純真への賛歌
カイルの旧訓練所の裏手にあるハーブ園。
そこは今、エトワールにとっての避暑地であり、テオとルナにとっての数少ない安息の地となっていた。
今日はそこに、テオの「新しい友人」であるシアンも同行していた。
「……ああ、なんという静謐。ここは、王都に穿たれた『神様の休息所』のようだ」
シアンが竪琴を爪弾きながら、咲き誇るラベンダーの合間を歩く。その姿は、あまりにも風景に溶け込んでいて、まるで一枚の宗教画のようだった。
「テオちゃん、ルナちゃん。ンフフ♪ エトワール……あら? そちらの素敵なお友達は?」
薬草を摘んでいたクラリスが、籠を手に立ち上がった。彼女の瞳は、シアンの奏でる調べに、最初から吸い寄せられるように輝いている。
「あ、クラリスさん。……彼はシアン。僕の、その……友達なんだ。少し、話し方が……独特なんだけど」
テオが説明しようとした矢先、シアンは風のようにクラリスの前まで進み、竪琴と共に語り始めた。
「麗しき、ハーブの庭の女神よ。……あなたが摘んでいるのは薬草ではない。……それは、この世界に足りない『慈しみ』という名の欠片だ。……あなたの微笑み一つで、この庭の花々は、春の到来を二度、祝福することだろう」
「……まあ。……なんて、なんて美しい言葉でしょう」
ハーブ園に、シアンの朗々たる詩が次々と響き渡っていく。
クラリスは、シアンの隣に座り、まるで未知の聖典でも読み聞かされているかのように、熱心に耳を傾けていた。
「……なるほど。愛とは『凍てつく夜に灯る、名もなき旅人の焚き火』。そして私は、その火を絶やさぬよう祈る『風の乙女』……。なんて素晴らしい表現なのでしょう」
「ええ、女神よ。あなたがハーブを摘むその指先一つで、僕の心には千のソネットが生まれるのです」
その様子を、数メートル離れた場所からカイルが凝視していた。
その手には、割るのを忘れた薪と斧が握られたままだ。
「……テオ。あやつは、何と戦っているのだ?」
カイルが、真剣な面隔て(おもむもち)でテオに問いかけた。
「えっ、戦って……? いえ、おじさん、シアンさんはただ詩を詠んでいるだけだよ」
「……馬鹿な。あのように実体のない言葉を、さも重大な軍事機密のように並べ立て、さらに相手の戦意(警戒心)をあそこまで削ぐなど……。あれは、一種の精神干渉魔法か? 私の知るどの流派にも属さない、恐るべき攪乱戦術だ」
カイルの目には、シアンが「恐るべき異能の使い手」に映っていた。
彼にとっての「言葉」とは、戦場での報告か、クラリスへの精一杯の安否確認、あるいは心拍数の計測といった、常に「事実」に基づいたものであるべきだったからだ。
「……見て、カイル様。あの子、今度は私の持っている籠にまでポエムを捧げていますわ! 『編み込まれた蔦の隙間に、宇宙の静寂が宿っている』ですって! 素敵だわ……!」
カイルは深いため息をつき、斧を置いた。
「……私には分からん。私が『この籠は丈夫で、薬草を運ぶのに効率的だ』と言えば、彼女は喜んでくれる。だが、今の彼女は、それ以上に……何というか、見たこともないほど高揚しているように見える」
カイルは、自分の「まともな誠実さ」が、シアンの「全肯定のポエム」という名の濁流に押し流されていくのを、ただただ困惑の中で見送るしかなかった。
「……ルナ。おじさんが、生まれて初めて『正論が通じない相手』に出会って、フリーズしてるよ」
「……仕方ないわ、テオ。カイル様の思考回路は、1+1=2という堅実な論理でできている。対してシアンは、1+1=『二つの星が出会った奇跡の衝突』だと言い張る男よ。……相性は最悪、いえ、次元が違いすぎるのよ」
ルナが診断機を閉じると、クラリスがこちらを振り返り、満面の笑みでカイルを呼んだ。
「カイル様も、こちらへ! シアン君が、カイル様のその『寡黙な強さ』を詩にしたいと仰っていますわ!」
「……断る。……私には、まだ割らねばならぬ薪がある。……それに、自分の筋肉を『大地のうねり』などと形容されるのは……その、耐えられん」
歴戦の英雄カイルは、かつてない敗北感(あるいは極度の気恥ずかしさ)を抱えながら、逃げるように薪割りへと戻っていった。
その後ろ姿さえも、シアンにとっては「孤独という名の盾を背負う、沈黙の英雄」という絶好のポエムの素材にしかならなかったのである。
その様子を見て困惑を覚えていたのは、カイルだけではなく、ルナもだった。




