煩悩その001「BOZZ、異世界へ行く」
今回は異世界へ行ってみました。
仏教・宋櫂宗の住職、大槻雲海は荒れ果てた地で目を覚ました。身体を起き上がらせ、眼鏡のずれをなおし、周囲を見渡す。
頭上では血潮のような朱色の空が広がっている。照りつけるように暑かった。
雲海が少しよろけると、足元で人骨をすり潰して敷き詰めたような白砂がザクザクと音を立てた。
人影―なかった。
建物―おそらく、かつて建物だったもの。朽壊した吹き曝しの巨大な墓標が、遥か向こうに見えた。
「ここはどこだ」
袈裟に着いた砂埃をはたき「誰か」と名を呼んだ。返事はない。ただ歩いた。ただひたすら、だだっ広い平原の地を引きずる足で進むしかなかった。
「檀家さんの一回忌を終え、寺に帰る途中だったはずだが。たしか、どこかの墓の前で躓いて転んでしまって…」
雲海は、これは夢なのだと理解した。
「しんどい。やはり四十を越えると、夢の中でまで体力が衰えるのか」
恨み言は仏の意に反するが、素直な気持ちを言葉に出していた。
夢とはいえ、目的なしにうろついていても仕方がない。とりあえずあの建物を目指そうと方向を定めた。
あちらこちらにポツポツと疎らに生えている植物は、どれも枯れている。葉もない枝を垂らし、萎びた幹は地面に倒れそうになる寸前で踏みとどまっていた。
その白皮の痩躯な木々は、まるで荒野に打ち捨てられた罪人のように水と食料を求め、屈んだまま野垂れ死にを待つ姿に見える。
「ここは地獄なのだろうか」
おそらく地獄だろう。
地獄。それは、仏教の教えで、六道の下位である地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪趣の最下位にあたる場所だった。
ヒトは命を終えた後、三途の川を渡り、7日ごとに閻魔により裁きを受ける。そこで罪人は地獄へと落とされる。
焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄があるが、ここはどこにあたるのだろう。
蒸し暑いという点では灼熱地獄に近いのだろう。しかし、師に教えられたその様相とは、まるで違う。
雲海は右手を顎にあてる仕草をしながら考えた。
「これが夢だとしても、仏の御心によるお導きなのかもしれない。目が覚めるまで探索をしてみよう。地獄めぐりをした僧侶は私くらいかもしれない」
雲海の知的好奇心に火がついた。
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かつては街区だったと思しき、墓標―建物の群れが眼前に広がる。
「ようやく辿りついたはいいが、地獄にしては静かすぎないか。死者の姿も見当たらないではないか」
ふむ。と思案をあぐねる雲海の耳元へ、木々が風に揺らされる音に混じり、息遣いが聞こえてきた。
「魑魅魍魎の匂いがする」
雲海は歩みを止めなかった。それらは、お預けを食らったまま、獲物を逃さないように一定の距離を保ち、着いてくる。
雲海は、柔らかく目を閉じ、経を唱え始めた。
「仏 説 摩 訶 般 若 波 羅 蜜 多 心 経 観 自 在 菩 薩 深 般 若 波 羅 蜜 多 時 照 見 五 蘊 皆 空 度 一 切 苦 厄 利 子 不 異 空 不 異 色 即 是 空 空 即 是 色 想 行 識 亦 復 如 是 利 子 諸 法 空 相」
瞼の裏でそこかしこに影が横切る。経に呼応するかのように、空気がうねりをあげ、熱を膨れ上がらせていた。
「危ない、逃げな」
経の途中で、女の声と共に雲海は後方へ吹っ飛ばされた。
「何をする」
雲海は、尻餅をつきながら前方を見やった。そこには体長4、5メートルはある銀色の毛深い獣が直立して、空に向かい青白い焔を吹いていた。熱気が頬をなぶる。雲海は顔をしかめつつも、目を開き、状況を把握した。
「姿を現したか。現世では見ない形の生き物…これが魔物か」
雲海は獣―魔物と対立する「女」に視点をやった。裸に近い格好ではあったが要所は銀色の鎧で保護されている。女は、雲海を突き飛ばした後、長剣を振り回していた。
「やめなさい!修行を積んでいない貴女には魔物を退治する事はできませんよ」
雲海は叫んだ。女はチラとこちらを一瞥したが、魔物との間合いを取ったまま臨戦態勢を整えていた。
魔物が咆哮する。鼓膜が震える。大地そのものが揺れていた。空は渦を巻き、血潮を蒸発させたような濃厚な赤が広がっていく。
植物は相変わらず枯渇したままの状態で傾き、まるで「おいでおいで」をするかのように血なまぐさい風に吹かれ揺れていた。
「おのれ魑魅魍魎め」
雲海は女の元へ走り寄り、経の続きを唱え始めた。
「無 眼 界 乃 至 無 意 識 界 無 明 亦 無 無 明 尽」
魔物は雲海に向かい、爆炎を放った。法衣が焦げる。なんのこれしき、そう雲海が踏ん張ろうとした時だった。
「どいてな!」
再び衝撃。また、あの女だった。
「なぜ蹴り飛ばしたのですか。私は魔物を退治しようと」
「そんなモンここじゃ通用しないよ」
女が野太い声で叫ぶ。小さな体を俊敏に駆使し、魔物との間合いを詰め、天まで届くかのような長剣を振るった。
一閃。
女の斬撃は、魔物の右肩から腹部までを貫いた。青い血が滴る。断末魔の叫び。痙攣しながら魔物の眼球は迫り出し、口からは鋭く尖った乱杭歯が覗いていた。
「とどめだ」
女は魔物の頭部めがけて長剣を串刺しにした。低く、くぐもった声が止まる。すべてが終わった。荒野の白砂が青い体液の血溜まりを吸い込んで行く。
「ケガはない?」
女が振り返る。地獄の殺風景な平原が、一瞬にして輝くのを感じた。
輝きはやがて、いくつかのカタマリに収束し、金貨へと変わり、女の周囲に落ちた。
「あなたは…もしや弥勒菩薩様でしょうか」
雲海は女に向かい言った。
「違うよ。私は水田まりゑ(まりえ)。転生者さ。あんたは?」
女は落ちてきた金貨を拾い、袋に詰めている。
「私は雲海。住職です」
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雲海は朱色に燃える空の下、地獄の平原にて、枯渇し歪曲した樹木にもたれかかりながら、スマホを操作していた。
夢の中とは言え習慣は変えられない。アプリの煩悩飼育型ゲーム「カルマっち」が気になったのだ。
「圏外か」
「あんた坊さんなのに、そんなもの持ってるんだね。それゲームベイビーってやつだろ?」
「ゲームベイビー?古いですね、それ80年代のオモチャじゃないですか。これは見ての通り、スマホですよ。坊主とて、インターネットは駆使せねばならない時代ですからね」
「スマホ?インターネット?インターネットだったら聞いたことある気がするけどスマホは知らないね」
「ふむ。私の発音が悪かったですかね。スマフォと言えば良かったのでしょうか。それはいいとして…まりゑさん、あなたは先ほど、自らを転生者と名乗りましたよね?」
「そう、あたしはね、21年前に死んでこの世界に転生したんだよ。生前のあたしは、いわゆるお局OLだったんだけど、お昼休憩にレストランから会社に戻る途中、ダンプカーに撥ねられそうになって、それを避けたら自転車に撥ねられそうになって、それを避けたら目の前に踏切があったんだ。でもなんとか電車に轢かれずに済んで、そのまま会社に向かおうとしたら通り魔に襲われて返り討ちにしたはいいけど、会社に戻ったあとに飲んだお茶に同僚が入れた毒が入ってて、何とか無事に一命は取り留めたはいいんだけど、同僚に殺されかけたショックで病院の屋上まで行って、飛び降りようかと思ったけどそれは止めて、退院した後、運命の出会いがあって、その愛する彼氏に旅行に連れて行ってもらった海外で強盗に銃を突きつけられ、返り討ちにして、その後、帰国してから…」
「はぁ」
「結論から言うね。死因は、老衰の心不全。あたし、けっこう長生きだったんだよ。今は21歳の姿だけど、現実世界では98歳のお婆ちゃんだったのさ。よく聞く話だけど、20代や30代で死んで転生するなんて不幸もいいところだろ。その点あたしは人生の色んなことを100年近く経験して、出涸らしになった状態で転生してきたから、第2の人生ゲットで丸儲け状態ってわけさ。ちなみにお局OLだった頃の話は戦後の話だよ。ちょっと表現が若々しすぎて紛らわしかったかね」
「ふむ。長く説明していただき感謝します。聊かついていけない部分もありましたが、つまり今から21年前に、98歳で心不全で亡くなったという部分だけは理解できました。ところであなたの戒名は?」
「分からない。死んだ人間は死んだ後に名前をつけられても分からないよ」
「なるほど。では先ほどの話に戻りますが、あなたはご自分を、転生者と言いましたね」
「うん」
「転生…つまりヒンドゥー教で言うサンサーラ。仏教で言う輪廻。つまり、あなたはこの世界に転生してきたと言うわけですか?」
「そう。この異世界に赤ん坊として転生してきて21年をここで過ごしてる」
「異世界とは?」
「日本やアメリカのない世界」
「なるほど。ここは現世ではない。異世界という名の地獄なのですね」
「いや、地獄ではないと思うよ」
「なぜそう言えるのでしょう」
「ここには喜びも沢山あるから」
「ふむ。確かに地獄と言うのは罪人の魂が堕ちる場所であり、喜びとは無縁の地。それに人間が転生する場所ではないです。重ねて言えば、まりゑさん、あなたは地獄に堕ちるような人間に見えませんからね。とても良い人です」
「でしょ?」
「しかし、先ほどの魔物、魑魅魍魎の存在からすると、恐らくはあなたが言うこの異世界の正体は、地獄でないにせよ、畜生界、修羅界のどちらかだと私は思うのです」
「ここの世界の仏教界での正式名称なんて知らないから、そうなのかもね」
「だとすれば、先ほどのあなたの転生者という表現は覆ります。ここが六道のうちのどこであれ、こういった場所は、人間が転生すべき場所ではないからです」
「どういうこと?」
「人間の転生先は、現世。つまり日本やアメリカがある世界しかないのです」
「仏教で言う転生の定義はそうなんだね」
「まりゑさん。酷なことを言うようですが、あなたはどういうわけか、この21年間、畜生界もしくは修羅界に迷い込み、成仏できず彷徨われている…そういう事になります」
雲海はこれが夢だと思いつつも、真面目に考証しまりゑにそう告げた。
「彷徨っている…か。でもさ、あたしはこの世界に住んでるんだよ?」
「住んでいるとは?」
「あの向こうに逢魔ヶ扉ってのがあって、あたしのいる村や王国はその扉の向こうにあるんだけど、今日はこの死骨砂漠にベヒモスを倒しにきたの。金貨が欲しくてね」
「ベヒモス…さきほどの魔物の名ですか。魔物を倒し金貨を得るという因果律も仏教の教えにはありませんから私には何とも…」
「あまり難しく考えなくていいんじゃないかな」
「私もここへ呼ばれた以上、ここがどこなのか考えねばなりません。さて…ここはどこなのでしょう?ひとまず仏教の世界ではないと仮定すれば、ここはキリスト教の管轄区域なのでしょうかね」
「それも違うと思う…」
「ふむ」
「結論から言うと、ここは、ヴァニシングファンタジーっていうゲームの世界なんだよ」
「ゲーム?ヴァニシングファンタジー…」
「雲海さん、檀家さんの家でゲームとかやらなかった?」
「ヴァニシングファンタジー11とかいうゲームでしたね。檀家さんの家に小さな男の子がいて、彼がトイレに立った数秒間、リモコンを渡されたのは覚えてますが。でもすぐにリモコンを返却し、その家を出ました」
「リモコンに少しだけ触れたんだね?あたしの場合、孫とそのゲームをやってる最中に心不全で死んだみたいなんだよ。あたしの場合ヴァニシングファンタジー2だったけどね。だから、この異世界に…」
その時、空間に仄暗い渦が現れた。
「なんだこれは」
渦から送り込まれる熱風が、雲海の法衣を煽り、はためかせている。まりゑは成り行きをただ、見ていた。
≪すまん。雲海よ、お前は寺に戻る途中、墓石で頭をぶつけて死ぬはずだったが、今回は死ななかった。死んだと思って、そなたを手違いでここへ転送させてしまった。戻りたくば、この穴に飛び込め≫
渦の中から聞こえてくる低い声が、そう言った。
「ふむ。夢の中での地獄めぐりもこれで終わりか」
雲海は思った。
まりゑは言葉を失っていた。
「まりゑさん、あなたも来ますか」
まりゑは無言だった。彼女はしばらく考え込んでから首を振った。
「そうですか。それではお達者で」
少しだけ寂しそうな顔のまりゑに、深くお辞儀をすると、迷いもなく雲海は穴に飛び込んだ。
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目を覚ますとそこはお寺の境内だった。
雲海は墓前の前に倒れていた。
「そうだ。私は墓の前で躓いて転んだ。そして気を失っていたのだ」
雲海が立ち上がり、法衣についた土埃を払いながら視線を向けた先。
水田家乃墓―。墓石には水田まりゑ。享年98才とあった。
「水田…そうか、うちの檀家さんだったのか。まりゑさんは21年前に他界してる。という事は、私の父、先代住職がこの寺にいた頃だ」
雲海は経を唱えた。
夢の中とは言え、まりゑに出会った雲海は、彼女の魂を供養し、平穏を願わずにはいられなかった。
「届いているだろうか」
雲海はひたすら墓前で経を唱えた。
(あたしがいるのは、異世界。ヴァニシングファンタジーの世界だよ)
まりゑの声が風に乗って聞こえてきた。ような気がした。
「はて。法衣が焦げている」
夢か現か。
雲海は異世界での短い時間の冒険を反芻しながら寺へ戻っていった。
次回はゾンビ世界。まりゑさんの孫娘マリさんが出てきます。