本物の希望
「もう……いっそ、諦めてしまおうか」
極北の澄み渡った空気の中、テオは膝をつきました。悪魔を退けた達成感など、孤独という巨大な化け物の前では砂粒ほどの価値もありません。かつて王都で抱えていた「孤独」よりも、今の孤独はずっと重く、冷たい。
そんな彼の視界を、ふわりと「黒い綿毛」が横切る。
それは熾天使の黄金の粒子でも、悪魔のヘドロでもない。どこか懐かしく、荒々しく、生命の躍動を予感させる漆黒の毛。
黒い綿毛を振り払う生き物。
それは、黄金に輝く角を持ち、一歩踏み出すごとに足元から「生」の震動を伝える、神々しき――ガイアード(原初の神)だった。
「……感謝する、テオ。君のその『汚れ』が、悪魔の王ゴルバルに食い尽くされていた私の魂を繋ぎ止めてくれた」
ガイアードの声は、耳ではなく魂の深部に響く、重厚な地鳴りに似ていた。
「また、神様か。……もう、たくさんだ……。僕が何をしても、結局は別の神様に振り回されるだけじゃないか」
「確かに私はガイアードという名のある神だ。だがテオ、そうではない」
ガイアードはテオのすぐ側で、その巨大な体を伏せた。
「私は君に『幸せ』を約束しに来たのではない。君が失った『重み』を取り戻す手伝いをしに来たのだ。……テオ。天の熾天使が『純白の絶望』を振りまき、地の悪魔が『漆黒の欲望』で根を腐らせた。だが、この地そのものが死んだわけではない」
ガイアードは、極北の地平線の彼方を見つめた。
「この世界の中心には、天地が分かたれたその時から在り続ける、原初の聖域『世界樹』がある。エトワールとゴルバル、二つの不純な神性によって眠らされていた大樹だ」
テオはその名を聞いた瞬間、幼い頃にルナが読み聞かせてくれた古い寓話を思い出した。
「世界樹……。本当に、あるの?」
「ああ。そこへ私と共に来なさい。君が持つ『仲間の形見(生きる意志)』……その執着こそが、世界樹を再び動かす唯一の鍵となる。世界樹が目覚めれば、世界を塗りつぶしている『偽りの慈愛』は霧散し、人々は己の記憶と、痛みを伴う『生』を取り戻すだろう」
テオは、ポケットの中の冷たいナイフと、壊れた計算機を握りしめた。
しかし、平和で美しい今の仲間たちを、再びあの「地獄のような現実」へ突き落とすことを意味する。
「……痛くて、苦しくて、みんながまた僕を忘れてしまうかもしれない世界。それでも、……それが僕たちの『本当』なんだよね」
「さあ、私の背へ」
テオは、震える手でガイアードの首元にある金の毛を掴んだ。
その毛は、エトワールの光よりもずっと硬く、力強い。
「行こう、ガイアード。……僕たちの汚れを、世界に返してやるんだ」
テオがその背に跨った瞬間、ガイアードは咆哮した。それは、数千年もの間、蕃神の神々に支配され、抑圧されてきた「大地そのものの怒り」だった。
二人の影は、朝日の極北を切り裂き、本当の世界の中心へと向かって駆け出した。
その背後には、テオが流した涙の数だけ、黒く、力強い生命の轍が刻まれていた。




