繋がれた手
エドワード陛下とソフィア様が作り出してくれた、奇跡のような静寂。遠くで響く貴族たちの狂った歓声が、まるで別世界の出来事のように遠のいていく。
テオは、腕の中で温かな重みを持っていたエトワールを、ゆっくりと地面に下ろした。
「……エトワール。ここで待っていて。ここからは、僕一人で行かなくちゃいけないんだ。……ありがとう、いつも側にいてくれて」
聖獣はテオの言葉を理解したかのように、一度だけ短く、しかし力強く鳴いた。その瞳には、主人の決意を信じる深い知性が宿っている。テオはエトワールの頭を一度だけ撫で、もう二度と振り返らずに、木陰から光の射す方へと歩き出した。
その光の先に、彼女がいた。
「愛殺教」に熱狂する生徒たちから離れ、独りで古い噴水の縁に腰掛け、冷めた目で空を眺めている少女。テオが近づくと、彼女は視線を動かし、期待通りの、底冷えするような眼差しを向けた。
「……何? 愛殺教の申し子様が、私に何の用かしら。貴方のその『愛に満ちたご家庭』の自慢話なら、もうお腹いっぱいなんだけど」
その言葉は、まるで鋭い氷のナイフのようにテオの胸を貫いた。だが、テオはもう目を逸らさなかった。エドワード陛下に授けられた誇りと、ソフィア様から貰った勇気が、彼を支えていたからだ。
「……違うよ。僕は、僕の父も母も大嫌いだ。あんなの、愛でもなんでもない。ただの狂気で、茶番だ。……そして、僕はそんな二人を『完璧な両親』として演じてきた自分自身のことも、同じくらい大嫌いなんだ」
少女の眉が、僅かに動いた。
「……僕は、君が嫌いだと言ってくれた、この僕自身の言葉で話したい。……僕は、君が好きだ。君が僕をゴミのように見る、その濁りのない正気な目が、狂いそうなほど好きなんだ」
静寂が二人を包んだ。
遠くのガーデン食事会で、私が「死ね、アルフォンス。お前のその卑屈な顔を見ていると、私の魔法が暴発しそうだわ」と毒を吐いた瞬間、その殺気が風に乗って二人を通り過ぎたかもしれない。
だが、テオの前で少女は、初めて「ゴミを見る目」を崩し、酷く呆れたような、それでいて少しだけ柔らかな溜息を吐いた。
「……本当。貴方の両親も大概だけど、貴方も相当、気持ち悪いわね、テオ」
そう言って、彼女は自らの手をテオの方へと、無造作に差し出した。
「成功したのかしら……? あ、アルフォンス。あの子たち、手が、手が触れ合っているわよ。私の息子が、あんなに泥臭く、必死な顔で……」
私は、望遠鏡代わりに氷のレンズを生成し、柄にもなく指先を震わせてその光景を見守った。
「同感だね、エルゼ。……だが、見てごらん。彼女の手を握るテオの指先は、私がナイフを握る時よりも、ずっと強固で、確かな意志に満ちている。……ふん。あんな泥臭い愛、私の美学には一ミリも掠りもしないがね」
「あなたの目に、微かに『安堵』の色が混ざっているのが丸見えよ。……でも、ええ。私たちのまき散らした毒の中でも、この子だけは、自分の足で『本物』を掴んだのね」
「君の脳にも、今日一番のまともな思考が宿ったようだ。……テオ。その手を離すんじゃないよ。この狂った聖地で、君たちが繋いだその手だけが、唯一、地獄に落ちない救いになるだろうからね」
足元でエトワールが、誇らしげに尻尾を振った。
エドワードとソフィアも、遠くの席で、ワイングラスを静かに掲げていた。
聖地化という狂乱の渦中で、誰にも汚されない小さな「真実」が、今、確かに芽吹いたのだ。




