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後編





気落ちしつつ通されたのはとても広く綺麗な部屋だった。

ベッドも小さくないのが二つある。


「すみません、手洗いに行ってまいりますので、その、拘束を……」


どうにか漕ぎ着けた宿泊にホッと一息吐くと、ロイがロープを手に気まずそうにしている。

彼は今日一日一度も彼女の側を離れていない。

そろそろ限界なのだろう。


それを見たジェーンは又しても縛られるのかと顔を青くし、そして意を決する。


「あの、ロイさん」

「はい」

「私逃げません。逃げても、帰る場所がないので」

「……………」

「信じて貰えませんか?」


とは言え、盗んだ商品が逃げる隙を与える賊は居まい。

ジェーンは半ば無理だろうと思いながらも逃げる意思がないことをロイに分かって欲しかった。

そんな彼女の必死な様子を残っている左目でジッと見つめるロイ。


「………分かりました。貴女を信じます。だから決して私から逃げないでください。自分でも何をするか分かりませんので」


ロイの低い声には沼の奥底のヘドロのように醜悪な禍々しさが含まれていた。

ドロリとしたそれは彼女の身体を這うように絡めとる錯覚を起こさせる。


「決して、決してロイさんから逃げません」


恐怖から出たその言葉にロイは頷くと、そのまま本当に彼女を縛らず手洗いへと向かった。

すぐに帰って来たロイが部屋の中で大人しく待っていたジェーンを確認すると、凶悪な顔を歪めて幸せそうに笑う。


ジェーンは一瞬で恐怖を忘れ、それに惚けてしまう。

他人を魅了することが常の彼女が怪物のような男を魅入る光景は、滑稽でいてどこか倒錯的であった。



ジェーンは目覚めると一人であった。

隣のベッドは空で、代わりに枕元に新品の服と日用品諸々が並べてある。

全てロイが用意してくれたのであろうと推測すると、いつまでも呑気に眠っていた自分が恥ずかしくなる。


手触りのいい上質な生地で出来ている可愛らしい薄桃色のワンピースへと着替える。

既製品の服はいつもバストがきつかったりウエストが緩かったりするので自分で縫い直しているのだが、この服は不思議とジェーンの身体にピッタリであった。

部屋に備え付けられた鏡の前で一回転するジェーン。

ふわりと広がるスカートに久々に乙女心が跳ねる。


早くロイへと礼を言いたい彼女は足早に部屋を出る。

そして受付で昨日の店主と話し込んでいる彼の後ろ姿を見つけた。


「いいじゃねぇですか旦那。お代は弾みますから」


何やら店主の方が必死の様子でロイに頼み込んでいるらしく、邪魔しては不味いかと二人の会話が終わるのを少し物陰で待つことにする。


「旦那花街の仲介人でしょ? どうせ売るんだったら一回くらい小遣い稼ぎすればいい。バレないですって」

「……………」

「あんな綺麗な娘に一度でいいから相手してほしいのが男の性ってもんだ。

手持ちで足りねぇなら貯金崩す覚悟です。あの器量だ。どうせ店に出れば一般人にゃ手が届かない金額になるんでしょ」


にやりと笑う店主にジェーンは頭から冷水を浴びたような衝撃を受ける。

店主が喋っているのはもしや自分のことではないのか。

ロイはジェーンをどこかへ売り捌く。

それは彼女も分かりきっていた事実であるが、改めて眼前に突き付けられればダメージは大きい。


後ろ姿の彼は今、店主にいくらでジェーンを相手させようかと思案しているのだろか。

振り向いた時のロイの顔を想像すると足がすくむ。

堪らず裏口から宿を飛び出してしまった。


逃げるつもりはない。

ただ、諦める時間が欲しかった。


十人中十人が振り返るジェーンであるが、暗く俯く今うまく人混みに紛れて歩く。

そうして居るうちにいつの間にやらフラフラと治安の悪そうな場所まで辿り着いた。

朝だというのに酔っ払いがのさばり、脛に傷のある野郎共が上等な服を着て陰気に俯く女にギラリと目を光らせていた。


「おっと、痛ぇなコラ」


ほぼ下を向いていたジェーンは当然のように人にぶつかってしまった。


「あ………ごめんなさい」


ぶつかって初めて、自分が不味い場所に居ることに気付いた。


「怪我人になんてことしやがる。痛たたた、駄目だな完全に傷が悪化しやがったぜ」

「え?」


戸惑いながら改めて大袈裟に痛がる男を見上げて、ジェーンは瞠目する。


「こりゃ多額の治療費が………」


顔を上げたジェーンの視線に気付いた男もまた芝居掛かった演技を途中で止め閉口する。

しばらく互いに驚愕し言葉もなく見つめ合った。


「驚いたな……こんな別嬪は初めて見た」


驚愕から覚醒した男が感嘆の溜め息を吐く目の前で、ジェーンは緊張の冷や汗を掻いていた。


(どうしよう………この人、馬車の中に居た人だよね?)


そう、ロイに馬車から投げ捨てられた内の一人、それもジェーンのことを醜女と罵りロイの逆鱗に触れた年若い男だ。

予想通りその時怪我を負ったらしく、頭と腕に包帯を巻いている。


「どうもすみませんでした。それじゃ」

「ちょっと待ってくれよ、もう少しいいだろう」


このまま逃亡を謀るべく回れ右をしたのだが、男に腕を掴まれ阻止されてしまった。


「しかし本当に綺麗だなぁ。いい拾いもんしたぜ」

「いやっ、何!?」


腰や尻をねちっこく撫でられ、上擦った声が耳を擽る。


「んっ、やっ」

「んな色っぽい声出すな、他の奴らが吸い寄せられちまってるじゃねぇか」


ハッとして周囲を見渡せばそこら中の男達がこちらを見ており、心なしジリジリ近付いて来ているようだ。


「ここじゃ奪われちまいそうだ、俺の宿でゆっくりしようぜ」

「嫌です! 離して!」


この状況を脱しようともがくが、男の腕はジェーンの肩に巻き付き離れそうもない。

固くて乱暴で苦しい。

暖かく優しいロイの腕の中の居心地と比べれば雲泥の差だ。


あの中に早く戻りたい。

そう思っている自分が馬鹿馬鹿しくなり自嘲する。

飼い主になついてしまった頭の悪い家畜のようだ。

いずれ売られるのに飼い主が大好きなんて馬鹿みたい。


「うぉ!? なんだよ!?」


益々ジェーンが落ち込んでしまったその時、急に男の腕から解放された。


「その娘は俺が見つけたんだぞ! って―――お、お前は、馬車の………」


強引に引かれジェーンから引き離された先を鼻息荒く振り返った男は固まった。


「彼女は私が見つけたのだ」

「ロイさん」


つい今しがた望んだ腕の中でジェーンは切ない想いに胸を締め付けていた。


「じゃあ連れてたマントの女はこの娘かよ」

「この人に触れれば首をへし折ると忠告したはずだが?」


気付くと周囲の男達はロイを見るやいなやそそくさと居なくなっていた。


「消えろ」


ロイが一歩近づくと男の顔がみるみる青くなっていく。


「分かった、分かったって」


今度こそ本当に首をへし折られそうで慌てて背を向ける。

が、少し離れるとチロリと名残惜しそうにジェーンへと振り返る。


「あのさ、その娘譲ってくれねぇか? デカイ仕事を終えたばかりで金ならあるし」


ジェーンは男の言葉に身体が強張る。

このまま差し出されたらどうしよう。

泣いてしまいそうだ。


「あんたもさ、この男より俺の方がいいだろ? これでも結構大切にする気はあるし……」


照れ臭そうに喋りかけてくる男だったが、残念ながらジェーンの耳には届いていない。

ロイに売られてしまうのか、そればかりが気にかかる。


「………彼女の意思など関係ない。ジェーンは、ジェーンはもう私のものだ。もう一度だけ言う、消えろ」


ロイの顔を見た男は小さく悲鳴を上げた後、結局去っていった。

一方ジェーンの方は呼ばれた自分の名に戸惑っていた。

今までロイに名乗っていなかったからだ。


何故自分の名を知っているのか尋ねようとロイを見上げたジェーンは、彼の恐ろしい表情に驚く。

それは大の男でも腰を抜かしそうな凶悪さだが、鋭い左目の中にとても悲しげな色が浮かんでいた。


「貴女は逃げないと約束してくれました。だが、逃げた」


ジェーンを捕らえるロイの腕に力が入る。

彼が全力で抱き込めば勿論ジェーンはたちまち悲鳴を上げるだろうから力加減は調整しているのは分かるのだが、それでも苦しい。


「違うんです。逃げたわけではなくて、少し考えたくて。それで、あの、ロイさんにお願いがあるんです」

「…………なんですか?」


まだ悲愴な面持ちのロイに気圧されつつも意を決して口を開く。


「私、今はまだ娼館には行きたくないです」

「は?」

「だから、えっと、その場その場でお客さんを取ります。それでお金を稼いでロイさんにお渡しします。上手くやる自信はないけど、とにかく頑張ります!」


これがジェーンが落ち込みながら考え込んでいた内容だった。

身体を売る腹はとっくに括っている。

金持ち相手の愛人から不特定多数になるだけだ。違いなんてそうない。


だがどうしたことかロイとは離れ難い。


「少しだけでいいんです。もう少しだけ、ロイさんの側に居てはいけませんか? 」


せめてこの気持ちがなんなのか分かるまで。

何がここまでジェーンを掻き立てるのか。


「しばらく経ったらきちんと娼館へ行きますので、どうかお願いします」


懇願してみるが、こちらの都合ばかりでロイにとっていい話でないことは分かっている。

経験もないジェーンでは花も高値では売れないだろう。

それにロイは立派な成人男性だ。

恋人や奥方、子供も居るかもしれない。

商品がいつまでも纏わりついては邪魔だ。


それでもあと少しだけ。



「………やはり、私から逃げるのですね」


酷く暗い声がジェーンの頭上に降り注ぐ。


「確かに他の男達に身体を売る方が私と居るより余程マシでしょう。それは分かっていました。しかし私は本当に貴女に何もするつもりはありませんでしたよ」


言葉の意味が理解出来ず首を傾げるジェーンを自分の方へ向かせると、彼女の顎に手を掛ける。


「ただ側に居てくれるだけで良かった。だが逃げるのならば、私は今からジェーンを犯しましょう」


その左目にはハッキリと欲情の炎が燃え盛るのに、ロイの顔はどこまで行っても悲愴だ。

ジェーンは何故だかそれから目が離せない。


「逃げれば自分でも何をするか分からないと言ったでしょう。化け物のような男に犯され絶え間なく孕ませられるのはさぞおぞましいでしょうね」


言葉を重ねるごとに顔色が悪くなるのはロイの方だ。

なのに欲情の色も強くなっているのだから器用なものだ。


「貴女を他の男にやりたくない。そうなるならばいっそ二人で心中したい。貴女は私のものだ。嗚呼ジェーン、すまない」


果実のように潤う可憐な唇にロイはかさつく自分の唇を寄せた。

犯すと宣言されたジェーンの胸はそれでも高鳴っていた。


(そっか、私はロイさんを―――)


「ジェーン、愛してます。愛してるんだ、すまない。すまない、どうか許さないでくれ、愛してる」


悲しみに押し潰されそうな謝罪。

ジェーンは震えるロイの大きな背中に手を回すことにより、それに返事を返したのであった。





end

唐突ですが以上で終わりです。

あとはロイ視点を一話だけ番外として入れます。


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