のほうへ傾くよう仕向けるべきか。

「結果的にはどっちでも変わらないんだよなぁ」

 オレが勝っても怜子が勝っても、オレが怜子の彼氏になるか怜子がオレの彼女になるかという言葉の違いしか生み出さない。オレは別に怜子を彼女にするつもりはないので、そうすると怜子に「好き」と言わせて、それを断るという流れに持っていったほうが賢明だろう。

 そうか、「好き」と言われたほうには断るという選択肢があるんだな。

 ならばオレが取るべき戦略は、天秤を怜子に傾けること。つまり、怜子のポイントがプラスになるような戦術をその都度に構築する必要が出て来るわけだ。それは怜子の戦略と競合するので、相手のカードの読み合いになるだろう。

 怜子は頭のいい女だ。

 態度や性格はいろいろと問題があるかも知れないが、ただ成績が良くてお勉強が出来るだけの、応用の利かない女ではない。こちらもそれ相応の計略を練る必要がある。

「んなこと言われてもどうすりゃいいんだよ」

 オレは戦国時代の軍師でもなければ、詐欺師でもペテン師でもない。どこにでもいる、他の人間より少しだけ成績の良いただの学生だ。人を欺く手法なんて考えたこともないし、騙そうと思ったこともない。一般的には善良なことだけが取り柄の小市民だ。怜子を相手に先の先のそのまた先まで読み通すのはほとんど無理だ。

 そもそも―――。

 この思考も怜子がこのゲームをデートの内容と切り離して考えていることを前提に考えたものだ。もし怜子が純粋にデートの評価をしているだけだとしたら、こんなことを千思万考したところで意味がない。

 オレは考えても考えても出ることのない結論に、夜通しずっと頭を悩ませた。その日、怜子からの連絡はなかった。


 翌日―――。

 オレは七時くらいに目を覚まし、昨日と同じように親父と母と一緒に食事をした。

 外は晴れていて、雨の心配もなさそうだったので、久しぶりにバイクでもかっ飛ばそうかと思った。

 昼前くらいまでぼんやりと部屋で過ごし、ヘルメットとキーを片手に家を出た。特に目的地はないが、海を見に行くのも悪くない。オレのちっぽけな悩みなんて、大海原なら吹き飛ばしてくれるんじゃないかと、そんな淡い期待を抱いた。水着の女の子が目当てだなんて、そんなことはないぞ。ほんとだよ?

 ヘルメットを被りキーを挿して、ZZR400のエンジンを吹かした。しばらく乗っていなかったが、バッテリーはまだ生きているようだ。そのまま車庫から引っ張り出して、家の前で停止させた。ブルーのカウルが陽光を反射して、ちょっとだけ海面を乱反射する太陽を思い起こさせた。シートにまたがってミラーの調整をすると、電柱の向こうでこちらを窺っている人間がいた。後ろを向くと、慌てて姿を隠された。

 なんだろう、変質者か何かかも知れない。オレは少し怖くなった。今のご時勢、ちょっと注意しただけでザクッと刺されてしまうこともあるみたいだ。実害がなければ無視したほうがいいだろう。触らぬ神に祟りなしだ。

 オレは変質者を無視して、そのままバイクを走らせた。

 国道を真っ直ぐ南下しながら、先ほどの変質者のことを思い出した。野球帽にサングラス、このクソ暑いのに長袖長ズボンのジャージ姿だった。よく見たわけじゃないので疎覚えだが、そんなような格好だった気がする。オレが気になったのは、胸の大きさだった。へ、変な意味じゃないよ? 変質者にしては胸が大きかった。いや、変質者だから胸が小さくなるとかそういうわけではなく、あのシルエットは女だったのだ。

「親父の愛人か?」

 家の前で待っているところを見るとその類の人間かもしれないが、愛人ならジャージ姿で家まで来たりはしないだろう。考古学者をやってるくらいだから、もしかしたら教え子か何かかも知れない。いずれにしてもオレとは無関係の人間だろう。オレは変質者のことを頭の隅に追いやり、口笛を吹きながら久方ぶりのツーリングを楽しんだ。

 夕方ごろに家に戻ることが出来た。海を見ても悩みは晴れなかった。

 バイクを車庫に仕舞い、部屋に戻ったところでケータイが鳴った。

 誰かと思ったが、発信者は怜子だった。そう言えば、もうすぐ前回のデートから四十八時間が経過する頃だ。オレはなぜか鼓動が高鳴るのを感じながら、ケータイを開いて通話ボタンを押した。

「もしもし、オレだ」

「こんにちわ、怜司くん。今お暇かしら?」

「ん。大丈夫だ」

「デートのお誘いよ」

「だろうと思ったぜ」

「海に行きましょう」

「え? 海?」

 今さっき行ってきたばかりなんだけど、という言葉を呑み込んだ。

「何か問題があるかしら?」

「いや、ない」

「水着はちゃんと持ってるの?」

「大丈夫だろ。なけりゃ現地で調達する」

「そう。じゃあ十時に例の像の前で待ち合わせましょう」

「お前、あんまり早く来すぎるなよ。オレはもう早く行かねぇからな」

「分かったわ。遅刻したら許さないから」

「しねぇよ。じゃあ、明日な」

「えぇ」

 通話の切れたケータイを眺めながら、デートの誘いってこんなに淡白なものなのかなぁと独り言ちた。オレも同じようなものだから文句は言えないのだが、もう少し話をしたかったなと思った。

 さて、オレはゼロサムゲームの戦術を考えることにした。戦略は、怜子にポイントを獲得させる方向で固まっているので、次にオレがどのカードを使うべきかを焦点に当てて思考を廻らせた。

 前回のデートで怜子はマイナス1、オレはプラス1を使用している。次のデートでは怜子がオフェンスなので、怜子が使用できるカードはプラス1とゼロのみだ。対してオレはディフェンスなので、使用できるカードはマイナス1とマイナス2になる。怜子にポイントを獲得させる条件は、総和がゼロ以上になることなので、怜子がプラス1のカードを、オレがマイナス1のカードを切る選択肢以外にない。だが、怜子はオレにポイントを獲得させたいだろうから、ゼロのカードを切ってくるだろう。オレはマイナス1とマイナス2のどちらを出してもディフェンスであるオレにポイントが加算される。明日のデートではどうやってもオレは怜子にポイントを加算させることが出来ない。

 その次のデートでの戦術も予め考慮に入れたほうがいいだろう。オレがオフェンスになり、怜子がディフェンスになる。明日のデートでオレはマイナス2を出すことにする。そうすることで、次のデートでオフェンスであるオレは三枚のカードを全て使用することが出来る。対して怜子は明日のデートでゼロを切ってくるから、その次のデートではオレと同じく三枚のカードを使用することが出来る。

 この時にオフェンスであるオレに得点が入らないようにするにはどうすればいいのか。二人のカードの総和がマイナスにならなければならないので、オレは必然的にマイナス1のカードを切りたくなる。怜子は逆にオレにポイントを獲得させたいので、プラス1を出してくるだろう。この場合、オレがどのカードを出してもディフェンスの怜子にプラス1を出されることで、総和は必ずゼロかプラス1以上になってしまう。であれば、オレは出すカードを決めておく必要はなく、状況に応じて次の戦術に生かせるカードの切り方をすればいい。無難に考えるならゼロだ。

 この論理で行くと、明日のデートでオレはプラス1ポイントを獲得してしまい、さらにその次のデートでもどうやってもオレはプラス1ポイント加算されてしまう。

 なんということだ。オレは完全に怜子の術中にハマってしまっている。明日のデートでも、その次のデートでも、オレは怜子にポイントを与えることが出来ず、むしろダメージだけが蓄積していく計算になっている。恐ろしい女だ、黒田怜子。明確な戦略目標を持ち、その戦略に従って戦術を立てていくと、こうも鮮やかに敵を出し抜くことが出来るものなのか。最初の二回どころか、全てのデートでオレは怜子の手の平の上で踊らされていたことになる。

 だがまだそれでもプラス2ポイントだ。挽回できるチャンスはきっと来る。落ち着いて、しっかり先を見定め、読み通さなければならない。

 オレは溜息を一つついた。

 もしかしたら、こんな戦術や戦略は無意味なんじゃないかと思う自分がいる。怜子はオレがしているような小難しい考察などせず、純粋にオレとのデートを楽しんでいるのかも知れない。怜子のスタンスは一体どっちなのか。オレには全く分からない。

 ゲームとして考えても、デートの評価として考えても、怜子の言動は一貫しているような気がする。むしろオレだけが怜子の行動に振り回されて、一人で勝手に右往左往しているだけではないのだろうか。

 知りたい。

 怜子が何を考えているのか聞いてみたい。怜子ともっと話をしてみたい。

 オレは、怜子のことをもっと知りたかった。

 オレは考えるのを止めて、明日の準備をした。海に行くのだから水着は必要だろう。怜子もわざわざ持っているのか確認したぐらいだから、泳ぐつもりでいるはずだ。オレはタンスの中から一年前に使用した海パンを取り出した。ほとんど使用していないので、新品と然して変わらない。デザインはどうでもいいだろう。女なら分かるが、男の水着にお洒落なものなんてあるのだろうか? それからビーチサンダルも必要になるはずだ。はじめからサンダルで行ってもいいが、怜子に何を言われるか分かったもんじゃないので、サンダルも別に用意した。その他に必要なものはあるだろうか? 浮き輪は要らないだろう。泳げないわけじゃないし、溺れるような場所に行かなければ大丈夫なはずだ。でも怜子が使うかもしれないし、いちおう持っていたほうがいいかもしれない。あとはタオルがあれば大丈夫だろう。

 準備は五分で終わってしまった。サンオイルなぞ男のオレには必要ない。水中に潜るわけでもないので、ゴーグルも要らないだろう。他に持っていくべきものは何もなかった。

 オレは怜子がどんな水着で来るのかを想像した。雪のように白い肌に実った、見るからに重量感のあるたわわなむ、む、胸を、水着越しとはいえナマで見られるのだ。怜子のスタイルは服の上からでも判るくらい抜群だ。む、む、胸はあんなに大きいのにウェストは枝のように細い。手足もすらりと伸びていて、シミ一つなかったのを憶えている。雑誌に載っているモデルよりもスマートでありながら、男心をくすぐる豊満さも怜子は兼ね備えていた。

 オレは怜子の水着姿を想像するだけで胸が高鳴り、顔が真っ赤になるくらい火照ってきた。まさかいきなり一線を越えてしまうようなことにはならないだろうが、その準備もしておいたほうがいいだろうか。いやいやいや、まだ付き合ってもないんだ。そんな展開にはならないだろう。まだ付き合ってもいない? オレはそもそも怜子と付き合うつもりはないはずだ。オレはいったい何を考えているんだろう。頭を振って、努めて思考を修正した。

 結局オレは、眠れぬ夜を過ごすことになった。鼓動が早鐘のように脈動し、一人で勝手に狼狽しながら悶々とベッドの上で身を捩ったりしながら、夜を明かした。暴走しないようにと、下半身の処理を入念に行ったのは言うまでもない。


 翌日―――。

 夜中に多少うとうとしたのか、気付いたら朝になっていた。

 鏡を見ると、寝不足の所為か目の下にくまが出来ていた。もともとイケメンからは程遠いオレの容姿に、くまの一つや二つできたところでどうということはないだろう。顔を洗って寝癖を直し、母と朝食を取った。親父は昨日から帰ってきていない。オレが出掛けている間にどこかへ行ってしまったようだ。

 約束の時間は十時だが、早くに目が覚めてしまったオレはやることがなかった。出掛ける準備を終えて時計を見ると、まだ七時過ぎだ。いつも二時間以上も早く待ち合わせ場所に来ている怜子は、もうそこにいるのだろうか。時間通りにしか行かないと言った手前、無理して早く出る必要はないのだが、オレは怜子のことが気になって仕方がなかったので出掛けることにした。

 七時半前に駅前の趣味の悪い市長の像前に到着した。

 駅前には忙しなく行き来するサラリーマンでいっぱいだったが、通勤ラッシュにはまだ早いようだ。みな一様に暗い顔をしながらオレの前を通り過ぎていった。

 怜子はまだ来ていない。

 昨日オレが念を押した所為もあるのだろう。時間通りにしか来ないかもしれない。別にかまわなかった。いつも待たせていたのだ。たまにはオレが待ってあげてもいいだろう。

 早朝とはいえ真夏の晴れた日だ。東から斜めに肌を焼く陽光は、とても眩しくて目を貫いて脳を刺激するような錯覚さえ覚えた。

 十分ほど待っただろうか。時計の長身が七を少し越えた頃、麦藁帽子をかぶった女が現れた。

 女の鮮やかなスカイブルーのワンピースは、柔らかな色合いでありながら青空のように強烈な清爽さを抱かせた。裾がメッシュになっていて、半ば透過して映る白い太ももが匂い立つような色香を放っている。ノースリーブからすらりと伸びた陶器のような滑らかな腕には、思わず触れたくなるような艶っぽさがあった。Vネックに開いた首下からは入道雲のようにふんわりと盛り上がったむ、む、胸の谷間がちらりと顔を覗かせており、対照的に砂時計の中心のようにくびれたウェストが、女の妖しさをいっそう引き立てていた。

「何をしているの? 怜司くん」

 女はもちろん怜子だった。

「お、おう。おはよう」

「えぇ、おはよう。今日は早いのね。それとも別の用事かしら」

「用事なんかあるわけねぇだろ」

 怜子は怪訝そうに眉をひそめた。

「じゃあどうしてこんなに早く来てるの? 時間通りにしか来ないんじゃなかったの?」

「気が変わったんだよ」

 怜子は思案げに視線を落とし、嫣然と口元を緩めた。

「アタシを、待っててくれたんだ」

「べ、別にそんなんじゃねぇよ。暇だったからちょっと早めに家を出ただけだ」

「そう。嬉しいわ」

 オレは心臓が蒸気機関車のエンジンみたいにバクバクと猛スピードで働いているのを隠すのに必死だった。なんでこんなに緊張しているんだろう。

 怜子はこれまでのようなネジの外れたファッションではなく、むしろオシャレな出で立ちだった。それでいて不必要に飾らず、自分という素材の活かし方をよく心得ている、そんな装いだ。あのブッ飛んだ服のセンスは誰に教わったものなのか。オレはもちろん嫌いではなかったが、いやむしろ好きだったが、さすがに一緒に歩くのは恥ずかしい。

 約束の時間より二時間半近く早く待ち合わせの場所に到着したオレたちは、さてどうしようかと考えた。

「お前、朝メシは食ったのか?」

「えぇ、軽く。怜司くんは?」

「オレも食ってきた」

「じゃあもう出発しましょう。ここで待っていても意味がないもの」

「海に行くならけっこう時間かかるだろうしな。行くか」

 オレたちは電車に乗って、まず乗り換えの出来る大型の駅に向かった。そこから海岸沿いまで路線の延びている列車に乗り換えた。駅はやはり混雑していたし、列車も思った以上に人が多かった。夏休みの真っ只中だ、遊びに行く学生連中も少なくなかった。

 運よく席に座れたオレたちは、のんびり景色を眺めながら目的地へ向かった。後ろを向いて窓の向こうを眺める怜子の横顔は、間近で見ると作り物のように整っていて、なのに人間らしい柔らかさを帯びていた。思わず凝視してしまったオレの視線に気付いた怜子は、プイと目を逸らした。化粧の所為なのか、少しだけ朱に染まった頬が色っぽい。

「そんなに近くで見られると、やりにくいわ」

「す、すまん。お前の肌って絹みたいなんだなって思ってさ」

「あら、あなたの肌は木綿みたいね」

 オレはがっくりとうな垂れた。そうか、オレの肌は木綿みたいなのか。表情と口調から察するに、たぶん褒められてはいないのだろう。オレは褒めたつもりなんだけどな。

 オレは怜子に言われたので、前を向いて腕組みをしながら列車が目的地に到着するのを待った。列車が揺れる度に、Vネックから覗かせるむ、む、胸の谷間がふるふると揺れ動くのを横目でちらちらと盗み見ながら、オレは心の中で頭を抱えて悶え続けた。

 目的の駅に着き、オレたちは列車を降りた。

 駅を出ると、すぐに潮風が吹き抜けて、頬を撫でた。怜子の真っ直ぐに伸びた髪が風に靡いてきらめいた。足元のアスファルトは浜の砂利で白く濁っており、その上を多くの人々が案内板の矢印に従って同じ方向に歩いていた。オレたちもそれに倣い、歩きにくい砂利道を進んだ。

 すぐに視界が広がった。

 真っ白な砂の大地の向こうで、少し淀んだ青が押せては返す波を作っている。海は遠くへ行くほど青さを増して、水平線まで続いていた。海よりも淡い青空が視界の半分を走りぬけ、ぽかりと浮かぶ綿菓子のような雲が砂よりも白く輝いていた。

 思わず手でひさしを作って空を見上げた。海に来ると、夏休みだという気持ちになるのはなぜだろうか。日の光は遍く全ての人々に降り注ぎ、こんがりと肌を焼きたがっているようだ。突き刺すように暑いのに、眼前に広がる青一色の世界を見ると、暑さも気にならなかった。

 オレたちはいったん別れ、脱衣所で着替えてから砂浜の入り口辺りで再び合流することにした。男の着替えは簡単だが、女は時間が掛かるらしい。オレは早々に着替え終わって靴と不要な荷物をロッカーに仕舞い込むと、砂浜の入り口付近の階段に腰を掛け、ボーっと海を眺めていた。昨日も同じようなことをしたが、これから水着姿の怜子に会えると思うだけで心臓が張り裂けそうな勢いで脈打つのを抑えられなかった。

 防水仕様の腕時計を見ると、まだ十時を少し回ったくらいだ。早起きをして遠出をすると長く遊べるんだなと、頭の片隅でそんなことを考えていた。

 足音がして、目の前で止まった。顔を上げた。女神がいた。

 女神はオレの前で恥ずかしそうに胸部を腕で隠していた。躰を覆う布地の面積が極端に少ない。抜けるような薄桃色の肌は浜の砂よりも白くて、ほっそりとした足は、だが女の柔らかさを失うことなく緩やかなカーブを描いている。腰から上に視線を移すと、富士の峰を見ているような急勾配でくびれたウェストに可愛らしいへそが浮かんでおり、さらにその上には腕で隠しているにもかかわらず、隠しきれずに溢れてしまったむ、む、胸の肉が、上腕から零れ落ちていた。

 怜子の瞳はうるうると滲んでおり、真っ赤に染まった頬は恥ずかしさの所為なのだろう、

桜色の唇はへの字に曲がり、僅かに震えていた。

「ま、待った?」

 怜子は珍しくどもりながらオレに声を掛けた。

 オレはあんぐりと口を開いたまま、怜子の容姿に心を奪われていた。

 怜子が身に着けているのは真っ白なビキニ。怜子の肌の白さも相俟って、恐ろしいほどの妖艶さを醸し出しているのだが、さすがの怜子もこの格好は恥ずかしいらしい。下手をしたら下着よりも面積の少ない布地にのみ守られている怜子は、今にも泣きそうな顔をしていた。

「れ、怜司くん?」

「あ、あぁ」

「その……ど、どう?」

「美しい」

「ひぇっ!?」

 怜子が素っ頓狂な声を上げてびくりと躰を振るわせた。オレはそんな怜子の様子にも気付かずに、ただただ見惚れていた。

 怜子は顔から肩まで真っ赤に染め上げて、プルプルと震えて俯いてしまった。だが、すぐに顔を持ち上げると、

「へ、へ、変なこと言わないでよねっ!」

 オレの腕を掴んでずかずかと海のほうへと歩き始めた。オレは怜子に引っ張られるうちに自我と意識を取り戻し、耐え難い慙愧の念に心の中で頭を抱えた。

 肩を怒らせてずんずん歩いていく怜子の姿は、浜の男たちの注目の的になっていた。きめ細かい肌の質感は遠くからでも目を奪われるほどだし、整った顔立ちは人形よりも精緻で非の打ち所がない。長い睫毛と二重まぶたに持ち上げられた円らな瞳は人を魅了してやまず、何よりも水着の布地の食い込んだ、否、布地から溢れ出たむ、む、胸の肉がふるふると上下する様は、男の脳髄を貫いて麻痺させるくらいに鮮烈だった。

 視線の嵐を潜り抜け、怜子は海水を掻き分けてオレを引っ張った。やがて足が届くか届かないかという深さまで来ると、怜子は振り返ってオレの顔に水を投げつけた。目に入ってすごく痛かった。

「何すんだよ、お前」

「あんなに注目されてたら楽しめないじゃない」

「だったらそんな水着つけてくるんじゃねぇよ。普通わかるだろ」

「見て欲しかったのよ」

「誰にだよ」

「そ、そんなの言わなくても分かるでしょ」

 プイと顔を背けた怜子は、不満そうに頬を膨らませた。でもきっとそんなに怒ってない。唇が少しだけニヤけているからだ。

 オレは両手を閉じてポンプを作り、水鉄砲の要領で怜子の横顔に海水を浴びせた。怜子は子供みたいに両手を振るってオレに反撃をしてきた。オレは水に潜ってそれをやり過ごしながら、何度も怜子の顔に水鉄砲を食らわせてやった。怜子は無邪気に笑っていた。

 人が多すぎる場所が嫌だからと、怜子は人気の少ないほうへとオレを連れて泳いだ。オレも泳ぎは苦手じゃないけど、怜子の泳ぎは競泳でもやっていたのかと思うほど達者だった。

 人ゴミからやや離れた、岩肌の露出している場所までやってきた。ゴツゴツして歩きにくい所為か、人影は疎らだ。それでも無人というわけではなく、同じく人ゴミを嫌うカップルたちの溜まり場になっていた。

 オレたちは岩が少なくて砂地の多い場所を見繕って、怜子が持ってきた小さめの防水ポーチからビーチバレー用の柔らかいボールを取り出した。息を吹き込んで膨らませるのはオレの役目だった。存外に疲れたが、すぐに遊べる大きさにまで膨らんだ。

 二人だけでトスをしたりアタックをしたりレシーブをしたりしながら遊んだ。怜子は恐ろしく反射神経が良くて、おまけに身体能力も抜群に高い。オレも運動は苦手ではないが、怜子のそれはとにかく図抜けていた。オレは何度もキャッチに失敗して、その度に砂をかけられる罰ゲームを受けた。もちろん本気でやれば怜子に負けることはなかったのだが、手加減したやった。ゴメン、嘘。本当は怜子が走ったり腕を持ち上げたりする度に大きくバウンドするむ、む、胸が気になって気になって、そっちのボールばかり追いかけていた所為で飛んでくるほうにまで意識が及ばなかったのだ。

 怜子はとても楽しそうに笑っていた。ひまわりみたいな笑顔だった。こんな風に笑顔でいる怜子を見たことがなかった。すごく嬉しかったし、すごく楽しかったけど、胸の奥がすごく苦しかった。

 財布をもってくるのを忘れた(脱衣所のロッカーに荷物を全部ツッコんだ所為だ)オレは、昼食を怜子におごってもらうことになった。後で返すと言ったが、いいからおごらせろと怜子が言って聞かなかった。昼食と言っても屋台の焼きそばだけで、飲み物はコーラだった。恐ろしく不健康な食事だが、青空の下で潮騒を聞きながら食べる焼きそばはとても美味しかった。

 海水を掛け合って遊んだり、スイカが高かったので代わりに砂で山を作ってそれを目隠しして崩したり、砂の中に埋まってみたり、暑くなったらまた海に飛び込んだり、オレたちはクタクタになるまで遊び倒した。怜子がとても楽しそうだったからか、オレもいつになく笑ってはしゃいだ。

 日が傾くよりも早くに、そろそろ切り上げようと怜子が言った。体力的にはまだ遊べそうだったが、帰りも電車に長時間ゆられなければならないことを考えると、早めに切り上げたほうが無難だろうと、オレも判断した。帰り支度をして、砂浜で怜子を待った。オレよりも身支度にたっぷり時間を掛けた怜子がやってきた。顔や腕が、少し赤みを帯びている。日焼け止めを塗ってはいたのだろうが、それでも多少は日焼けをしてしまったらしい。雪のような白肌にほんのりと乗った赤さに、オレはドキッとした。

 列車に乗ってすぐに、怜子は寝息を立て始めた。水の中で動くのは、見た目以上にずっと疲れる。列車が奏でる定期的なリズムは、眠りに誘うのにはちょうどいいらしい。正直オレも眠りたかったが、怜子がオレの肩に体重を預けてきたのに気付いて、必死に我慢した。前回は眠りコケてしまったので、今回こそはと胸襟で呟いた。

 膝の前で組んでいた怜子の手が崩れて、オレのほうに寄りかかった。細くて、小さな手だ。オレはドキドキしながら、そっとその手を掴んだ。温かくて、柔らかかった。浅い眠りから覚めたような呻きを怜子が発したので、オレは慌てて手を離した。触れると折れそうなくらい華奢なのに、怜子の肩や腕はとてもふくよかに感じた。

 乗り換えの駅の直前で怜子を起こした。何とか眠らずにここまで来ることができて僥倖だ。途中で何度か落ちかけたが、歯を食いしばって必死に耐えた。怜子は恥ずかしそうに口元をハンドタオルで拭い(別に涎は垂れていなかった)、オレを見てプイと顔を背けた。怜子のこんな仕草にも段々慣れてきた。

 電車を乗り継いで、地元の駅まで戻ってきた。市長の像に辿り着いた頃には日も傾きかけていた。

 オレたちは空いているベンチに腰を掛けて、今日の採点をすることにした。

 戦略上、怜子が今日どのカードを切るかはだいたい予想が出来ている。恐らくゼロを出してくるはずだ。対してオレはマイナス1とマイナス2の手札しかなく、どちらを出してもポイントの総和がマイナスになってしまうので、次回のデートのことを考慮に入れて敢えてマイナス2を切るというのが今日の戦術だ。

 だが実際にマイナス2という評価をしているわけじゃないし、今日のデートはとても楽しかったので、もしプラス1が手札にあるのならオレは揺らいだかも知れない。幸いかどうかは知らないが、今日のオレはプラス1を使うことが出来ないので、躊躇うことなくマイナス2のカードを切ることが出来る。

 怜子が自身の黒いカードを一枚を抜いて、裏を向けてベンチに置いた。オレも白いカードから一枚を抜いて、怜子が差し出したカードの隣に並べた。

「それじゃ、オープンしましょ」

 怜子は白いカードを、オレは黒いカードを同時に表に返した。

 ディフェンス―――オレのカードはもちろんマイナス2。

 オフェンス―――怜子のカードは、プラス1だった。

「な、に?」

 全く予想外の展開に、オレは自分の目を疑った。

 怜子のカードは間違いなくプラス1だ。十字に縦棒が一つ。上から見ても横から見ても、ゼロにも丸にも見えない。

 なんでだ? なぜ怜子はプラス1を切った? まさか。まさかまさかまさか!

「今日のデート、つまらなかったの?」

 怜子の不満げな声が耳朶に響いた。

 顔を上げて怜子の顔色を窺った。

 真顔。

 怒っているわけでも、悲しんでいるわけでも、いつか見せた邪悪な笑みを浮かべているわけでもない。疑問に思っているのか、当然だと思っているのかさえ判らない。

 怜子の表情が、読めない。

 端整な面差しで、真っ直ぐにオレを見つめている。

 オレは何も答えることが出来なかった。思考が、感情が、言葉にならなかった。

 怜子は短めの嘆息を一つついて、立ち上がった。

「いいわ。次は怜司くんの番だから。忘れないでね」

 怜子は黒いカードをカバンに仕舞い、オレのことになど興味がないかのように去っていった。

 オレは瞬きすら出来ずに、駅前のベンチで自分の出したマイナス2のカードを見つめていた。

ちょうど半分くらいのところで止まっています。出来れば最後までお読みいただけると、終盤の大どんでん返しをお楽しみいただけるかと思います(読者様が大どんでん返しと判断されるかどうかは筆者には判りかねます)。よろしくお願いいたします。

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