第一話「青い肉」
シベリアの冬は長い。
針葉樹の森を白く染める雪は、春の訪れとともにようやく姿を消す。しかし、短い夏が過ぎれば、再び大地は凍てつく。
そんな土地で、奇妙な噂が広まり始めた。
狼が速すぎるのだという。
最初に異変を訴えたのは、森に出入りする猟師たちだった。
ある猟師は、雪原を横切る一頭のトナカイと、それを追う狼の群れを目撃した。
トナカイは狼たちを大きく引き離していた。猟師が双眼鏡を構えたときには、両者の間にまだ相当な距離があった。
ところが、その距離が急速に縮まり始めた。
狼たちが一斉に加速したのだ。
先頭の一頭が雪を蹴り上げ、恐ろしい勢いでトナカイに迫る。
後続の狼たちも遅れることなく続いていた。
トナカイは逃げた。首を伸ばし、四肢を懸命に動かして雪原を駆ける。
しかし、引き離すどころか、狼たちはますます近づいてきた。
先頭の狼が勢いよく跳躍した。
その牙がトナカイの後脚を捉える。
獲物が体勢を崩したところへ、残りの狼たちが次々と襲いかかった。
猟師が双眼鏡を下ろしたときには、すでに狩りは終わっていた。
また、ある猟師は「普通なら諦めるような長い距離を、狼たちが執拗に追跡し続けていた」と証言した。
もっとも、当初は誰も本気にしなかった。
狼は元々、優れた持久力を持つ捕食者である。
雪原を長時間走り続けることも珍しくない。
ましてや、猟師の目撃談には誇張がつきものだ。
しかし報告は途絶えなかった。
やがて、ある大学の研究者たちが調査に乗り出した。
目的は、狼の生態に何らかの変化が生じているのか、自身の目で確かめることだった。
研究者たちは現地を訪れ、猟師たちへの聞き取りを始めた。
だが、肝心の狼を捕獲することは容易ではなかった。
そこで彼らは、ある猟師に協力を求めた。
その男はシベリアンハスキーを飼っていた。
長年、狩猟の傍らで共に暮らしてきた犬だった。
「最近、妙に元気でなぁ...」
猟師はそう語った。
聞けば、以前は一時間も走れば疲れを見せていた愛犬が、近頃は三時間走り続けても平然としているという。
年齢を考えれば、むしろ体力が衰えていてもおかしくなかった。
ところが、その犬は若い頃よりも力強く、活発になっていた。
研究者たちは興味を示した。
狼に起きているとされる異常と、何らかの関係があるかもしれない。
猟師の了承を得て検査が行われた。
そして、採取された試料から、既知のものとは異なるウイルスが検出された。
しかし、それだけだった。
未知のウイルスが存在することと、それが犬の身体能力を向上させたことは全く別の話である。
研究者たちは慎重だった。
追加の調査が必要だと判断されたものの、狼の異常についても決定的な証拠は得られなかった。
やがて研究者たちは現地を離れた。
猟師の生活も、以前と変わらぬものに戻った。
犬は変わらず元気だった。
森を駆け、主人に付き従い、食事を平らげ、夜になれば眠った。
猟師の心配とは裏腹に、特別な治療が必要になることもなかった。
そうして、いくつもの季節が過ぎた。
そしてある日、犬は死んだ。
病に苦しんだわけではない。
長い年月を生き、老い、寿命を迎えたのだった。
猟師は深く悲しんだ。
長年連れ添った相棒を、そのまま土に埋めてしまうことが惜しかった。
せめて姿だけでも残しておきたい。
そう考えた男は、かつての愛犬を剥製にすることにした。
作業台に横たえられた犬の身体は、すでに冷たくなっていた。
猟師は毛皮に刃を入れた。
獲物の皮を剥ぐことには慣れていた。
それでも、長年連れ添った愛犬を相手にするのは、いつもとは勝手が違った。
男は手を止め、犬の顔を見た。
何度も見慣れた顔だった。
小さく息を吐き、再び作業に戻る。
異変が明らかになったのは、そのときだった。
慎重に刃を進め、毛皮を持ち上げる。
その下に現れた肉を見て、猟師は手を止めた。
肉が、青かった。
薄い青紫色などではない。
筋肉の一部が、明らかに青く染まっていた。
男は目を疑った。
作業場の照明を確かめ、顔を近づける。
見る角度を変えても、その色は変わらなかった。
生前、犬の身体にそのような異常を見つけたことは一度もなかった。
毛皮に覆われていて気づかなかったのだろうか。
それとも、死後になって何かが起きたのだろうか。
理由はわからなかった。
ただ、男には一つだけ思い当たることがあった。
以前、この犬を調べに来た大学の研究者たちである。
あのとき、彼らは未知のウイルスが見つかったと話していた。
思い立つと猟師はすぐに大学へ連絡を取った。
犬が死んだこと。
剥製にしようとしたこと。
そして、その肉が青かったこと。
話を聞いた研究者は、すぐには返事をしなかった。
しばらくして、犬の遺体がまだ残っているかと尋ねた。
猟師が残っていると答えると、研究者は保存状態についていくつか質問した。
最後に、こう告げた。
「もう一度、そちらに伺ってもよろしいでしょうか?」




