『妹が「その婚約指輪は私のもの」と泣くので譲りました――ただし、その指輪は侯爵家の全債務を引き継ぐ契約印です』
「お姉様。その指輪を、私に返してください」
婚約披露の広間で、妹のアデリナは泣いていた。
百人を超える招待客の前だった。楽団は演奏を止め、給仕たちも銀盆を抱えたまま動けずにいる。
私は右手にはめた青い宝石の指輪を見た。
今夜、婚約者のルシアン・ヴァロワ侯爵令息から贈られたばかりのものだ。王国西部で採れる蒼晶石を、銀の蔓が包む意匠。ヴァロワ侯爵家の花嫁が代々受け継いできた婚約指輪である。
「返す、とは?」
「それは本当なら、私がいただくはずの指輪でした」
アデリナは胸元を押さえ、震える声で続けた。
「ルシアン様は、幼い頃に私をお嫁さんにすると約束してくださったのです。けれど、お姉様が侯爵家の事業を手伝うようになってから、何もかも変わってしまいました」
会場がざわめいた。
私は隣に立つルシアンを見上げた。彼は気まずそうに視線をそらした。
「幼い頃の話だ。だが、約束したことは事実だ」
「では、私との婚約は?」
「父上同士が決めた政略結婚だ。君なら侯爵家を支えられると思ったから受け入れた」
「今は、そう思わないのですね」
「そういう言い方はやめてくれ」
ルシアンの声には、私を責める響きがあった。
「君は何でも一人でできる。帳簿も契約も、私より詳しい。だがアデリナは違う。私が守らなければならない」
なるほど。
三年間、侯爵家の債権者を回り、返済期限を延ばしてもらった。赤字だった毛織物工房を整理し、新しい染色法を持つ職人を雇った。鉱山輸送の契約を見直し、半年ごとの利払いを一度も遅らせなかった。
その結果が、「何でも一人でできる」だったらしい。
「セレスティーヌ」
父が人垣から進み出た。
「今夜は祝いの席だ。騒ぎを大きくする必要はない。姉なのだから、アデリナの気持ちを汲んでやりなさい」
「お父様は、私に何を望んでいらっしゃるのですか」
「婚約を妹に譲りなさい」
母もアデリナの肩を抱いて頷いた。
「あなたは昔からしっかりした子でしょう。別の縁談もすぐに見つかります。でも、この子はルシアン様でなければ駄目なの」
「指輪も?」
「もちろんよ。婚約者が替わるのですもの」
アデリナが涙に濡れた顔を上げた。
「お姉様。私から大切な人を奪わないで」
奪った覚えはなかった。
ルシアンとの婚約を最初に望んだのは父で、承認したのはヴァロワ侯爵だ。侯爵家の財政が傾き、数字の扱える花嫁を必要としていたから、私が選ばれた。
だが今、それを説明しても意味はないだろう。
「分かりました」
私が答えると、アデリナは目を見開いた。
「本当に?」
「ええ。婚約も指輪も、あなたに譲ります」
ルシアンと両親が、揃って安堵の息を吐いた。
私は指輪を外す前に、給仕長を呼んだ。
「ヴァロワ侯爵家の家令と、王立契約院の立会人をこちらへ」
「なぜ契約院を?」
父が眉をひそめる。
「この指輪は、ただの宝飾品ではないからです」
私はアデリナに向き直った。
「あなたは、指輪に付随する契約書を読みましたか」
「婚約指輪に契約書なんてあるの?」
「あります。ヴァロワ侯爵家の花嫁は次期当主の共同保証人となり、家門が負う債務について当主と同等の責任を負う。その証明となるのが、この継承指輪です」
ルシアンが小さく舌打ちした。
「今、その話をする必要があるか?」
「あります。契約上の地位を譲渡するのですから」
「大げさだ。借金なら、事業が好調になれば返せる」
「残額をご存じですか」
「父上から聞いている。金貨八千枚ほどだろう」
「昨月末で、四万六千三百枚です」
広間から音が消えた。
アデリナの涙まで止まっていた。
「そんな……」
「鉱山開発の元金、旧工房の退職金、三つの商会への支払手形、先代侯爵夫人の療養費。金貨八千枚は、今年中に支払う分だけです」
「でも、お姉様が返せるようにしたのでしょう?」
「その予定でした」
私は三本の指を立てた。
「染色工房の利益。北部商会との長期輸送契約。そして、私の個人保証による金利の引き下げ。この三つが揃えば、七年で完済できる計画でした」
「なら問題ないじゃない」
「私が婚約者でなくなれば、私の個人保証は外れます。北部商会との契約者も私です。染色法の使用許可は、開発者である職人と私の共同名義です」
母が顔色を変えた。
「家族なのだから、そのくらい残していきなさい」
「私の家族はディオン伯爵家です。ヴァロワ侯爵家ではありません。それに今、お母様は私を侯爵家の婚約者から外そうとなさっています」
「屁理屈を言うものではない」
「契約とは、そういうものです」
家令と契約院の立会人が到着した。
私はもう一度、アデリナに尋ねた。
「契約書を読みますか」
「お姉様は、私を諦めさせたいのね」
「読むかどうかを聞いています」
「読みません。ルシアン様となら、どんな苦労だって乗り越えられます」
それが二度目の忠告だった。
立会人は鞄から分厚い契約書を取り出した。要点を読み上げようとしたが、ルシアンが遮った。
「時間の無駄だ。私が責任を持つ」
「では確認します」
私は指輪を掌に載せた。
「この指輪を受け取れば、婚約者としての権利とともに、ヴァロワ侯爵家の全債務に対する連帯責任を負います。それでも受け取りますか」
「もちろんよ」
三度目の忠告だった。
私はアデリナの右手を取り、指輪をはめた。
蒼晶石が一度だけ白く光り、契約の成立を告げた。
招待客から、まばらな拍手が起きる。
ルシアンは妹を抱き寄せた。
「これで、すべて正しい形に戻った」
「ええ」
私は微笑んだ。
「権利も責任も、すべてお返ししました」
翌朝、私はヴァロワ侯爵家の執務室を片づけた。
家の帳簿、債権者名簿、返済計画書は金庫に残した。どれも侯爵家の所有物だ。
持ち出したのは、私個人が取得した商業管理士の免状と、北部商会との雇用契約、職人たちが私宛てに送ってくれた手紙だけだった。
机の上には、引き継ぎ書を三部置いた。
昼前、ルシアンがアデリナを連れて現れた。
「北部商会から使者が来た。君が担当を外れるなら、輸送契約を見直すと言っている」
「当然でしょう。あれは侯爵家ではなく、私への信用で結ばれた契約です」
「無責任だと思わないのか」
「昨日、責任を引き受けると仰ったのはあなたです」
アデリナは指輪を隠すように手を握った。
「お姉様。私は帳簿なんて読めないの」
「引き継ぎ書の第一章に読み方を書きました」
「そうじゃなくて、今までどおり手伝ってほしいのよ」
「なぜです?」
「姉妹でしょう?」
「婚約者を譲る時には便利な言葉ですね」
私は最後の鍵を机に置いた。
「報酬を支払うなら、商業管理士として相談を受けます。料金表は引き継ぎ書の末尾にあります」
「家族からお金を取るの?」
「ヴァロワ侯爵家は家族ではありません」
その日のうちに、私は王都を出た。
向かったのは北西のエルヴァン辺境領だった。
領主のテオドール・エルヴァン辺境伯とは、鉱山輸送の交渉で何度も顔を合わせていた。冬には道が凍る土地で、荷馬車の損耗も大きい。私は帰りの空荷を減らすため、王都の商品を村々へ届ける共同便を提案した。
ヴァロワ侯爵家には「田舎相手の小銭稼ぎ」と笑われたが、テオドール様は違った。
「街道沿いの村が、冬にも薬と塩を買えるようになった」
彼は利益より先に、そう言ってくれた。
辺境領に着くと、城門の前に十台の荷馬車が並んでいた。
「待っていた」
テオドール様は自ら私を迎えた。黒い外套には雪が積もり、手には分厚い帳簿を抱えている。
「北部商会から連絡が来た。あなたが自由になったなら、こちらで新しい輸送会社を作らないか」
「私が婚約を解消されたことを、もうご存じなのですか」
「商人の情報は風より速い」
「醜聞とは思いませんか」
「契約を読む女性を捨てて、読まない女性に替えた男の方が、よほど醜聞だろう」
思わず笑ってしまった。
その日から、私は辺境領の商務顧問となった。
北部商会と新しい会社を設立し、鉱石を運んだ帰りの荷台に薬、塩、紙、農具を積んだ。村ごとの需要を記録し、季節に合わせて便数を変えた。雪解け水で橋が落ちる時期には倉庫へ多めに備蓄した。
半年後、会社は黒字になった。
同じ頃、ヴァロワ侯爵家では最初の手形が不渡りになった。
北部商会との金利優遇がなくなり、債権者たちは一斉に条件を戻した。染色工房の職人たちは、アデリナが「昔ながらの華やかな色にして」と開発方針へ口を出したため、全員で退職したらしい。
ルシアンから手紙が届いた。
『君が仕組んだことだろう。すぐ王都へ戻り、元に戻せ』
私は料金表を同封して返した。
二通目は父からだった。
『アデリナまで債権者に責められている。姉として助けなさい』
私は契約成立時の記録の写しを送った。三度の忠告と、アデリナ自身の同意が、立会人の署名つきで残っている。
三通目は王立契約院から届いた。
ヴァロワ侯爵家が、婚約移転契約の無効を申し立てたという。
私は王都へ戻り、公開審理に出席した。
審理室にはルシアン、アデリナ、両家の両親が並んでいた。半年前より、全員がずいぶん痩せて見えた。
「セレスティーヌが債務を隠していたのです」
ルシアンは裁定官へ訴えた。
「婚約を譲ると言いながら、事業契約だけを持ち去りました。悪意ある詐欺です」
裁定官が私を見る。
「反論はありますか」
「契約書を読むよう三度勧めました。債務総額も、その場で伝えています」
立会人の記録が読み上げられた。
一度目。指輪に契約書があると説明。
二度目。立会人による要点の読み上げを提案。
三度目。全債務への連帯責任を明言。
すべてを拒み、指輪を受け取ったのはアデリナだった。
「でも、四万枚もの借金があるなんて、本気だとは思わなかったのです!」
妹が声を上げた。
裁定官は静かに尋ねた。
「冗談だと判断した根拠は?」
「だって、祝いの席でしたし……お姉様はいつも何とかしてくれました」
「契約者が何とかしてくれると思ったので、内容を確認せず署名した。そういうことですか」
アデリナは答えられなかった。
婚約移転契約は有効と裁定された。
さらに、ルシアンが債権者へ提出していた財務報告に虚偽が見つかった。私が作成した返済予測から、契約解除後に失われる収入の注記だけを削っていたのだ。
ヴァロワ侯爵は監督責任を問われて当主を退き、ルシアンは継承権を外された。領地は王家の管理下に置かれ、工房や鉱山は債権者の損失を減らすため再編された。
アデリナとの婚約は解消されなかった。
契約院は、本人たちが望んで結んだ婚約まで無効にする理由はないと判断した。
「お姉様ばかり、ずるいわ」
審理室を出る時、アデリナが呟いた。
「私は何も奪っていません」
「仕事も、お金も、新しい場所も、全部持っているじゃない」
「自分で選び、契約し、働いて得たものです」
私は妹の右手を見た。
蒼晶石の指輪は、今もそこにある。
「あなたにも、望んだ指輪と婚約者が残っていますよ」
それ以上、話すことはなかった。
辺境領へ戻った夜、テオドール様が城の執務室を訪ねてきた。
「審理は終わったと聞いた」
「はい。契約は有効です」
「では、次の契約を提案してもいいだろうか」
彼は小さな木箱を机に置いた。
中に入っていたのは、飾り気のない銀の指輪だった。
「先に契約書を」
私は手を出した。
テオドール様は笑い、用意していた書類を差し出した。
互いの財産は結婚後も各自が管理すること。仕事を続ける権利を保障すること。共同事業の意思決定権は対等。債務を負う場合は、必ず双方へ全額を開示すること。
最後の条項には、こう書かれていた。
『どちらか一方が困難に陥った時は、契約上の義務としてではなく、伴侶として相談し、共に解決する』
「これは契約文として曖昧です」
「削るか?」
「いいえ」
私は署名した。
一年後、私たちは結婚した。
新しい輸送会社は王国北西部の六領を結び、冬に孤立する村はなくなった。利益の一部で街道と橋を修繕し、商業管理士を育てる学校も作った。
結婚式の日、テオドール様は銀の指輪を私の指にはめる前に、もう一度尋ねた。
「契約内容に、見落としはないか」
「三度読みました」
「さすがだ」
「でも、一つだけ確認が必要です」
「何だろう」
「契約期間が書かれていません」
彼は少し考え、私の手を取った。
「では、私たちのどちらかが、もう十分だと思う日まで」
「ずいぶん長い契約になりそうですね」
今度の指輪には、誰かの家の借金も、押しつけられた責任もついていない。
私が内容を読み、自分で選び、望んで結んだ契約だけがあった。




