吟遊詩人の協奏詩
放課後の旧図書室。
窓から差し込む斜陽が、埃の舞う静かな空間を黄金色に染めている。
テオとルナは、王宮の書物庫から持ち出した分厚い史実書――かつてこの国が「愛」という言葉を、もっと辞書通りの意味で使っていた頃の古文書を広げていた。
「……ねえ、ルナ。この時代のチェス、ルールがすごくシンプルだよ。駒を『愛の生贄』にして爆発させるルールなんて、どこにも書いてないんだ」
「当然よ、テオ。本来、ゲームは知性の競い合いであって、盤上を血の海にすることじゃないわ。……さあ、私の番よ。『ポーンを前へ』。……あら、これだけで終わるなんて、なんて効率的な娯楽かしら」
二人は向かい合い、小さな木製のチェス盤を囲んでいた。
テオは慣れない手つきで駒を動かし、ルナはそれを少し楽しそうに、けれど冷静な軍師のような目で見守る。
外の廊下では信者たちの「管理体操」の号令や、時折響く氷が割れるような音が聞こえてくるが、この部屋だけは、カイルの訓練所裏と同じような、穏やかな空気が流れていた。
だが、その静寂の隙間を縫うように、窓の外の木の上から「調べ」が滑り込んできた。
「……ああ、なんと愛しき、沈黙の対話。……盤上の駒は動けども、二人の心は微動だにせず。……それはまるで、終わりのない円舞曲を踊る、二羽の小鳥のさえずりのようだね」
「「…………」」
二人の手が止まる。窓枠に腰掛け、竪琴を爪弾いているシアン・フェリシータがいた。昨日、廊下でバラを配っていた時と同じ、全肯定の微笑みを浮かべている。
「……シアンさん。さっきも言ったけど、そこ、危ないですよ。少し前にも【熾烈愛・屠殺派】の生徒の魔法の流れ弾が飛んできていましたから」
テオが心配そうに言うと、シアンはバラを指先で回しながら、艶やかに微笑んだ。
「構わないさ、テオ。凍てつく噴水も、彼ら(熾烈愛・屠殺派)の激しすぎる情熱を真空パックした彫刻だ。……それより見てごらん、君たちが動かしているその駒。……『チェックメイト』を言わぬまま、互いの領域を譲り合うその指先。……それはもはや対戦ではなく、魂の譲歩(譲り合い)……。ああ、ノートの余白に書き留めたいほど、甘美な光景だ」
「……テオ、無視しなさい」
ルナが眼鏡をクイと押し上げる。
「彼の言葉をいちいち脳内で処理していたら、私の演算回路がポエムでオーバーフローしてしまうわ。……シアン、貴方に『静かにする』という管理項目は存在しないの?」
「おやおや、冷徹な管理の姫君。僕の口を塞ぐことは、風を瓶に閉じ込めるようなものだよ。……でも安心して。僕は君たちのその『特別』な時間を邪魔するつもりはないんだ。……僕はただ、この狂った世界で唯一、僕の詩に『本物の温度』をくれる二人の隣にいたいだけさ」
シアンはそう言うと、竪琴を静かに置き、懐から小さな包みを取り出した。
「お詫びに、隣国の『普通の』お菓子を置いておくよ。……狂気も殺意も虚無も入っていない、ただ甘いだけの砂糖菓子だ。……君たちのチェスの、ささやかな彩りにしておくれ」
シアンはそれ以上語らず、ひらりと木から飛び降りて、夕闇の中に消えていった。
「……ねえ、ルナ。シアンさん、やっぱり悪い人じゃないよね。……このお菓子、本当に普通の匂いがするよ。……なんだか、少しだけ気を許しちゃうな」
テオが包みを開けると、綺麗に包装された、それでいて中には素朴な金平糖のようなお菓子が入っていた。
ルナは、彼が去った窓の外をじっと見つめ、それから小さくため息をついた。
「……鬱陶しいのは変わらないけれど。……私の『排除リスト』からは、外してあげてもいいわ。……彼は、私たちの仲を壊そうとしているのではなく、ただ……『記録(愛)』しているだけのようだから」
ルナは一粒、そのお菓子を口に運んだ。
「……甘いわね。……管理外の甘さだけど、……悪くないわ」
チェス盤を挟んで、二人は再び駒を動かし始める。
遠くでシアンの奏でる、どこか切なくて優しい歌声が、風に乗って聞こえていた。




