至高のキャンパス
ムッシュ・ヴァルティの「恩返し」という名の暴走が私達の泊まる宿へと押し寄せた。
彼は自分の退屈していた人生を救ってくれた「革命的カップル」を永遠に残すべく、大陸で最も気難しいとされる肖像画の巨匠を呼び出したのだ。
「さあ! 心の準備はよろしくて!? 今宵、ミネルウァがあなたたちの前に降臨するわ!」
ムッシュ・ヴァルティが用意したのは、商業公国で最も見晴らしの良い「時計塔の最上階」に設えられた特設アトリエ。最高級のワイン、溢れんばかりの花々。そして、その中央に鎮座するのは、一度も笑顔を描いたことがないと言われる孤高の画家、マスター・グレイ。
「……ヴァルティ。私は『真実』しか描かないぞ。この者たちが、巷で噂の『おままごと夫婦』なら、私は今すぐ筆を折る」
グレイの冷徹な視線が、私とアルフォンスを射抜く。
「……構いませんわ。存分に描きなさい。ただし、私の『美しさ』を損なうようなら、その筆ごとあなたの指を氷漬けにして差し上げます」
私は扇を広げ、優雅でありながらも、神経毒のようなアルカイックスマイルを浮かべる。
「ほう……。いい目だ。公爵、貴殿はどうだ?」
「勝手にしろ。だが、描いている間に私が退屈して、君の喉元にナイフが届かないという保証はできないがな」
アルフォンスは軍服の襟を正し、獲物を狙う鷹のような姿勢でソファに腰を下ろす。
ヴァルティが「最高! その殺伐とした空気、たまらないわ!」と身悶える中、数時間に及ぶ「静かなる決闘」が始まる。
画家グレイは、狂ったようにキャンバスに筆を叩きつけ、時に呻き、時に哄笑した。彼が見ているのは、私たちの表面的な正装ではない様子。互いの視線が交差する瞬間に走る、火花のような「敵意」と、それを踏み外さないための絶望的なまでの「信頼」
「……完成だ。私の人生で、これ以上の真実は描けない」
筆を置いたグレイの顔は、数十年老け込んだかのように疲れ果て、しかし達成感に満ちていた。私たちがキャンバスを覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
背景には、私たちがダンスで披露した「リベリオン」を彷彿とさせる、嵐のような暗雲。
中央に立つ私は、微笑みながらアルフォンスの心臓に鋭いネイルを突き立てようとし、対するアルフォンスは、私の腰を抱き寄せながら、もう片方の手で私の頸動脈をナイフの峰でなぞっている。
しかし——二人の瞳だけは、この世の誰よりも深く、熱く、相手だけを映し出していた。
「……あら。私、こんなに恐ろしい顔をしていましたかしら?」
「……いや、エルゼ。君の殺意の再現度が低い。実物はもっと、私の脳髄を凍らせるほど鋭いはずだ」
私たちが批評し合っていると、ヴァルティがキャンバスを抱きしめて号泣し始めた。
「ブラボー……! 完璧よ! 『殺したいほど、愛してる』なんて陳腐な言葉じゃ足りない! これは『殺し合わなければ、愛を確認できない』という究極の共依存の肖像画だわ!!」
この絵は後日、ヴァルティの手によって「聖夫婦の真実」という題名で商業公国の国立美術館に寄贈されたそう。
その結果、「相手の急所を狙いながら見つめ合う」というポーズが、新しい家族写真の定番として大流行し、街中の写真館が物騒な小道具(偽物のナイフや毒瓶)で溢れかえることになってしまったという。




