黒い影
一面の美しい花畑――。かつての死の臭いは消え、甘ったるい花の香りが鼻を突く中、テオは信者に教えられた食糧庫へと歩みを進めていた。
その時、黄金の草原の中から一匹の獣が姿を現した。
それは、あの巨大な熾天使とは対照的な、夜の闇を切り取ったような漆黒のモフモフ猫だった。
「……キュ?」
黒猫が親しげに鳴き、テオの足元にすり寄ろうとする。だが、テオはその愛くるしい仕草に、かつてないほどの寒気を覚えた。
(……ダメだ。もう「可愛くて温かいもの」に騙されちゃいけない。それは、正気を奪う毒なんだ)
テオはトラウマに突き動かされるように、すがるような瞳の黒猫を無視し、機械的に歩き続けた。
だが、ふと視線を上げた先。遠くの洞窟の入り口で、「何か」が素早く、隠れるように動いた。
(……! 今、隠れたのか!?)
テオの心臓が跳ね上がる。
今の世界は、熾天使の慈愛によって「隠し事」も「警戒」も必要なくなったはずの楽園だ。誰もが堂々と、満面の笑みで寄り添い合う世界で、「人目を避けて隠れる」という行為は、極めて異常……つまり、極めて「まとも」な人間の反応に思えた。
「誰か、そこにいるのか……!?」
テオは駆け出した。背後からは無視されたはずの黒猫が、音もなくトコトコとついてくる。
(お願いだ、誰でもいい。笑っていない誰かがいてくれ……!)
希望に胸を躍らせ、息を切らして洞窟の影に飛び込む。しかし、そこにいたのは人間ではなかった。
草を食んでいた一頭の鹿が、テオの勢いに驚き、しなやかな跳躍で草原の彼方へと走り去っていっただけだった。
「……なんだ。ただの、動物だったのか……」
膝をつき、落胆するテオ。期待が大きかった分、絶望が重くのしかかる。この美しい楽園で、自分だけが「汚れ」を探し回る道化のように感じられた。
だが、その時。
――コツッ。
鹿が去った後の、さらに奥。陽の光さえ届かない洞窟の深淵から、明らかに蹄ではない、「靴が石を叩くような足音」が聞こえてきた。
テオの体が硬直する。
隣に座った黒猫が、暗闇をじっと見つめ、喉を「ゴロゴロ」と低く鳴らした。




