忘却の聖域
美しい花々と瑞々しい蔦に覆われたクレーターの出口で、テオは数人の影を見つけた。
白装束を纏った、かつての『白き忘却の聖域』の信者たちだ。テオの胸に、消え入りそうな小さな希望が灯る。
(彼らなら……世界を変えようとした彼らなら、この異常な世界を拒んでくれるんじゃないか……)
だが、その期待は一瞬で打ち砕かれた。
信者たちがゆっくりと、装束のフードを外す。その下に隠されていたのは、狂気や殺意が隠された顔ではなく、一点の曇りもない、仲間たちと全く同じ「濁り一つない、澄み渡った幸福の瞳」だった。
「ああ……。ようやく、本当の凪が訪れたのですね……」
「戦う必要なんて、最初からなかったんだ。……こんなにも、風が心地よいのだから」
彼らの声には、かつてテオたちを追い詰めようとした時の鋭利な憎しみや狡猾さは微塵もなかった。
かつては「狂気な愛は病」と叫んでいた彼らが、今は「感情の暴走(慈愛)」によって、自発的に思考を停止させている。
「……ねえ、君たちもそう思わないか? 争いは終わったんだ。さあ、一緒にこの美しい庭で、永遠の安らぎを分かち合おう」
信者の一人が、テオに向かって優しく手を差し伸べる。
その瞳には一抹の悪意もなく、純粋にテオの幸せを願う「善意」だけが満ちていた。その善意が、テオの心に冷たい棘となって深く突き刺さる。
「……嫌だ。……やめてくれ……っ」
テオは後ずさりした。
仲間も、敵も、世界中が自分を置いて「完璧」になってしまった。
かつて王都で孤独に耐えられたのは、腕の中にあの小さな、温かい毛玉がいたからだ。けれど、そのエトワールこそが、この「美しき地獄」を創り出した熾天使そのものだった。
「エトワール……。どうして、……どうしてこんな事をしたんだよ……」
テオが絞り出すような声で呟くが、誰にも届かない。
信者たちは、テオの絶望さえも「至福への過渡期」としか捉えていないのか、慈しみ深い微笑みを浮かべたまま、ただ寄り添い続けた。
「テオ……大丈夫よ。悲しいことは、もうすぐ全部消えてなくなるわ。私を見て? ほら、笑って……?」
ルナがテオの顔を覗き込み、花の蜜のような甘い声で囁く。
テオは、極彩色に染まった絶景の中で、一人だけ灰色の世界に取り残されていた。
彼の心は、音を立てて崩壊し始めていた。
神が与えた「最高の善意」という名の、逃げ場のない監獄の中で。




