煩悩その009「BOZZ、お釈迦さま出家の夜に宮殿へ行く」
今回は仏教の開祖「お釈迦様」が王子である立場を捨てて出家した日の夜にやってきました。
仏教・宋櫂宗の住職、大槻雲海は、この豪華絢爛なアジア風の調度品の数々が溢れ変える宮殿の寝室で目覚めた。
「ここはどこだ。私は本堂で瞑想をしていたはずだが…ここは、どこかの王室か」
≪紀元前7世紀。ネパールのルンビニにあるシャーキャ宮殿の中だ≫
渦の中の低い声。
「シャーキャ宮殿という事は、まさか…ここは」
雲海の声が緊張に震えた。
≪仏教の開祖。お釈迦様こと、ガウタマ・シッダールタ王子のいる宮殿だ。今日は彼が出家する夜にあたる日だ≫
「お釈迦様の…出家する日」
≪ガウタマ王子はすぐ回廊を抜けてすぐそこにいる。今回以降、外人との言語コミュニケーションできるようにしておいた≫
渦は言った。
夢には違いない。だが、夢以上に夢のような展開だ。雲海はそう思った。
すぐそこに仏教徒にとっての憧れの存在「青年時代のお釈迦様」がいるというのだから。
≪ガウタマ王子は今のままでは出家できない。王室において、彼の彼の背中を押す人物がいないからだ。雲海よ、お前が彼の味方となり歴史をつくるんだ≫
「ふむ。夢とはいえ…大役だな」
そう言いながらも、雲海はお釈迦様に会える緊張で震えていた。
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回廊を抜ける。
吹き抜けの四角い窓に両腕をつきながら、物思いにふける青年が立っていた。
満点の星空を見上げても、その黒い瞳に輝きが届いていないのだろう。どんよりとした目で青年は、ふぅと溜息をつく。
雲海は思った。この青年こそが…。
「お釈迦様…ガウタマ王子。は、は、はじめまして」
「誰だ」
眩い装飾品を纏い、腰までの豊かな黒髪が印象的な青年が振り向く。
「私は雲海…僧侶です。仏教の…」
雲海は多少、口ごもりながら自己紹介をはじめた。
「仏教とは何だ」
(ガウタマ王子が出家してない現時点では、仏教はまだ無いのだ。ならば仏教やヒンドゥー教の母体であるバラモン教を名乗ろう)と、雲海は思った。
「あ、いや…バラモン教の僧侶です」
「私はバラモン教が嫌いだ。どこから宮殿へ忍び込んだのか知らんが、無用な争いは好まない。従者を呼ぶ前に消えてもらえないか」
(ふむ。お釈迦様はバラモン教の身分制度やカースト制度に反発して、仏教を開いたんだったな。ならば…)
「私も…バラモン教徒でありながら、実はその教義を懐疑しています。ガウタマ王子は民衆の味方と聞いていて、一目お会いしたかったのです」
「ほう!堂々と異端を唱えるそなたに少し興味が湧いたぞ。なにゆえ、そのように申すのだ」
「身分上位者しか救済されない宗教など間違っています。弱者を虐げる教義に則ったバラモン教の体制を否定すべき、民衆のための新しい宗派が生まれるべきだと思うのです」
(…その新しい宗派、仏教をあなたがつくるのですよ。ガウタマ王子…)雲海は言葉を呑み込む。
「そうか…。実は私も同じことを考えていた。なので、こうやって夜毎に星空を眺めながら思いに耽っているのだ」
「ふむ…。成し遂げようにも、壁がある。そういう事でしょうか」
「そうだ。察しの良いそなたにだけ本音を打ち明けよう。私は、まさしく民衆のための宗派をつくりたいのだ。だが、そのためにはまずは悟りを開かねばならん。ゆえに私は宮殿を抜け出家したい。だが、我が父シュッドーダナ王が、それを許してくれないのだ」
「ふむ。お父上の立場としては王の座を継いで欲しいのでしょうな」
「父は、私が王を継げば、王国の安泰となり、永遠の幸福に満たされると言うのだ。私が話を持ちかけるたび、お前は王国の幸福を壊すのかと言われ、何も言い返せなくなる」
「ふむ。その永遠の幸福とは何でしょう。年もとらず、病気にもならず、死なない。またそれらによって不幸にもならない。そんな世界など、一王国の安泰で約束されるものでしょうかね」
「良いことを言うではないか。そうだ。その通りだ!永遠のものなど何もない。人が死ぬように、いつか王国はいつか滅びる。だが、人の精神に悟りがもたらされれば、人の死後も、王国なき世界においても、人が悟りを求める限り道は開けてくる。真の意味での永遠の幸福とはまさにそれだ。父は矛盾していたのだ」
「ふむ。そうかもしれませんな」
「今から父に直談判しよう。さきほどの、そなたの意見を取り入れさせてもらうぞ。父を完膚なきまでに論破して出家を認めさせてみせる」
ガウタマ王子は黒い瞳に決意の焔を揺らめかせ、言った。
雲海の発言に触発されたこの論理こそが、かの有名な「出家の夜、ガウタマ王子からシュッドーダナ王(浄飯王)への4つの願い」に結びつくこととなる。
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王室にガウタマ王子がいた。
シュッドーダナ王は寝巻き姿のまま息子を迎え入れる。雲海は扉の隙間からそのやり取りを見守る。
「ガウタマよ。こんな時間になにようじゃ」
「父上、国の王たる貴方が永遠の幸福の源であり、神に等しき万能なる存在ならば、私の4つの願いを叶えてください。この私を不老、不病、不死にして、不幸から遠ざけていただきたい。それができるのならば、私は神の意思にも等しいこの王国を守るため、王になりましょう」
「そのようなこと、できるわけなかろう。たわけが」
「それができぬなら、王は神にあらず、王国もいずれ滅ぶべき存在といえます。ならば、私は一国の王として世界に君臨するのではなく、修行の者として悟りを開き、人々に生と死を越えた教えを広めたい。永遠の幸福の実現を、王ではなく一個人として探求します」
「ならん。王国のためにも、お前には王の座を継いでもらう。お前がいなくなれば王国はわしの代で滅びる。或いは隣国に攻め入られるだろう。お前のそのような我侭によって王国を滅ぼす覚悟があるのか?何千、何万の民が命を落とすぞ。心根の優しいお前にはできぬだろう」
「滅びるものは虚しい。しかし、それを受け入れた先に新しい世界があるのではないでしょうか。命はいずれ尽きます。しかし、目先の滅びを怖れ、死を先延ばしにするあまり、恒久の真理を見逃しては、死そのもの、滅びの虚しさから脱することができぬまま、世界は虚無を漂う事となってしまいます。何千、何万の民の魂を救済すべく、悟りの探求をお許しください」
「もういい。戻れ!お前とは話にならん!お前の目が覚めるまで、従者に四六時中、見張りをさせる」
「父上、私はとっくに目が覚めています」
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数時間後。
寝室で妻と赤子を見つめるガウタマ王子に雲海が話しかける。
「ガウタマ王子。宮殿の裏門を空けておきました。従者たちは私の持ち込んだビール…いや、酒で眠りこけてます」
「恩に着る。白馬がいたはずだ。その馬にまたがりここを出よう」
「ふむ。ここまで準備をした私が言うのもなんですが…奥様とお子様。本当に良いのですか」
「妻は気丈だ、心配ない。私はこの息子が生まれたとき、ラゴーラと名づけた。ラゴーラ…束縛と言う意味の名前だ。ひどい父親だろう」
「ふむ。出家の妨げになるからでしょうか」
「そうだ。息子への情を捨てきるため、あえてそう名づけた。しかし彼と私の関係はいつか血の繋がり以上のものに変わる日がくるかもしれない。私が悟りを開き、彼が成長したら父子としての再会ではなく、彼を弟子として迎え入れたいと思う」
(ふむ。この赤子がお釈迦様の息子にして、後の釈迦十大弟子、羅睺羅さまになるのか)
雲海は感慨深く頷くと、ガウタマ王子と共に宮殿を出た。
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雲海とガウタマ王子は夜の闇を数時間を歩いた。
お互いの半生、宗教観、世界観について様々な意見を交換した。
お釈迦様の思想に根付いたとされる仏門ではあるが、その解釈と、後のお釈迦様となるガウタマ王子の思想に多少の差異はあれど、大きな部分では双方の意見は合致し、話は弾んだ。
ガウタマ王子は柔軟な思想の持ち主で、雲海の言葉に説き伏せられる事もしばしばあり、それを彼なりに解釈した言葉にまた、雲海が深く頷く事もあった。
深い森に流れるアノーマー河のほとり。
水面は月を反射させ、鈍い輝きが雲海とガウタマ王子を照らしていた。
「ここまで来れば、追っ手はこれないでしょう」
雲海が手を差し伸べる。ガウタマ王子が馬から下りた。
「雲海よ、そなたの手厚い手引きに感謝する。こういった無意味な宝石、装飾品は、この河に捨てておく。朝方になれば物乞いたちの生活の糧として拾われることだろう。王子としての私はここで死んだのだ」
ガウタマ王子は布一枚だけの姿となり、豊かな長い黒髪を頭上に束ねながら言った。
「ふむ。彼らの生活はそれによって救われます。しかしガウタマ王子の目的は彼らの魂を救済すること…これからどこへ向かうのですか?」
雲海は、ガウタマ王子がこれよりどこへ向かうのか知っていた。しかし、本人の気持ちを再確認したいと思い、訊ねた。
「私はこれより、マガダ国のラージャグリハを目指す。多くの求道者と知り合い、自分なりの悟りの道を模索したいと思っている」
「お気をつけてください」
雲海は泣いていた。
夢とはいえ、偉大なるお釈迦様の旅立ちの瞬間に立ち会えたことを光栄に思ったのだ。
ガウタマ王子は、その涙を友としての証と捉えたのか、信頼に値するこの男、雲海に最後の言伝を頼んだ。
「そなたに頼みがある。書置きでもいい。宮殿に戻ったならば、父にこう伝えてくれ。生と死の問題を、悟りによって解決するまで宮殿には戻らぬ、と」
「分かりました。これからは王国ではなく数万、数億の民のために修行を頑張ってください」
「世話になったな。雲海よ。別れの前に最後、お前の説く真の悟りを聞かせてくれ」
「私は、八正道を大事にしています」
「八つの正しい道という意味か…その心は?」
「正見…正しいものの見方をすること。正思惟…正しい思索をおこなうこと。正語…正しい言葉を話すこと。正業…正しい行いをすること。生命…正しい生活をすること。正精進…正しい努力をすること。正念…正しい自覚をもつこと。正定…正しい瞑想をすること」
「なるほど。意味深くもあり、生活に根ざした普遍的概念でもあるな。その意味が悟りを開いたのちに、この私にも分かるだろうか。雲海、そなたの師は何と申すのだ」
「先代住職だった父や、修行時代の恩師など、師匠はたくさんいます。しかし、一番の師匠は…仏陀です」
「仏陀…悟り人か。この私も、いつか悟りを開いた時、その名を名乗って良いものだろうか」
「ぜひとも、そうしてください。というより…そうあるべきです」
この時の雲海とのやり取りが、6年後のガウタマ王子に悟りのきっかけを与え、お釈迦様=仏陀へのきっかけとなったことを、雲海は知る由もなかった。
お釈迦様が八十歳で入滅後、弟子達によりその解釈の多様性から宗派は分岐し、2500年後の現在、仏教徒の総人口は4億人まで増加することとなる。
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雲海は本堂の仏像前で目が覚めた。
座禅を組み瞑想中に意識が途切れていたようだ。
「ふむ。いつの間にか寝ていたようだ。仏の道は奥が深い。死ぬまで修行の日々だな」
仏像―お釈迦様の前で、呟く。
雲海はもう一度、瞑想を始めた。
次回は、キリストが磔にされる前夜にやってきて…?