慈愛の雫
王都が『エターナル・ドロップ』の完成に沸き返る中、その喧騒が届かない場所があった。王立軍事訓練所。夕闇に包まれたそこでは、一人の男が黙々と、木剣をダミー人形へと振るっていた。
カイル・ヴァン・ブラウベル。
かつて戦場を駆け、エドワードと共に国を再建した英雄の一人。しかし、彼の瞳には勝利の輝きも、今の王都を支配する「愛の熱狂」もない。
「……はぁ、はぁ……っ」
激しい打ち込みの最中、不意に手が滑り、木剣のささくれがカイルの掌を深く切り裂いた。
滴り落ちる赤い血。それを見た瞬間、カイルの脳裏に、あの忌まわしい戦場の泥濘と、失った部下たちの断末魔がフラッシュバックする。
(平和だ。……エドワードが作ったこの国は、間違いなく平和で愛に満ちている。だが……)
カイルは震える手で傷を抑えた。
周りの者たちは「死を恐れないこと」を愛の証だと叫ぶ。だがカイルにはできない。彼は「失うこと」の重さを知りすぎていた。愛せば愛すほど、それを失う恐怖に足がすくむ。この熱狂的な「愛殺」の国において、カイルのまともな恐怖心は、行き場のない孤独だった。
(カシウス……あなたも悩んでいたのだろうか。もう一度……あなたに会いたい。未熟な私に、助言を与えて欲しい)
「……どなたか、いらっしゃいませんか?」
静かな声がした。
振り返ると、そこには白いエプロンドレスを纏った女性が立っていた。王立病院から薬草の集荷に来ていたのだろうか。彼女――クラリスは、カイルの手から血が流れているのを見ると、迷わず駆け寄った。
「まあ、ひどい傷……。動かないでください、今すぐ手当てをします」
「……あ、いや。これくらい、かすり傷だ。戦場ではもっと……」
「今は戦場ではありませんわ、カイル様」
クラリスは穏やかだが、拒絶を許さない強さでカイルの手を取った。
彼女の指先は、エルゼの氷のように冷たくもなく、アルフォンスの毒のように痺れもしない、まともな手だった。ただ、ひたむきに「傷を治そう」とする、生きた人間の温かさだけがあった。
彼女は丁寧に泥を拭い、清らかな水で傷口を洗い流すと、白い布で優しく包帯を巻いていく。その所作の一つ一つに、命に対する深い慈しみがあった。
「……痛かったでしょう?」
クラリスが顔を上げ、カイルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、狂信的な光など微塵もない。ただ、目の前の人間が感じているであろう「痛み」を、当たり前のものとして受け入れる優しさがあった。
「……ああ。……痛い、な。……とても」
カイルの声が、わずかに震えた。
「死ね」とも「管理して」とも言われない。ただ「痛いだろう」と労わられただけで、彼が長年心の奥底に封じ込めていた戦場の冷たい氷が、音を立てて溶け始めた。
「カイル様。貴方の手は、誰かを守るためにずっと張っていたのですね。……でも、たまにはその力を抜いて、ご自分を労わって差し上げてください。貴方が健やかでいることを、きっと喜ぶ方がいらっしゃいますから」
クラリスが微笑むと、彼女の周りだけが、今の王都の愛に満ちた時間軸から切り離されたような、穏やかな光に包まれているように見えた。
カイルは、包帯を巻かれた自分の掌をじっと見つめた。
失うことを恐れて、誰にも触れさせなかった心。だが、このクラリスという女性の温もりだけは、不思議と「失いたくない」という恐怖ではなく、「ここにいていいのだ」という安らぎを彼に与えていた。
「……クラリス、さん。……ありがとう。……また、傷を負ったら、君のところへ行ってもいいだろうか」
「ふふ、怪我をしないのが一番ですけれど。……ええ、いつでもお待ちしておりますわ」
二人の様子を、訓練所の影からそっと見守る三つの影があった。
嫌気が差して抜け出してきたテオとルナだ。側にはいつものようにエトワールが二人に体をこすりつけ、すり寄っていた。
「……ねえ、ルナ。あのおじさん、あんなに穏やかな顔で笑うんだね」
「……ええ。私のデータにはない、極めて異常な(まともな)精神の回復反応だわ。……テオ。あのおじさんの『心の管理』は、あの方に任せるのが一番効率的なようね」
テオは、夕焼けに染まる二人の背中を見て、初めてこの国に「本当の平和」の兆しを見た気がした。




