平和の毒盃
王宮の深奥、人目を忍ぶ静かな私室。
エドワードは、広場で配られていたあの白い冊子を机に置き、深く、重いため息をついた。
「……ソフィア。私は、この言葉を、安易に否定することができん」
「ええ、エドワード。……『愛とは、互いの境界を侵さない距離感のこと』。……泥沼の戦争で、私たちが最後に求めたのは、まさにその距離感でしたものね」
ソフィア王妃の瞳には、狂信的な聖母の面影はなく、ただ過去の傷跡を抱えた一人の女性としての哀しみが宿っていた。
二人は知っている。愛殺教がもたらす「激しすぎる情熱」が、どれほど多くの狂気を生み、街を急速に変貌させてきたかを。そして、あの謎の集団がもたらす「凪」が、どれほど穏やかに見えるかを。
「衛兵を動かし、彼らを排除してはならないのか?」
カイルが影の中から問いかける。彼の声にも、いつものような騎士としての鋭さはない。
「カイル……お前も、あの戦場を覚えているだろう? 私たちは、相手を殺したくなくとも、愛する者達を守るため……殺さねばならなかった。あの地獄を経験した我々に、……『穏やかに、静かに過ごそう』と説く者たちを、暴力で追い払う権利があると思うか?」
エドワードの問いに、カイルは言葉を詰まらせた。
「……彼らは、暴力の酷さを知る者たちの心を、正確に射抜いている。愛殺教の少し激しすぎた狂乱を鎮める薬になるかもしれない……そう思えば思うほど、私の手は止まるのだ。だが……」
ソフィアが、窓の外でエルゼの氷が煌めくのを見て、寂しげに微笑んだ。
「そうね、エドワード。あの凪が、テオちゃんたちの持つ『熱』さえも消してしまうのだとしたら。……私たちは、平和という名の毒を、愛する子供達にも飲ませてしまうことになるのかもしれないわね」
王室は動かない。取り締まりも、推奨もしない。
その「沈黙」こそが、王都に静かな、けれど致命的な亀裂を生んでいく。
その頃、エルゼは王宮からの沙汰がないことに、苛立ちを募らせていた。
「……何をしているの、エドワード。あんな得体の知れない連中を、野放しにするなんて。……平和? 穏やか? 笑わせないで。……あいつらは、戦う気力、生きる気力さえ奪おうとしているのよ!」
エルゼとアルフォンスの「守りたい日常」と、王たちの「平和への渇望」。
大人たちの間にある、過去と現在が交錯する深い溝。
テオは、かつてないほど「重い空気」に包まれた大人たちの背中を見つめ、初めて、自分たちが立ち上がらなければならない予感を抱き始めていた。




