天上の沈黙
モルガンは、人形のように無機質な侍女が淹れた紅茶を、一口、優雅に含んだ。
窓の外の凪を眺めるその横顔は、これから死地へ向かう者とは思えないほど落ち着いている。
「なに呑気に飲んでんのよ、この元教祖! さっさとその重い腰を上げなさい! 聖地だか何だか知らないけど、私の氷で全部粉砕して、その女の頭を冷やしてあげるから!」
エルゼが激しく机を叩き、苛立ちを爆発させる。だが、モルガンはカップを置くと、静かにテオたちを見据えた。
「……公爵夫人。君たちは、自分たちが『誰』を……いや、『何』を相手にしようとしているか、まだ何も分かっていないようだ」
モルガンの声が、今までになく低く、冷たく響く。
「かつてこの世界を支配したドワーフたちは、素晴らしい技術を生み出した。彼らは、後に『愛の急降下』と呼ばれる……死と生の境界を強制的に体験させる装置さえも、自らの傲慢な夢の設計図として残していたのだ」
モルガンは窓の外、空の彼方を指差した。
「彼らはその技術で神になろうとし、神の怒りを買った。神は、一人の熾天使を遣わした。……高潔で慈愛に満ちたその戦士は、主の命令に従い、無慈悲にドワーフたちから『感情』を奪い、文明を、思考を停止させ、滅ぼしたのだ」
テオが息を呑む。ルナは、落とした診断機が拾い上げた「歴史の断片」を凝視した。
「だが、神々は残酷だ。命令を遂行し、あまりの無慈悲さに心を壊した(PTSD)熾天使に、『天上に居場所はない』と告げたのだ。……心を失い、堕天使となったその戦士は、聖地レテに籠り、今も不本意な負の力を垂れ流し続けている。我々『白き忘却の聖域』は、その熾天使の絶望の残滓を、卑劣にも利用しているに過ぎん」
モルガンが語る、世界の真実。
相手は人間ではない。神の命令で壊れ、天に見捨てられた「最強の戦士」の、癒えぬ傷跡。
「……熾天使の、哀しみ……?」
テオが腕の中のエトワールを見る。エトワールは、かつてないほど厳かな光をその瞳に宿し、天を見上げていた。
「ふん……。神だか天使だか知らないけれど、身勝手な話ね」
エルゼが扇子を開き、不敵に笑う。
「……心が壊れて動けないなら、私がもっと完膚なきまでに叩き壊して、本当の永眠を授けてあげるわ。……アルフォンス、準備はいい?」
「……ああ。……天使の心拍数など……測ったことはないが……試してみる価値はある」
アルフォンスのナイフが、怪しく輝く。
モルガンが語った「熾天使の悲劇」に、部屋の空気が急激に変化した中、シアンが静かに竪琴の弦を爪弾いた。
「……おや、なんという残酷な叙事詩。慈愛ゆえに心を壊し、天に捨てられた孤独な戦士……。その零れ落ちた涙が、この世界を白く塗り潰そうとしているのか。……皮肉だね、テオ。僕たちが守ろうとしているこの『狂気』こそが、天使がかつて奪い取った、人間だけの色彩だというのに」
シアンの瞳には、いつもの軽薄さはなく、未知なる強大な旋律への好奇心が宿っていた。一方、ルナは震える手で診断機を再起動させる。
「……ドワーフの絶滅……神の兵器……。あまりに非論理的な話だわ。でも、今の王都の『凪』がその余波だというなら、計算は合う。……テオ。このままじゃ、私たちの『普通』どころか、世界という種の『熱(生命維持)』そのものがシャットダウンされるわ。……管理対象が全滅するなんて、私のプライドが許さない!」
かつてのドワーフの超技術。壊れた天使の溜息。そして、聖獣だけが振るうアルカナ魔法。
物語は、人間界を越えた「神話の再編」へと加速していく。




