離縁予定の妻ですが、公爵様の「仮初めの恋人」を務めることになりました
静かな午後だった。窓の外では、春先の雨が細く降っている。
「……離縁、したい?」
耳を疑った。けれど、目の前の男――十年連れ添った夫クラウスの表情は、いつものように穏やかで、そして決意だけが固く宿っていた。
「すまない、ダフネ。君には感謝している。本当に、感謝しているんだ。ただ……」
彼は言葉を選ぶように視線を泳がせる。薄茶の瞳。そこに、かつて私が少しだけ憧れていた「優しさ」が滲む。
「ただ、私は“本当に愛する相手”を見つけてしまった」
ああ、やっぱり。
心のどこかで予感していた言葉を、実際に突き付けられると、胸の奥がきゅっと縮こまる。
「……そうですか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「お相手は、どなたですの?」
「……リリア嬢だ。君もよく知っているだろう?」
思わず、テーブルの上のティーカップを見つめた。白磁の縁が、わずかに揺れる。持ち手を握る指先に力がこもった。
リリア・グランフォード。私の幼なじみで、社交界でも評判の華やかな美貌の持ち主。結婚後も何かと連絡を取り合ってきた相手だ。私が愚痴をこぼすと「ダフネは我慢しすぎ」と笑ってくれた。クラウスと三人で食事をしたこともある。
(そう。そういうことだったのね)
小さく息を吸い込む。肺に入った空気が、冷たい。
「十年も経ってから“真実の愛”を見つけられるなんて、クラウス様はお幸せですわね」
自然と皮肉が混じった。だが、彼はそれを咎めることもしない。困ったように眉を下げ、私の名を呼ぶ。
「ダフネ。君には何一つ不満はない。家のことも、領地の切り盛りも、完璧にこなしてくれた。……子ができなかったのは、君だけの責任じゃない。医師もそう言っていた。ただ……」
「ただ、私を“妻”としては愛せなかった、ということですわね?」
言い切ってしまえば、案外、胸の中で形を持っていたモヤモヤが静かになっていく。
初めから分かっていた。これは政略結婚。フィルマー伯爵家の長女として、私は侯爵家次男のクラウスのもとへ嫁いだ。穏やかで誠実な彼を嫌いになったことはない。でも、心のどこかで“愛されてはいない”と知っていた。
「……そうだ。ひどい言葉だと分かっている。君を傷つけると分かっている。それでも、リリアを見てしまうと、どうしても……」
クラウスの声がわずかに震える。彼にとっても、これは勇気を振り絞った告白なのだろう。
「分かりましたわ」
私はゆっくりと立ち上がり、深く一礼した。
「離縁のことは承諾いたします。フィルマー家に戻ればよろしいのでしょう?」
「ダフネ、本当にそれで――」
「取り乱して泣き叫べば、クラウス様は思いとどまってくださるのかしら?」
自嘲混じりの問いかけに、彼は言葉を詰まらせた。そんなことで引き留められる程度の気持ちなら、そもそも“真実の愛”などと言わないはずだ。
「私、みっともない女にはなりたくありませんの」
せめて、それだけは守りたかった。捨てられる妻であっても、最後まで伯爵夫人としての矜持を。
「……離縁状の手続きはこちらで進める。慰謝料として、いくつかの宝飾品と、君名義の小さな邸を王都に用意しよう。君のご実家への支援も、可能な範囲で――」
「実家への支援、ですか?」
そこだけは、どうしても聞き逃せなかった。
フィルマー伯爵家は、近年の不作と先代の放漫な投資のせいで財政が厳しい。病弱な父に代わって、私が嫁ぐ前は経理を手伝っていた。嫁いだ今も、細々と援助を続けているが、とても十分とは言えない。
「クラウス様。可能な範囲、ではなく、具体的にお願いできますかしら。私が離縁に応じる条件として」
沈黙が落ちる。やがて彼は大きく息を吐いた。
「……分かった。君がこれまで僕の家のためにしてくれたことを思えば、その程度は当然の義務だろう。フィルマー家の借財の一部を引き受けよう」
細かな金額の交渉をしている自分がおかしくて、思わず笑いそうになる。
(十年の結婚生活の値段が、これで決まるのね)
そう思った瞬間、何かがふっと切れた気がした。
こうして私は、伯爵夫人ダフネ・フィルマーから、“離縁された女”ダフネ・フィルマーへと戻った。
*
実家の屋敷は、以前より一層さびれて見えた。庭の薔薇は剪定が行き届かず、枝が好き放題に伸びている。玄関ホールの絨毯には、ところどころ擦り切れた部分があった。
「ダフネ……よく戻ってきてくれたね」
痩せた父が、杖をついて出迎えてくれた。その顔に浮かぶのは、娘を案じる父親の表情であり、同時に、領地の未来に責任を負う当主の苦渋でもある。
「ごめんなさい、お父様。もっと早く戻るべきだったのに」
「何を言う。お前はフィルマー家を救うために嫁いでいったのだ。そのおかげで十年も持ちこたえた。今さら責める者などおらんよ」
優しい言葉が胸に刺さる。父は私を慰めるが、現実は厳しかった。クラウスからの援助で借財の一部は軽くなったものの、領地の立て直しには程遠い。
さらに追い打ちをかけるように、社交界での私の立場は一気に悪化した。
「あれがフィルマー家の娘さん? 離縁されたんですってね」
「旦那様に愛人でもできたのかしら。それとも奥様の方に問題が?」
閉ざされた扉の隙間から漏れ聞こえる噂話。笑い声。視線。これまで私自身も、無意識のうちに誰かに向けていたかもしれないそれらが、今度は自分に向けられている。
(子を産まなかった妻。魅力のない女。失敗した政略結婚の象徴)
誰かが密やかに貼った札を、剥がす術はない。
それでも、外面だけは取り繕った。招待されたお茶会には出来る限り出席し、微笑みを浮かべ、当たり障りのない話題を選んだ。領地の物産をさりげなく紹介し、少しでも取引のきっかけになればと考えた。
そんなある日だった。季節は初夏に移り変わり、王都の貴族たちが避暑地へ発つ前の、最後の大きな夜会。
「フィルマー伯爵令嬢、いや、元伯爵夫人とお呼びした方がよろしいのかな」
後ろからかけられた声に振り向くと、黒に近い深い紺色の髪と同じ色の瞳をした青年が立っていた。整った顔立ち、だが感情をあまり表に出さない端整な輪郭。その存在感だけで、周囲の空気が少しひんやりとするような印象。
「……アルベイル公爵閣下」
ノア・アルベイル。若くして広大な北方領を治める公爵家の当主。遅い年齢で爵位を継ぎ、その冷静さと容赦ない改革ぶりから「氷の公爵」と呼ばれている人物だ。
「お初にお目にかかります、とは言えませんわね。何度か同じ場におりましたが、こうしてお話しするのは初めてです」
「君のことは、以前から噂で聞いている。賢く、よく働く伯爵夫人だと。……それが今は、“離縁された女”と」
あまりにも率直な物言いに、思わず苦笑いが漏れる。
「公爵閣下は、遠回しというものをご存じないのかしら」
「必要なものなら習得しよう。だが、今日は時間が限られている。単刀直入に話そう」
ノアは周囲を一瞥すると、私に手を差し出した。
「ここでは何だ。少し歩かないか」
戸惑いながらも、その手を取る。二人でホールを離れ、庭園へと続くテラスに出た。夜風が頬を撫で、遠くで楽団の演奏が小さく響いている。
「フィルマー嬢。君に一つ、提案がある」
「提案?」
「――僕の“恋人”になってほしい」
聞き間違いかと思った。思わず足が止まる。
「……あの、公爵閣下。念のため伺いますが、今のお言葉は比喩ではなく?」
「あいにく比喩を弄する趣味はない」
彼は真顔だった。
「恋人と言っても、君が思っているような情熱的なものではない。むしろ、冷静な取り引きだ。期間は一年。その間、君には“公爵の恋人”として社交界に姿を見せ、僕とともに行動してもらう」
「一年間、公爵閣下の……恋人?」
口の中で言葉を転がしてみる。違和感しかない。
「その見返りとして、僕はフィルマー家の借財をすべて肩代わりし、君に小領地と邸を与える。名目上の所有者は君だ。君の父上の療養費も、必要な分は負担しよう」
「……どうして、そこまで?」
「僕にも事情がある。大公家からの縁談を、何度断っても食い下がられていてね。“すでに深く愛する人がいる”という証拠を見せる必要がある」
淡々とした声。だが、その奥にわずかな苛立ちが混じっているのを感じた。
「だから、公の場で安心して隣に立てる女性が必要だ。ただ美しいだけでなく、礼儀をわきまえ、場の空気を読むことができる人間。……君はその条件を満たしている」
「評価していただけるのは光栄ですが、私などが公爵閣下のお側に立ったら、余計な噂の種になりますわ。離縁された女ですもの」
「むしろ、それがいい」
ノアはわずかに目を細めた。
「君を捨てた男に、少しくらい後悔させてやってもいいだろう?」
意外な言葉に、心臓がどくりと跳ねた。
「……復讐、ですか」
「それもある。だが主目的は、あくまで僕自身の都合だ。君を利用する。その代わり、君も僕を利用すればいい。一年後、契約期間が終われば、君は借財から解放され、新しい人生を歩める」
利用する、というはっきりした言葉がむしろ心地よい。そこには、甘い期待も曖昧な好意もない。条件と条件の交換。
頭の中で、計算する。フィルマー家の現状、自分の立場、父の健康、将来の生活。
(このまま実家で細々と暮らしても、じり貧。再婚の話が来ても、離縁歴のある私を正妻に迎えたい家などほとんどない)
ならば――。
「一つだけ、条件をつけてもよろしいですか?」
「聞こう」
「一年の契約が終わった後は、たとえどのような事情が起きても、私は“離縁された女”ではなく、一人の人間として見ていただきたいのです。どこかの誰かの妻や恋人ではなく、ダフネという一人の女性として」
自分でも唐突だと思う。けれど、この言葉だけは、どうしても口から零れ落ちた。
ノアは少しだけ目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「約束しよう。契約が終わる日、君を誰のものでもない、君自身として送り出す」
夜会の喧騒が遠ざかっていく。テラスに響くのは、雨上がりの水滴が葉を打つ音だけ。
「――分かりました。その契約、お受けいたしますわ。ノア閣下」
その瞬間、私の第二の人生が始まった。
*
公爵家の邸は、噂に違わず簡素だった。もちろん一般的な貴族から見れば豪奢なのだろうが、同規模の家と比べると装飾が少なく、どこか無駄を削ぎ落とした印象を受ける。
「必要なものだけがあればいい。というのが先代からの方針でね」
廊下を歩きながら案内してくれるノアの言葉に、私は微笑んだ。
「領地経営には、とても合理的な考えですわね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
契約の条件として、私は公爵家の離れに滞在することになった。身分上はあくまで“公爵の恋人”であり、正式な婚約者や妻ではない。だが、公爵家の使用人たちは皆、敬意をもって私に接してくれた。
「ダフネ様、朝食のお時間でございます」
「ダフネ様、こちらに書類が。ノア様がお目通しをお願いしたいと」
最初は“様”づけに戸惑ったが、次第に慣れていった。逆に、クラウスの邸で、私はどこか「家政を取り仕切る便利な存在」として扱われていたのだと、今さらながら気づかされる。
(私は、誰かの役に立つためだけに存在していたわけではないはずなのに)
ノアとの関係も、当初はぎこちなかった。
「人前では“ノア様”ではなく“ノア”と呼んでくれ。恋人らしく」
「それは……慣れるまで時間がかかりそうですわ」
「練習すればいい。今から」
「い、今から?」
執務室で書類に目を通す彼の前で、私は喉を鳴らした。
「……ノア、さま」
「“様”はいらない。呼び捨てで」
「さすがにそれは……」
クラウスを名前で呼ぶことすら、私は一度もなかった。ずっと「クラウス様」だった。その距離が、私たちの間を象徴していたのかもしれない。
「契約に含めるべきだったかな。“恋人としてそれらしく振る舞うため、名前を呼び捨てにすること”と」
「後から条件を追加なさるのは、商人として信頼を失いますわよ」
「僕は商人ではなく領主だ。少しくらい我儘を言ってもいいだろう?」
さらりと言うノアが、少しだけ意地悪に見えて、私は観念した。
「……ノア」
そう呼んだ瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた気がした。すぐに表情はいつもの無表情に戻る。
「悪くない」
「評価していただき光栄です」
こんな風に、少しずつ距離を縮めていった。
公の場では、私は完璧な恋人を演じた。彼の腕にそっと手を添え、笑顔を浮かべ、適度に甘い言葉を返す。ノアもまた、見事な演技を見せた。
「ダフネ。今夜の君は星よりも美しい」
「またそんなお上手を……でも、ありがとうございます。ノア」
表面的には、美しい恋人たちの図。その実態が冷静な契約であることを知る者は、私たち以外にほとんどいない。
ただ一人を除いて。
「ダフネ?」
ある夜会で、背後から聞こえた声に、私は振り向いた。
「クラウス様」
そこには、かつての夫が立っていた。隣には鮮やかなピンク色のドレスを纏ったリリア。彼女は甘えたようにクラウスの腕に絡みつき、私を見ると一瞬だけ表情を曇らせ、それから作り笑いを浮かべた。
「まあ、ダフネ。久しぶりね。元気にしていた?」
「おかげさまで。リリアもお変わりないようで」
努めて平静を装う。だが、クラウスの視線が私の姿を上から下までじっとなぞるのを感じて、内心がざわついた。
この夜、私は公爵家の専属仕立て屋に作ってもらった深い青のドレスを着ていた。肩を少しだけ見せる大胆なデザイン。胸元には、公爵家の紋章が刻まれたサファイアのペンダントが光る。
「フィルマー嬢。お時間です」
背後から聞こえたノアの声に振り向くと、彼はすでに私に向かって手を差し出していた。いつも通りの冷静な表情。だが、その瞳の奥に微かな熱が宿っているように見えた。
「ノア。お待たせしてしまってごめんなさい」
わざと親しげに微笑みかけると、クラウスの目が大きく見開かれた。
「……ノア・アルベイル公爵、ですか?」
「元夫か」
ノアは一瞬だけクラウスを見やると、何でもないという風に肩をすくめた。
「彼女は今、僕の大切な人だ。あまり長く引き留めないでもらえるか」
その言葉に、クラウスの顔色が変わる。
「だ、大切な……?」
「ごきげんよう、クラウス様、リリア」
私は二人に礼をして、ノアの腕を取った。背中に刺さる視線を感じながら、ダンスホールの中央へと歩く。
(これで少しは、胸がすっとするかしら)
そう思ったのも束の間。ノアが私の腰にそっと手を添え、一歩を踏み出した瞬間、体の奥底が不意に熱を帯びた。
「顔が赤い。体調でも悪いのか?」
「いえ……単に、注目されているだけですわ」
ダンスフロアの周囲にいる人々の視線が、一斉にこちらに集まっているのが分かる。氷の公爵が、離縁された女を恋人にした――その事実は、すでに社交界の大きな話題になっていた。
「気にする必要はない。彼らはいつだって、誰かの噂話で暇をつぶしているだけだ」
「分かってはいるのですけれど……」
音楽に合わせてステップを踏みながら、私は小さく息を吐いた。ノアの手は温かく、支えは揺るがない。安心して体を預けられる。
そのことに気づき、はっとする。
(これは、ただの契約。演技。なのに――)
夜会の後、馬車の中で、私はつい口を滑らせてしまった。
「ノアは、いつもそうやって、私を守ってくださいますわね」
「契約相手だからな」
即答。少しだけ胸が痛む。
「……契約だから、ですか」
「他に理由が必要か?」
それは正論だ。求め過ぎてはいけない。最初に交わした約束を、私自身が破ることになる。
(一年経てば、私は公爵家を去る。その時、彼はまた別の誰かを“恋人”に据えるのかもしれない)
そう考えた途端、喉の奥がきゅっと締まるような感覚に襲われた。
私は気づき始めていた。この仮初めの関係が、いつの間にか自分の中で本物になりかけていることに。
*
一方で、クラウスとリリアの新生活は、順風満帆とは言い難かった。
「フィルマー嬢。少々、お時間をいただけますか」
ある日、公爵邸を訪れた執事がそう告げた。
「お客様がいらしております。フィルマー家の件で」
「フィルマー家……?」
応接室に通されると、そこには見慣れた顔があった。
「ダフネ……」
クラウスだった。だが、その姿は、以前とは見違えるほどやつれていた。きちんと仕立てられた服も、どこかくたびれて見える。
「どうなさったのですか?」
「その……フィルマー家に追加で約束していた支援の件だが、しばらくの間、待ってもらえないかと思って」
クラウスは絞り出すように言った。
「まさか、資金繰りが苦しいのですか?」
「……リリアの支出が、想像以上で」
彼女は華やかなドレスや装飾品に多額の金を費やし、さらに実家への援助も惜しまなかったらしい。クラウス自身も、彼女を喜ばせようとして投資に手を出し、そのいくつかは失敗していた。
「フィルマー家との契約は、ノア閣下が引き継いでくださっていますわ」
私は静かに告げた。
「クラウス様からの分は、すでに打ち切られても問題ありません」
「そ、そうか……。なら良かった」
安堵の息を吐くクラウスの顔を見て、胸のどこかが冷える。十年連れ添った妻に向けるべきものが、今はそこにはない。
「……ダフネ。僕は、君に謝らなければならないと思っている」
「何を、今さら」
「リリアとの暮らしは、確かに最初は楽しかった。だが……彼女には領地経営への関心がない。使用人への配慮も足りない。僕が注意しても聞かない」
クラウスは額に手を当てた。
「君は違った。家のことも領地のことも、誰よりも真剣に考えてくれていた。今になってようやく気づいたよ。僕が失ったものの大きさに」
その言葉を、十年前の私が聞いたなら、きっと泣いていた。許しを乞われれば、心が揺れたかもしれない。
けれど今の私は、公爵邸の応接室で、その言葉を他人事のように聞いていた。
「……そうですか」
静かにそう答えると、クラウスは焦ったように身を乗り出した。
「ダフネ、今からでも遅くない。ノア公爵とはただの噂だろう? もし契約だけの関係なら――」
「クラウス様」
私は彼の言葉を遮った。
「私はもう、あなたの妻ではありません。あなたの家のことに口を出す立場でもありません」
「だが君は――」
「私は、私自身の人生を選ぶつもりです」
はっきりと言い切ると、クラウスの肩が落ちた。
「……そうか」
しばしの沈黙の後、彼は立ち上がった。
「君の幸せを祈っているよ、ダフネ。本当に」
「ありがとうございます」
その言葉が本心からかどうか、もう確かめる気も起きなかった。
クラウスが去った後、ノアが応接室に現れた。
「大丈夫か」
「ええ。予想していたより、ずっと淡白でした」
自嘲気味に笑う私に、ノアは一歩近づいた。
「君が、自分で選んだことだ。後悔していないか」
「ノア」
名前を呼び、彼の瞳を見上げる。
「私はもう、誰かの都合で人生を決められたくありません。たとえそれが“真実の愛”だと美しい言葉で飾られていても」
ノアの目がわずかに柔らいだ。
「いい目をしている」
「褒めてくださっているのかしら」
「もちろん。僕は君の、そういうところが好きだ」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……今、“好き”と」
「言った。契約相手を好きになってはいけない、という条項はなかったはずだが?」
さらりと言うノアの言葉に、胸の奥が熱くなる。
「ずるい方ですわね。そういうことをさらっと仰るなんて」
「君こそ、いつの間にか僕の予定をどんどん変更していく。契約当初の想定より、はるかに僕の日常に入り込んでいる」
ノアは少し遠くを見る目をした。
「僕は、以前、婚約者を失っている」
「……え?」
「政略結婚だった。互いに大きな情熱はなかったが、それなりに尊重し合える関係になれると思っていた。だが、彼女は王都の権力争いに巻き込まれて命を落とした。僕は自分の無力さを思い知ったよ」
初めて聞く話に、私は息を呑む。
「それ以来、誰かを心から大切に思うことを、どこかで恐れていたのかもしれない。だからこそ、冷静な契約として君を迎え入れたはずだったのに」
ノアは私を見つめる。
「気がつけば、君が笑えば嬉しく、君が傷つけば腹が立つ。クラウスと話している君の横顔を見た時も、正直、あまり気分の良いものではなかった」
「それは……嫉妬、というものでは?」
「認めたくはないが、そう呼ぶのだろう」
自嘲するように口元を歪めるノアの姿が、たまらなく愛おしいと思った。
「ノア。私も、きっと同じですわ」
私は一歩近づき、彼の胸元にそっと手を置いた。
「あなたが誰か別の人を“恋人”に選ぶ未来を想像するだけで、胸が締め付けられます。契約だから、と自分に言い聞かせてきましたけれど……もう、言い訳はできません」
ノアの瞳が大きく見開かれる。
「私はあなたを好きになってしまいました。公爵様としてではなく、一人の人として。だからこそ、契約が終わる日が怖いのです」
吐き出した瞬間、涙が溢れそうになった。けれど、ノアは素早く私の手を取り、ぎゅっと握りしめる。
「それは、困ったな」
「……え?」
「僕も同じことを考えていたところだ。契約が終われば、君を自由にすると約束した。だが今の僕は、君を手放したくないと思っている」
彼はゆっくりと息を吐いた。
「契約を交わした時の僕と、今の僕は違う人間だ。同じ約束に縛られる必要があるのか、自問していた」
「約束を破るおつもりですの?」
「いいや。約束は守る」
ノアはまっすぐに言った。
「君を誰のものでもない、君自身として送り出すという約束を。そのうえで――改めて、僕の元へ来てほしい」
彼の言葉の意味を理解するのに、数拍を要した。
「……それは」
「契約ではなく、求婚だ。ダフネ。僕の妻になってほしい」
胸の奥で何かが弾けた。
「でも、私は――」
「離縁歴のある女だと、言いたいのか?」
ノアは首を振った。
「僕が求めているのは、過去のない人形ではない。自分の意志で選び、傷つき、それでも立ち上がってきた君だ」
「公爵家の正妻として、相応しくないと責める声が出るかもしれません」
「その時は、僕が黙らせる。君は気にしなくていい」
あまりにも当然のように言うので、笑ってしまいそうになる。
「そうやって、いつも簡単に私の心を揺らして……ずるい方ですわ」
「ずるいのは、君の方だ。僕の計算をことごとく狂わせる」
ふっと笑い合い、気づけば距離が縮まっていた。ノアの手が、私の頬にそっと触れる。
「答えを、聞かせてくれるか」
涙が一筋、頬を伝う。けれど、もうそれを恥ずかしいとは思わなかった。
「……はい。喜んで、お受けいたしますわ。ノア」
こうして、“公爵の仮初めの恋人”だった私は、“公爵の妻”になる道を選んだ。
*
それから数年後。
北方の公爵領は、以前にも増して活気にあふれていた。ノアの合理的な政策と、私のフィルマー家での経験を生かした細やかな調整が、徐々に実を結び始めている。
「奥様、こちらの織物ですが、南部の市場から注文が――」
「ありがとうございます。では、輸送経路は雪の少ないルートを優先して……」
執務室で書類に目を通していると、扉が勢いよく開いた。
「お母様!」
「エリオット。ノックをしなさいと、いつも言っておりますのに」
金髪に紺色の瞳をした少年が、満面の笑みで駆け寄ってくる。その後ろから、使用人が慌てて追いかけていた。
「申し訳ありません、奥様。坊ちゃまがどうしてもと……」
「構いませんわ。今日は何か用事が?」
「お父様が呼んでる。湖に氷が張ったから、一緒に見に行こうって!」
「まあ。そんな季節になったのね」
窓の外を見ると、北方の空は澄んだ青。白い息を吐きながら遊ぶ子どもたちの姿が、遠くに見える。
「お仕事、あとでいいから。一緒に行こう?」
エリオットが袖を引っ張る。その仕草に苦笑しつつも、私は書類をまとめた。
「では、少しだけお仕事をお休みしましょうか」
外套を羽織り、庭に出ると、そこにはノアが立っていた。彼もまた外套姿で、手には温かい飲み物が入った木のカップを持っている。
「お疲れさま」
「ありがとうございます。今日も領民との話し合いですか?」
「ああ。君の提案通り、今年から冬季の仕事を増やしたいと思ってね。氷室の整備を進める」
「うまくいくといいですわね」
並んで歩きながら、私はそっとノアの腕に自分の腕を絡めた。かつて“演技”として行っていた仕草が、今は自然なものになっている。
「エリオット」
ノアが息子の頭を軽く撫でた。
「湖に行く前に、母上に一つ謝ることがあるだろう?」
「あ……ごめんなさい、お母様。ノックしないで入って」
「今度からは気をつけてね」
「うん!」
無邪気な返事に、思わず笑みがこぼれる。
(あの頃の私が見たら、信じられないと思うかもしれない)
離縁を告げられ、すべてを失ったと思っていた日々。契約として差し出された手を、震えながら取った夜。仮初めの恋人として過ごした一年間。
すべてが、今につながっている。
湖のほとりに着くと、薄く張った氷の上に雪がうっすらと積もっていた。冬の光が反射して、きらきらと輝く。
「きれい……」
思わず漏らした言葉に、ノアが隣で頷く。
「そうだな」
「お父様、お母様! 見て見て!」
エリオットが雪玉を作ってはしゃいでいる。その姿を眺めながら、私は静かに目を閉じた。
(あの時、“みっともない女になりたくない”と強がった私へ)
心の中で、過去の自分に語りかける。
(大丈夫。あなたはみっともなくなんかない。ちゃんと泣いて、怒って、それでも前を向こうとしたから、今ここにいる)
誰かに捨てられた妻としてではなく、一人の女性として、自分の幸せを選んだ結果が、この景色なのだ。
「ダフネ」
ノアが私の手を握った。
「僕は今でも、君を利用しているのかもしれない。領地のため、自分の心の安定のために。だが、それ以上に――」
「それ以上に?」
「君が隣にいると、世界が少しだけ温かく見える。だから、これからも利用され続けてくれないか」
不器用な告白に、思わず吹き出した。
「まあ。そんな言い方をされて、断れると思いまして?」
「断らないでくれると信じている」
「ええ。喜んで、利用され続けて差し上げますわ」
私は彼の手を強く握り返した。
氷の世界に、二人と一人分の笑い声が響く。
――これは、離縁された女が「仮初めの恋人」を演じた末に、自分の意志で選び取った、ささやかな、けれど確かな幸福の物語。




