正論の闇
霧はますます濃くなり、広場は外界から切り離された白い繭のようになっていた。
謎の集団が差し出す手は、陶器のように白く、一点の震えもない。
「……さあ、テオ様。こちらへ。もう、誰にも貴方を傷つけさせない」
「…………うん」
テオの足が、無意識に一歩、前へ出た。
耳元で、甘く、正しい囁きが聞こえる。ここへ行けば、毎朝ナイフが飛んでくることも、母親の殺気で目が覚めることもない。夢にまで見た、静かな、静かな「普通」が手に入る。
けれど、差し出された謎の集団の瞳を、テオはじっと見つめ返した。
……何かが、おかしい。
その瞳には、テオを慈しむ色も、憎む色もない。ただ、鏡のように無機質な白が広がっているだけだ。テオの背筋を、得体の知れない悪寒が走った。
(……この瞳……何も映っていない)
テオは反射的に足元を見た。いつもなら足元にまとわりついてくるエトワールが、見たこともないほど体を小さく丸め、怯えたように震えている。
「エトワール……」
答えを求めて隣のルナに目を向けたテオは、息を呑んだ。
ルナの瞳から、知性の輝きが、そして「テオを守らなきゃ」というあの強い意志の色が、急速に抜け落ちている。彼女はただ、うつろに謎の集団を見つめ、操り人形のように手を伸ばしかけていた。
「ルナ……」
テオの叫びに、霧の向こうから、毒々しいほどに熱い声が割り込んできた。
「テオ! 何をボーッとしているのよ! その男の側に寄ったら、二度とお前の大好きな『管理栄養ポタージュ』なんて作ってあげないんだから!」
「……テオ。……離れろ。……殺す。……その男を、……一秒で細切れにする」
エルゼの無茶苦チャな脅しと、アルフォンスの容赦ない殺意。
相変わらず、言っていることは最低で、イカれている。
けれど、謎の集団の死んだ瞳と違って、彼らの目には――テオを見失うまいとする、狂おしいほどの情熱と、嘘偽りのない「熱」がこもっていた。
その時、テオの耳に、かき消されていた「音」が戻ってきた。
不協和音を奏でる、シアンの激しい竪琴の調べだ。
「……おやおや、テオ。気づいたかい? ……白は、すべての色を混ぜ合わせた色じゃない。……色を、消し去った跡の色なんだ。……キャンバスが空白になれば、そこにはもう、君という名の詩は生まれない……!」
シアンの難解な即興詩は、周囲の信者たちには呪文のようにしか聞こえなかっただろう。けれど、数日間彼と過ごしたテオとルナには、その意味が、警告が、痛いほどに突き刺さった。
「……っ!!」
テオは、グッと拳を握りしめた。
そして、差し出されていた白い手を、力いっぱい振り払った。
「……断る! 君の言う『凪』は、ただの『死』だ! ……母さんたちは狂ってるけど、……僕を愛する熱で、僕をちゃんと焼いてくれるんだ! 君の冷たい指先なんて、いらない!!」
「……なっ!?」
謎の集団が初めて、美しく整った顔を驚愕に歪めた。
その瞬間、ルナの瞳に色が戻る。彼女はハッと正気に戻ると、足元に落ちていた診断機を素早く拾い上げ、画面に表示された異常値を一瞥した。
「……テオ。……危なかったわ。……この男から放出されている波動、……これは幸福の信号じゃない。……全脳活動を停止させる、感情の消去命令(削除コード)よ。……この先にあったのは、幸福な家庭ではなく、……ただ呼吸をするだけの『肉塊の集積所』だわ」
ルナが謎の集団を冷たく睨みつける。
テオはエトワールを抱き上げ、霧の向こうにいる、狂っていて、恐ろしくて、けれど世界で一番「熱い」両親の方を向き直った。
「母さん! 父さん! ……ごめん、お待たせ! 僕、やっぱり……イカれててもここの方がいいよ、みんなと一緒にいたいよ」




